呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1568 御所

 

 京の褒美というのは、木下藤吉郎にはどうにも勝手がわからぬ。

 

 金ならよい。

 米ならもっとよい。

 刀でも槍でも、まだ使い道が見える。

 

 だが上洛して早々、京の公家筋から功を労うといって手ずから渡されたものは、指先にちょこんと乗るほどの小さな木片だった。

 

 藤吉郎はしばらくそれを見た。

 

「……ちっさ」

 

 思わず口から漏れた。

 

 周囲の空気が一瞬だけ固まる。

 京の人間がぎこちなく目を逸らし、丹羽長秀が額に手を当てた。少し離れたところにいた明智光秀だけが、袖口へ手を入れたまま面白そうにこちらを見ている。

 

 香木、とやららしい。

 

 ありがたいものなのだろう。

 それはわかる。

 周りの顔を見ればわかる。

 

 だが、わかることと納得することは別だった。

 

 藤吉郎は香木を摘み、横から見、裏返し、また表へ戻した。

 

 どう見ても小さい。

 

 これなら干し芋のほうがまだ腹の足しになる。いや、干し芋でなくともよい。せめて団子くらいの大きさはほしい。

 

「木下殿」

 

 丹羽が横から嫌な予感を隠しきれぬ声で言った。

 

「何ですかな」

「何を考えている」

「別に」

「嘘をつけ」

 

 藤吉郎は答えず、香木を光へ透かした。

 

 木である。

 

 木なら呪力は通る。

 しかもただの木ではないらしい。高価で、由緒があり、人の手を長く渡ってきたものだという。ならば意味が乗っている。意味が乗っているなら、呪いも通りやすいはずだ。

 

 そこまで考えた瞬間、藤吉郎は何の断りもなく、おもむろに香木へ呪力を流し込んだ。

 

「おい」

 

 丹羽が言った。

 

「おいおいおい!」

 

 今度は本気で腕が伸びた。

 だが藤吉郎のほうが半歩早い。

 

 呪力はすでに香木へ入り始めていた。

 

 空気が、すうと変わる。

 

 棒や竹へ通す時とは違う。

 もっと密で、もっと粘る。

 長いこと人の手と場を経てきたもの特有の、しつこい通り方だった。

 

「ほう」

 

 藤吉郎は少し目を見開いた。

 

「木下殿!」

 

 丹羽がとうとう腕を掴んだ。

「何をしている!」

 

「何をって、ちょっと通りを見ていただけで」

「見ていただけで済むか!」

 

 京の人間はもう青い顔をしている。

 光秀だけが、やや呆れたような、少し感心したような目で香木を見ていた。

 

 藤吉郎は掴まれた手も気にせず、香木を持ち上げる。

 

「いや、でも通りますぞ」

「通るだろうな!」

「ならよいではありませぬか」

「よくない!」

 

 藤吉郎は心底不思議そうに首を傾げた。

 

「だって、これ、何でそんなに高いのです」

 

 丹羽が一瞬言葉に詰まる。

 その横で明智が静かに口を開いた。

 

「希少であること。香りがよいこと。由緒があること。そうしたものに価値があるのです」

 

 藤吉郎は即座に返した。

 

「由緒があるなら、呪いも通るではありませんか」

 

 光秀の目が一瞬だけ細まった。

 

 藤吉郎は構わず続ける。

 

「木である。由緒がある。人の手も意味も乗っておる。なら、使いようもありましょう。何も、ただ焚いて終わりにせずとも――」

「お前は本当に」

 

 丹羽が深く息を吐いた。

「ものを知らないにも程があるぞ」

 

 藤吉郎はむっとする。

 

「香りで腹は膨れませぬ」

 

 その場にいた何人かが、さすがに耐えきれず吹き出した。

 光秀の口元も、袖の向こうで少しだけ揺れた。

 

「大体、もらえる香木はこーんなちっぽけなものだ」

 

 藤吉郎は指で大きさを示した。

 

「これでは棒にもならぬ。叩いても頼りない。投げても軽い。焚けば煙です。腹も膨れぬ」

「全部戦場基準で見るな」

 

 丹羽のツッコミは即座だった。

 

 だが光秀はそこで、香木へ残る呪力の揺れを見ていた。

 

「……武器には向きません」

「でしょうな」

「ですが、場を整えるには向くでしょう」

 

 藤吉郎が首を傾げる。

 

「場?」

「香は人の気を寄せも散らしもします。結界の内側で空気を均すこともできる。祈祷や座敷で重んじられるのは、風雅だけではありません」

 

 丹羽が横で小さく頷いた。

 

「戦場でも、陣の空気を整えるには使えるかもしれんな」

 

 藤吉郎の目が少しだけ光った。

 

「ほう」

 

 しばらく考えたあと、真顔で言う。

 

「敵陣の風下で焚いて、気を散らすのは?」

「やめなさい」

 

 丹羽が即答した。

 

「腹が減っておる時に、よい匂いだけ漂わせれば――」

「やめなさい」

 

 光秀がついに袖で口元を隠した。

 笑っている。

 

「京の文化を何だと思っているのです」

「使えるもの」

 

 藤吉郎は即答した。

 

 その時、廊下の向こうから小姓が走ってきた。

 

「木下様、丹羽様、明智様」

 

 膝をつき、息を整える。

 

「上様がお呼びにございます」

 

 藤吉郎は眉をひそめた。

 

「わしらを、まとめてか」

「は」

「何じゃ、叱られるのか」

「お前はその可能性をまず考えるのだな」

 

 丹羽が呆れたように言う。

 

「人の香木へ呪力を通した直後ゆえ」

「人の、ではない」

「さっきまで人の手からいただいたものだったろうが」

 

 藤吉郎は香木をひょいと懐へしまった。

 

「何で持っていく」

「せっかくいただいたのです。使い道を考えます」

「考えるな」

「考えます」

 

 光秀がまた少しだけ笑った。

 

「信長様の前でそれを申すなよ、木下殿」

「信長様は、使えるならだいたい許す」

「そういうところが猿ですな」

「嫌味か」

「事実です」

 

 返しが癪に障る。

 だが少しだけおかしかった。

 

 藤吉郎は鼻を鳴らし、そのまま二人のあとへついて廊下を進んだ。

 

 通されたのは、御所近くに設けられた小さな座敷だった。

 広くはない。だが閉じている、という感じでもない。壁も柱も新しすぎず古すぎず、どこか「人を通すための場所」という匂いがした。戦の評定のような殺気は薄い。その代わり、余計な気配も薄い。

 

 藤吉郎は敷居をまたぐ前に、少しだけ眉を寄せた。

 

 静かすぎる。

 

 京都の屋敷には静かなところもある。

 だがこれは、ただ音が少ない静けさではない。ざらつきが薄いのだ。外の通りを歩けば、路地の隅や井戸の湿りに小さな呪いが虫のようにちらつく。人が多く、思惑が多く、腹の底の濁りも多い都では、それが当たり前だった。

 

 なのにここは違った。

 

 濁りが入っておらぬ。

 いや、入ってはいるのだろうが、敷居のところで一度ほどけている。

 

「何じゃ、ここ」

 

 思わず呟くと、丹羽が小さく返す。

 

「気づくか」

「気づくわ。気持ちが悪い」

「褒め言葉として取っておきましょう」

 

 知らぬ声がした。

 

 座敷の奥に、一人の男がいた。

 

 細い。

 細いが、弱そうではない。痩せているのではなく、削いだのだろうと思わせる細さだった。骨と所作だけで立っているような男である。衣は地味で、目立つものは何ひとつ身につけておらぬ。そのくせ、一歩そこへ座っているだけで、座敷の空気が崩れぬ。

 

 藤吉郎は、なんとなく身構えた。

 

 武の気配ではない。

 光秀のようにこちらの認識を外す感じとも少し違う。

 もっと静かだ。

 水を張った鉢の表面みたいに、何かがぴたりと収まっている。

 

「千殿だ」

 

 上座から信長が言った。

 

 いつの間に入っていたのか、というような顔でそこに座っている。あの人は時折、本当に最初からそこにいたみたいな顔をする。

 

「茶を見ておる」

 

 それだけだった。

 

 何の説明にもなっておらぬ。

 

 藤吉郎は少しだけ口を尖らせたが、丹羽が先に頭を下げた。

 光秀もそれに続く。

 仕方なく藤吉郎も膝を折った。

 

 千、と呼ばれた男は静かに会釈した。

 

「お初に」

 

 声も細い。

 細いが、遠くまで通る。

 耳元で囁いているわけでもないのに、妙に近く聞こえた。

 

「木下藤吉郎にございます」

「存じております」

「ようない方で?」

「目立つ方ですので」

 

 それだけで、何となく腹が立った。

 腹は立ったが、嫌味の熱が薄い。事実をそのまま置かれたような言い方だった。

 

 信長が、藤吉郎の懐を顎でしゃくる。

 

「持ってきたか」

「は」

「出せ」

 

 出せと言われ、藤吉郎は香木を取り出した。

 

 信長はそれを一瞥し、千のほうへ投げてよこした。

 半ば放るような手つきだったが、千は慌てもせず受け取る。受け取って、ほんの少しだけ指先へ載せた。

 

 その動きが妙に腹立たしかった。

 軽いのだ。

 大事なものを大事に扱うというより、そこにあるのが当たり前みたいに持つ。

 

「人の褒美を勝手に使う」

 

 藤吉郎がぼそりと言うと、丹羽が肘で小さく小突いた。

 だが信長は気にしない。

 

「権威も格式も、ただ箱へしまっておけば腐る」

 

 信長はそう言った。

 

「使ってこそよ」

 

 それだけで黙る。

 

 足りない。

 言葉が足りない。

 何に使うのか、何を覚えろというのか、二段も三段も省いている。

 

 藤吉郎が少し考え込んでいると、光秀が横から静かに補った。

 

「京では、会うこと自体が術になるのです」

「会うことが?」

「誰と、どこで、どう座り、何を出し、何を焚くか。そういうものが相手の気を縛り、こちらの理を通します」

「面倒くさいのう」

「面倒くさいから、効くのです」

 

 千がそこで初めて口を開いた。

 

「人は、刀の前でばかり膝を折るわけではありませぬ」

 

 藤吉郎はそちらを見た。

 

 やはり静かな男だった。

 言葉に熱がない。

 だが、薄いわけでもない。

 小さな火を深い炉へ入れたみたいな声だった。

 

「場が先に人を決めることもございます」

「ほう」

 

 藤吉郎は少し身を乗り出した。

 

「では、ここで会えば、横槍も入りにくいと」

「入りにくくいたします」

「どうやって」

 

 千は少しだけ首を傾げた。

 

「人を通す前に、場を通します」

 

 やはりよくわからぬ。

 

 だが座敷の空気が崩れぬことだけは、藤吉郎にもわかった。信長がいる。明智がいる。丹羽がいる。自分もいる。癖のある者ばかりなのに、場がやけに滑らかだった。誰かが怒鳴ればすぐにでも緊張の糸が跳ねそうなのに、その跳ねが起きぬ。まるで目に見えぬ手が四隅を軽く押さえているようだった。

 

「結界か」

 

 藤吉郎が言うと、千の目がわずかにこちらへ向いた。

 

「ええ。大仰なものではありませぬ」

「大仰でなければ結界ではない、ということもあるまい」

 

 光秀が言う。

 

「術師の大技ばかりが術ではない。むしろ、こういう細い結界のほうが日常ではよく使われます」

 

 信長が、そこでようやく藤吉郎を見た。

 

「覚えておけ」

「何をにございます」

「座敷も戦場だ」

「最初からそう申してくだされ」

 

 藤吉郎は思わず言った。

 丹羽が横で小さく笑う。

 光秀も袖の内で口元を隠した。

 

 信長は、ほんの少しだけ口の端を上げた。

 

「猿に長々申しても散る」

「散りませぬよ、必要なことなら」

「今のようにまず香木へ呪力を通す阿呆がか」

「通るかどうかは見ておかねばならぬでしょう」

「見た。もうよい」

 

 そう言うと、信長は千へ顎を向けた。

 千は静かに頷き、香木を炉のほうへ寄せる。

 

 細い煙が立つ。

 

 ふわり、と香りが広がった。

 

 強い匂いではない。

 鼻へどんと来るものではなく、もっと薄い。だが薄いくせに、部屋の中の輪郭が少しだけ整う気がした。さっきまで木の匂い、畳の匂い、衣の匂いとばらばらだったものが、一つの座敷の匂いへまとまる。

 

 藤吉郎は、そこでふと腹の底を意識した。

 

 いつもある。

 いつでもある。

 あのざらついた空腹。

 呪力の種にもなっている、腹の底の、どうにも埋まらぬところ。

 

 それが、少しだけ遠い。

 

 消えたわけではない。

 だが、薄い。

 

 藤吉郎はまばたきをした。

 

「……何をした」

「何も」

 

 千は答えた。

 

「少し、座を整えただけにございます」

「人の腹まで整うものか」

「腹は整えておりませぬ」

 

 静かな声だった。

 

「腹のまわりが、少し静かになっただけでしょう」

 

 藤吉郎は言い返しかけて、やめた。

 その通りだったからである。

 

 横を見る。

 

 信長がいた。

 

 相変わらず信長ではある。

 大きい。熱い。焦げついた何かが内側に詰まっている。

 だが、いつもより少しだけ、その熱が座敷へ収まって見えた。炉の火と喧嘩していない。いつもならあの人のそばだけ空気が一段きついのに、いまは同じ部屋のものとして収まっている。

 

 珍しい。

 

 信長が、静かだった。

 

 恐ろしくもあった。

 同時に、妙だった。

 

 こういうことができる人間がいるのか、と藤吉郎は思った。

 斬るでもなく、脅すでもなく、隠すでもなく、押すでもなく、ただ場を整えて、人の熱を一度ほどく。

 そんな術の使い手がいるとは思っておらなんだ。

 

 千は香を見ている。

 信長の前でも変わらぬ。

 光秀のような嫌味もなく、丹羽のような笑いもなく、ただ静かで、妙に自己主張が薄い。

 そのくせ、誰よりも座敷の芯へ触っている。

 

「怖くはないのですか」

 

 思わず、藤吉郎は口にしていた。

 

 千がこちらを見た。

 

「何がにございます」

「信長様の前で、そのように何も変えぬことが」

 

 千は少しだけ考えるように目を伏せた。

 

「変えておりますよ」

「どこを」

「崩れぬように」

 

 それだけ言って、また香へ手を戻す。

 

 藤吉郎は口を噤んだ。

 わからぬ。

 わからぬが、何となく腹へ残る。

 

 この男は、戦の理で勝つ者ではない。

 だが、こういう者が都にはいる。

 都が都であり続けるための、別の術師だ。

 

 しばらくして、信長が立った。

 

「よい」

 

 短く言う。

 

「覚えたか、猿」

「半分ほどは」

「十分だ」

「十分ではありませぬ。あと二段くらい足りぬ」

「足りぬぶんは勝手に繋げろ」

 

 いつもの無茶振りだった。

 

 藤吉郎は内心で舌打ちした。

 だが、その時にはもう、さっきの香木の小ささはあまり腹立たしくなくなっていた。

 

 小さい。

 腹は膨れぬ。

 棒にもならぬ。

 

 だが、無駄ではないらしい。

 

 座敷を出る。

 途端、都のざらつきが戻った。

 外の湿り、小呪いの気配、人の欲、路地裏の濁り。そういうものがまた肌へまとわりつく。

 

 腹の底の飢えも、ざらりと戻る。

 

 藤吉郎は思わず振り返った。

 

 障子の向こうはもう見えぬ。

 だが、さっき確かにあった静けさだけは、まだ胸の奥へ薄く残っている。

 

 千利休。

 

 まだ名もよく腹へ落ちてはいない。

 茶の何たるかもわからぬ。

 あの静けさが、何をどこまで救えるものなのかも知らぬ。

 

 ただ一つだけ、藤吉郎にはわかった。

 

 都には、刀を抜かずに場を制する術師がおる。

 

 そして信長は、それを見ておけと言うた。

 

 ならばいつか、使い道はあるのだろう。

 

 藤吉郎は懐の上から、香木を軽く叩いた。

 

「……棒にはならぬがな」

 

 丹羽がすぐ横でため息をつく。

 

「まだ言うか」

「大事なことゆえ」

「」お前の場合、その大事がだいたい間違っておる」

 

 光秀がその横で、珍しくはっきり笑った。

 

「いえ、間違ってばかりでもありますまい」

「明智殿まで甘やかさぬでいただきたい」

「甘やかしてはおりませぬ。ただ」

 

 光秀はそう言って、藤吉郎の懐をちらりと見た。

 

「木下殿は、役に立つか立たぬかで一度すべてを見る。都のものは、その見方をされることに慣れておらぬ」

「嫌味じゃろ」

「半分は」

「半分は何じゃ」

「褒めております」

 

 藤吉郎は鼻を鳴らした。

 

 京はやはり気に食わぬ。

 町は荒れ、術師は性格が悪く、褒美は小さい。

 

 だが、こういう面倒くさい理屈の積み重ねが、いつか何かに化ける気配だけは、少しわかり始めていた。

 

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