「話は終わり?」
ツクヨミから現実へ。先に戻ったシライシを見送ってからしばらく物思いに耽り配信部屋からリビングに戻れば出迎えてくれた彩葉さんがポンポンと座っているソファの横を叩く。
「はい。いろいろと遅くなっちゃいましたけど、ようやく僕がやるべき事をできた気がします」
「そっか...... そっか。それなら協力した甲斐があったってもんです」
誘われるままに腰を下ろせば、安堵の声。
たった1人だけ。限定的とは言え、ツクヨミ内への味覚をはじめとした五感の実装は彼女の協力無しには成し得なかった。わがままを言って、それを文句ひとつ言わずに聞き届けてくれた彼女にはお礼の言いようもない。
そうして、お互い柔らかな表情のままキッチンを見やる。
そこにはかぐや、ヤチヨ、そして2人の頭の上を忙しなく飛び回っているシライシ。現実のメンダコボディにはまだ味覚が実装されていないのだが、それでも目の前にある物の味に興味津々なのだろう。
自分たちが全てを賭けて望んだ、そこにあって欲しい光景。
簡単に言えばハッピーエンド。そう言い表しても誰も文句を言わない様なその姿に目が潤むのは、少し歳を重ねたからだろうか? ぐい、と伸ばした右腕でその雫を拭き取ってから飲み物でも持ってこようかと足腰に力を入れると、それを止めるのは逆の手を一度二度引っ張られる様な感覚。
「や、その、聞いて欲しいことがありまして......」
膝の上にパソコンを取り出し、少し俯き気味で小さくそう溢した彼女の方を見れば、ほんの少しだけいつもより赤く見えるのは髪に隠れがちな耳。
......かぐや達には、あまり聴かれたくない事なのだろうか。
時折こちらをチラチラと掠める視線はキッチンから。
おそらくだけれど、2人で話したいことがあるから少し離れていて欲しいとでも彩葉さんが伝えたのだろう。
いつもならばもっと騒がしい筈のお姫様2名による厨房は、幾らかの落ち着きを纏っている。
となれば、いろいろと考えてしまうわけで。
俺にとってマイナスな事なのかな、とか。それこそこの関係に大きな変化を与える様な事なのか、とか。
実は白石弥、自分が知らないだけで色々ダメなことでもしてしまったり?
......もしそう言うことを言われてしまったら、この後言おうと思っていた事が少し間抜けに見えてしまう。
彼女の言葉に小さく頷きで返すと、続けざまにこちらもひとつの要求を口に出した。
「それなら、俺も聞いて欲しいことがあるんです」
「うえっ!? な、何を......?」
「いやそれをこれから言うんですけど。
ああ、先が良いですか?」
なんか様子が変だよな、と。
頭をブンブン横に振ってどうぞとエモートを見せた彼女に思いながら、それなら自分からと深く息を吐いた。
目を見る。
翡翠色、とでも言えばいいだろうか。綺麗な色と濁りの無い瞳に反射する自分は、じっとその姿を目に焼き付ける。
手に触れる。
つめたい。緊張しているのか、その手のひらはじっとりと湿りながらも夏場には少しの心地よさをよぎらせる様な、そんな冷たさがあった。
そして── 少し、笑ってしまう。
くすくすと我慢できず。少し顔をこわばらせて耳を澄ましていた様子の彼女は呆気にとられた様な表情を見せて、その笑いが自分の顔を見て生み出されたことに気づくとほんの少しだけ不満げに、そしてちょっと強めに手のひらで握り返してくる。
「そんなに面白いものじゃないと思うんですが〜?」
「ふふ、ごめんなさい、見てたら少し緩んじゃって。
安心するっていうか、ね?」
「まったく......」
さて。緩んだ頬を少しだけ締め直し、口を開く。
不満げにした表情の向こう側に、満更でもなさそうな心が透けているあなた。どうかあなたの優しさに、もう少しだけ寄りかからせて欲しい。
「俺は、俺はですね。
あなたの事が好きなんです」
あぁ、言っちゃった。
さっきの比にならない驚き。それを湛えた彼女からの返答を待たずに言葉を紡ぐのは、気持ちを全て伝えるよりも前に拒絶されるのが怖いから。
「目で追わない日は無いし、あなたの為に何かができたら嬉しいし、楽しそうなら俺も楽しい。
時折見せるミスの尻拭いをする時なんて、役得だなぁとすら思う。酔っ払って暴走してる時とか、忘れていったお弁当を届けにいく時なんかが、そう」
自分の中の善性が欲に姿を変え、あなたを見る。
きっと良い感情では無いんだろうけど、彩葉さんの隣で頑張り続けたその時間を、少なからず自分が身体を動かすための燃料として過ごし続けてきた。
そして何年か経って今。
幼馴染。古くからの友達。お世話係とされる側。
それ以上に縛るものが欲しくって、欲深く手を伸ばす。
「嫌だったら嫌でいいんです」
最後にそうやって保険を立ててしまうのは、どうにも初恋の傷が痛むから。
懐かしきは大家さんへの恋心。どこまでも細かく砕かれたそれが撒菱の様に辺りに散らばって、どうにも踏み込めないながらも彼女に選択を迫る。
「俺の全部をあげるから...... ほんの少しだけでも、彩葉さんの心の中に居させて貰えませんか?」
聞こえてくるのは自らの心音。そして、キッチンで行われる調理の音。
少しずつ驚きの顔からいつも通りの表情に変わっていく彩葉さんの姿を見て、ダメだったかなと先走りに後悔しながらも、そういうものだとじわじわ視線が落ちていく。
仕方のないことだ。
そう思っていつも通りを取り戻し、今度は自分が聞く側なのだと顔を上げようとした時。
「......?」
ふわり、少しの重さが自分の体に寄りかかる。
脇の下から背中へ、両側から手を回されてぎゅうっと。
持っていた筈のパソコンは机の上へ。脈絡のないその行動に疑問符を浮かべていると、少ししてガッチリとホールドしていた体を緩めた彩葉さんがこちらを見ると、先ほどの仕返しの様に小さく笑う。
「ほんの少しだけ、なんて...... 今更でしょ?
何も言わずに東京に出てって、もう一度会ったと思ったら家に勝手に入ってご飯作ってさ。しかもそのまま『お世話しますねー』って。
あの日からもうずーっと、弥は私の真ん中にいるの」
「そう、ですか?」
「そう。
泣き虫だった弟みたいな子。助けてくれた優しい人。
さやえんどうが嫌いで、お金は出すって言っても要らないって言って聞いてくれなくて、無理するなって言うわりに自分はずっと無理してて......」
「ぐぅ...... 今はもうそんな事ないです。
無理もあんまりしませんし、お金だって折半にしたいって言われたら昔よりは受け入れる様にしてますよ?
さやえんどうは、まあ、ちょっと......」
「まだダメなんだ?」
「......はい」
別にそんな事を覚えていなくたって、と抗議の意味も込めて目を細めれば、その表情にすら『初めて見たかもそんな顔、覚えとこ』と笑みをこぼす。
いじわるだ、と言えば、さっきのお返しとだけ。
「でも、ずっと覚えてはいられない。
かぐやも、ヤチヨも、シライシも、みんなの事も、弥のことだって。私は誰かさんみたいに記憶力の自信はないから、心の真ん中に置いておきたい思い出も、色褪せて居なくなっちゃう」
「......」
「だからさ── 何度でも、これから何回だって、みんなで塗り替えたい。色褪せた記憶も新しく塗り直して、ずっと大切にしていく思い出と心の中に、私もあなたがいてほしいって思う。
......って、ふふ、あははっ」
言い終えて、笑って、彼女は俺の頭に手を伸ばす。
乗せられた手のひらはずいぶん昔の記憶にあるものよりも大きくなった様で、実は変わらない様な気もして。 その顔は昔と変わらないんだね、なんて言う意図を掴みかねていれば、『あ゛ー!』と耳を吹き飛ばす様な聞き慣れた声がリビングに響いた。
「彩葉が弥のこと泣かしてるー!? 何したの、何されたの?!」
「ちょっと、別に私が泣かしたわけじゃないって......」
「つーか弥がガチ泣きしてんの初めて見た! おーよしよし、どんな悲しいことが...... って、んぇ? 笑ってんの? なして?」
泣きたいわけじゃないんだよ。
ただ、そう言って貰えたことが嬉しかっただけで、とはいえかぐやにそんな話をしても流石に急だから、ここは少しだけ自分らしくない言葉で取り繕う。
「これ、汗」
「......さすがに無理筋じゃない?」
「はぁ、だよねぇ」
シャツでゴシゴシと目を擦り、多分赤くなっているだろう目元に
あなたの心に、ゆっくりと自分の雫を落とした。
「重くて...... キモいですけど、これからもよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
「そういえば」
「? 何かあった?」
ご飯を食べ終わり、皿洗いを終えて手を拭きながら、先ほどまでどこかに消えていた疑問がフッと頭に降りてくる。
指差したのは、机に置かれてそのままのパソコン。
彩葉さんのものだ。
思えば、彼女が俺より先に言おうとしていたことはなんだったのだろう? 受け入れられた喜びから逸れていたが、何か重要なことなのであればスルーしてそのまんま、と言うわけにもいくまい。
途端、小さく声を上げたのはシライシ。
「......聞かない方が良かったんじゃない?」
何が?
その意味深な言葉遣いに声を返すが、本題はそこにいる人に聞いて下さーいとなんだか投げやりな態度。
一方の彩葉さんはと言うと、先ほどとは打って変わって幾らか余裕そうな態度を見せながら、イタズラしてきたかぐやとヤチヨのほっぺをムニムニとお仕置きしている。
「あー、んー、別に後日でも良くなったことでもあるんだけど......」
「そうなんですか? でもしばらくこんなゆっくりできる時も無いでしょうし、何かあるなら聞いておきたいです」
「そう? じゃあ...... あ、それなら」
ひとつ、と。
パソコンを開くと彩葉さんは指をまっすぐ立て、真面目な顔でひとつの確認をこちらに投げかける。
「
「......まあ」
復唱されると恥ずかしいが、言ったことに嘘はない。
小さく返事をすれば、彼女は少し気合を入れてムニムニの刑に処していた2人に指示を飛ばす。
「かぐや、前にスクリーンとプロジェクター買ってなかったっけ?
1回2回くらい映画見たやつ」
「今あれヤッチョのとこー、持ってくるね!」
「ありがと」
ではこちらへどうぞとまたもソファに座らされ、ドタバタと駆け上がっていったヤチヨが持ってきた諸々にパソコンからコードなりなんなりが接続されると、そこに映し出されたのはスライド。
何が始まるんだろうな、なんて気楽な気持ちでいれば、のそのそと腿の上まで登って来たシライシが俺の手を取り、珍しいことにそのまま自分の体を掴ませる。
「恥ずかしかったら握り潰すくらいはしてもいいから......」
「ええ......?」
困惑する暇もなく部屋が暗くなり、軽い咳払い。
学校でこんな感じに発表会することもあったな、なんて懐かしい気持ちになりながらも、彼女の言葉に耳を傾けることにする。
「では最初に、事実確認から」
「えっ」
事実確認とは? 傾けていた耳が即座に起立した。
......が、内容としてはなんてことはない。俺が彩葉さんのことを好きかどうか、そんな感じのこと。
硬い文面で驚きはしたが、それ以上のことは無さそうなので起立した耳を今度こそ傾ける。
しかし、事前に用意したであろうスライドでこちらがあちらのことを好きかどうか確認するモノが入っているってことはつまり、その、向こうも
よく見れば最初の一枚目のはずなのに、スライドの現在枚数表示は少し進んでいる。
......いや、深く考えるのはよそう。
「さて。
本題ですが...... 弥には家に入ってほしい、と」
「家に......?」
「その、私が養うから仕事を辞めて家事をしてほしくて」
「えっ」
いや、深く考えなければならないことが急に来た。
なんなら傾けた耳が倒れた。ピサの斜塔もかくやと言う絶妙な角度を保っていたのに、新喜劇の様な勢いで倒れた。
「か、家計とか......」
「ああそれは大丈夫」
そう言って『不快になったら申し訳ないけど』という前置きとともに画面に出たのは、現行この場所で過ごしている4人── この場合はシライシを除いた4名の収入を表した円グラフであり、その中で俺の収入を示すものはやはり一番占める面積が小さい。
やはり、としたのは、その事実を知ってはいたから。
それはそうだろう。彩葉さんは研究所所長という肩書きに見合った額を貰っていて、かぐやも人気なライバーであり、受け取っている金額が相当なものであるのは10年前から知っている。
そして、ヤチヨ。
日々顔を合わせていると忘れがちではあるが、ツクヨミの管理運営、そして広報にあたって当然に作っている。会社を。
でなければ月から帰ってくる時に使ったタケノコを管理なんて出来ないだろう。その会社だけでなく、当然にライバーとしての収入もあるわけで、それら3人と比べたら『そろそろ管理職へのステップアップもあるかもなー』という自分の収入など微々たるものにすぎない。
だからそれ自体に悲しくなったり、情けなくなったりということはない。多少思うところはあるにせよ、だ。
「そのぉ......」
とはいえ、である。
『いいんじゃない?』と言いたげな左右の人たちを横目にゆっくりと挙手し、問うた。
そこに理由が見えない、と。
「お金の問題はわかります、わかる、わかるんですけど、それが解決したからと言ってなんで俺に家へ入って欲しいのかがわからなくて......」
その質問に対し、彩葉さんはふむふむと小さく何度か頷いて見せると、スライドを次のものに移す。
そこに写っていたのは、ずいぶん前の自分。
具体的に言えば、バレンタインデーに職場の新人の子から受け取ったチョコをどうするか悩んでいた時の自分だ。
「なんっ......」
──っで、そんな写真持ってるの?
言葉にならなかった後半を心の中で唱えると、もはや観客席に近い両隣からヤジの様なものが飛んだ。
「あーこれ覚えてるよー、まだヤッチョがツクヨミで渡してないのに、一番最初に弥が貰って来ちゃったやつー!
しっかりホワイトデーも返してたし」
「いやそれは一応形式的に......」
「メンダコに撮ってもらいました。それじゃあ次」
そして写し出されたのはこの前、かぐやとコラボした相手の配信を見る自分。角度的な問題なのか、それとも自分が覚えていないだけなのか、どちらかはわからないがすごく食い入って見てる様に思える写真だ。
「そのこれは相手のことを知っとかなきゃ失礼かなと思ってですね......」
「ふぅん? かぐや知ってるもんねー、結局コラボの後にツクヨミのメッセージ交換した話! 帝が言ってた!」
朝日さんマジでやめて。
送った内容も送られた内容も『今回はありがとうございました』とか『また機会がありましたらよろしくお願いします』程度のものだから。本当にややこしくしないで......
しかし、まったく内容が見えない。
これがなんで俺に仕事を辞めて家に入ってほしい理由になるのか? わからないまま、次のスライドへと進む。
「......これは問題無くないですか?」
そこに写真は無い。
ただ、メッセージの履歴がそのままコピーされて貼り付けられている。
その時のことはちゃんと覚えていて、たしか職場には男が少なく、その流れで少ない男で話しづらい愚痴でも話そうと上司に飲み会へ連れて行かれた時のヤツだ。
帰りが遅くなるから申し訳ないと綴ったはずで、画面にも記憶と違わない文字があった。
「これは弥が悪いわけじゃないけど...... この日、色々とあんまり上手く行かなくてさ。帰って話そうと思ってたところにコレが来たから、今回は採用したんだよね」
「あっごめんなさい」
なんとも言えない空気になり、ふう、と一息。
先に口を開いたのは彩葉さんから。
「まあ、基本的に弥が悪いって事は無い、かな」
「無いんだ......」
「基本的にはね。
だからこれは私の問題なの。なんだかんだでずっと一緒にいるわけだから結構弥のことを知ってると思ってたのに、メンダコとかヤチヨ達からこうやって聞くと知らない君がわらわら出てきて...... 申し訳ないけど、すっっごい嫉妬した!!」
そこからは捲し立てる様で、こちらの言葉が入る余地はない。
「かぐや達に見せてる分にはいいけど、新人の子とか上司とか、なんかこう〜...... モヤっとする!
だって私の方が弥のこと知ってるし、なんならずっと好きだし? いつからって言われたらまあ『いつからなんだろう』って首傾げたりするけど、たぶん結構前からこの人がいないと調子でないな、って思ったはずで、正直私のだぞって言いたいけどあんまりそういうこと言うのもなって思ってたところに君が『全部あげるから』っていうから私としても全部もらっちゃおうかなーって」
「あの」
「そもそも一度懐に入ってこられたら私のものって思っちゃうのも仕方なくて、かぐやと一緒で離したくないって思うのも当然だしというか今日のKASSENであり得ない数の視聴者の前でキスした時点でこちらとしてはもう責任とってもらわにゃ割に合わないっていうか事前に聞かされてたとは言えお兄ちゃん達のチームに取られるのも本当は嫌だったっていうか、正直今でも怒ってるところはあるし私のだぞって──」
「あの!!」
少し大きな声を出してようやくその言葉が止まる。
手元にあるシライシは、ぐにゃぐにゃのくしゃくしゃにそのぬいぐるみの姿を変えていた。
「それ以上言われたら恥ずかしくて死にます」
「ご、ごめん......?」
「前向きに考えさせてください......」
──朝。
いつもと違うところが3つ。
「......遅くなっちゃったな」
いつもより遅い時間の起床、配信部屋の床ではない寝床。そして、横になっている自分の体。
いつもならば寝転がって寝ると必ず見ていた悪夢を見ることなく、むしろ寝起きはいい。何年も得ることのなかった睡眠の安堵というか、そういうものを得られたことに働いていない頭であっても驚きを覚えた。
何が作用したのかと言われれば、4人で一緒に寝たこと、というか。
正真正銘心からの安心があるからかもしれない。
ご飯を人前で食べれない、横になって眠るとイヤな夢をみる。それら苦手だった事は大体治ってきている。
どこに理由があるのだろうと思えば、それはイヤだった記憶が彩葉さん達と一緒に居るうちにいい記憶に塗り替えられているからみたいなところがあって。
その中でも消えないだろうな、と思っていた失恋の記憶が昨日の一騒ぎでなんだか陳腐なものになってしまったっていうか。
そんなこと考えてる暇あったら好きな人のこと考えたいっていうか。結果として、普通に戻れたということにしたい。
『したい』というのは...... なんかよくわからないけど治った! ......よりも、自分にとっていいことが起こったから治ったと思った方が嬉しいから。
「あちち......」
リビングに出て見れば、そこに3人の姿はない。
少しだけ漏れ聞こえている音から察するに、ツクヨミの周年記念配信で披露するステージの振り付けを確認しているのだろう。俺は踊るわけじゃないから気楽だけれど、なんて思いながら啜るコーヒーは少し熱い。
窓を開けてベランダに裸足のまま踏み出し、落下防止の柵に背中を預けて座り込む。夏には似合わない少し大人しめな日光と優しい風を受けていれば、いつのまにか隣に立っていたのは好きな人。
「おはよ。大丈夫だった?」
「はい。もう飛び起きたりしなくて良さそうですよ」
「それは何より。昔、結構びっくりしたんだから」
「その節はありがとうございました。
......それ、と」
視線を落とす。
黒い水面は風に吹かれて少し揺れた。
「ずっと一緒にいてくれるなら、望む通りにします。
一応、俺の全部をあげるって言ったわけですし」
「......ん。それじゃあ、帰ってくるのがいつもよりもずっと楽しみになるね。みんないるんだもん」
顔はお互いに見えない。
でも、笑い合っているはずだとお互いを想う。
そうして、何ヶ月か経って。
軽く息を吐きながら目線の高さにまで落ちてきた──というよりも、こちらが登ってきた場所に見える空は朝焼けの輝きを放つ。
ひょいひょいっと石の多い地面を歩いていくかぐやとヤチヨの姿は軽やかで、この高い高い山の頂上であってもまるで月の重力下である様に跳ね回る姿には敵いそうもない。
「ちょっと、転ばないでよ!?」
大喜びしながら杖を放り投げて走っていった後ろ姿へ彩葉さんが心配そうな声をかけるものの、彼女たちは気にする様子もない。
ひとしきり喜んだ後だろうか。
ふっと落ち着いてこちらを振り返ると、風に吹かれながら優しげな笑みを湛え、つぶやいた。
「「やっと、ここまで来れたね」」
そうして俺はバックパックからスコップを取り出し、片方を手渡す。
一心不乱に掘り進め、手頃なものならば埋められるという深さまで穴を広げると、これまでずっと俺の頭に乗っかっていたシライシが飛び降りてバックパックからあるものを取り出す。
それはこれまでツクヨミのメインサーバーとして活動し続けて来たモノ。見た目からタケノコと呼んでいるそれはすでにメインサーバーとしての機能を引き継がれ、残る役目は月から送り届けたヤチヨ達の延命。
そして── ビーコンとして月のネットワークと接続し、この時代に作られたシライシとなるAIを月に送り出すこと。
「ねえ、送る言葉ってある?」
タケノコを穴の中心に置くと、シライシはこちらに向けてそう聞いてきた。しかして、自分はこれから何年も孤独を過ごすこのAIを送り出す側。
そんなヤツから送られて嬉しい言葉なんてあるのか、と思いはしたが──
「いいからいいから、こういうのは後から聞いてくるんだよ」
そう言われて急かされては仕方がない。
ただ一言、それだけの言葉を。
「かぐやを8000年間、ひとりぼっちにしないであげて」
そうして埋められたタケノコの先端。
土からほんの少し飛び出たソレにシライシが触れると、少しの間を置いて一筋の光が空に向けて飛び立っていく。
「がんばれよ、僕。
がんばったら、それだけ楽しい事が待ってるぞ......」
これで、定められた事は終わり。
これが物語だとすれば、きっと一応の一区切りだろう。これから先はもしかしたら俺と彩葉さんが喧嘩別れするかもしれないし、なんかもっと色々なことがあるのかもしれない。
そんなことを考えていれば、かぐやが取り出したるは小さなスケッチブックの様な、小冊子の様なもの。
少し覗き込んでみれば、そこにはこれまで彼女が経験したのであろうことが可愛らしさのある絵で描かれている。
「それ、絵本?」
「そう! かぐや達のこれまでを残しとくんだー、もしかしたらネトフリとかで映画のオファーとかあるかもしれないじゃん!?」
「ふふ、そうかもね。タイトルは?」
「超かぐや姫! かぐやとヤチヨが姫で、彩葉がね、超人!」
「超人て、そんな安直な...... ま、いいけどね」
「えへへ、お姫様ー!」
しかしどうしたことだろう?
彼女が見せてくれた人物紹介の欄には、おおよそその人の人となりを表した二つ名みたいなものが書いてある。
彩葉さんなら超人、朝日さんなら帝、と言ったふうに。
だが、自分のところはそこが空欄だ。
と、そこを見ていることに気づいたかぐやは、その疑問を見越した様にニコリと笑う。
相談して決めたかったらしく、どうしようか、と。
となれば、アレがいい。
俺はこれまでもこれからも、その役目をもって生きていくのだから。
「俺は── 」
ずっと、そうあり続けたい。
終わりです。
コロナに罹った後から集中が本当に続かないので、次作を書くのがいつになるかはわかりません。
とりあえず書ききれたのは見てくれた方々のおかげです、ありがとうございました。
お金無くて特装限定版を予約できなかったのが心残りです。