夜も更けて、月が輝きを増す頃。
バイトを終わらせて疲労が満たす体をぐりぐりと動かして伸ばせば、人から鳴ってはいけない音が思いっきり静けさを引き裂く。
一通り鳴らし終わってぐはぁ、と濁音混じりの息を吐き出しながら、座り込んで待つのは背にしたドアを開いた先にある部屋の主。スマホにはいつもより遅くなるかも、と謝罪のスタンプが写るトーク画面が開かれていた。
階段を上る音に耳を澄ませてようやく来たかな、なんて思えば別の人だった、なんて状況にも慣れたもので、最近はおかえりなさいって言ったらただいまって言ってもらえるくらいにはなって来てしまった。きら、と空に輝いた流れ星にお金欲しいな、彩葉さんに大切な人ができたらいいな、なんて願いながらはあ、と軽く息が漏れる。
まあ、別に彩葉さんの帰りが遅くなるのに文句はない。
「そんなに大変なら、バイト変えてみたらどうですか?」
「でも...... 今の職場、嫌いじゃないからな」
タウンワークを片手にしてやってみた提案はその一言で終わり。ロジックで言えばあまり得策とは言えない選択だろうが、結局人を動かすのはパッションでしかない。
それなら俺はそうですね、としか言えないし、それ以上は食い下がる理由も無かった。
だったら迎えにくらい行ってあげればいいんじゃないか、と考えたことはある。
実際彼女は無理しがちで、この場所で再会した時だってすっ転んで足首捻ったところを救助したようなもの。アパートの階段で転ぶってことは駅の階段でも、それこそ平地でだってないとは言えないとは言えないんだから。
しかし、なあ、と。その思考はボツになった。
「俺、彼氏じゃないし」
そういうのって、やるのは彼氏とかそういう関係性だろう?
俺が提案してオッケー貰ったのは家事のお世話で、そこまで行ったら越権行為だし、そんなところまで行くつもりはない。
俺の最終到着点は彩葉さんに好きな人が出来て、その人と暮らすからもう来ないでね、と言われる時なのだ。責任を果たす時なのだ。
どんな人を連れてくるだろう? やっぱり本人が頭のいい人だから、その相手もすごく頭が良くて包容力のある人になるんだろうな。
「ふふ、楽しみ〜」
どんな人が好きな人を幸せにしてくれるんだろうな。
なんて考えていた時、爆音が鳴り響く。
「ほエっ」
体が浮き上がって魂が抜けてしまいそうな程の驚きに飲み込まれそうになりながらも半分くらいゲロった魂を引っ張り戻し、音の源たる電柱の方を見れば、そこには普通あり得ないものが見える。
虹色に、輝いているのだ。
生まれてから10と余年。そんな光景を記憶したことは当然になく、野次馬根性すらなりを潜めて怯えながらいくらなんでもな眩しさに目を押さえ、座り込みを続ける。
「け、警察......? いや、電力会社なのかな......」
普通に怖いだろう、こんなものは。
動けないまましばらく経ってバクバクとしていた心臓が落ち着きを取り戻すまでの時間が経った頃、今度はそれを見つけたのであろう人間の声が聞こえて来て、また飛び上がりそうになる── ものの、知っている声にむしろ安堵の方が競り勝った。
「なんだっていうの......?」
晩御飯の材料を入れた袋をドアノブにかけたまま階段を駆け降りようとすれば足を滑らせ、いでっという声を漏らしながらも光る電柱の元に駆ける。
そこにはなぜか合掌しながら、南無阿弥陀仏と唱えて深々とお辞儀をする彩葉さんがいた。
多分それ、成仏とかするタイプのモノじゃないきがするなぁ。
「おかえりなさい...... ていうか、これ、うわぁ......」
「なんなのこれ......」
「知らないですよ......」
端的に、趣味が悪い。
観音開きのような扉と、そこに付けられた取っ手。なんだか雅な紋様まで描かれちゃって、そのくせビッカビカに輝いて神秘とかなんもない。円柱の物の一部が光っていて、かつ何かが入ってそうな感じ、なんて言われたら思い起こされるのはかぐや姫だけれど。
「かぐや姫とか入ってないですよね、これ」
自分でも何言ってるんだと思うが、本当にそれしか思いつかない。だってほら、今にも開いて── というか開き始めた観音開きから正月に流れてそうな音楽が。
「いや、勘弁してください」
と、彩葉さんからキャンセルがかかる。
バンと勢いよく閉じられた扉はあるべき姿に戻り、変なものが降臨しなかったことに安堵していると、諦めてたまるかとでも言いたげにまた観音開きが開帳を始めた。
流石にしつこいと2人がかりで今度は抑えにかかるが、まるで一回閉じられたことにブチギレているかの如く勢いよく開き、吹っ飛ばされて尻餅をついた自分の上に彩葉さんの体重がかかる。
もう止まることのないお正月特有の雅系BGM。その中からスモークと共に現れた存在に疑問符を浮かべて絶句し、彩葉さんは情報の洪水を受け止めきれずに刹那、その思考を停止させた。
「あぅぅ......」
赤ん坊。赤ちゃん。
しかも上等な服に身を包んだソレが、どこか古風なおもちゃで飾り付けられた電柱の中で眠りこけている。何起きてるのか理解できひん、ほんまに。
ブワッと身体中に浮かび上がった冷や汗に不快感を感じながらほっとくべきかどうするべきかを考えていると、赤ちゃんの顔が急に強張る。
ふぇ、ふぇ、と爆発しそうなその表情。何度か出かける時の電車の中で、どこかの親御さんたちが手を焼いている姿を見て来た顔だ。
その顔を見て、迷って迷って、迷って──
「彩葉さん、どーしよ〜......?」
取り上げてしまった。電柱の中から。
なんて望まれなかった竹取の翁だろう、赤ん坊を無くしたゲーミング電柱はその扉をありえないスピードで閉じると、みるみるうちにその光を失って現実へと戻っていってしまう。
「ごめんなさい、泣いちゃいそうだったから......」
「なっちゃったものは仕方ないけど、どーしてこうなったかなぁ......」
腕の中で赤ちゃんを揺らしながら、勢いで増えてしまった命一つをどうするかに2人して思案する。目を開けたこの子はやっぱり女性の方に行きたいのか、自分の腕の中から彩葉さんの方へと手を伸ばした。
疲れたでしょ、変わるよと言って彩葉さんが赤ちゃんを受け取ると、その子は何か嬉しそうに彼女の制服の襟にはむ、と歯のない口で噛み付いて見せる。
「わたしたちに比べて、あんたは悩みとか無さそうでいいねえ」
「はは、あむあむって、可愛いですね」
ほっこり。
──なんてバカなことしてる場合じゃない。
一旦、この状況をどうするかが最優先事項。
やはりこういう場合に相談できる一番手といえば私たちの税金で働いてもらっている国家の権力、警察だ。
とりあえず軽く頭の中を整理して、赤ちゃんを彼女に任せて一息深呼吸。110で繋がった電話口に冷静に、かつ誤解を与えないよう整理した情報を口にする。
「もしもし〜、そのですね。
家の前、あいや自分の家じゃないんですけど、そうですその家の前の電柱が爆音と共に七色に光り始めて。で、古風なゲーミング電柱から観音開きで赤ちゃんが出て来て...... ごめんなさい薬物とかやってないです何も無かったです失礼しますッ」
無理だろこれ。
記憶を言語化できない自分に苦しんで歯軋りしながらも、別に相談できたところで薬物疑われるだけだとすぐさま通話を切る。通話時間脅威の30秒。
こんな漫画みたく頭を抱えたのなんて初めてだ。初めてだらけの今日、ハッピー! うるせぇよ。
「とりあえず今日はこのままで、お願いできますか」
「......まあ、わたしでも説明できなかったと思うし。どうせ三連休だし、明日考えよ」
もはや諦めにも似た空気が流れ始めると、それを切り裂くのは唐突に耳を貫く人間ならすぐに反応できるような赤ちゃんの泣き声。
もちろんというかなんというか、俺たちはまだ育てる側の人間になるまでの成長をしていない。当然あやし方なんてテレビや動画で見るような漠然とした揺らしたり、笑わせたりとかしか知らないわけで、あわやパニックというところに陥るのは当然のことだ。
「ちょっと、夜なんだから泣かないでってば!」
「ええっ、お腹減ったとか、トイレとか...... わかんないよ〜!」
そんなパニック状態を鎮めたのは、予想外の怒り。
「「ひっ」」
ドゴン、ドゴンと強烈に2発。
隣の部屋から怒声の代わりにお見舞いされた怒りの意思、いわゆる壁ドンである。
初めての体験。それにピンと2人背筋が伸び、いやに冷静な頭が帰ってくるものの、他人の怒りなど赤ちゃんにはわかるわけもなく。
「えーと、あとは子守唄とか」
「そんなの知らないけど?!」
提案に驚いた様子の彩葉さんを見てそうだよなぁ、と思っていれば、彼女は小さく何か思い立った様子であっ、と溢し、軽く咳払いをすると優しい声で赤ちゃんの耳元で囁く。
歌い始めたその歌詞は俺も知っていて、このゴタゴタの中で考えから抜けていたけれど、彼女はそういえばその曲が好きだったなと思い出す。
月見ヤチヨが初めて配信した歌、remember。
その声を聞いてなのか、泣き疲れたのか。赤ちゃんはさっきまでの嵐をすっかり通り過ぎて、そこには疲れ切った学生2人が床にへたり込んでいる。
「......とりあえずお風呂、準備しますね」
「ありがと......」
疲労満杯な全身を奮い立たせて別室のユニットバスへ向かい、お湯を蛇口から吐き出させる赤色の目印が付いた取っ手を回す。
彼女の歌なんて何年ぶりに聴いたか。
確か彩葉さんのお父さんが亡くなった時からピアノ、っていうかキーボードをいじることも無くなってたから、それ以来とか?
用意を終えてリビングに戻れば、そこにあった光景にふう、と一息ついて、捻った取っ手を今度は締める。
そこには敷かれた布団の上に寝かされた赤ちゃんが寝息を立てていて、その横では疲れ切った彩葉さんが寝転がり、瞼を下ろしている。
電気を消し、パチっと扇風機の電源をつけて少しでも涼しさの足しになればと窓を網戸へ変えると、カーテンを揺らす緩やかな風が頬を撫で、久しぶりにあくびが口から漏れた。
「オムツ、服、抱っこ紐と、ミルク......」
ぶつぶつと明日の予定を組みながら玄関の鍵を閉め、彼女たちの近くに腰を下ろして瞼を下ろす。
どうしたものかな。
「あー...... 疲れた......」