彩葉さんのお兄さん、朝日さんに一回だけ聞かれたことがある。
「弥、彩葉のこと好きやろ?」
それがゲームの中で負けそうだったから揺さぶろうと思って言ったことなのか、それとも別の意図があって言ったことなのかはいまだに分からない。俺はテレパシーを使えるわけじゃないし、朝日さんも最後まで言ってくれなかったから。
「はぁい!」
もちろん好きだ。
それで言ったら朝日さんも優しくてサッカー付き合ってくれるから大好きだし、2人のお父さんもお菓子買ってくれたから好き。強いて言えば、お母さん── 紅葉さんは苦手かな。彩葉さんへのあたりが強くて見てるといたたまれなくなってしまう。
そういうこっちゃない、と朝日さんは言った。思えばあれは、自分がそのうち上京してしまうから彩葉さんのことを頼もうとしていたのだろうか。実際無理をしてボロボロ泣いてしまうくらい自分を追い詰めてしまう人だから、わがままでも聞き分けが良くても、なんでもいいから誰かくっつけておけばブレーキをかけてくれるかもしれない、という。
でも、それは俺にはできない。
兄にいじめられて泣いて、慰められてた頃の
この半年くらい、家事手伝いをしても彼女の無理クセは治らなかったのが答え。ちっぽけ、臆病、いくじなし、嘘つき。
「頑張ってて偉いっ!」
一回だけ、彩葉さんをその場のテンションだとか、ノリだとかで褒めてあげるべきなのだろうか、と思ったりもしたけれど、そんなのは無責任なだけなのかもしれないと思うと、洗面所に備え付けられた鏡に向かって練習していた自分の顔が曇っていく。
すっかり取り繕うのが上手くなった表情も、こう言う時だけは形無し。風邪くらいなら隠し通せるわりに、人のことを考えてる時はあんまり上手くいかないんだよな。いや、別に彩葉さんが風邪よりヤバい存在ってわけじゃないが。
「じゃあ白石、この問題わかるか?」
「は〜い、わかりません」
今日とて彩葉さんに弁当を渡し、学校に行く。
上京してまで学校に行くとなったらみんな頭のいいところに行くんだろうけど、自分は上京すること自体が大きな目標みたいなものだと設定されていたから、そこまで頭の良くない学校に行くことへの抵抗感というものはなかった。
とはいえ悩みはある。手に取った白紙の、シャーペンの跡が一切ない紙には進路を書く欄がひとつだけあって、そこをどう埋めるかが決まらずにいる。
漠然と生きるのなら大学進学でも就職でもどっちでもいい。むしろ生きていくだけなら奨学金なんかに頼らなくていい就職の方が優先度は高いだろう。
なんでもいい。
そんな言葉が一瞬頭をよぎって、消えていった。
思えば、自分の人生の中で何にも変え難い、誰になんと言われようと譲れない大目標っていうのを持ったことはない。
サッカー選手になりたいとか、そういうのはもう取り上げられてしまっているわけだから。まあそれでもいっか、と過ごして来たしっぺ返しがこんなところで来るとは思っていなかったが。
「弥、お前は進路どうすんの?」
「さあ〜ねぇ、まだ一年なのにこんな紙渡されたって〜」
「さあねって...... 自分の道だろ?」
「はは、そうなんだけどさ」
友達とも他人とも言い切れない関係のクラスメイトからの質問を笑って躱し、ふたつに折りたたんで進路の話はもうおしまい、と暗に話題の切り替えを要求する。
自分の道、と言われて少しだけ顔が軋んだのは内緒だ。思えば東京に来たのも言われてなわけだから、俺に自分の道ってあんまりない。
......彩葉さんはどうなのだろう、とふと思う。
「マジ弥の弁当っていじめられてんのってくらい切れ端ばっかだな......」
「こんなんでも美味しいよ、いる?」
昔は東大目指してます、なんて感じはどこにもなかった。
お父さんが亡くなってからはどこか母親、紅葉さんの言葉が関係の外にいる人間としても冷たすぎるように聞こえて、結果突き放された彩葉さんは上京。
でも確か昔聞いた話だと、彩葉さんの志望している学校って紅葉さんが行ってたとこと学力というか、ネームバリューみたいなものは同じくらいだったはずだ。
「マジ!? じゃあカツくれ、カツ!」
「なんだったら全部あげるよ、俺はもういいから」
もしそれが本心から彩葉さんが行きたいと思っているところなら、それはきっととても良いこと。
でも紅葉さんに対する、執着みたいな、認められたいっていう気持ちのままに選んだ道だっていうなら、それは──
「ちょっと、悲しいんじゃないか」
トイレで顔を洗い、ぽつりと溢す。
全部受け止めて、全部疎かにしない。バイトだって適当にやれば楽できるのに、後輩のポカも尻拭いしてあげて、友達との関係だってあの様子じゃ無碍にしたりしないだろう。
じゃあ、そんな彩葉さんの気持ちを受け止めるのは誰になるんだ?
「うーっす、今日は弥も一緒に帰ろうぜー」
「ごめん、バイトなんだ」
嘘を吐き、足早に帰る。
何もない部屋にカバンを放り投げて着替えを済ませ、スマホだけ持って近場のスーパーで晩ご飯の材料と弁当に入れる付け合わせをカゴに放り込む。
レジでふじゅーpayの画面を開けば、下の方には前に入れてもらった数千円の入金と、諸々合わせてその1.5倍程度の支払い総額が見える。
これ、彩葉さんにバレたら怒られるのかな、なんて思いながら支払いを済ませ、いつものアパートに行けば鍵の開いたドアノブ。
玄関を上がれば部屋主が制服を着替えないで椅子に座り、今日も彼女は予習に忙しそうだ。
ふ、と笑い、さっさと湯を沸かしてホットレモンを原液濃いめで入れてやれば、ありがと、と。
今日の献立は安かったので魚。このキッチングリルついてんだ、良いなーなんて考えながら手早く同時進行で準備を済ませ、ご飯が炊けるまでの隙間時間に風呂掃除なんかも済ませてしまえば、あとはもう簡単なことしか残っていない。
食べ終わりくらいに沸くようスイッチを付けてひと息ついたところで、イヤホンのタッチセンサー部分に触れて音楽を止め、その顔を覗き込んだ。
「ご飯ですよ〜」
「うん、ありがとう」
2人で座り、手を合わせる。
とは言っても俺の分の食事はない。先に家で食べて来ていると嘘をついたら結構すぐに信じてもらえて、それからはずっとこう。
単純に、人の前ではあまりご飯が食べられないからこうしているだけではあるけど。
美味しそうに皿の上のものを口に運んでいくその姿を見るたび、美味しくないって言われたらどうしようという緊張が解きほぐれていく。食事中だから言葉を交わすことは少ないが、その姿をじっと見ているだけで、この場所にいて良かったと思える。
食後のデザートにルマンドを差し出すものの突き返され、彼女がお風呂に入っている間に皿洗いを終えると、この後のために買って来たちょっとした雑貨に軽く準備をした。生活用品以外を自分の意思で買ったのなんていつぶりだろうか。年甲斐もなく、少し心躍ったよ。
「お風呂出ましたね。それじゃ、ちょっとこっちに」
「どうしたの、なんか怖いんだけど......」
「いーからいーから」
ぽんぽん、と正座している自分の前に座るようフローリングを叩けば、怪訝な目をしながらも素直に彩葉さんはそこに座り、向かい合う形になる。
小さく息を吸って、少し考えて。この形はちょっとやだな、と思って、くるりと彼女の体を一回転させた。
「ちょ、ちょっと!」
自分と同じ方向を向いた彼女の両肩を後ろに引き、バランスを崩して倒れた彩葉さんの頭が正座した膝の上にくる、いわゆる膝枕の形になる。
彼女の視線からは電気を後光のように受けた自分の表情は見えないはずだから、この体勢がとても都合がいいのだ。
彼女も焦った様子だが、問答無用。
少し震える手をゆっくりと地面に置き、ゆっくりと、まるで染み込ませるように、言葉を紡ぐ。
「やっぱり、成績オール10って凄いですよね。でも、無理はしないでほしいな〜って思ってます。2番3番でも、別にいいんですよ?」
「な、何急に......!」
止めず、続ける。
「昔、よく泣いてた時に頭撫でてくれましたよね。 アレ、嬉しかったんですよ。こ〜んな感じで」
「ちょっ......」
「はは。昔は言えなかったですけど、今なら言えますね。ありがとう、って」
絶えず、繋げる。
「久しぶりに会った日、美味しそうにご飯食べてくれたの、嬉しかったです。東京に来てから、あんなに自分の作ったもので喜ばれたこと、無かったから」
「あ......」
「1人の時間も減って、寂しくないです。ありがとう。
......だから、そんな彩葉さんにはコレをあげます!」
少し湿った手であるものを取り、彼女のおでこに貼り付ける。
何、何と感触にびっくりした様子の彼女を抱え上げ、すでに敷いていた布団に寝かせると逃げるようにして玄関に向かい、去り際に言葉を詰め込む。
「何が言いたいかと言えば! 頑張っててえらいっ、てことで〜す! それじゃあおやすみなさい、また明日」
いなくなった幼馴染の残り香を感じながら、彩葉は頭に貼り付けられたシールを剥がし、月明かりに照らした。
それは無地の白いシールにマッキーで文字を書いたもの。少し潰れ気味なその文字は『大変よくできました』と読み取れて、ほんの少しだけ、肩の荷が降りたような感触が彼女に残る。
「......ダメじゃないんだ。2番でも、3番でも」
何もない部屋に戻り、電気もつけず、軽くシャワーを浴びて部屋着へ着替える。
その時洗面所の鏡に写った顔がひどく滑稽で、自分でも笑ってしまった。
「......嫌なら、やめときゃ良かったのにな〜」
上京することを彩葉さんに言わなかった理由。本人には忘れていたからとか、言い損ねたからみたいなことを言った記憶があるが、本当は全然違う。
行きたくなくなってしまうから、気安い関係が終わってしまいそうだから言わなかった。
その時の関係を壊したくなかったのだ。
それは、今も同じ。
俺は軽い存在でなければいけない。
いつか彼女が大人になって幸せになった時、そう言えばそんな人もいたね、なんて言われるくらいの存在が1番ちょうどいい。そう言い聞かせて来た。
だっていつかはどんなものも失うのに、軽い関係以上になれば失いたくなくなってしまう。ずっと居てほしいと思ってしまうから。
ざり、と洗面器をつかんだ右手に力が入る。
それで言えば東京で彩葉さんと出会った時点で、選択をミスり続けてきた。
元から無ければ無くなることを怖く思わなくていいのに、声をかけてしまった。手を掴んで背負ってしまった。どこかで終わりなんて許されない。
だのに今も心のどこかで手放してしまえと嫌いな人と同じ血が言っている。
自分が奪われるのは嫌なくせ、他人から自分を奪うのはいいなんてダブルスタンダード。きらいだ、嫌い、こんなん嫌いに決まっている。
だから今日の戯れは覚悟としてやった。
頑張っててえらいって言葉が無責任なモノになるのは全部放り投げた時だけ。隣でご飯を作って、食べさせて、もういいよってその役割を彼女自身に奪われてしまうまでこなせば。嘘に塗れてでもこなせば、それは責任を果たしたことになるんじゃない?
重いなぁ。キモ。