呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
熱が、先にあった。
光よりも先に。
名よりも先に。
肉の形よりも先に。
安土は燃えていた。
梁が鳴る。瓦が爆ぜる。漆喰の内に溜め込まれていた熱が、遅れて噴き出す。乾いた木の芯へ残っていた火が、風を吸って細長く笑う。壁の向こうでは、どこかの蔵が火薬へ引火したらしい。腹の底へ響くような低い破裂がひとつ、ふたつ、間を置いて続き、そのたび天守の骨組みがわずかに痙攣する。
よい。
儂は目を開いた。
――開いた、と思うた。
まぶたがあったかどうかは知らぬ。
だが見えた。見えすぎるほどに見えた。火の筋が、壁の内を走る。下で逃げ惑う者どもの気配が、熱の揺らぎとして見える。遠く、湖のほうから来る夜気が、焼けた城肌へ当たって歪むのも見える。
安土が焼けている。
焼いているのは誰だ。
知れたことよ。儂だ。
織田信長
それが名だった。
それを思い出すと、火が少しだけ高くなった。銃声の残響が、梁のあいだからぞろりと首をもたげた。戦場に沈んでいた火縄の臭い、油の臭い、硝石のざらつき、黒色火薬の湿った苦み。そういうものが、みな儂の息であるかのように肺へ入った。
肺が、あったかどうかは知らぬ。
だが呼べば、火は来た。
指を持ち上げたつもりで、火がひと筋、闇を裂いた。柱の陰に潜んでいた兵が、それだけで二つに割れる。いや、割れたのは肉ではない。その手前にあった恐れだ。恐れが先に弾け、そのあとで肉が遅れて裂けた。血が飛ぶ。火の粉に混じる。床板に散る。その音すら、やけに乾いて美しかった。
よい。
それでよい。
人は怖れよ。
怖れて縮み、その冷えたものをこちらへ寄せよ。
儂はそれを燃やし、さらに大きくなる。
大きく。
――大きく?
どこまで。
その問いは、一瞬だけ妙だった。
大きくなった先に、何がある。天下。都。朝廷。海。南蛮。そういう言葉は浮かぶ。だが浮かぶたび、ひどく薄い。代わりに鮮やかなのは、燃えること、撃つこと、崩すこと、怯えさせること、その輪郭ばかりだった。
構わぬ。
大きさとは、そういうことよ。
儂は笑うた。
笑うたつもりで、どこかの壁面が弾けた。火薬庫の残りが逝ったのだろう。天守の下腹で赤い閃きがいくつも咲き、石垣の継ぎ目から炎が噴き上がる。それは花に似ていた。鉄砲玉はその花弁であり、火は雄蕊であり、黒煙は腐った香であった。
よい。
誰ぞ来ぬか。
儂を見よ。
儂がまだここにおると知れ。
そう思うた途端、下の気配がざわめいた。蟻のように小さきものらが、階下でためらっている。上がれぬ。上がる前に燃える。近寄るだけで肌が泡立つ。恐れが伝わってくる。冷えて、湿って、うまい。
ひとり、弓を引いた。
阿呆が。
見えとる。
儂がそう思うより早く、銃声が鳴った。
儂の手には銃などなかった。だが鳴った。壁際に寄せてあった古い鉄砲がひとりでに跳ね、火花を吐き、矢を番えていた兵の喉を吹き飛ばした。遅れて、別の場所でも鳴る。床へ転がっていた火縄銃。崩れた梁に引っ掛かっていた火器。どこに眠っていたものか知れぬ火薬の残り。安土の中に残っていた火と鉄は、みな儂の意であるかのように、一斉にこちらへ従った。
それで思い出した。
ああ、そうだ。
儂はこういうふうに、人を怖がらせた。
見えぬところからでも届くように。
隠れ切るより、見えたり消えたりしたほうが、よほど悪いと。
誰かが、そう言うておった。
小賢しい声だった。
腹を空かせた小動物じみた、目ばかりぎらつく男の声。
誰だ。
名が出ぬ。
名より先に、厭な感じだけが腹へ落ちた。
腹が、あるのかどうかも知らぬのに。
その時、ひとつだけ他と違う気配が上がってきた。
怖れてはおる。
だが、拝んではおらぬ。
その違いがすぐわかった。
下の者らは、みな儂を見て縮む。魔王だの、怨霊だの、信長様だの、勝手な名で怖れる。どれでもよい。怖れればよい。怖れは燃える。
だがそやつは違う。
怖れながら、見定めてくる。
熱のこちらと向こうを測るように。
炎の色で、中身を量るように。
不快だった。
ひどく不快で、ひどく懐かしかった。
ひとつ、火を走らせた。階段を這わせる。漆を塗った手すりが一息に燃え上がり、赤い舌が廊下をなめる。そこへ銃火を重ねる。左右の壁から、床から、倒れた武具の山から、火薬の破裂を何重にも引き出す。散弾のように、火の粉と鉄片が通路いっぱいへ撒かれた。
来られるものなら来てみよ。
誰であろうと、焼けて砕けよう。
だが来た。
ひとりだけ、来た。
火のあいだをすり抜けるように。
燃え上がる廊下の低いところばかりを選んで。
銃火が遅れて咲く、その半拍の隙を読んで。
来た。
棒を持っていた。
笑わせる。
槍でも刀でもない、ただの棒切れで、何をしに来た。
そう思うた時には、そやつはもう近かった。近すぎた。顔が見える。汗。煤。焼けた袖。腹の底だけは空のまま、眼だけ生きておる顔。
猿だ。狒々でも猩々でもない。変哲のない、猿。
その言葉が、ひどく自然に出た。
するとそやつの眼が、ほんのわずかに揺れた。
「……やはり」
小さく、そう言いおった。
何がやはりだ。
儂は信長である。
織田信長である。
そう断じた途端、火はさらに勢いを増した。廊下の先まで一息に焼ける。天井板が剥がれ、火の塊が落ち、床下の火薬が誘われる。爆ぜる。鉄が飛ぶ。黒煙が膨らむ。その全部が、儂の怒りのように見えた。そうであるはずだった。
だが、そやつは退かなんだ。
棒を握ったまま、こちらを見た。
ひどく嫌な目だった。
主君を見る目ではない。
敵を見る目とも少し違う。
もっと、壊れた器の継ぎ目を見つけた職人のような、悪い目だ。
「おぬしは」
そやつが言った。
「信長様ではない」
その一言で、火がざらついた。
意味がわからぬ。
儂はここにおる。
焼けてなおここにおる。
安土も、火も、銃も、怖れも、みな儂へ集まっておる。
ならば儂ではないとは何だ。
怒りにまかせて撃った。
今度は一つ二つではない。天守に残っていた火器の残骸、崩れた櫓門の鉄片、床下の火薬、死体の帯びていた小柄の火打ち石まで、火に触れるものをみな爆ぜさせた。雷鳴のような連続音が走る。火は咲き、弾は唸り、黒煙は渦巻き、安土そのものが巨大な砲身となった。
それでも、そやつは来た。
そやつが足を進めれば、こちらの火が薄くなる。
儂に違うと唱えるたび、儂の中の何かが削がれる。
妙だった。
銃火は儂のものである。
火薬の臭いは儂のものである。
怯えを燃やして力に変えるこの熱も、儂のものである。
そのはずなのに。
奪われておる。
そやつが棒を振るうたび、火はただ裂けるのではない。こちらから剥がれ、向こうへ吸われていく。銃声が黙る。爆ぜが途切れる。残り香だけが、そやつのまわりへ帯のようにまとわりつく。
そこで初めて、怖れた。
儂が、ではない。
儂の中へ詰め込まれていた、無数の怖れが、いっせいに内側へ向いた。
違う。
違う。
違う。
そういう声がした。
誰の声だ。
寺の僧か。
焼かれた女か。
撃ち殺された敵兵か。
夜ごと悪夢にうなされた家中の者か。
みな、儂の内におる。
みな、織田信長を知っておる。
なのに、いまこの瞬間だけ、誰も儂を信じておらぬ。
そのことが、ひどく腹立たしかった。
腹立たしい、という感覚だけがやけに鮮明で、そこでようやく、儂は自分が信長そのものではないのかもしれぬと気づきかけた。
だが遅い。
空気が変わった。
静かになったのだ。
燃えているのに。
崩れているのに。
火薬の臭いが鼻を刺しているのに。
「ーーーーーーーーーー」
何と言ったのかは炸薬の音で聞こえなかった。
一転、舞台の幕が下りる手前のような、嫌に整った静けさが落ちた。
何だ、これは。
そう思った時には、もう遅かった。
そやつが領域を開いていた。
絢爛で、静かで、吐き気のするほど行儀のよい場だった。安土の燃え方とは違う。儂の火は奪うために燃える。焼き払い、怖れを喰う。だがこの場は違う。まず詣でるために整っている。頭を垂れ、歩み寄り、見上げるために作られた気味の悪い静けさだった。
そやつは、その中心を歩いた。
儂へ向かって。
否。
儂を通り過ぎて、その向こうの何かへ向かうように。
それが、ひどく屈辱だった。
儂はここにおる。
火も銃も熱も、みなここにある。
それを通り過ぎて、どこへ行く。
撃て。
燃やせ。
爆ぜろ。
命じたつもりで、もう何も応えなんだ。
火は剥がれていった。
銃火がほどけた。
火薬の爆ぜは、小さく、小さくなり、最後には湿った夜気の中で情けなく消えた。
残ったのは、熱だけだった。
それもまた、剥がれていく。
そやつは儂の前へ来た。
眼が近い。
猿の眼だ。
だが飢えたままの猿ではない。
何かひどく大きいものに焼かれ、焼かれたままなお腹を空かせている、厭な眼だった。
「……信長様ではない」
もう一度、そやつは言った。
「じゃが、信長様の残り火ではある」
その言い方は、優しくも敬ってもいなんだ。
むしろ、捨てたいものを捨てられずに掴む時の声だった。
やめよ。
と、言おうとした。
声があったかどうかは知らぬ。
次の瞬間、儂は裂けた。
肉ではない。
形ではない。
儂を儂たらしめておったもの――火、銃、怖れ、悪夢、魔王という名、その寄せ集めの継ぎ目が、一本ずつ丁寧に剥がされた。
痛い、とは違う。
気持ちが悪かった。
ああ、そうか。
儂は最初から、誰もが信じた織田信長の悪夢でしかなかったのだ、と、その時ようやく知った。
知ったところで、もう遅い。
核だけが残った。
焼け焦げた、名残だけの、ひどく小さいもの。
それでも儂はなお思った。
儂は織田信長である、と。
その思い込みだけが、最後まで剥がれなんだ。
そして、そのいちばん気持ちの悪い芯を、そやつは受け取った。
喰うた、というほど綺麗ではない。
抱え込んだ、というのも違う。
もっと悪い。
吐けぬまま、しかし喰えぬまま、腹へ落ちたのだ。
儂はそこへ落ちていった。
暗い。
熱い。
狭い。
だが、生き物の内側だった。
猿の腹だった。
腹の底では、飢えがまだ鳴っていた。
そこへ、儂の残り火が落ちた。
その瞬間、そやつが外でわずかに身を折ったのがわかった。
吐きたくとも吐けぬのだろう。
火薬の臭いが喉へ張りつき、焼けた安土の熱が腹へ据わり、自分のものではない座が、内側へ勝手にできてしまう。
よい気味だ、と思うた。
いや、違う。
思うたのではない。
そう思いたかったのだ。
儂でない儂の、最後の意地として。
外ではもう火が弱っていた。
安土はなお燃えておる。
だが、さっきまでのようには笑わぬ。
銃声もない。
爆ぜもない。
ただ、焼け跡の熱だけが、夜の底で赤くくすぶっている。
その熱が、いまは猿の腹の内にもあった。
祝うべきことではない。
まして継承などではない。
ただ、焼け残りが移っただけだ。
ただそれだけのことなのに、儂はそこからなお、薄く、ひどくしぶとく、残っていた。
猿の腹の底で。
信長ならぬもののまま。