呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
肉親を攻めるっちゅうのは、しんどいのう、と、秀吉は陣の外れでぽつりと言った。
誰へ聞かせるでもない声音だったが、横にいた弟はきちんと拾った。拾って、少しだけ視線を上げる。
「しんどいですね」
それだけ言って、弟は川向こうへ目をやった。
姉川の朝は白かった。
霧が薄く立ち、湿った地の匂いが鼻につく。
向こう岸には、浅井と朝倉の旗がある。敵だ。金ヶ崎の退き口の記憶も新しい。疲労も空腹も多少癒えはしたものの恨みが空かといえばそんなことは当然ない。だが“敵”と一言で済ませるには、少々線が近い。浅井方にいるお市の方のことまでいちいち思い出しておるわけではない。そこまで湿っぽくはない。ないが、それでもただの他人ではないという感じは残る。
「敵は敵、と割り切れれば楽なのですが」
弟が言った。
「そうも参りませぬ」
「おぬしもそう思うか」
「人並みには」
弟は苦笑のようなものを口元へ浮かべた。
「ですが、しんどいからといって、向こうが手加減してくれるわけでもありませぬ」
「それはそうじゃ」
「兄上は兄上の役をなさればよろしい」
言い方が静かで、まるで事実を一つ置いただけみたいだった。
弟は術師として、そう大きく尖ってはおらぬ。秀吉もそれは知っている。信長や光秀や柴田のように、見ただけで場の空気が変わる手の人間ではない。だが、地に足はついている。熱に寄りすぎず、怖じもせず、腹の底へ冷たい石みたいなものを一つ置ける。その冷たさが、時にひどくありがたい。
「兄上は、顔へ出ますから」
「何がじゃ」
「今のようなことが」
秀吉は鼻を鳴らした。
「難儀な弟じゃの」
「兄上がわかりやすいのです」
それで会話はいったん切れた。
姉川の戦は、秀吉から見ると、少し妙な始まり方をした。
信長がいる。
いるのだが、いつものように最前線の熱そのものになっておらぬ。
もちろん出てはいる。出てはいるし、軍全体の芯はまぎれもなく信長だった。あのお方が立っておるだけで、織田方の息の揃い方が少し違う。恐れも、昂りも、皆どこかで信長の側へ引かれる。そういう意味ではいつも通りだ。
だが、その日ばかりは、珍しく“軍で戦っている”ように見えた。
信長が前へ出て、ひとところをぶち抜いて、首級で終いにするような戦ではない。もっと幅がある。押し、止め、通し、また押す。個の武よりも、線そのものの噛み合わせで勝っている。
「珍しいのう」
秀吉が呟くと、近くにいた丹羽長秀が聞きとがめた。
「何がかな?」
「信長様にしては、今日は随分と“軍”じゃ」
長秀は一拍だけ考える顔をした。
「そう見えるか」
「見えるとも。あのお方が出れば、もっと話は早いじゃろう」
「早ければよいというものでもあるまい」
長秀は静かに言った。
「戦は勝つだけで終わるわけではないからな」
秀吉は、そこで少しだけ眉を寄せた。
なるほど、と思わぬでもない。
勝つだけなら信長は早い。
だが早く勝つことと、よい形で勝つことは違う。
違うのだろう。
そういう理があるのだろう。
秀吉はそこまで考えてから、ふと別のことを思った。
あのお方が前へ出れば、たぶん圧倒して首を取って終わる。
そうなれば、浅井も朝倉も、もう降るもへったくれもない。
ぐしゃりと潰れる。
今日はそれをしておらぬ。
お市の方の顔が頭をよぎったわけではない。
よぎったわけではないが、まるで無関係とも思えなんだ。
信長様にも、出てしまえば終いになる線、というものがあるのかもしれぬ。
そう思った瞬間、秀吉はすぐにその考えを引っ込めた。
考えすぎだ、とも思う。
だが、考えすぎであっても、そう見える時はある。
その代わり、今日の戦では別のものがよく見えた。
丹羽長秀の術だ。
長秀の術は、外から見れば少々地味である。火を吹くでもなく、山を割るでもなく、見た目の華はあまりない。だが戦になると、とたんに嫌なほど効く。気配が通る。声が届く。部隊の息が揃う。押すべきところが押され、下がるべきところが下がる。人も、呪力も、命令も、どこかでぐちゃりと詰まらぬ。
それが軍というものなのだな、と秀吉はその日初めて強く思った。
人が何百、何千とおれば、強い奴が何人おろうが、それだけでは動かぬ。
信長みたいな大きな熱源が一つおれば、それで全部どうにかなると思いがちだが、そんなことはない。熱は通らねば燃えぬ。通らねば、押しが噛み合わぬ。通らねば、勝つ場所で勝てぬ。
「つくづく便利じゃのう……」
秀吉が半ば感心して呟くと、長秀が「何がだ?」とまた聞いてくる。
「何が、ではないわ。長秀殿の術じゃ。軍ちゅうもんを扱うには、あれは実によい」
「便利とは、また」
「便利で何が悪い」
秀吉は笑った。
「戦で便利なのはよいことじゃ。人も気も命令も、よう通る。そりゃ信長様も米五郎左と称するわい」
長秀はそこで少しだけ、困ったような顔をした。
「その呼び方を今するか」
「何じゃ、誉めておるのに」
「誉め方というものがあるな、木綿藤吉よ」
「光栄じゃ、そして本当じゃろう」
長秀は返事をしなかった。しなかったが、否定もせなんだ。
そのことが少しおかしくて、秀吉はまた笑った。
笑いながら、目は戦を見ている。
前線がぶつかる。
織田勢が押す。
押した勢いが、きちんと次の隊へ渡る。
妙な隙がない。
ここが、今までの秀吉にはまだ足りぬところだな、と素直に思う。
秀吉自身も、金ヶ崎のあとから、供回りや自分の隊へ薄く術理を通す感覚は覚えてきていた。猿おろしの脚の軽さを少し渡す。夜襲の気配を分ける。棒の間合いに木行を乗せる。そういうことはできる。
だがそれは、まだ“自分の手札を周りへ渡す”程度だ。
長秀のやっていることは違う。
軍そのものを崩れぬよう通している。
信長の熱が、そこを通って戦の形になっている。
「ほう……」
秀吉は半ば感心し、半ば悔しがりながら、その噛み合いを見ていた。
なるほど。
強いだけでは足らぬ。
軍は、通してなんぼか。
こういうのも盗めるものなら盗みたい、と秀吉は思う。
浅ましいと言えば浅ましい。
だが、秀吉はそういう人間だった。
よいものを見れば欲しがる。
人がうまくやっておるところを見れば、どう噛んで自分のものにするかを考える。
それが褒められるかどうかは、あまり関係がない。
戦の半ば、秀吉も一隊を預かって押し引きを任された。
大将、というほどではない。
だが、もうただの駆け回る猿でもない。
ここを押せ、ここで止めろ、崩すな。そういう役目が回ってくる。
秀吉はそこで初めて、自分の手札を少しだけ“隊”へ使う。
猿おろしを薄く通す。
脚が少しだけ軽くなる。
押しの一拍が揃う。
これだけでも十分だった。
敵の一角が、ほんの少し遅れる。
そこへ秀吉が自分で入る。
木行を乗せた棒で盾の端を叩き、顔が上がったところを前へ出た味方が突く。
秀吉一人が噛み切るのでなく、隊の押しへ自分のいやらしさを混ぜる。
「ほれ、そこじゃ」
誰へ聞かせるでもなくそう言って、秀吉は前へ出た。
この感触も悪くない。
軍全体を扱うにはまだ遠い。
だが、自分一人の戦ではなくなりつつある。
戦はやがて、織田徳川方の優勢へ傾いた。
決着の形そのものより、秀吉にはその過程のほうが強く残った。
信長の熱。
長秀の通し。
自分の隊の運用。
それぞれが違う。
違うものがうまく噛み合うと、戦とはこういうふうに勝つのか。
戦後、秀吉は弟と並んで水を飲んだ。
川の匂いがまだ残っている。
血と泥の匂いも、風の向こうで薄く混ざる。
勝ちは勝ちだ。
だが胸の内は、勝った負けたより別のところに向いていた。
「長秀殿の術、よいのう」
秀吉が言うと、弟は少しだけ笑った。
「兄上はそればかりですね」
「そればかりで何が悪い。軍を扱うにはあれが要るぞ。信長様と長秀殿、あれで一つみたいなものじゃ」
「今日の戦を見て、そこへ目が行きますか」
「行くわ」
秀吉はあっさり言った。
「肉親を攻めるのはしんどい。しんどいが、それはそれとして、盗めるものは盗みたい」
弟はそこで、呆れたように息をついた。
「兄上らしいことで」
「らしいじゃろう」
「そうですね」
弟は水面を見ながら言った。
「ただ、今日はそれだけではありますまい」
秀吉はしばらく黙った。
それはそうだ。
肉親に近い線を軍ですり潰す。
信長が珍しく前へ出すぎず、軍の理を選ぶ。
あのお方なりの、何かがあるのかもしれぬ。
だが秀吉は、それを今はあまり深く考えたくなかった。
考えれば、どこか湿る。
湿るのは性に合わぬ。
だから、結局口をついたのは別の言葉だった。
「それにしても、長秀殿の術は便利じゃのう」
弟はついに声を出して笑った。
「本当に、そればかりですね」
「うむ」
秀吉も笑った。
「じゃが、それでよいのじゃ。わしはそういう男じゃからな」
そう言ってから、秀吉はもう一度だけ戦場のほうを振り返った。
信長が前へ出れば、もっと早く終わったかもしれぬ。
だが今日は、そうではなかった。
軍で押し、軍で潰し、まだどこかへ降る余地を残すような勝ち方だった。
珍しいこともあるものだ、と秀吉は思う。
そしてその珍しさの意味を、いずれもう少しよく知る日が来るのかもしれぬ、とも思った。
その時の秀吉には、まだそこまでの言葉はなかった。
ただ今日は、軍の理というものをひとつ盗めた。
それだけで十分腹は満ちた。
浅ましい、と言われればその通りだった。
だが秀吉は、そうやってここまで来たのである。