呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
昼の攻めでは、城は落ちなかった。
箕作城は山の尾根へ食らいつくように築かれていた。土塁と柵が折れ重なり、曲輪はいやらしく屈曲している。兵を押し上げれば、上から石と槍が飛ぶ。揺さぶれば崩れそうで、崩れぬ。人が守る城としては、実によく出来ていた。
秀吉は土塁の陰からそれを見上げ、鼻で笑った。
「固いのう。じゃが、人の城じゃ」
呪いの気配は薄い。
淀んだ死臭も、兵の疲れも、土地に染みた怨みもあるにはある。だが、比叡山のような大物の澱ではない。あくまで人が守り、人が怯え、人が崩れる城だ。
ならばやりようはある。
人は夜に弱い。
火と、見えぬものにもっと弱い。
墨俣の時に覚えた。
昼に押して崩れぬなら、夜に気をずらして崩せばよい。
そういう「らしい」発想へ、秀吉はもう迷いなく行けるようになっていた。
日が沈む。
山の輪郭が黒く溶け、城の篝火だけがぽつぽつと浮かぶ。昼の攻めを諦めたように織田勢は静まり返った。守兵も、ひとまず息をついたろう。
そこを叩く。
「門が開けば、一気に雪崩れ込め」
後ろへ小さく言い残し、秀吉は闇へ溶けた。
隠蔽の術は、まだ粗い。
気配を消すというより、夜の木立へ自分を馴染ませるだけだ。
だが今夜はそれで十分だった。
秀吉は城壁へ取りついた。
腹へ息を落とし、猿を降ろした。
脚が軽い。
夜の斜面が、急な山肌ではなくただの木の幹に見える。
指先が壁の凹凸を勝手に探す。
猿降ろしの軽さで壁を駆ける。
足をかけ、指をかけ、縄の節と土壁のわずかな窪みを拾っていく。
人なら見逃すような足場が、いまははっきり見える。
一息で飛び越える。
内側へ音もなく着地した。
番兵がひとり、異変に気づいて振り返る。
だが声が出るより早く、秀吉は棒を握り直していた。
刀ではない。
槍でもない。
もうすっかり扱い慣れた、軽く、向きのない棒だ。
夜と山と取り回しの良さに丹羽の術理で呪力を通せばそれだけで十分役に立つ。
顎を打つ。
喉を払う。
踏み込んだ膝を横から打つ。
呪力を存分に通し、この戦から3日の付き合いになったその辺の棒は肉も筋も首も刃物のように断てる凶器と成り果てた。
猿降ろし、隠蔽、棒術。
今まで盗んで食らってきた理を存分に使う。
それだけで戦況をひっくり返せるようにいつの間にかなってきた。
「……まるで猿じゃな」
自嘲がひとつ漏れる。
だが悪い気はしなかった。
そのまま門の裏へ走る。
閂は太い。
秀吉は肩を入れ、猿降ろしの力で捻る。軋む音がして一本抜ける。さらにもう一本。最後の大閂が抜けた瞬間、秀吉は低く叫んだ。
「――今じゃ!」
門が開く。
待ち構えていた織田勢が一気に流れ込んだ。
同時に別働の兵が松明を投げ込み、乾いた木と藁へ火が移る。
城内の闇が、一気に人の恐怖へ変わった。
「敵襲!」
「中におるぞ!」
「どこから入った!?」
悲鳴と怒号。
火に照らされる影。
どこに敵が何人いるのか、守兵にはもうわからない。
秀吉はその混乱の中を駆けた。
斬っては消え、別の曲輪に現れる。
火をつけては離脱し、また別の柵の裏から姿を見せる。
実際には一人で動いているだけなのに、守兵には何倍もの敵が潜り込んだように映る。
昼に固かった守りが、夜には脆い。
その脆さを見つけて、突き、広げる。
それが自分のやり方なのだと、秀吉ははっきり手応えを掴んでいた。
柴田のように押し潰すでもない。
信長のように圧倒するでもない。
だが人の恐怖を読むなら、自分の策はきちんと効く。
箕作城は、その夜のうちに崩れた。
そして箕作が落ちれば、観音寺はもう持たぬ。
六角が支えとしていた前の手が折れた以上、あとは山上の本城に籠って威を張っても意味が薄い。信長勢は勢いのまま南近江を呑み、観音寺城もまた、正面からの大仕掛けを待たずして捨てられた。
道が、開いた。
京へ至る道だ。
その途上で、秀吉は拾った石を指で弾きながらぼやいた。
「六角という名のくせに、立てる旗は四角で、そのうえ使う術は五行、いかにも陰陽でございという顔をしておる。六なのか四なのか五なのか、はっきりせい」
石つぶてに穿たれた小さな呪いが、ぱんと霧散する。
戦はもう抜けた。
上洛の流れは止まらぬ。
止まらぬが、秀吉の頭の中ではまださきほど見た術理がくるくると回っていた。
薄い。
全体としては、やはり薄い。
陰陽だの五行だのと理屈だけは立派だが、戦国で振るうには妙に線が細い。術師としての胆が弱いのか、家そのものの迷いが術へ滲んでいるのか。秀吉にはそこまで深くはわからぬ。ただ、噛んだ時の手応えが軽いのだ。
だが、捨てるほどではない。
「木行、あれはよい」
秀吉は腰の棒へ目を落とした。
一見すれば、ただの棒切れだ。
刀でもなければ槍でもない。見栄えだけなら雑兵がそこらで拾った木枝と変わらぬ。だが、だからよい。軽い。向きがない。持ち替えが利く。払える。回せる。
木の理を乗せれば、伸びる、しなる、増す。
その入口だけは、六角から盗めそうだった。
だが、今夜の勝ちは楽すぎた。
一歩先までは届かない。
ならばせめて、種だけは盗っておく。
そういう浅ましさで、秀吉はここまで来た。
京はもう近い。
術の本場。
種など、いくらでも転がっておろう。
そう思った瞬間、秀吉はひどく嫌な顔になった。
京の気配が、もう鼻につくのだ。
寺社、貴族、古い家、古い理、古いしがらみ。
上は偉そうで、下には下で小さな呪いが無数に溜まっている。人の怨みも、家のしがらみも、救われなんだ願いも、みな細かく砕けて路地へ澱んでいる。
秀吉はまた石を弾いた。
屋根の陰から覗いていた蠅ほどの呪いが潰れる。
「やっぱり京はいけ好かぬ」
ぼそりと漏れた本音に、後ろの兵が少しだけ苦笑した。
そんな折だった。
信長が、京の偉い人間に会うらしい。
近衛。
そう聞いて、秀吉の耳がぴくりと動いた。
京都の中枢。
古い理のど真ん中。
術の本場のさらに奥。
これは猿学の匂いがする。
「信長様、わしもついて行ってよろしいですかな」
無理を言った自覚はある。
周囲が一瞬止まった。
だが秀吉は引かぬ。こういう時に引いては、盗めるものも盗めぬ。
信長は一瞬だけ面倒そうに秀吉を見たが、やがて鼻で笑った。
「好きにせい」
それだけで許された。
通された先は、いかにも京らしい場所だった。
整いすぎていて気味が悪い。
香も、畳も、調度も、人の気配すら計算されているようで、秀吉は入っただけで少し肩がこわばった。
そこにいた男は、なおさら気味が悪かった。
烏帽子の角度。
笑みの深さ。
声音の柔らかさ。
どれを取っても、いかにも“偉い人”らしい。
だが、その奥にあるものが見えぬ。
見えぬどころか、掴みどころすらない。
秀吉は駄目元でその男を盗もうとした。
術理か、気配か、あるいは癖でもよい。
だが手応えがない。
空を掴むようだった。
気に食わぬ。
しかももっと気に食わぬのは、信長がこの男に対してさほど機嫌を損ねておらぬことだ。
むしろ、少し面白がってすらいる。
やはり京は嫌いじゃ、と秀吉は心底思った。
場を辞したあとも、腹の中にざらつきが残った。
「ううむ……せっかく中枢まで来たのに、何も盗めなんだ」
丹羽へそうこぼすと、長秀は呆れ半分の顔をした。
「お前さん、そういうところだけはほんとに浅ましいな」
「褒め言葉として受け取っておきまする」
秀吉が胸を張ると、長秀は肩をすくめた。
「良い人がいるじゃないか」
「……ほう?」
「京で理が通じる男だ」
その言い方で、秀吉はすぐに察した。
通された先で待っていたのは、やはりその男だった。
明智光秀。
久方ぶりに見る顔は、相変わらず平坦で、怜悧で、感情の起伏をあまり表に出さぬ。京の人間らしい整い方をしているくせに、近衛ほどの気に食わなさはない。
理で立っている男だ、と秀吉は思う。
光秀は秀吉を見た。
まず視線が腰へ落ちた。
棒。
一見すれば安っぽい木の棒切れだ。
戦場にいくらでも転がっていそうな、ただの木材にしか見えぬ。
だが光秀の目は、そこで一拍止まった。
秀吉はその一瞬でわかった。
この男は見えている。
ただの棒に見えて、秀吉自身の理と棒の理が、まるで細工物のように噛み合い始めていることを、どこか理解しているようだった。
前言撤回、気味のよい男ではない。
だが、話は通じる。
光秀は視線を戻し、静かに言った。
「ずいぶん様になられた」
秀吉は一瞬だけ目を瞬いた。
その一言に、棒のことも、立ち姿も、戦国の術師としてここまで積み上げてきたものも、全部まとめて見られた気がした。
この男はこういうところで嘘をつかぬ。
術式と違って。
「上から目線じゃの」
秀吉は口を尖らせた。
光秀は薄く笑ったようにも見えた。
「事実を申し上げただけです」
理の男らしい返しだった。
それが少し癪で、少しだけ嬉しい。
京はやはり気に食わぬ。
気に食わない人間ばかりだ。
だが、この男は別だ。
理で話が通じる。
それだけで、京の空気がほんの少しだけ軽く感じられた。