怪物「人間を知りたいなぁ」 作:人参を知りたい怪物
深淵の底、光すらも到達を拒絶される秘境『静止した奈落』。
そこは命の鼓動がことごとく凍りつき、ただ永久の沈黙だけが王座に君臨する不可侵の聖域であった。大気は密度を増して結晶化し、時間の流れさえも淀んだ泥のように停滞している。
その最奥、世界の胎内とも呼ぶべき静謐の中心で、「それ」はまどろんでいた。
名などない。形すら定かではない。
ある時は闇を透かす揺らめく影のように、ある時は天を突く鋭利な水晶の山のように、その輪郭を千変万化に歪める不定形の神。それはこの地の絶対的な主であり、全知にして全能、そして何よりも孤独を愛する傲慢なる頂点であった。
「それ」にとっての世界とは、己の領土を浸す完璧なまでの静寂そのものであり、それ以外の一切は排除すべき、あるいは無視すべき汚らわしいノイズに過ぎない。
数百年、あるいは数千年。永劫に近い平穏を無作法に引き裂いたのは、鼓膜を逆撫でする硬質な金属音と、肺腑を汚すような生臭い、浅ましい生命の吐息であった。
――
「……いたぞ! あいつが最深部の『色なき災厄』か!」
「怯むな! 聖水を撒け! 陣形を維持しろ!」
四人の冒険者が、魔法の灯火で暗闇を不躾に照らし出して現れた。
彼らは「それ」を視界に捉えるやいなや、恐怖を塗りつぶすような殺気を放って戦闘態勢に入った。懐から投じられた瓶が砕け、飛散した聖水が虚空に「神気」を霧散させる。それは並大抵の魔物であれば、その存在基盤を根底から融解させ、立つことすら許さぬ苛烈な浄化の波動。
彼らの纏う武具は国宝級の輝きを放ち、練り上げられた魔力は、一振りの剣撃で小山を消し飛ばすほどの密度を誇っていた。
だが、「それ」にとって、そんなものは久遠の眠りを汚す羽虫の羽音、あるいは不快な砂埃に等しかった。
「それ」は、緩慢な動作で触手を伸ばした。
それは攻撃と呼ぶにはあまりに無機質で、ただ「そこに漂う塵を払う」という純粋な意思の露呈に過ぎない。
「ギル!」
「おうッ!!」
重厚な大盾を構えた戦士ギルが、岩盤を砕く踏み込みで前に出る。
鉄壁の防陣。だが、接触の瞬間、神鉄で鍛えられた盾は濡れた紙細工のようにひしゃげ、戦士の巨体は背後の岩壁を粉砕して深奥へと埋没した。
「なッ!? ギルの防御を、ただの払いの一撃で……!?」
「ギ、ギル! ……この、化け物がぁ!」
逆上した魔導師が放つ、空間を焼き尽くさんとする極大の火球。聖騎士が振るう、神の祝福を宿した白銀の長剣。
それらは「それ」の表皮に触れることすら叶わず、虚無を孕んだ肉体へと吸い込まれ、光の粒子となって霧散していく。
圧倒的。という言葉すら生ぬるい。
「それ」は傲慢に、そして残酷なまでに純粋に、彼らを屠るための「形」へと変じた。無数の処刑刃を、あるいは地核の如き重圧を。冒険者たちは、呼吸すら許されない絶望の檻に閉じ込められた。
――
蹂躙が幕を閉じるまで、数分と要さなかった。
既に二人が物言わぬ肉塊となり、残るは満身創痍の魔導師の女と、彼女を庇うように膝をつくリーダー格の若き剣士のみ。
「……逃げろ、リナ。君だけでも……生きて……」
剣士は震える手で折れた剣を支えにし、背後の女に枯れた声で告げた。
怪物は動きを止めた。そこに憎悪はない。ただ、次にこの残滓をどう処理すべきかという、氷のような冷徹な計算があるだけだ。
「何を言ってるの、カイル! 貴方を置いていくわけないでしょ!」
「いいから行け! 俺が時間を稼ぐ……ッ! 逃げろ! はやくッ!!」
騎士カイルは、自らの魔力回路を故意に暴走させ、全神経を焼き切るような過剰な身体強化を強行した。命の灯火を薪にして燃やす、自爆に近い特攻。
個体の消滅と引き換えに、種の保存、あるいは生存確率の高い個体を優先する。それは生物の生存本能に照らせば、一つの「効率的な損切り」に見えた。
しかし、女はその論理を真っ向から拒絶した。
「ふざけないで! 一人でカッコつけないでよ! そんなの……そんなの、貴方がいない世界で生きてる意味なんて、一つもない!」
彼女は逃げなかった。それどころか、カイルが命を賭してこじ開けたわずかな退路を捨て、自ら破滅の渦中へと飛び込んだ。カイルを連れ戻そうと、その傷だらけの腕を強く掴む。
その瞬間、騎士の覚悟も、魔導師の献身も、連携という名の機能を失って瓦解した。
逃走のための隙間は、互いを想い合うという名の「ノイズ」によって埋め尽くされ、彼らはその場に停滞した。
(……理解不能だ)
怪物は、深淵のような困惑を覚えた。
生存を第一義とするならば、一人が盾となり一人が逃げるのが「正解」だ。あるいは、二人で死力を尽くして撤退するのも、生存への足掻きとしては理解できる。
だが、彼らは「互いを助けようとして、互いの足を引っ張り合い、結果として全滅の確率を最大化させている」。
それは、この世で最も美しく、最も醜悪で、何より不合理な光景だった。
「それ」の触手が、迷いなく振り下ろされた。
お互いがお互いを庇うように抱き合った二人を、慈悲もなく、均等に、ただの塵へと還元する。
再び、静止した世界に静寂が戻った。
だが、怪物の核に刻まれた「疑問」という名の染みは、二度と消えることはなかった。
――
あれ以降、「それ」は思考していた。
なぜ、彼らは死を選んだのか。
なぜ、あの個体は自己という絶対を棄却し、他者に全てを委ねようとしたのか。
そしてなぜ、もう一方はその犠牲を拒み、共に滅びるという最悪の選択をしたのか。
「それ」が持つ神域の知性をもってしても、その不合理なアルゴリズムの最適解が導き出せない。
傲慢な孤独こそが強さの証であると信じて疑わなかった怪物にとって、自分以外の存在のために「無」へと帰す概念は、宇宙の終焉を理解するよりも困難な命題であった。
(……人間)
その奇妙な響きを、怪物は自身の核に深く刻み込んだ。
彼らという種を解剖し、観察し、その内側に潜む理屈を吸い上げれば、この「不可解な違和感」は解消されるのだろうか。
この冷たい秘境で永遠に微睡むよりも、その不合理の正体を解明することの方が、今の「それ」にとっては万象に勝る価値があるように思えた。
怪物は幾何学的な自身の巨躯を、猛烈な勢いで圧縮させた。
銀河の如き質量を削ぎ落とし、先ほど命を散らした魔導師の女——その四肢、その貌、その繊細な構造を精密に模倣していく。
不慣れな二本足。あまりに脆弱で薄い皮膚。肺という小さな袋でしか呼吸できぬ、不自由極まりない肉体。
(理解しにいこう。あのの不条理の源泉を)
不定形の王は、数千年の時を経て、初めて自らの領土の外へと足を踏み出した。
初めて踏みしめた外界の土の感触は、驚くほどに脆く、頼りない。
だが、その一歩は迷いなく、人々の喧騒が渦巻く、輝かしくも愚かな光の世界へと向かっていた。
「人間」を知るための旅。それは、純粋なる怪物が「心」という名の最も不合理な迷宮に挑む、果てなき探求の始まりであった。