呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
墨俣一夜城。
木下藤吉郎が、墨俣の地に一夜にして城を築いたと伝わる逸話である。
その実像には諸説がある。築かれたものが城であったのか、砦であったのか。
一夜という言葉が、どこまで事実であったのか。
後世の誇張がどれほど含まれているのか。
ただ確かなのは、この逸話が、木下藤吉郎という男の名を語るうえで欠かせぬものとなったことである。
この頃より、藤吉郎は織田家中において、明確に頭角を現し始める。
信長の言うことは、時々、何を当たり前のことのように申すのかと思う。
墨俣に砦を作れ、と言われた時、木下藤吉郎はまずそう思った。
美濃へ入るための足場が要る。
要るのはわかる。
敵の鼻先へ前進拠点を一つ、早く、できればこちらが本腰を入れるより前に置いてしまいたい。その理もわかる。美濃は近いようで遠い。川があり、地があり、こちらが一歩出るたびに向こうは半歩ずつ下がり、下がりながら嫌な顔をしてこちらの足を止めようとする。だからこそ途中に“こちらの場所”が要る。
要るのはよい。
よいが、それをわしに申すか。
藤吉郎はその時、わずかに口を尖らせたのを覚えている。
柴田のように兵を率いて正面から打ち立てるなら、まだ話はわかる。丹羽のように人数と荷を整え、理詰めで一歩ずつ固めるのもよかろう。だが信長が藤吉郎へ言う時の調子は、それらと少し違う。
砦が要る。
なら、おぬしがやれ。
それだけである。
できるかできぬかを問うてもおらぬ。
どうやれとも言わぬ。
ただ必要なものを言い、必要ならば猿がどこかから持ってくると思っている。
ひどい話だった。
だが同時に、妙に腹へ馴染む話でもあった。
信長は、藤吉郎に大将の真似事を求めているのではない。勝家や佐久間や丹羽に振るのと同じ仕事は振らぬ。前へ出るのではなく、前へ出るための“変な道”を作る。そういう役目だけを、昔からなぜか平然とこちらへ回してくる。
猿らしくてよい、とでも思っておるのかもしれぬ。
藤吉郎はそこまで考えて、少しだけ鼻で笑った。
実際、その通りなのだろう。
墨俣の辺りは、川筋がやらしい。
まっすぐ渡れると思えばそうでもない。
水は浅そうで深く、深そうで足場がある。
地元の者でなければ、夜に人も木も通しにくい。
敵から見ればこちらが嫌がる地であり、こちらから見ればそこを嫌がっておれば美濃へ届かぬ地だった。
藤吉郎はまず人を集めた。
兵ではない。
兵だけでは足らぬ。
木を切る者、縄を撚る者、材を運ぶ者、川筋を知る者、夜に口の軽くない者。そういう者だ。人足というには少しばかり利口で、武士というには少々腹の据わりきらぬ手合いを、あちこちから拾ってくる。拾って、口を利き、銭を握らせ、時に脅し、時に酒を飲ませる。
信長様のため、などと正面切って言えば、むしろ身構える者もおる。だが、ちょっとした儲け話のように見せ、明日の暮らしに困らぬ程度の銭と、いざとなれば織田が後ろにおるという匂いだけを嗅がせると、人は案外動く。
藤吉郎はそれを知っていた。
知っておるのが、いよいよ猿じみておるのだが、今さら仕方がない。
丹羽長秀が、その途中で一度だけ口を出した。
「浮かれてるな」
藤吉郎は積み上げかけの材木に腰をかけたまま、そちらを見やった。
「何がでございます」
「顔がそう申しておる」
「墨俣へ砦を立てるなど、聞くだに馬鹿らしい話でございますからな。笑うしかありませぬ」
「笑いながら、人も木も縄もよう集める」
「集まるものは集めておいたほうがよろしいでしょう」
長秀はそこで、少しだけ口の端を上げた。
「通すなぁ」
「何を」
「人も、荷も、言葉も」
藤吉郎は一瞬、言葉に詰まった。
詰まったのが癪で、すぐに肩をすくめる。
「丹羽殿ほど綺麗ではございませぬよ」
「綺麗である必要はなかろ」
長秀はそう言って、川のほうへ目をやった。
「崩れず通れば、それで十分」
そういう言い方をされると、妙に腹へ残る。
褒められたのか、仕事を増やされたのか、少し判じづらい。
藤吉郎は曖昧に鼻を鳴らした。
夜に動く。
それが結局いちばんよかった。
昼に木を運べば見つかる。
大人数を一気に動かせば、噂が先に立つ。
ならば小分けにする。人も木も縄も、昼のうちはただの商いか、ただの普請の下拵えにしか見えぬようにしておく。運ぶのは夜だ。夜の川へ小舟を浮かべ、浅瀬と深みを地元の者へ踏ませ、湿った地に板を渡し、音を殺し、怒鳴らず、急がず、だが休まず進める。
こうしていると、砦を作っているというより、何か大きな悪戯をしている気分になってくる。
大人が寄ってたかって、夜の川へ材木を流し、見つからぬように息を潜めているのだから、馬鹿馬鹿しいといえばひどく馬鹿馬鹿しい。
その馬鹿馬鹿しさが、藤吉郎には少しばかり楽しかった。
若い兵が一人、足を滑らせかけた。
藤吉郎はその首根っこを引っつかみ、小声でどやしつける。
「阿呆、そこで音を立ててどうする」
「も、申し訳」
「謝るより先に板を押さえぬか」
兵は真っ青な顔で頷き、板へ飛びついた。
藤吉郎は内心で笑った。
こういう時、人は兵でなくなる。ただの人になる。寒い、怖い、落ちたくない、見つかりたくない。そういう裸の感情へ戻る。藤吉郎はそれが少し好きだった。腹が減り、足が痛く、怒鳴られ、明日を思う。そのくらいのところへ戻った人間は、案外扱いやすい。
だから夜はよい。
夜は人をむき出しにする。
砦の形が立ち始めたのは、東の空がまだ白まぬうちだった。
形といっても、城ではない。
大層なものではない。
だが「そこに織田の足がある」と言うには十分な見え方をしていた。
これが朝になれば、敵はきっと顔をしかめるだろう。昨日までなかったものが、今朝は立っている。実際には昨日の前からずっと準備しておったくせに、人は目に見えぬ苦労より、目の前にいきなり現れた結果へ驚く。
それでよい。
驚いてくれれば、それでよい。
藤吉郎は出来かけの囲いへ手を当て、ひとつ息を吐いた。
冷たい木の感触が掌へ残る。
これで前へ出られる。
そう思った瞬間、妙に腹がすいた。
墨俣のことは、あとになって人が大きく言うようになった。
一夜にして砦が立っただの、猿が魔法のように城を生やしただの、そういう話は、勝ったあとにはいくらでも膨らむ。人は準備や段取りや地味な苦労より、「昨日までなかったのに今朝はあった」という話のほうが好きだ。
藤吉郎はその手の話を聞くたび、少しだけ苦い顔になる。
一夜で立つものか。
立つわけがない。
ただ、そう見えるように通しただけだ。
だが信長は、そのあたりを一言も細かく問わなんだ。
墨俣のあと、藤吉郎が呼ばれて前へ出た時も、信長は出来上がった砦の見た目を褒めるでも、一夜城の奇談を面白がるでもなく、ただ一度見て、それから言った。
「よし」
それだけだった。
藤吉郎は一瞬、拍子抜けした。
もっとこう、驚くなり、笑うなり、何かあるかと思うたのだ。こちらとて夜通し働いたのである。少しくらい「ようやった」と言われても罰は当たらぬ。
だが信長は続けて言った。
「これで前へ出られる」
藤吉郎はそこで、少しだけ気分を直した。
そうか。
この人には最初からそこしか要らぬのだ。
砦そのものが面白いのではない。
奇策が鮮やかなのでもない。
ただ、それで前へ出られるなら、それでよい。
猿がどれほど大げさな小細工をしたところで、信長にとっては結局そこへ尽きる。だがその尽き方が、藤吉郎には妙にうれしかった。
信長はさらに言った。
「猿らしいの」
口元が、わずかに笑っている。
藤吉郎はそこで、ようやく少し機嫌が良くなった。
「褒めておられますか」
「褒めておる」
「ほんに」
「ほんにじゃ」
そう言って信長はもう次の話を始めていた。
ここからどう前へ出るか、どこを噛ませるか、誰をどこへ通すか。砦の話はもう終わっている。出来たから終わりではない。出来たから始まる。信長の頭の中では、最初からそういう順でしか並んでおらぬ。
藤吉郎はその横で、少しだけ笑った。
大げさな小細工。
だがそれでよし。
その言い方は、案外嫌いではなかった。
墨俣で得たのは、伝説などではない。
冷たい木の感触と、夜の川の湿り気と、腹の減り方だ。
それでも、それだけで十分だった。
正面から槍を振るうのでなくとも、前へ出るための足場は作れる。
信長が噛みつく前に、猿がこじ開ける道もある。
藤吉郎はもう一度だけ、出来かけの砦を思い出した。
朝になれば、敵はきっと嫌な顔をする。
その顔を想像すると、少し腹の虫がよくなった。
悪くない。
そう思った。