呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
延暦寺は当時の織田家にとって最大の障壁の一つであった。浅井・朝倉を匿い、信長包囲網を支えたともされる。
当時の寺社勢力は、秩序の担い手である以上に、強大な武装組織でもあった。
そして長き歴史の中で破戒し、腐敗し、そのすべてが信長の覇業を妨げていた。
ゆえに織田信長は、その悉くを焼き尽くした。
あまりに苛烈なその処置は、信心深き戦国の民に何を見せたか。
第六天魔王・信長の産声が響く
比叡の山は、夜の手前で息を潜めていた。
村人も、女も子も、もう下ろされている。僧の姿もまばらだった。戦になるならもっと人の名残があってよいのに、山の中腹から上は妙に静かで、まるで最初から生きた者が住む場所ではなかったみたいに気配が薄い。
残っているのは、押し込められた重さだけだった。
木下藤吉郎は、山道を進みながら何度も舌打ちを噛み殺した。
静かなのが気に食わない。
人の声がしないくせに、空気だけがべたついている。山の斜面に沿って建つ堂や回廊も、どれもまともな寺には見えなかった。綺麗な古寺ではない。新しいものを古いものへ無理やり継ぎ足し、その継ぎ足しへまた継ぎ足しをして、山肌そのものが膨れ上がった瘡蓋みたいになっている。
「……太りすぎだろう、こいつは」
思わずそうこぼすと、横を歩く明智光秀が低く言った。
「持たせたのでしょう」
「何を」
光秀は答えなかった。
その代わり視線で前を示した。
そこに、小仏像が並んでいた。
小さい。
掌に載るほどではないが、大仏に比べれば虫みたいな大きさだ。ああいうものが寺にたくさん並んでいる景色自体は、藤吉郎も見たことがある。
だが目の前のそれは、仏の形だけを辛うじて借りた別の何かだった。
顔が、みな違う。
違うくせに、どれも仏ではない。
腹を押さえて縮こまり、飢えそのものみたいに口を開けた像。
痩せた手を何本も生やし、死に損ねた者が何かへ縋る格好のまま固まった像。
顔が半分だけ溶け、残り半分が不自然な笑みを張りつけた像。
脚がなく、胴に別の仏の腕が癒着して、這い回ることだけを覚えた像。
首が二つ、肩が三つ、指が数珠のように連なって、もとは一人の願いだったものが、別の誰かの願いと腐って縫い合わされたみたいな像。
どれも、小さい。
だが小さいだけで、軽くはない。
飢え、死、病、助かりたい、救われたい、報われたい。
そういう人の願いが仏の型へ押し込められ、押し込められたまま腐って、気味の悪い肉塊みたいな呪いに変わっている。
慈悲の顔など、どこにもない。
救いの器だったはずのものに、救われぬ気持ちばかりがへばりついている。
藤吉郎は生理的な嫌悪で顔をしかめた。
「……術師の本場とやらは、えらいもんを飼っておるな」
光秀が、わずかに目を伏せた。
「飼っていた、のでしょう」
「違うのですか」
「もう持ちませぬ」
それだけで、だいたいの理屈は読めた。
封じていたのだ。
願いを吸い込み、しかし外へ出さぬように。結界を張り、器を増やし、堂を継ぎ足し、回廊を延ばし、山そのものを封印へ作り替えながら、ずっと持たせてきた。
だが人の願いは減らぬ。
乱世が続く限り、飢えも死も絶えぬ。
器だけが増え、山だけが膨れ、仏像だけが仏から遠ざかっていく。
その時、前を歩いていた信長が足を止めた。
振り向かない。
ただ、あの小仏像群のさらに奥、山の中心を見ている。
「大義であった」
静かな声だった。
誰へ向けた言葉か、藤吉郎にはわからなかった。僧へか、寺へか、それとも、ここまで持たせた長年へか。
怒りも嘲りもない。
それが逆に怖かった。
信長はそのまま言った。
「長秀」
呼ばれたのは丹羽長秀だった。
長秀はすぐ前へ出る。
当然、自分ではない。藤吉郎はそのことに、ほんの一瞬だけ胸の底を掻かれたような気がした。
発案は自分だった。
隠形の術に伝達の術を合わせ、敵の恐怖を煽るやり方を編み出したのは自分だった。
だが、隠形の術は本来明智のものだ。
明智の隠形を受け、整え、信長へ一時的に渡せるのも長秀だけだ。
それはわかる。
わかるが、少しだけ寂しい。
光秀が無言で呪力を差し出す。
長秀がそれを受け、流れを整え、信長へ渡す。
その瞬間、信長の輪郭がひとつ揺らいだ。
消えたわけではない。
だが視線が留まらない。
そこにいると知っているのに、像として結びきれない。大きすぎるものが、認識だけをずらして前へ進む。見えぬのではなく、見えた端から“そこではない”に滑っていく。
自分の見よう見まねとは格が違う。本家の隠形だ、と藤吉郎は思った。
「お独りで行くつもりですか」
口をついて出たのは、それだった。
自分でも、少し意外だった。
どうしてそんな言い方になったのか。
止めたいわけではない。止まる人ではないこともわかっている。
ただ、桶狭間でも、織田家掌握でも、あの人は「ついて来い」と言った。あれほど前へ出るくせに、いつも自分を傍に置いていた。10年働き、必死に背を追い、金ヶ崎でやっとおこがましくもその背だけなら守れるようになったさえと思っていた。なのに、ここだけは本当に一人で行くのだ、と気づいたら、どうしようもなく空腹とは別の冷えたものが腹に落ちた。
信長はそこで初めて少しだけ振り返った。
口元がわずかに歪む。笑いとも苦笑ともつかぬ、乾いた表情だった。
「儂は大物だからの」
軽い声で言う。
「蟻を踏まぬよう歩くのも骨が折れる」
桶狭間か、金ヶ崎か。
小物ゆえに怖がらせ方を思いつく、と自分が言ったことへの返しだと、藤吉郎にはすぐわかった。
だが今は、あまり笑えなかった。
言葉は軽いのに、そこにある孤独だけがやけにはっきり見えた。
信長はそれ以上なにも言わず、寺の奥へ進んだ。
その背が消える。
いや、消えはしない。
見えぬだけだ。
大きすぎるものが、大きすぎるがゆえに見えないように、
認識をねじ曲げたまま一人で奥へ入っていく。
直後、山そのものが鳴った。
大仏のような核が、立ち上がる。
小仏像群のさらに奥、乱世そのものへ向けられた救済の願いが凝り固まり、仏の顔だけを借りた巨大な何か。顔は仏なのに、腹は不格好に膨らみ、腕は死者を掻き抱き、背には無数の手が癒着している。救済の器であるはずのものに、救われなかった者の死と欲と執着が押し込められすぎて、もはや人の願いの墓場みたいな姿だった。
それへ向けて、信長の気配が膨れ上がる。
空間が閉じる感じはなかった。
帳も境も見えない。
なのに、山全体が信長のものになる。寺も木々も空の低さも、夜の手前の湿り気までも、全部があの人の支配下へ入ってしまったみたいに歪む。
その中心は、ひどく遠い。
自分は近づけない。
近づけば呑まれると、腹がわかっていた。
次の瞬間、呪力が溢れた。
術理の繊細な蛇口など、どこにもない。
ため込んだものを器ごとひっくり返したみたいな奔流だった。
怨嗟も、恐れも、祈りも、呪いも、全部をまとめて力へ変え、山の芯へ叩き返す。純粋な暴力だった。大器というものが、そのまま世界を押し流す時の圧だった。
熱が走る。
堂宇が軋み、木が焼け、屋根が火を噴く。
人は焼き討ちと呼ぶだろう。
だが藤吉郎の目には祓った結果、燃えたとしか見えない。
そしてその巨大な払瀉は、織田勢を巻き込まぬ程度に抑えられていた。
抑えてなお、これだ。
ならば本来、どれほどのものを一人で呑み込んでいるのか。
信長が中央の核へ致命的な出力を流した結果、その外縁に繋がっていた小仏像群がこちらへ押し流されてきた。
ぞろぞろとではない。
這う。
跳ねる。
転がる。
五体満足なもののほうが少ない。膝だけで跳ねる像、両腕だけで走る像、顔が上下逆さにねじれたまま口を開閉する像、何体分もの手足が癒着して蜘蛛みたいになった像。
どれも大仏からちぎれた破片だった。
破片だから、人の形すら保てない。
それでも飢えと死だけは、はっきりと形を持っていた。
近づくだけで、腹が鳴る。熱がこもる。
死にたくないという濁った願いが、こちらの内臓へ染みてくる。
なのに胸と頭は異様に冷え、冴えた
「サル!」
柴田の声が飛ぶ。
振り向けば、勝家はすでに前へ出ていた。鬼を降ろす前のあの重い構えだ。光秀も横で刃を低く構え、数を減らすつもりでいる。どちらも信長の奥義へは入れない。だからこちらの露払いを引き受けるしかない。
藤吉郎は石を投げ、札を打ち、近寄るものを棒で払い落とす。
だが数が多い。しかも、一つひとつが気味悪い。砕いたところで、破片のひとつがまた別の像へ癒着し、歪んだ形で立ち上がろうとする。
「……こんなものまで信長様が呑まねばならんのか」
怒りが先に口をついていた。
光秀が一瞬だけこちらを見る。
構造を理解している目だった。
藤吉郎はその目が気に食わなかった。理がどうだろうが知ったことではない。目の前で信長が焼けている。その事実だけで十分だった。
ならば自分も変わるしかない。
猿では足りぬ。
横合いから小賢しくついばむだけでは、足りぬ。
あの魔王を最後まで支えるなら、もっと重く、もっと残酷に、地獄の掃除を受け持つ側へ落ちるしかない。
その時、腹の底で何かが沈んだ。
館の時、猿が来た。
いま来たのは、それではない。
もっと重い。もっと鈍く、もっと前から受けるものだ。柴田勝家の背に見てきた、あの鬼の術理が、遅れて自分の中へ落ちてくる。
藤吉郎は一歩踏み込んだ。
視界の色が少しだけ変わる。
小仏像群が“気持ち悪いもの”から“処分すべきもの”へ変わる。
猿のように横からではない。鬼のように正面から受け、叩き、砕く。
五体不満足の仏像も、癒着した化け物も、片端から潰す。
勝家が、一瞬だけこちらを見た。
その目には驚きがあった。
「……サル、貴様」
「今さらでございましょう」
藤吉郎は笑った。
自分でも嫌な笑い方だと思った。だがもう引っ込める気はない。
信長は魔王になってしまった。
ならば自分は、その獄卒でよい。
最後まで仕え、最後まで片づける。
そういう役が必要なら、もう猿では足りない。
比叡の夜は、炎で明るかった。
その中心に信長がいる。
遠く、ひどく遠い。
遠いくせに、その熱だけははっきりとこちらへ届いていた。