呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1570 金ヶ崎の退き口:序

 報せは、息を切らしたまま届いた。

 

 浅井、離反。

 朝倉と呼応。

 退路、細る。

 

 言葉にすればそれだけだった。

 だが、その三つだけで十分だった。

 

 陣中の空気が変わる。

 風向きが変わるのと同じだった。ついさっきまでこちらのものだったはずの戦場が、足元から他人のものへ塗り替わっていく気配。

 木下藤吉郎は、喉の奥がひやりと冷えるのを覚えた。

 

 裏切りそのものに驚いたのではない。

 戦国なのだ。裏切りなどある。

 だが、こう来るかと思った。

 しかも悪いことに、ただの離反ではない。もう半ば挟まれている。逃げ道はある。あるが、誰でも通れる太い道ではない。躊躇えば閉じる。

 この一瞬で、戦は勝ち負けの話ではなくなった。

 

 生きて抜ける話になった。

 

 それを理解したのは、藤吉郎だけではない。

 だが信長の理解は、その一歩先にあった。

 

「儂が残る」

 

 あまりにも早かった。

 

 急報が届き、ざわめきが広がり、誰もが「どうする」と思った、その前に、信長はもう決めていた。

 声に迷いがない。

 むしろ当然の理を口にしているだけの顔だった。

 

「殿は儂が務める。主力は返せ」

 

 その場にいた者の何人かが、一瞬言葉を失った。

 柴田勝家は黙っていた。丹羽長秀も、目を伏せただけで否定はしない。

 つまりその案は、妥当だった。

 

 妥当なのだ。

 そこが何より藤吉郎を苦しめた。

 

 信長が最後尾に残れば、敵は必ずそちらへ引かれる。

 あの人がいるだけで戦場は歪む。殺したい、討ち取りたい、あるいは近づきたくない、その全部が信長へ向く。ならば主力の道は空く。

 しかもあの人は、ただの囮では終わらぬ。

 場合によっては、そのまま追ってきた敵ごとひっくり返してしまえる。

 妥当だ。

 殿としても、戦術としても、筋が通ってしまっている。

 

 それが、嫌だった。

 

 信長が死地に残るという話を、理で納得したくなかった。

 妥当だと認めたくなかった。

 けれど認めぬわけにはいかぬほど、あの人は強く、あの人の判断は正しかった。

 

 藤吉郎は唇を噛んだ。

 

 この人は、そういう時いつもそうだ。

 自分がいちばん危ない場所に立つことを、危険だとも思っていない。

 桶狭間でもそうだった。

 尾張を掌握した時の戦でもそうだった。

 前へ出るべき時、誰より早く前へ出る。

 それがこの人の強さであり、怖さであり、格であることも、もう知っている。

 

 だが、それでも。

 

 ここでその背に回られたら困るのだ、と藤吉郎は思った。

 

 あんたは前にいてくれ。

 前にいて、皆の目を引いて、皆の気を引き裂いて、そのまま生き延びてくれ。

 わしはまだ、あんたの背を見失いたくない。

 

 気づけば、口が先に動いていた。

 

「お待ちくだされ」

 

 声が出た瞬間、陣中が一拍だけ止まった。

 

 藤吉郎は、自分でも少し驚いた。

 いままでなら、信長の決断に食らいついていく側だった。

 止めることはあっても、それは小言か愚痴か、その程度だった。

 だが今のは違う。

 あきらかに、決まった方針へ口を挟んだ。

 

 信長が、ゆっくりとこちらを見た。

 

 怒ってはいない。

 だが、見ている。

 値踏みするような目だった。

 

「何だ、木下」

 

 短い問いだった。

 だが、ここでしどろもどろになれば終わりだと藤吉郎にはわかった。

 喉が渇く。

 それでも、頭のほうは妙に冷えていた。

 

「殿は、ただ強い者がやる役ではございませぬ」

 

 口にしてから、自分で自分の声が意外なくらい落ち着いているのに気づいた。

 

「ほう」

 

「敵を惑わせ、足を鈍らせ、こちらの数も本命も読ませず、追わせぬことが肝にございます。桶狭間の折のように、見えたと思えば消え、消えたと思えば別におる。そういう足止めなら、わしのほうが向いております」

 

 言いながら、腹の奥では別の声が喚いていた。

 お前は何を言うておる。

 あの信長へ向かって、役目を説くのか。

 だがもう止まらなかった。

 

「信長様が殿に回られれば、敵は“殿を討てる”と思うて一斉に殺到いたしましょう。あの方を討てるなら、多少の損を出してもよいと考える者はいくらでもおります」

 

 その通りだった。

 だから怖い。

 だから嫌だった。

 

 言葉の裏側では、別のことを言っていた。

 あんたをそこへ置きたくない。

 あんたを狩りの的にしたくない。

 そういう私情が、理屈の中へべっとりと混ざっていた。

 

「それでは、殿の務めが“惑わせること”ではなく、“信長様を狩ること”へ変わってしまいまする」

 

 藤吉郎は一歩だけ前へ出た。

 

「故に」

 

 そこまで言って、一瞬だけ胸が詰まった。

 初めてだった。

 信長へ向かって、こういう提案をするのは。

 だがもう戻れない。

 

「殿は、わしが務めまする」

 

 言った。

 

 ついに言ってしまった、と思った。

 陣中が静まり返る。

 柴田が目を細める。丹羽は黙ったまま、だが視線は逸らさない。

 信長だけが、まるで次の一手を待つように藤吉郎を見ていた。

 

「信長様は先陣を切って包囲を突破してくだされ」

 

 そこで藤吉郎は、ようやく本心に近いものを口にした。

 

「前へお進みくだされ。あんたが前におれば、皆ついて参りまする。皆の足も、気も、死なずに抜けるほうへ揃いましょう。あんたは派手すぎる。後ろに置くには、惜しい」

 

 惜しい、ではない。

 置きたくない。

 生き延びてほしい。

 だが、そこまで言えば、それはもう理ではなくなる。

 だから言わない。

 言わぬかわりに、理だけを整える。

 

「後ろで敵の目を引きつけ、足を乱し、追撃の勢いを鈍らせる。そういう小賢しい役目なら、わしが向いております。あんたのような大物は、前で道を割ってくだされ」

 

 自分で言っておきながら、どこか可笑しかった。

 ずっとあの背を追いかけてきた猿が、いまさら「前へ行け」と言っている。

 だが、そうするしかなかった。

 

 信長は、しばらく何も言わなかった。

 

 見ていた。

 じっと、藤吉郎を見ていた。

 その目には、怒りも、呆れも、少しもなかった。

 ただ、量っている。

 お前はそこまで来たのか、とでも言うように。

 

「できるのか」

 

 静かな声だった。

 

 藤吉郎は、そこで一息吸った。

 やります、では足りぬと思った。

 願いでも決意でもなく、もっと冷たい言い方をしたかった。

 

「できまする」

 

 そして、ほんの一拍置いて続けた。

 

「いえ――その役は、わしに向いております」

 

 自分でも、少しだけ震えた。

 言ってしまった。

 信長へ向かって、自分の役目をそう言い切った。

 だが、嘘ではなかった。

 

 その時、横から静かな声がした。

 

「ならば、私も残ります」

 

 光秀だった。

 

 藤吉郎はそちらを見た。

 光秀はいつもの通り、静かな顔をしている。だが、その目だけはまっすぐだった。

 

「隠し、惑わせ、位置を誤らせるのであれば、本家もおったほうがよろしいでしょう」

 

 少しだけ嫌味に聞こえぬでもない。

 だが、いまはありがたかった。

 

 光秀は理を見ていた。

 秀吉の理屈が通っていることを理解して、それに自分を乗せると言っている。

 この場だけは、三人の視線が奇妙に噛み合った気がした。

 

 信長はそこで、ようやく口元を歪めた。

 

 笑ったのだ、と藤吉郎は思った。

 ほんの少しだけ。

 だが、機嫌が悪い時の笑いではない。

 

「よい」

 

 それだけだった。

 

 その一言で、役目が決まる。

 

 信長は、前を向いた。

 もう包囲突破の先へ目が行っている。

 いつも通りだ。

 そう思うと、急に胸の奥が空いた。

 

 これで、本当にあの背から離れるのだ。

 

 怖い、と思った。

 正直にそう思った。

 いままでどれほど焼かれようと、結局はあの背の近くにいた。怒鳴られ、走らされ、置いていかれそうになりながらも、追う先があった。

 だが今度は違う。

 自分が後ろへ残る。

 追ってくる敵を受ける。

 あの背を、自分から前へ送り出す。

 

 寂しさに似たものが、ほんの一瞬だけ腹の底を掠めた。

 だが同時に、腹の別のところでは妙な熱もあった。

 

 ここで引き受けられるなら、自分はただの猿ではない。

 信長の後ろにいるだけの者ではない。

 この人の進路を、後ろから作る者になれる。

 

 柴田が、低く鼻を鳴らした。

 

「生意気になったな、木下」

 

 その声には、呆れと、ほんの少しの愉快さが混じっていた。

 

「ありがたいことにございます」

 

 藤吉郎がそう返すと、丹羽長秀がやれやれという顔で肩をすくめた。

 

「その生意気さで持たせろよ」

 

「持たせてみせまする」

 

 もう、言うしかなかった。

 言ってしまった以上、やるしかない。

 

 信長は振り返らない。

 その背が前へ出る。

 主力が、それに続く。

 いままでなら、自分もそこへ混じっていた。

 

 だが今回は違う。

 

 藤吉郎は、逆へ向き直った。

 迫ってくるであろう敵へ向く。

 隣には、光秀がいる。

 自分の手には、まだ完成しきらぬ猿学がある。

 だがそれで足りる。足りるようにする。

 

 山と山のあいだを抜ける風が、一度だけ陣を撫でた。

 その向こうで、信長の背が遠ざかっていく。

 追いかけたくなる。

 だが、追わない。

 

 木下藤吉郎は、その時初めて、信長の後ろを走ることをやめた。

 

 そして初めて、自分が将になるのだと知った。

 

 

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