呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
報せは、息を切らしたまま届いた。
浅井、離反。
朝倉と呼応。
退路、細る。
言葉にすればそれだけだった。
だが、その三つだけで十分だった。
陣中の空気が変わる。
風向きが変わるのと同じだった。ついさっきまでこちらのものだったはずの戦場が、足元から他人のものへ塗り替わっていく気配。
木下藤吉郎は、喉の奥がひやりと冷えるのを覚えた。
裏切りそのものに驚いたのではない。
戦国なのだ。裏切りなどある。
だが、こう来るかと思った。
しかも悪いことに、ただの離反ではない。もう半ば挟まれている。逃げ道はある。あるが、誰でも通れる太い道ではない。躊躇えば閉じる。
この一瞬で、戦は勝ち負けの話ではなくなった。
生きて抜ける話になった。
それを理解したのは、藤吉郎だけではない。
だが信長の理解は、その一歩先にあった。
「儂が残る」
あまりにも早かった。
急報が届き、ざわめきが広がり、誰もが「どうする」と思った、その前に、信長はもう決めていた。
声に迷いがない。
むしろ当然の理を口にしているだけの顔だった。
「殿は儂が務める。主力は返せ」
その場にいた者の何人かが、一瞬言葉を失った。
柴田勝家は黙っていた。丹羽長秀も、目を伏せただけで否定はしない。
つまりその案は、妥当だった。
妥当なのだ。
そこが何より藤吉郎を苦しめた。
信長が最後尾に残れば、敵は必ずそちらへ引かれる。
あの人がいるだけで戦場は歪む。殺したい、討ち取りたい、あるいは近づきたくない、その全部が信長へ向く。ならば主力の道は空く。
しかもあの人は、ただの囮では終わらぬ。
場合によっては、そのまま追ってきた敵ごとひっくり返してしまえる。
妥当だ。
殿としても、戦術としても、筋が通ってしまっている。
それが、嫌だった。
信長が死地に残るという話を、理で納得したくなかった。
妥当だと認めたくなかった。
けれど認めぬわけにはいかぬほど、あの人は強く、あの人の判断は正しかった。
藤吉郎は唇を噛んだ。
この人は、そういう時いつもそうだ。
自分がいちばん危ない場所に立つことを、危険だとも思っていない。
桶狭間でもそうだった。
尾張を掌握した時の戦でもそうだった。
前へ出るべき時、誰より早く前へ出る。
それがこの人の強さであり、怖さであり、格であることも、もう知っている。
だが、それでも。
ここでその背に回られたら困るのだ、と藤吉郎は思った。
あんたは前にいてくれ。
前にいて、皆の目を引いて、皆の気を引き裂いて、そのまま生き延びてくれ。
わしはまだ、あんたの背を見失いたくない。
気づけば、口が先に動いていた。
「お待ちくだされ」
声が出た瞬間、陣中が一拍だけ止まった。
藤吉郎は、自分でも少し驚いた。
いままでなら、信長の決断に食らいついていく側だった。
止めることはあっても、それは小言か愚痴か、その程度だった。
だが今のは違う。
あきらかに、決まった方針へ口を挟んだ。
信長が、ゆっくりとこちらを見た。
怒ってはいない。
だが、見ている。
値踏みするような目だった。
「何だ、木下」
短い問いだった。
だが、ここでしどろもどろになれば終わりだと藤吉郎にはわかった。
喉が渇く。
それでも、頭のほうは妙に冷えていた。
「殿は、ただ強い者がやる役ではございませぬ」
口にしてから、自分で自分の声が意外なくらい落ち着いているのに気づいた。
「ほう」
「敵を惑わせ、足を鈍らせ、こちらの数も本命も読ませず、追わせぬことが肝にございます。桶狭間の折のように、見えたと思えば消え、消えたと思えば別におる。そういう足止めなら、わしのほうが向いております」
言いながら、腹の奥では別の声が喚いていた。
お前は何を言うておる。
あの信長へ向かって、役目を説くのか。
だがもう止まらなかった。
「信長様が殿に回られれば、敵は“殿を討てる”と思うて一斉に殺到いたしましょう。あの方を討てるなら、多少の損を出してもよいと考える者はいくらでもおります」
その通りだった。
だから怖い。
だから嫌だった。
言葉の裏側では、別のことを言っていた。
あんたをそこへ置きたくない。
あんたを狩りの的にしたくない。
そういう私情が、理屈の中へべっとりと混ざっていた。
「それでは、殿の務めが“惑わせること”ではなく、“信長様を狩ること”へ変わってしまいまする」
藤吉郎は一歩だけ前へ出た。
「故に」
そこまで言って、一瞬だけ胸が詰まった。
初めてだった。
信長へ向かって、こういう提案をするのは。
だがもう戻れない。
「殿は、わしが務めまする」
言った。
ついに言ってしまった、と思った。
陣中が静まり返る。
柴田が目を細める。丹羽は黙ったまま、だが視線は逸らさない。
信長だけが、まるで次の一手を待つように藤吉郎を見ていた。
「信長様は先陣を切って包囲を突破してくだされ」
そこで藤吉郎は、ようやく本心に近いものを口にした。
「前へお進みくだされ。あんたが前におれば、皆ついて参りまする。皆の足も、気も、死なずに抜けるほうへ揃いましょう。あんたは派手すぎる。後ろに置くには、惜しい」
惜しい、ではない。
置きたくない。
生き延びてほしい。
だが、そこまで言えば、それはもう理ではなくなる。
だから言わない。
言わぬかわりに、理だけを整える。
「後ろで敵の目を引きつけ、足を乱し、追撃の勢いを鈍らせる。そういう小賢しい役目なら、わしが向いております。あんたのような大物は、前で道を割ってくだされ」
自分で言っておきながら、どこか可笑しかった。
ずっとあの背を追いかけてきた猿が、いまさら「前へ行け」と言っている。
だが、そうするしかなかった。
信長は、しばらく何も言わなかった。
見ていた。
じっと、藤吉郎を見ていた。
その目には、怒りも、呆れも、少しもなかった。
ただ、量っている。
お前はそこまで来たのか、とでも言うように。
「できるのか」
静かな声だった。
藤吉郎は、そこで一息吸った。
やります、では足りぬと思った。
願いでも決意でもなく、もっと冷たい言い方をしたかった。
「できまする」
そして、ほんの一拍置いて続けた。
「いえ――その役は、わしに向いております」
自分でも、少しだけ震えた。
言ってしまった。
信長へ向かって、自分の役目をそう言い切った。
だが、嘘ではなかった。
その時、横から静かな声がした。
「ならば、私も残ります」
光秀だった。
藤吉郎はそちらを見た。
光秀はいつもの通り、静かな顔をしている。だが、その目だけはまっすぐだった。
「隠し、惑わせ、位置を誤らせるのであれば、本家もおったほうがよろしいでしょう」
少しだけ嫌味に聞こえぬでもない。
だが、いまはありがたかった。
光秀は理を見ていた。
秀吉の理屈が通っていることを理解して、それに自分を乗せると言っている。
この場だけは、三人の視線が奇妙に噛み合った気がした。
信長はそこで、ようやく口元を歪めた。
笑ったのだ、と藤吉郎は思った。
ほんの少しだけ。
だが、機嫌が悪い時の笑いではない。
「よい」
それだけだった。
その一言で、役目が決まる。
信長は、前を向いた。
もう包囲突破の先へ目が行っている。
いつも通りだ。
そう思うと、急に胸の奥が空いた。
これで、本当にあの背から離れるのだ。
怖い、と思った。
正直にそう思った。
いままでどれほど焼かれようと、結局はあの背の近くにいた。怒鳴られ、走らされ、置いていかれそうになりながらも、追う先があった。
だが今度は違う。
自分が後ろへ残る。
追ってくる敵を受ける。
あの背を、自分から前へ送り出す。
寂しさに似たものが、ほんの一瞬だけ腹の底を掠めた。
だが同時に、腹の別のところでは妙な熱もあった。
ここで引き受けられるなら、自分はただの猿ではない。
信長の後ろにいるだけの者ではない。
この人の進路を、後ろから作る者になれる。
柴田が、低く鼻を鳴らした。
「生意気になったな、木下」
その声には、呆れと、ほんの少しの愉快さが混じっていた。
「ありがたいことにございます」
藤吉郎がそう返すと、丹羽長秀がやれやれという顔で肩をすくめた。
「その生意気さで持たせろよ」
「持たせてみせまする」
もう、言うしかなかった。
言ってしまった以上、やるしかない。
信長は振り返らない。
その背が前へ出る。
主力が、それに続く。
いままでなら、自分もそこへ混じっていた。
だが今回は違う。
藤吉郎は、逆へ向き直った。
迫ってくるであろう敵へ向く。
隣には、光秀がいる。
自分の手には、まだ完成しきらぬ猿学がある。
だがそれで足りる。足りるようにする。
山と山のあいだを抜ける風が、一度だけ陣を撫でた。
その向こうで、信長の背が遠ざかっていく。
追いかけたくなる。
だが、追わない。
木下藤吉郎は、その時初めて、信長の後ろを走ることをやめた。
そして初めて、自分が将になるのだと知った。