呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
清州の空気は、どこかよそゆきだった。
城そのものは見慣れている。廊下のきしみも、庭の狭さも、風の通り方も、秀吉にとっては今さら珍しくもない。だがその日ばかりは、壁にも柱にも、妙な張りがあった。誰も大声は出さぬし、足音もいつもより少しだけ軽い。軽いくせに、皆どこかで息を詰めている。
同盟、というやつである。
藤吉郎は座の端に控えながら、心の中でそう繰り返した。
同盟。
それも、信長が誰かと結ぶ同盟。
頭では意味がわかる。いま東で何が起きているかも知っている。桶狭間で今川義元は死んだ。尾張を呑みに来た大鯨は、信長がその喉笛を裂いてやった。ならばそのあと、東の土地がどう揺れるかも当然そうなる。松平元康――いまはまだその名のほうが腹へ落ちる――が岡崎へ戻り、今川の鎖を外し、どこへつくかを見定める。情勢としてはそういうことだ。
だが、理屈としてわかることと、腹が納得することは少し違う。
今川を討ったのは信長様だ。
なのに、東の実入りのよいところを、結果としてよう持っていったのはこの男なのではないか。
藤吉郎はそんな、やや意地の悪いことを考えていた。
もちろん口には出さぬ。
出したところで褒められぬし、そもそも今日はそういう日ではない。
やがて、相手が入ってきた。
徳川家康。
まだ胸の内では、どうにもその名がぴたりとは嵌まらなんだ。松平元康、と聞いたほうがまだしっくり来る。今川のもとにいた、人質上がりの若殿。そういう印象が先にある。あるのだが、いま目の前へ入ってきた男は、その印象から少しずれていた。
思ったより、座りがよい。
それが第一印象だった。
熱があるわけではない。
信長のような、部屋へ入っただけで空気ごと温度が変わる手の人間ではない。むしろ逆だ。静かで、重くて、妙に落ち着いている。人質育ちと聞いて想像するような、ひとの顔色をうかがう軽さがない。頭を下げる角度にも、言葉を選ぶ間にも、変な媚びがなかった。
藤吉郎はそこで少しだけ眉を寄せた。
なんじゃ、と思う。
人質というのは、もっとこう、別の育ち方をするものではないのか。縮こまるか、逆にひねくれるか、どちらかであろう。ところがこの男は、縮こまりきらず、ひねくれきらず、ただ妙に重い。
隣を見ると、信長もそれを当然のように受けていた。
それがまた不思議だった。
もちろん、二人の間に昔からの線があるのは知っている。人質時代がどうとか、幼い頃に顔を合わせたとか、そういう話は断片ではあれ耳に入っている。だからただの他人ではないのだろう。そういう込み入った情があるのもわかる。
わかるが、それだけで信長がこうも自然に「並べる」ものだろうか、とも思う。
主従ではない。
客でもない。
下へ置くでもなく、上から見るでもない。
妙に、横なのだ。
信長様が、人を横へ置く。
その事実のほうへ、藤吉郎はむしろ少し驚いていた。
家康の後ろには、数人、目を引く者がいた。家臣というには、あまりに圧のあるやつがいる。そしてその男へ、無意識に視線を留めた。
ごつい。
まず、そう思った。
背丈だの肩幅だの、見た目の話ではない。もちろん体つきもよいのだが、それだけならいくらでもいる。そうではなくて、立っている時の圧が妙にごつい。正面から受けるつもりで立っている者の気配だ。殺気とも少し違う。ひたすら真っ直ぐで、変な揺れがない。
ふと柴田勝家を思い出した。
ああ、こういうのが“勝”という字の顔かもしれぬな、と、どうでもよいことまで頭へ浮かぶ。柴田殿ほど露骨に前へ出ておらぬが、質は近い。ごり、とした圧がある。たぶん、これが本多忠勝というやつだろう。
なるほど、と思う。
駒もあるのだ。
しかも、ただ居並ぶだけの者ではない。横にこういうのを従え、土地も押さえ、人質上がりのくせに妙に落ち着いている。今川の残り香を吸ったのか、もともとそういう器だったのかは知らぬが、思ったよりずっと厄介かもしれぬ。
信長と家康の会話が進む。
藤吉郎は黙ってそれを聞いていた。
すべてを理解していたわけではない。だがわかることもある。信長は、珍しく、人へものを言う時の熱を少し落としていた。落としているが、弱めているのではない。対等の重さを認めた時の顔だ。家康もまた、へりくだりきらない。無礼ではない。だが自分を売り渡す顔でもない。
ああ、とそこでようやく腹へ落ちた。
そういうことか。
この男は、旗下へ入るのではないのだ。
外から並ぶのだ。
信長の配下ではなく、信長の横へ、ひとまず置いておける者。
なるほど、それなら同盟である。
そうわかると、怪訝さは少しだけ形を変えた。面白くないわけではない。いや、面白いと言ってもよかった。信長の下に人がつくのは、秀吉にはもう見慣れた景色だ。だが、こういうふうに、外から並ぶ者を見るのはまだ珍しい。
これがおとなしく味方でおるぶんには、たしかに頼もしいだろう。
東は遠い。
遠いくせに、人も田もある。
今川が崩れたあと、その残りを拾う者が誰であるかは、これからの戦に効いてくる。家康が信長の敵でなく、ひとまず横に立つ気でいるなら、それだけで尾張の背中はずいぶん軽くなる。
ありがたい話ではある。
だが同時に、藤吉郎は思う。
あまり敵に回したくはないのう。
理由はまだ、うまく言えなんだ。
家康の術のことなど知らぬ。腹の内も知らぬ。
ただ、見た目の話として、土地を持ち、駒を持ち、しかも人質育ちのわりに妙に縮こまっておらぬ。そういう男は、えてして後々面倒なのだ。
会談はつつがなく終わった。
信長はいつものように、終わればもう次のことを考えている顔だった。家康もまた、必要以上の余韻は残さぬ。双方とも、情だけで手を結んだ顔ではない。
必要だから結び、必要であるうちは保つ。そして互いが互いを必要であると理解している、そのことも理解してる。故に疑わぬ。そういう、乾いた太さがあった。
藤吉郎は退出のあと、ひとりで少しだけ廊下を歩いた。
清州の壁も柱も、もう元の城の顔に戻っている。張りつめていた空気だけが、少しずつほどけていく。兵も女中も、息をし直すように動き始めていた。
「どう見た」
不意に声が飛んで、秀吉は振り向いた。
信長だった。いつからそこにいたのかわからぬ顔をしている。
「どう、とは」
「松平よ」
聞かれて一瞬だけ考えた。
考えたが、気の利いた答えは浮かばなんだ。
「妙な男にございます」
信長は少しだけ笑った。
「妙、か」
「人質だったと聞いておりますが、どうにもそう見えませぬ」
「見えぬか」
「は」
「で、ほかには」
藤吉郎は鼻の奥でひとつ息をした。
「駒も土地もあるように見えました。横におるごついのもよう利くのでしょう。おとなしく味方でおるぶんには、頼もしい話にございます」
「おとなしく、か」
信長はそこで、少しだけ口の端を上げた。
何が面白いのかはわからぬ。
「敵に回したくない顔もしておりました」
そう付け足すと、今度は信長がはっきり笑った。
「猿にしては、よう見ておる」
「猿ゆえに、よう見えるのかもしれませぬ」
「ぬかせ」
そう言って信長はもう歩き出していた。返事を待たぬ。いつものことだ。
その背を見送りながら、もう一度だけ、家康の座っていたあたりを思い返した。
なるほど、と思う。
信長様にも、横へ置く男がおるのだ。
そしてその男は、どうもただの人質上がりではない。
藤吉郎は廊下の角で立ち止まり、ほんの少しだけ笑った。
「……妙な世じゃの」
だが悪くはない、とも思った。
少なくとも今は、あれが味方である。
それで十分だった。
そして同時に、心のどこかで、いつかあれと腹の探り合いをする日が来れば面倒だろうな、とも思った。
その面倒さの正体は、まだ言葉にならなんだ。
ただ、尾張の外にも、信長の熱だけでは測れぬ大きさがあるらしい、と知った。
そのことだけが、その日の後味として静かに残った。