呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
京の褒美というのは、木下藤吉郎にはどうにも勝手がわからぬ。
金ならよい。
米ならもっとよい。
刀でも槍でも、まだ使い道が見える。
だが上洛して早々、京の公家筋から功を労うといって手ずから渡されたものは、指先にちょこんと乗るほどの小さな木片だった。
藤吉郎はしばらくそれを見た。
「……ちっさ」
思わず口から漏れた。
周囲の空気が一瞬だけ固まる。
京の人間がぎこちなく目を逸らし、丹羽長秀が額に手を当てた。少し離れたところにいた明智光秀だけが、袖口へ手を入れたまま面白そうにこちらを見ている。
香木、とやららしい。
ありがたいものなのだろう。
それはわかる。
周りの顔を見ればわかる。
だが、わかることと納得することは別だった。
藤吉郎は香木を摘み、横から見、裏返し、また表へ戻した。
どう見ても小さい。
これなら干し芋のほうがまだ腹の足しになる。いや、干し芋でなくともよい。せめて団子くらいの大きさはほしい。
「木下殿」
丹羽が横から嫌な予感を隠しきれぬ声で言った。
「何ですかな」
「何を考えている」
「別に」
「嘘をつけ」
藤吉郎は答えず、香木を光へ透かした。
木である。
木なら呪力は通る。
しかもただの木ではないらしい。高価で、由緒があり、人の手を長く渡ってきたものだという。ならば意味が乗っている。意味が乗っているなら、呪いも通りやすいはずだ。
そこまで考えた瞬間、藤吉郎は何の断りもなく、おもむろに香木へ呪力を流し込んだ。
「おい」
丹羽が言った。
「おいおいおい!」
今度は本気で腕が伸びた。
だが藤吉郎のほうが半歩早い。
呪力はすでに香木へ入り始めていた。
空気が、すうと変わる。
棒や竹へ通す時とは違う。
もっと密で、もっと粘る。
長いこと人の手と場を経てきたもの特有の、しつこい通り方だった。
「ほう」
藤吉郎は少し目を見開いた。
「木下殿!」
丹羽がとうとう腕を掴んだ。
「何をしている!」
「何をって、ちょっと通りを見ていただけで」
「見ていただけで済むか!」
京の人間はもう青い顔をしている。
光秀だけが、やや呆れたような、少し感心したような目で香木を見ていた。
藤吉郎は掴まれた手も気にせず、香木を持ち上げる。
「いや、でも通りますぞ」
「通るだろうな!」
「ならよいではありませぬか」
「よくない!」
藤吉郎は心底不思議そうに首を傾げた。
「だって、これ、何でそんなに高いのです」
丹羽が一瞬言葉に詰まる。
その横で明智が静かに口を開いた。
「希少であること。香りがよいこと。由緒があること。そうしたものに価値があるのです」
藤吉郎は即座に返した。
「由緒があるなら、呪いも通るではありませんか」
光秀の目が一瞬だけ細まった。
藤吉郎は構わず続ける。
「木である。由緒がある。人の手も意味も乗っておる。なら、使いようもありましょう。何も、ただ焚いて終わりにせずとも――」
「お前は本当に」
丹羽が深く息を吐いた。
「ものを知らないにも程があるぞ」
藤吉郎はむっとする。
「香りで腹は膨れませぬ」
その場にいた何人かが、さすがに耐えきれず吹き出した。
光秀の口元も、袖の向こうで少しだけ揺れた。
「大体、もらえる香木はこーんなちっぽけなものだ」
藤吉郎は指で大きさを示した。
「これでは棒にもならぬ。叩いても頼りない。投げても軽い。焚けば煙です。腹も膨れぬ」
「全部戦場基準で見るな」
丹羽のツッコミは即座だった。
だが光秀はそこで、香木へ残る呪力の揺れを見ていた。
「……武器には向きません」
「でしょうな」
「ですが、場を整えるには向くでしょう」
藤吉郎が首を傾げる。
「場?」
「香は人の気を寄せも散らしもします。結界の内側で空気を均すこともできる。祈祷や座敷で重んじられるのは、風雅だけではありません」
丹羽が横で小さく頷いた。
「戦場でも、陣の空気を整えるには使えるかもしれんな」
藤吉郎の目が少しだけ光った。
「ほう」
しばらく考えたあと、真顔で言う。
「敵陣の風下で焚いて、気を散らすのは?」
「やめなさい」
丹羽が即答した。
「腹が減っておる時に、よい匂いだけ漂わせれば――」
「やめなさい」
光秀がついに袖で口元を隠した。
笑っている。
「京の文化を何だと思っているのです」
「使えるもの」
藤吉郎は即答した。
その時、廊下の向こうから小姓が走ってきた。
「木下様、丹羽様、明智様」
膝をつき、息を整える。
「上様がお呼びにございます」
藤吉郎は眉をひそめた。
「わしらを、まとめてか」
「は」
「何じゃ、叱られるのか」
「お前はその可能性をまず考えるのだな」
丹羽が呆れたように言う。
「人の香木へ呪力を通した直後ゆえ」
「人の、ではない」
「さっきまで人の手からいただいたものだったろうが」
藤吉郎は香木をひょいと懐へしまった。
「何で持っていく」
「せっかくいただいたのです。使い道を考えます」
「考えるな」
「考えます」
光秀がまた少しだけ笑った。
「信長様の前でそれを申すなよ、木下殿」
「信長様は、使えるならだいたい許す」
「そういうところが猿ですな」
「嫌味か」
「事実です」
返しが癪に障る。
だが少しだけおかしかった。
藤吉郎は鼻を鳴らし、そのまま二人のあとへついて廊下を進んだ。
通されたのは、御所近くに設けられた小さな座敷だった。
広くはない。だが閉じている、という感じでもない。壁も柱も新しすぎず古すぎず、どこか「人を通すための場所」という匂いがした。戦の評定のような殺気は薄い。その代わり、余計な気配も薄い。
藤吉郎は敷居をまたぐ前に、少しだけ眉を寄せた。
静かすぎる。
京都の屋敷には静かなところもある。
だがこれは、ただ音が少ない静けさではない。ざらつきが薄いのだ。外の通りを歩けば、路地の隅や井戸の湿りに小さな呪いが虫のようにちらつく。人が多く、思惑が多く、腹の底の濁りも多い都では、それが当たり前だった。
なのにここは違った。
濁りが入っておらぬ。
いや、入ってはいるのだろうが、敷居のところで一度ほどけている。
「何じゃ、ここ」
思わず呟くと、丹羽が小さく返す。
「気づくか」
「気づくわ。気持ちが悪い」
「褒め言葉として取っておきましょう」
知らぬ声がした。
座敷の奥に、一人の男がいた。
細い。
細いが、弱そうではない。痩せているのではなく、削いだのだろうと思わせる細さだった。骨と所作だけで立っているような男である。衣は地味で、目立つものは何ひとつ身につけておらぬ。そのくせ、一歩そこへ座っているだけで、座敷の空気が崩れぬ。
藤吉郎は、なんとなく身構えた。
武の気配ではない。
光秀のようにこちらの認識を外す感じとも少し違う。
もっと静かだ。
水を張った鉢の表面みたいに、何かがぴたりと収まっている。
「千殿だ」
上座から信長が言った。
いつの間に入っていたのか、というような顔でそこに座っている。あの人は時折、本当に最初からそこにいたみたいな顔をする。
「茶を見ておる」
それだけだった。
何の説明にもなっておらぬ。
藤吉郎は少しだけ口を尖らせたが、丹羽が先に頭を下げた。
光秀もそれに続く。
仕方なく藤吉郎も膝を折った。
千、と呼ばれた男は静かに会釈した。
「お初に」
声も細い。
細いが、遠くまで通る。
耳元で囁いているわけでもないのに、妙に近く聞こえた。
「木下藤吉郎にございます」
「存じております」
「ようない方で?」
「目立つ方ですので」
それだけで、何となく腹が立った。
腹は立ったが、嫌味の熱が薄い。事実をそのまま置かれたような言い方だった。
信長が、藤吉郎の懐を顎でしゃくる。
「持ってきたか」
「は」
「出せ」
出せと言われ、藤吉郎は香木を取り出した。
信長はそれを一瞥し、千のほうへ投げてよこした。
半ば放るような手つきだったが、千は慌てもせず受け取る。受け取って、ほんの少しだけ指先へ載せた。
その動きが妙に腹立たしかった。
軽いのだ。
大事なものを大事に扱うというより、そこにあるのが当たり前みたいに持つ。
「人の褒美を勝手に使う」
藤吉郎がぼそりと言うと、丹羽が肘で小さく小突いた。
だが信長は気にしない。
「権威も格式も、ただ箱へしまっておけば腐る」
信長はそう言った。
「使ってこそよ」
それだけで黙る。
足りない。
言葉が足りない。
何に使うのか、何を覚えろというのか、二段も三段も省いている。
藤吉郎が少し考え込んでいると、光秀が横から静かに補った。
「京では、会うこと自体が術になるのです」
「会うことが?」
「誰と、どこで、どう座り、何を出し、何を焚くか。そういうものが相手の気を縛り、こちらの理を通します」
「面倒くさいのう」
「面倒くさいから、効くのです」
千がそこで初めて口を開いた。
「人は、刀の前でばかり膝を折るわけではありませぬ」
藤吉郎はそちらを見た。
やはり静かな男だった。
言葉に熱がない。
だが、薄いわけでもない。
小さな火を深い炉へ入れたみたいな声だった。
「場が先に人を決めることもございます」
「ほう」
藤吉郎は少し身を乗り出した。
「では、ここで会えば、横槍も入りにくいと」
「入りにくくいたします」
「どうやって」
千は少しだけ首を傾げた。
「人を通す前に、場を通します」
やはりよくわからぬ。
だが座敷の空気が崩れぬことだけは、藤吉郎にもわかった。信長がいる。明智がいる。丹羽がいる。自分もいる。癖のある者ばかりなのに、場がやけに滑らかだった。誰かが怒鳴ればすぐにでも緊張の糸が跳ねそうなのに、その跳ねが起きぬ。まるで目に見えぬ手が四隅を軽く押さえているようだった。
「結界か」
藤吉郎が言うと、千の目がわずかにこちらへ向いた。
「ええ。大仰なものではありませぬ」
「大仰でなければ結界ではない、ということもあるまい」
光秀が言う。
「術師の大技ばかりが術ではない。むしろ、こういう細い結界のほうが日常ではよく使われます」
信長が、そこでようやく藤吉郎を見た。
「覚えておけ」
「何をにございます」
「座敷も戦場だ」
「最初からそう申してくだされ」
藤吉郎は思わず言った。
丹羽が横で小さく笑う。
光秀も袖の内で口元を隠した。
信長は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「猿に長々申しても散る」
「散りませぬよ、必要なことなら」
「今のようにまず香木へ呪力を通す阿呆がか」
「通るかどうかは見ておかねばならぬでしょう」
「見た。もうよい」
そう言うと、信長は千へ顎を向けた。
千は静かに頷き、香木を炉のほうへ寄せる。
細い煙が立つ。
ふわり、と香りが広がった。
強い匂いではない。
鼻へどんと来るものではなく、もっと薄い。だが薄いくせに、部屋の中の輪郭が少しだけ整う気がした。さっきまで木の匂い、畳の匂い、衣の匂いとばらばらだったものが、一つの座敷の匂いへまとまる。
藤吉郎は、そこでふと腹の底を意識した。
いつもある。
いつでもある。
あのざらついた空腹。
呪力の種にもなっている、腹の底の、どうにも埋まらぬところ。
それが、少しだけ遠い。
消えたわけではない。
だが、薄い。
藤吉郎はまばたきをした。
「……何をした」
「何も」
千は答えた。
「少し、座を整えただけにございます」
「人の腹まで整うものか」
「腹は整えておりませぬ」
静かな声だった。
「腹のまわりが、少し静かになっただけでしょう」
藤吉郎は言い返しかけて、やめた。
その通りだったからである。
横を見る。
信長がいた。
相変わらず信長ではある。
大きい。熱い。焦げついた何かが内側に詰まっている。
だが、いつもより少しだけ、その熱が座敷へ収まって見えた。炉の火と喧嘩していない。いつもならあの人のそばだけ空気が一段きついのに、いまは同じ部屋のものとして収まっている。
珍しい。
信長が、静かだった。
恐ろしくもあった。
同時に、妙だった。
こういうことができる人間がいるのか、と藤吉郎は思った。
斬るでもなく、脅すでもなく、隠すでもなく、押すでもなく、ただ場を整えて、人の熱を一度ほどく。
そんな術の使い手がいるとは思っておらなんだ。
千は香を見ている。
信長の前でも変わらぬ。
光秀のような嫌味もなく、丹羽のような笑いもなく、ただ静かで、妙に自己主張が薄い。
そのくせ、誰よりも座敷の芯へ触っている。
「怖くはないのですか」
思わず、藤吉郎は口にしていた。
千がこちらを見た。
「何がにございます」
「信長様の前で、そのように何も変えぬことが」
千は少しだけ考えるように目を伏せた。
「変えておりますよ」
「どこを」
「崩れぬように」
それだけ言って、また香へ手を戻す。
藤吉郎は口を噤んだ。
わからぬ。
わからぬが、何となく腹へ残る。
この男は、戦の理で勝つ者ではない。
だが、こういう者が都にはいる。
都が都であり続けるための、別の術師だ。
しばらくして、信長が立った。
「よい」
短く言う。
「覚えたか、猿」
「半分ほどは」
「十分だ」
「十分ではありませぬ。あと二段くらい足りぬ」
「足りぬぶんは勝手に繋げろ」
いつもの無茶振りだった。
藤吉郎は内心で舌打ちした。
だが、その時にはもう、さっきの香木の小ささはあまり腹立たしくなくなっていた。
小さい。
腹は膨れぬ。
棒にもならぬ。
だが、無駄ではないらしい。
座敷を出る。
途端、都のざらつきが戻った。
外の湿り、小呪いの気配、人の欲、路地裏の濁り。そういうものがまた肌へまとわりつく。
腹の底の飢えも、ざらりと戻る。
藤吉郎は思わず振り返った。
障子の向こうはもう見えぬ。
だが、さっき確かにあった静けさだけは、まだ胸の奥へ薄く残っている。
千利休。
まだ名もよく腹へ落ちてはいない。
茶の何たるかもわからぬ。
あの静けさが、何をどこまで救えるものなのかも知らぬ。
ただ一つだけ、藤吉郎にはわかった。
都には、刀を抜かずに場を制する術師がおる。
そして信長は、それを見ておけと言うた。
ならばいつか、使い道はあるのだろう。
藤吉郎は懐の上から、香木を軽く叩いた。
「……棒にはならぬがな」
丹羽がすぐ横でため息をつく。
「まだ言うか」
「大事なことゆえ」
「」お前の場合、その大事がだいたい間違っておる」
光秀がその横で、珍しくはっきり笑った。
「いえ、間違ってばかりでもありますまい」
「明智殿まで甘やかさぬでいただきたい」
「甘やかしてはおりませぬ。ただ」
光秀はそう言って、藤吉郎の懐をちらりと見た。
「木下殿は、役に立つか立たぬかで一度すべてを見る。都のものは、その見方をされることに慣れておらぬ」
「嫌味じゃろ」
「半分は」
「半分は何じゃ」
「褒めております」
藤吉郎は鼻を鳴らした。
京はやはり気に食わぬ。
町は荒れ、術師は性格が悪く、褒美は小さい。
だが、こういう面倒くさい理屈の積み重ねが、いつか何かに化ける気配だけは、少しわかり始めていた。