ぷらーん、ぷらーん...... 現実では浮かべないこの身体、机の上から垂らした短い腕を宙で軽く振る。
10年前、ヤチヨカップが終わって数ヶ月。
ミラーボールが如き月が空に浮かび続けている常夜のツクヨミは、ヤチヨの意思によって終わりを迎えた。
今まではチョウチンアンコウが照らしていた擬似的な日中も、今では正真正銘の太陽に成り代わってこの近未来と古の融合体である世界を輝かせている。
彼女が作った世界。
それが晴れ渡る空を手に入れたという事はつまり、彼女はもう輪廻に縛られない自由を手に入れたという事。
ああうれしい。今日もヤチヨはパンケーキを頬張っているだろうか? いつか義体に味覚も実装できると聞いてから楽しみにしていたものね。
「──食べ過ぎかな...... 制限かけよっか」
「え゛ぇ゛っ゛?! い、い゛ろはぁ〜、そんなご無体なぁ〜!」
食い過ぎてお小遣い制になってたのはどうかと思うけど、まあしょうがない。しかもデザートのパンケーキに掛けられたそれを回避するため、お昼ご飯にパンケーキとベーコンを焼き始めた時はもっとどうかと思ったけど、それもまたしょうがないか。
そーいうものだもんねぇ。
「めんだこー、おやつ作ってー」
「ほいよ〜、かんたんなのね〜」
机の上からぷらぷらと伸ばしていた触手を掴んだのは、お世話になっている人のお子さん。
こんなでも君より年上なんだよー僕は。なんて大人気のない言葉を口から出す事はなく、肉体の小ささに対して考えればかなりのものである腕力でフライパンをコンロに乗せた。
かき混ぜた卵の入っている計量カップ、粉、油。
慌てないための準備を終え、カチッとスイッチを捻ってやればIHがじんわりとした熱をフライパンへと伝え始める。
──長い時間を、ヤチヨと過ごした。
消えるはずだった自分は此処にまだ生きていて、果ては肉体までもらってしまって。自分を作ったヤツは『やりたい事でも考えてみれば』みたいな事を言ってたから、しばらく考えてみたのだ。ヤチヨと一緒に。もちろんFUSHIも交えてツクヨミで。
正直ぜんっぜん思いつかないんだよなぁ、って。
FUSHIはこれからもヤチヨと共にいて、少し辛辣でも優しい心で彩葉や弥、そしてかぐやを見守っていくんだろう。それでいいと彼は言うだろうし、それがいいねって僕も思う。
なんだかんだ、彼も犬DOGEの頃からあの3人が好きなのだから。
ヤチヨはその精神をツクヨミ内での分身の要領でかぐやとヤチヨに分け、それぞれとして生きていくことに決めた。
どちらが本物、どちらが偽物、となる事はない。
どっちもかぐやでヤチヨ。少し心の表面が違うってだけ。寿命の問題は...... なんとかするでしょ。彩葉は頭良いし。
さあ、そうなると残るは自分のみ。
かぐやを1人にしないためのAI、メンダコ、シライシワタル。誰かのために誰かに造られた、言っちゃえば制作者のニセモノ。今更自分で自分にニセモノって言っても凹まないのはイヤな成長だな。
ま、そんなニセモノにも何かやることがあろう、と思ったが── これがもう、ぜんっぜん無いので!
「パンケーキ?」
「そだよー、皿に移してあげっから待っててね」
俗に言う燃え尽き症候群!
8000年のモチベーション、その大半であったヤチヨの幸せとループの完遂。それらを果たした達成感とついに終わったんだと言う虚無感が重なって、どうにも何か物事に対する意欲が失われてしまったのだ。
これに関してはびっくりした。だって仮にも僕はAI。何事にも興味を持って学び、それを吸収してより良いものとして出力するもの。
だと言うのにやる気を無くしてぼーっと、それこそくたびれたタコになってしまったのだから。
くたびれたタコ。縮めてくたびれタコ。
どーにもやる気が出なくて何年間?
その間はずっと弥と話して、からかったり軽い相談に乗ったり。悪い時間じゃなかったとは思うけど、ひとつだけ彼に思うことがあった。
──これから、彼は
僕が、今この場にいるシライシワタルが月に行ったのは今年から来年1月のどこか。詳しいトコは曖昧なのだが、少なくとも時期としてはかなり切羽詰まってきている。
これもあの時消え去っていれば『まあしょうがないし』で済ませられたんだろうけど、今僕は生きていて今後も死ぬ予定は無い。そうなるとそこに対する感情というのは蘇ってくるわけで、彼に対して思ってた怒りみたいなものがフツフツと湧いてきてしまうわけだ。
やることの無さからくる虚無。
そして彼に対する怒りに似た感情。
それらを解決したのは、あるゲームである。
「ほいっ、完成。シロップはセルフね〜」
「ありがと、いただきまーす! ん、ウマッ!
食べ終わったらKASSENやろーよ、メンダコ強いじゃん?」
「君ねぇ、お父さんのスマコン使ってやるの本当はダメなんだよ? それに週一って約束でしょ、昨日やったからダメでーす。それにこの後用事あるから、もっとダメー」
「ケチ」
KASSEN。聞けば、弥は数年間プレイを自粛していたと。
ツクヨミの管理人はヤチヨだ。そのヤチヨがブラックオニキスと彼の使ったチートに対してなんとか刑罰無しとしてくれたのだから、いちプレイヤーとして気楽に遊べば良いものを3年くらい? 何があろうと触れなかったのは真面目というか、通り越してバカというか。
そして気付く。KASSENで弥をボッコボコにしてやればこの溜飲も下がるのでは?
一応ツクヨミの運営メンバーではあるけれど、欠員補充とかに出向くのはもっぱらヤチヨのお仕事。とはいえ仮にも修正や性能調整もしているのだから多少なり戦えるだろうと首を突っ込んでみて── それはもうボッコボコにされた。
それも弥じゃない一般プレイヤーに!
もちろんそこで癇癪を起こして辞めてしまうのは簡単なんだけど、やっぱり始めたのだから続けたいという気持ちはあるわけで。
必死こいて努力するたびに思うのは、彼の才能だ。
なぁんでちゃんとした試合をした初回でプロゲーマーといいトコまでやり合えてるの? まったくもってわからない、その才能のひとかけらでも僕に残して欲しいものだよ。
さて、話がズレた。弥に対する怒りに関してだったか。
くたびれタコになる前はそれこそ『よくも月に自分をぶち込みやがって』とか『こんな大変なことさせやがって』みたいな方向性だったのだが、今ではそれと少し違う感情に変性していると気づいたのは少し前。
もとより僕は、置いて行かれるのがそんなに得意じゃない。それは何年も生きる中で幾度となく見てきた死が、明確な別れの証として心にこびり付いているから。
満足そうにする人も、心残りのある人も、そんなことを考えることもできなかった人も、全員等しく消えていくのを見届けるのが辛い。
それはヤチヨも同じはずで、むしろ彼女の方が見送るのも見送られるのも心に響いてしまうだろう。
死は、どうあれ完全に同時で訪れる事はないのだ。
それは10年前の自分に終わりが訪れようとした時も変わりなく、平等にランダムな結果として現れる。
僕に訪れたそのランダムを、彼は跳ね除けてしまった。
考えても見なかった事だ。
そこで自分は終わるという確信があったからこそ、受け入れられたモノがどこかへ消えて、今度は手放す予定だったモノが手の中に残っている。
死への覚悟は終わりの見えない生に変わり、別れへの許容は、転じて新たな恐怖になってしまった。
「普通に生きてもいいんじゃないかな」
これは、白石弥が僕に言ったことである。
正確には2037年7月23日14時53分26秒、早朝からの勤務を終えて帰路に着いた彼のスマホの中にいた僕にかけられた言葉。
──普通とは、なんだろう。
僕にとっての普通は周りにいる人間がモデルケース。
そうなるとそれは、一般には普通とは決して言えない内容になる。
思ってたより何も知らないのだ、僕は。
それに、普通に生きても最後には訪れる別れ。
一度迎えたそれが消え去ってから、どうしようもなくその時が来るのが怖い。
見送るのも、見送られるのも。
何度口にしようとして飲み込んだだろうか、どうか一緒に死んでくれという言葉を。
そんなんだから、僕から弥に向ける怒りの内容は変わってしまったのだ。
『生きながらえさせたんだから僕より先に死ぬな』
『生きながらえさせたなら僕に見送らせるな』
無理な話ではあるんだけどね。
「ただいま〜」
ツクヨミでの遊びを望むお子さんを嗜め、テーブルに広げたカードゲームを2人でプレイしながらの思考。
最近友人の間で流行っているらしいそれに巻き込まれ、すっかり自分もハマってしまったゲームに頭を悩ませていれば聞こえてきたのは、そんなお子さんを産んだお母さん。
まだいくらか小さなお子さんを抱えた彼女に走って行った彼が机に置いた手札。それを見ないようにしながらその背中を追っていくと、彼は嬉しそうに玄関先でお母さんを出迎えていた。
「真実、おかえりなさーい」
「ありがとね〜シライシ。この子が迷惑かけてない?」
「ぜーんぜん」
諌山真実。結婚して苗字は変わってしまったけど、ふんわりとしたその雰囲気は変わらない。
初めて僕がこの家にお邪魔したのは結構前、それこそ懐いてくれている彼女の長男がまだ赤ちゃんだった時。
初めての子供なんて大概誰でも超無理限界ギリになってしまうもので、それは彼女とその夫も例外じゃあない。それならばという事で弥に自分の体の2号機、名付けてメンダコ2号を作ってもらってこの家に置いてもらった。
手伝って欲しいことがあれば呼んでもらって、メインの人格データを1号機から2号機に移してやればそれだけで家事を頑張るお手伝いロボットの登場というわけだ。
我ながら悪くない提案だったと思う。
暇な自分と忙しいお父さんお母さんの需要供給が合致した感じするし。
さて、彼女の夫は仕事中。
下の子を病院に連れて行っていた真実は帰ってきて、頼まれていたお留守番の役目は達成された。
机の上に広げていたカードを片付けて軽く一礼すると、体をソファの上に持って行って瞼を閉じる。データ転送の準備だ。
現在、1号機は彩葉とかぐやが住むマンションには置いていない。となればどこに置いてあるのか?
転送を終えて開いた瞼。周りに広がるのは真実の家とは違い、いくらか狭さのある一人暮らしの空間。質素という感想が出てくるこの場所にも慣れたな、なんて思いながら体に括り付けてあるスマコンのケースを開いて本体を瞳に被せると、それと同時に部屋のドアが開いた。
「あぁ、もう来てたんだ?」
「そりゃもう。今日もよろしくお願いしますよー、雷せんせー」
彼の口調はメディア露出やグループのチャンネルで見せるものとは違い、砕けているような印象。
駒沢雷。聞けば、普段ブラックオニキス── 通称黒鬼での厳格でクールなセリフは弟である乃依が台本を作っているんだとか。
そんな彼の家に置かれている1号機に意識を移して何をしようか、といえば、ひとつ。
ツクヨミにログインしてアバターを人型に変更し、始めたのはKASSENに搭載された1対1のゲームモードであるSETSUNA。
両手に持った武器を構え、見慣れた姿形で強者のオーラを醸し出す雷に対して視線を向ける。
「じゃ、先週の反省を踏まえて自由にやってみて」
「はい先生! いきまぁす!」
「まー! けー! たー!」
もう数えるのを辞めた、何回目かの敗北。
搦手に頼りすぎだとか、選択した職の特殊性にだけじゃなくてプレイヤー本人の技術をもっと洗練させた方がいいとか。耳が痛くなるような指摘を素直に受け止め、メモに続々書き留めていく。
こうして雷からKASSENのことを教えてもらうようになったのは少し前。
僕に特別な才能はない。だからこそ個人でできる努力を運営の忙しさの合間を縫って重ねていたわけだが、当然自分の独学だけでは限界が訪れるわけで、ランクマでの勝率は頭打ち。
となればもっと上手い誰かに教えを乞うのが思考というもので、そうなると候補に上がるのはヤチヨや黒鬼、もしくは弥になる、が。
まず弥は除外。シバこうとしてる相手を師匠にしようとする奴がいるか? それに、彼に教えてもらうって事はつまり自分の手札をどうしようもないくらい公開するということ。そうなれば成長して勝てるようになったとて、ふっつーに対策とられてボコられるだけだ。
次にヤチヨだが...... いかんせん、幸せだろう今の時間を奪うのはなーって。加えて最近はツクヨミでやる予定の一大イベント、それの管理に忙しそう。なのでダメ。
となると残るのは黒鬼なわけだけど、どーにも言い出すに言い出せない期間があった。
そも、ブラックオニキスというグループは10年経っても人気の変わらないバケモノグループ。当然にその活動は忙しさと共にあるわけで、そうそう関係者とはいえ大した事ないヤツからの指導のお願いなんで聞いてくれないだろう、と。
「俺で良ければ教えようか? そんな毎日は出来ないけど」
そんな遠慮を剥がしてくれたのが雷だ。
そりゃもう二つ返事でよろしくお願いします、って感じで、今に至る。
さすがプロのトッププレイヤー。その指導も的確で、言われたことを意識しながら自分で改善していけば、伸び悩んでいたランクもメキメキと上昇。
中距離から近距離で効果を発揮する僕の武器と職は、雷
妨害、攻撃、防御...... オールラウンダーにこなすその特性が一致しているからこそ、勉強になってるとこもあるか。
「──でも、何度か危ないと思ったとこもある。SENGOKUはともかく、1対1ならいいとこ行くんじゃない?」
「ほんと?! よっしゃぁ!」
女の子アバターにしては太い声で喜べば、この日の練習はおしまい。
ログアウトして現実に戻り、何より先にやるのは掃除に洗濯、ごはん作り。
雷せんせいは別にいいよ、というが、流石のメンダコもタダで教えてもらっといて何もしないというわけにはいかない。
家事の押し売りに近くなってしまうけれど、これぐらいはやらせて欲しいのだ。
「本日のご飯は鮭のホイル焼きとご飯と味噌汁、あとほうれん草の胡麻和え! 分量間違え無し、美味しいはず!」
「......そういえば、味わからないんだっけ」
──そう、彼の言うとおり僕に味覚はない。
ヤチヨやかぐやのように人間の形をとっておらず、メンダコのガワに色々詰め込んでいる1号機。故に味覚を司る機能は未実装ではあるが、大した問題じゃないと胸を張る。
そも、僕は生まれた時から味覚が無い。当然だよね、AIなんだから。
タケノコから作り出した本体のメンダコも、残ったエネルギーをFUSHIの方に集中させるように誘導したから欠損分の機能はその辺りを削ることで補填したわけで、まあ何にしても美味しいとかの感情を本気で自分のものにした事がない。
しかし、料理は科学で作り出せる。
分量をちゃんとしてやれば当然美味しいものができるわけだ、なんの問題があろう?
......憧れがないわけじゃないけどねー。
「うん、美味いよ」
「んふふ...... ドヤ!」
ま、総じて。
今の僕は『家事手伝いしたりツクヨミ運営したり、ゲームの練習したりで普通に生きるの楽しい! でも、死ぬのが怖くて楽しみきれてないとこあるから、製作者である弥はなんとかしろよこのヤローっ!』って感じなわけ。
その日はそのまんまスリープモードに入り、翌日。
3号機の体に意識を移せば、そこでは彩葉と朝日が何やら大事そうな話をカフェで行っているではないか。
聞けば、乃依とどんな感じで同棲に至ったのか、というところを深掘りしてる様子。
......ああ、まだそっから進んでないのね、彩葉まわりの関係。28歳と27歳がなーに高校生とかみたいな恋愛してるのさ。
「......それ、相手に向けて『一緒にいてください』じゃダメなの?」
「そんな簡単な問題じゃないの。それじゃ『今までと一緒ですね』とか言いかねないんだから、もっと退路を塞ぐ感じで......」
「俺はカードキー渡して成人まで待って、って感じやなー。
でもそれくらいはしとるんやろ?」
「当然。でも今更そのくらいじゃびっくりもしてくれんやろし......」
「『LOVE ME ♡』って言えば終わりじゃん?」
「アンタは黙ってて!」
むう。
さっきから会話に固有のお名前が出てこないが、言ってしまえばコレは彩葉が如何にして弥とずっと一緒にいようか、と言う話。
ずっと口止めされてるから言ってないけど、当然弥は彼女のことが好きなわけで、そうじゃなきゃ10年も一緒にいて仕事しながら世話なんてするわけない。つまり私は貴方が好きですと一言言ってやればいいわけなのだけれど、そこはバケモン鈍感酒寄彩葉。
向こうからの好意に気づいてない。
「もうさぁ、パワーポイントかなんかで『一緒にいて起きるいい事』みたいな感じでプレゼン資料作って、それ発表すればいいじゃん。
研究者なんだからそう言うの得意だろうし」
「それだぁ!」
何がそれだぁなのよ。
まあ、本人的にいいならそれで良いんだろうけど。
「そう言えばさ、シライシは味覚とか嗅覚とかいいの?」
「欲しいか欲しくないかの話?
それならまあ、あった方が便利かな、とは思うかな......」
「んーオッケー、それだけ」
その質問の意図が読めずに首── というか、身体全体を捻って傾げる。
そんな彼女から救援要請のメールが来たのは、少し後のこと。