呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1570 金ヶ崎の退き口:戦

 信長の背を見送った時、藤吉郎は一度だけ、腹の底がからっぽになるような気がした。

 

 言うたのは自分だ。

 殿はわしがやる。

 信長様は前へ。包囲の薄いところを踏み抜いてくだされ。

 そう言うた。言うて、通した。

 

 通したくせに、いざ本当に信長が本隊を率いて先へ行ってしまうと、胸のどこかへ妙な風が通る。いつもなら前にある背が、もう見えぬ。見えぬところで勝手に前へ出ていく。信長とは、そういう人だと頭ではわかっておる。わかっておるが、今日はその背が見えぬまま、自分だけが後ろへ残る。

 

 嫌な話だった。

 

「行きましたな」

 

 横で明智光秀が言った。

 

 藤吉郎は鼻の奥で短く息を鳴らした。

 

「行きますとも。あのお方じゃ」

 

「止めておいて、その言い草ですか」

 

「止めたのではないわ。向くところへ置いただけじゃ」

 

 言ってから、藤吉郎は少しだけ唇を曲げた。

 口で言うぶんには、その通りである。だが、口で言うほど気楽でもなかった。

 

 背を預かる。

 織田信長の背を。

 

 まこと、嫌な役目だ。

 

 そこから始まった退き口は、一夜では済まなんだ。

 

 金ヶ崎のあたりは、地の利というものがあまり親切に働かぬ。道は細く、湿り、山は近く、敵は軽い。追う側にとっては良い地だ。殿の役目というのは、ただ死なぬことではない。敵を鈍らせ、急がせず、ここで一気に押し切れば届く、という気分を何度も削って、ようやく務まる。

 

 藤吉郎はそのことを、よく知っていた。

 

 知っておるからこそ、信長を後ろへ置くのが嫌だったのだ。

 

 信長が殿に残れば、敵はそちらへ殺到する。

 殺到してくれれば、信長は何人でも焼くだろう。

 だが、それでは敵も味方も、みな信長の熱に吸われる。

 後ろが一つの大戦場になり、前へ抜けるための時間が死ぬ。

 

 藤吉郎の戦は、そういう戦ではない。

 派手に焼き切るのでなく、鈍らせる。

 引きつけて、消え、噛み、また消える。

 敵に「背に猿がおる」と思わせ、夜を急げなくする。

 それが殿軍前衛の仕事だった。

 

 そして、後ろには光秀がいた。

 

 光秀は後衛で線を整える役だった。

 軍をまとめる。

 下げるべきところは下げ、残すべき気配だけを残す。

 敵に「ここにおる」と思わせる位置と、実際におる位置を少しずつずらす。

 退く軍というのは、実際より崩れて見えるともう終わりだ。光秀はそこを許さぬ。

 

 そのうえで、鉄砲である。

 

 明智の旗下には、妙に火縄の扱いのよい者が多かった。

 鉄砲そのものは珍しくない。信長様のもとにおれば、もはや異国の珍器という顔はしておらぬ。だが光秀の鉄砲は嫌だった。弾が強いとか、数が揃っているとか、そういう嫌さではない。

 

 どこから撃つかが、わからぬのだ。

 

 火縄の匂いはする。

 火薬の乾いた気配も、風向きによっては鼻を掠める。

 なのに、そこへ目をやった時にはもう違う。いると思ったところにはおらず、いないはずの脇から土が弾ける。隠蔽で気配を薄くし、位置をずらし、撃つ時だけ穴を開ける。弾へ呪力を薄く乗せれば、人を止めるにはそれで足りる。

 

 理にかなっておる。

 かなっておるが、あまりにかないすぎていて、性格が悪い。

 

 昼は、藤吉郎が前で噛む。

 光秀が後ろで軍の“見え方”を保つ。

 夜は、光秀が線を一段下げて火の利く形へ整え、藤吉郎が少数で外へ出る。

 

 理屈としてはそうだった。

 

 理屈としては、である。

 

 実際には、そんなに綺麗なものでもなかった。

 

 最初の夜、藤吉郎は供回りを少数だけ連れ、道を外れて敵の横腹を回った。

 

 夜目は利く。

 足もまだ軽い。

 猿おろしの気配を薄く腹へ落とせば、岩も木も、平地より少し面倒な足場で済む。藤吉郎はそういう時、自分の身体が人よりずっと夜に馴染んでいるのを感じる。山の湿り気も、木の影も、鼻を突く土の匂いも、どこか肌に近い。

 

 だから夜襲は好きだった。

 

 好き、と言うと語弊がある。

 楽しいのではない。

 ただ、昼の戦場よりは嘘をつきやすい。人は夜に弱い。見えぬものを勝手に怖がる。その怖がりを一押ししてやるだけで、追う足は鈍る。

 

 藤吉郎は敵の後背へ回り込み、木行を通した棒を握り直した。

 

 槍ほど長くない。

 剣ほど短くない。

 この中途半端さがよい。打ってもよし、払ってもよし、突いてもよし。何より山道や夜には取り回しが利く。若い頃から、どうも手に馴染んだ。

 

 見張りの一人へ近づく。

 

 ここで藤吉郎は、いつもどおり一つだけ術理を選ぶ。

 猿おろしなら猿おろし。

 隠蔽なら隠蔽。

 木行なら木行。

 

 まだ、この時の藤吉郎はそういう使い方しかできなんだ。

 

 今夜は隠蔽だ。

 

 気配を薄くし、目の端へ映っても脳に残らぬようにする。真正面から消えるのではない。消えるほどの器用さはまだない。ただ、そこにいても“そこにいた気がせぬ”くらいにはできる。京で光秀に教わった理を、藤吉郎なりに噛んで身につけた使い方だった。

 

 藤吉郎は薄くなった気配のまま間合いへ入り、棒で見張りの顎を打ち抜いた。

 骨の鳴る鈍い音。

 倒れる前にもう一人へ回る。

 次は猿おろし。

 足を軽くし、岩をひとつ跳ね、木の幹を蹴って、頭上から肩口へ棒を落とす。

 

 切り替える。

 切り替えるたび、わずかに身体が軋む。

 だが、それで足りた。

 

 敵の小隊は、夜のあちこちで気配が立つのを嫌がった。

 しかもその夜は、藤吉郎が襲った場所以外でも、妙に「織田方がおる」感じがしたらしい。

 

 後で光秀が平然と言うた。

 

「少しばかり、増やしておきました」

 

「増やした、とは何を」

 

「貴方の気配を」

 

 藤吉郎は眉を寄せた。

 

「ついでに、火の位置も」

 

「……鉄砲か」

 

「ええ。見えてからでは遅い場面がありましたので」

 

 光秀は袖口へ手を入れたまま、いかにも当然のことを申す顔でそう言った。

 この男は、たまにそういう顔をする。理屈が通っているから人も納得するだろうと思っておる顔だ。実際、理屈は通っている。通っているのが腹立たしい。

 

「見えぬところから撃つとは、つくづく嫌な術じゃの」

 

「理にかなっておるでしょう」

 

「かなっておる。かなっておるが、あんまりだ」

 

「戦ですので」

 

「そういう顔で言うな」

 

 光秀はわずかに目を細めた。

 笑ったのかどうか、判じづらい顔だった。

 

「背に猿がおると思えば、人はそう急げませぬ」

 

 藤吉郎が言うと、光秀はわずかに首を傾けた。

 

「ご自分を猿と称して、よくそんなに嬉しそうに」

 

「嬉しいとも。人が夜を怖がるのは、実によい話じゃ」

 

「良い性格をしておいでだ」

 

「褒めておられますな」

 

「いいえ」

 

 そこで藤吉郎は少し笑った。

 笑ってはいたが、身体はもうくたびれていた。

 夜の山を走り、敵を噛み、戻ればまた昼の前線がある。

 若いから務まる戦だな、と藤吉郎はその時まだどこか他人事みたいに思っていた。

 

 翌日の昼は、さらに嫌な戦になった。

 

 藤吉郎軍が前へ出る。

 押し返す。

 だが押し切らぬ。

 押し切ると思わせて半歩だけ退く。

 敵が食いつけば、後ろにおるはずのない織田方の気配が脇で立つ。

 光秀の軍が実際におるところと、敵が“おる”と思うところが少しずつずれている。

 

 釣り野伏、とまではいかぬ。

 だが、その手前の嫌らしさは十分あった。

 

 敵は藤吉郎を前に見ている。

 だから藤吉郎だけ追えばよいと思う。

 追いかける。

 追いかけた先で、火縄の匂いがする。

 乾いた火薬の気配が、風下でもないのに鼻先を掠める。

 と思うた次の瞬間には、弾が土を跳ねる。

 

 後ろかと思えば横で、横かと思えばもうおらぬ。

 光秀の鉄砲は、姿を見て避けるたぐいのものではなかった。そこにおると思うた場所にはおらず、おらぬと思うたところからだけ弾が来る。

 

 藤吉郎はそのたび、顔をしかめた。

 

 刀や槍ならまだよい。

 来る方角と、来る奴の顔くらいはわかる。

 だが鉄砲は違う。

 呪力を込めた弾が一つ飛べば、それで十分に人は死ぬ。

 しかも、誰が撃ったかもようわからぬ。

 

 なんとも、理にかなった嫌な武器だった。

 

 そこへ藤吉郎はまた、木行の棒術で噛みつく。

 

 強い一撃を入れる戦ではない。

 嫌なところへ棒の端を差し込み、足を払う。

 盾の端を叩き、顔を上げたところへ喉を突く。

 人を倒すのでなく、進みたい勢いの筋を切る。

 

 殿軍というのは、そういう戦だった。

 

 ある時、光秀が退いてきた藤吉郎へ言った。

 

「無茶を」

 

 短い一言だった。

 咎めるでもなく、感心するでもなく、ただ“そういう行動をする男だ”と確認するような声音だ。

 

 藤吉郎は肩で息をしながら笑った。

 

「無茶を通さねば務まらぬ戦ですぞ」

 

「存じております」

 

 光秀は淡々と言った。

「だから申したのです」

 

 そういう会話を何度か繰り返した。

 

 昼に釣る。

 夜に噛む。

 また昼に線を引く。

 敵は確かに削れる。

 だがこちらも削れる。

 

 藤吉郎はこの頃、まだ猿おろしも、木行も、隠蔽も、全部を別々に使っていた。

 今夜は猿。

 次は木行。

 ここは隠蔽。

 切り替えれば通る。

 通るが、どうにももどかしい。

 

 たとえば隠れたまま跳ねられたら、もっと早い。

 猿を降ろしたまま木行で打てたら、もっと深く入れる。

 供回りへ薄く猿の脚を通せたら、皆でもう少し走れる。

 そう思うたことは、一度や二度ではない。

 

 だが、できなんだ。

 

 やろうとすると、どこかが鈍る。

 隠れれば脚が死ぬ。

 脚を立てれば棒へ木行が通らぬ。

 いっそ全部まとめて叩き込めたら、と歯噛みするたび、身体が少しずつ軋んだ。

 

 四晩目だったか五晩目だったか、藤吉郎自身ももう覚えておらぬ。

 

 夜は相変わらず湿り、追う敵は相変わらずしつこかった。

 藤吉郎は供回りとともに道を外れ、敵の後背へ入った。

 いつもなら、ここで噛んで消える。

 だが今夜は違った。

 

 名のある将がいた。

 

 顔は知らぬ。

 だが、強さだけでわかった。

 こちらが隠蔽で薄くなろうが、足の置き方ひとつで気配を拾ってくる。

 正面圧が強い。

 木行の棒を受けても、勢いが死なぬ。

 猿おろしで木を蹴って飛んでも、着地の次へ刃が来る。

 

「面倒なのに当たったのう……!」

 

 藤吉郎は悪態をつきながら、斜面を滑るように降りた。

 供回りが一人、二人と削られる。

 隠れる。

 跳ねる。

 打つ。

 全部やる。

 だが全部半歩ずつ足りぬ。

 

 敵将が笑った。

 

 ああ、と思った。

 この手合いは嫌いだ。

 強い者ほど、獲れたと思うと少しだけ笑う。

 その笑いに付き合う気はない。

 

 藤吉郎は隠蔽をかける。

 薄くなる。

 だが薄くなったぶん、脚が死ぬ。

 猿おろしへ切り替える。

 跳べる。

 だが棒へ通した木行が抜ける。

 木行を通す。

 打てる。

 だが見える。

 

 切り替え。

 切り替え。

 切り替え。

 

 足りぬ。

 

 もう一歩。

 もう半歩。

 そこが届かぬ。

 

 敵将の刃が頬を掠め、血が飛んだ。

 藤吉郎はそこで、ほんの一瞬だけ、何も考えなんだ。

 

 考えても足りぬ時がある。

 考えたところで切り替えの順番しか出てこん。

 なら、もう知らぬ。

 

 腹が、妙に近かった。

 

 腹と手が近い。

 腹と脚も、目も、息も、ぜんぶ妙に近い。

 呪力を流すとか、術を切り替えるとか、そういう言葉が一度全部ほどけた。

 見えた、というより、入った感覚だった。

 

 次の瞬間、藤吉郎の棒が黒く弾けた。

 

 音は、やけに近い。

 世界が一枚、皮を剥いだみたいに近くなる。

 

 敵将の脇腹へ入った一撃が、ただの木行ではない深さでめり込む。

 藤吉郎は着地と同時に、初めて気づいた。

 

 猿がおる。

 

 しかも猿を降ろしたまま、棒に木行が通っている。

 隠れても脚が死なん。

 跳ねたまま打てる。

 打ちながら、気配を薄くできる。

 

「……何じゃこれ」

 

 自分で言って、自分で笑った。

 

 笑いが止まらなんだ。

 追い詰められているくせに、腹の底が妙に軽い。

 苦しい。

 痛い。

 だがそれより先に、こりゃあよいわ、という笑いが出る。

 

 敵将が一瞬だけ顔を曇らせた。

 そこへ藤吉郎は、隠れたまま木を蹴り、猿の脚で頭上を取り、木行の棒を肩へ叩き込んだ。

 供回りの一人へ、無意識に薄く猿の気配が通る。そやつの脚も一拍だけ軽くなる。

 もう切り替えておらぬ。

 混ざっている。

 織れている。

 

「こりゃあ、ええ!」

 

 藤吉郎は半ば叫ぶように笑った。

 

 その夜の残りは、戦というより暴れまわったに近い。

 だが無駄ではなかった。

 敵は“さっきまでと同じ藤吉郎”のつもりで追ってくる。

 そこへ違うものが来る。

 見失い、足を取られ、気がつけば棒が入る。

 供回りまで以前より粘る。

 敵はようやく、ああ、夜に猿がおると思えば足が鈍るとはこういうことかと知っただろう。

 

 藤吉郎は明け方近く、息を切らせたまま光秀の陣へ戻った。

 

 光秀はまだ起きていた。

 というより、起きているのか寝ているのか判じづらい顔で、地に敷いた簡素な図の上へ指を置いていた。脇には短筒がひとつ、何でもない顔で転がっている。そういうところがやはり嫌だと、藤吉郎は思った。鉄砲はもっとこう、武器らしく構えて持つものではないのか。こやつにかかると、筆や木簡の隣に置かれても似合ってしまう。

 

 藤吉郎の足音がすると、光秀は視線だけを上げた。

 

「ずいぶんお早いお戻りで」

 

「早いとも」

 

 藤吉郎は肩で息をしながら笑った。

「何なんじゃろうな、これ」

 

「何がです」

 

「全部じゃ。猿も、隠蔽も、木行も、ようわからぬが、さっきから妙に近い」

 

 光秀はしばらく黙って藤吉郎を見た。

 その目が、いつもの“呆れた猿を見る”目から少しだけ変わる。

 興味というほどでもない。

 もっと乾いた、術師が術師を見る目だ。

 

「入られましたか」

 

「何へ」

 

「黒閃です」

 

 藤吉郎は眉を寄せた。

 

「名があるのか、あれ」

 

「あります」

 

 光秀は淡々と言った。

「術師が極まった時、ごく稀にそういうことがあります。呪力の芯が、少し変わる」

 

「ふうん」

 

「ふうん、ではなく」

 

「いや、何じゃ、説明を聞いてもよくわからぬ」

 

「わからずとも結構。使えておるなら、それで」

 

 言い方があまりにあっさりしていて、藤吉郎はかえって笑った。

 

「おぬし、そういう時だけ随分雑じゃの」

 

「藤吉郎殿相手に丁寧に申しても、どうせ半分しか聞いておられぬ」

 

「半分は聞いておる」

 

「上出来です」

 

 光秀はそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「……見違えましたな」

 

 その一言だけが、妙に藤吉郎の腹へ残った。

 

 夜明けまで、まだ少しあった。

 戦は終わっておらぬ。

 殿はまだ務め切っておらぬ。

 だが藤吉郎は、その時すでに、自分の中で何かの使い方が決定的に変わったのを知っていた。

 

 その後の二日ほどを、藤吉郎はほとんど覚えていない。

 

 戦った。

 昼は前で噛み、夜は外へ出た。

 猿を降ろしたまま棒を振り、隠れたまま跳ね、供回りへ薄く脚を通した。

 光秀の偽装がそれを何倍にも見せ、銃手どもの火縄が“まだそこにおる”という嫌な確信だけを敵へ残す。敵の追う足はさらに鈍る。鈍れば、前へ抜ける本隊の時間が稼げる。

 

 信長がどこまで行ったかは見えぬ。

 だが、まだ追手がしつこいということは、あのお方が生きて前へ出ておる証だとも思えた。

 

 それで十分だった。

 

 最後に信長本隊へ追いついた時、藤吉郎の身体はもう棒切れみたいだった。

 足も腕もだるい。

 腹は減っているのに、減りすぎて何も食いたくない。

 若いから持っているだけだと、自分でもよくわかる。

 

 それでも前へ出る。

 前へ出ると、そこに信長がいた。

 

 いつものように立っている。

 いつものように、何も変わらぬ顔をしている。

 あれだけの退き口の果てに、こういう顔をしておるのだから、本当に腹の立つ人だ。

 

 藤吉郎はその前で、ようやく膝をついた。

 光秀が少し後ろへ下がる。

 誰かが何か言ったかもしれぬが、藤吉郎にはもうよく聞こえなんだ。

 

 信長がこちらを見る。

 

「猿」

 

「は」

 

「よう務めた」

 

 それだけだった。

 

 だが、その一言で十分だった。

 

 信長はさらに、藤吉郎を上から下まで一度見て、わずかに笑った。

 

「ようやく織れるようになったか」

 

 藤吉郎は一瞬、顔を上げた。

 

 何を、と聞く前に、信長はもう次へ目を向けている。

 あのお方はそういう人だ。

 こちらが命懸けで覚えたことを、一言で済ませて先へ行く。

 だが、その一言が、妙にうれしかった。

 

 猿は猿なりに噛み、

 大げさな小細工を通し、

 そのうえで、ようやく一段上がった。

 

 藤吉郎は膝をついたまま、少しだけ笑った。

 

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