呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
名を変えよ、と言われたのは、思いのほかあっさりした口調だった。
戦がひと段落した日の夕方である。
評定というほど堅苦しくもなく、ただ信長のいる座敷へ呼ばれただけだった。丹羽長秀がいて、柴田勝家がいて、ほかにも二、三人、近くの者が控えている。張りつめた空気ではない。むしろ、珍しく少し緩んでいた。
その中で、信長が唐突に言った。
「猿」
「は」
「羽柴を名乗れ」
藤吉郎は一瞬、きょとんとした。
「……羽柴、にございますか」
「そうだ」
信長は、いかにもそれが当然だと言わんばかりの顔で頷いた。
「丹羽と柴田から一字ずつ取れ。お前にはちょうどよかろう」
横で長秀が少し目を細める。
勝家は鼻を鳴らした。
「ほう。ずいぶん気に入られたものだな、サル」
「ありがたいことではありますが」
藤吉郎は頭を掻いた。
ありがたい。ありがたいのだが、急にそう言われると困る。羽柴。字面は悪くない。悪くないが、その下へ何をつけるかで全然収まりが変わる。
信長はすでにその先へ行っていた。
「だが羽柴藤吉郎では締まらん」
言い方がひどい。
藤吉郎は思わず顔をしかめる。
「そこまで申されますか」
「申す。考えろ」
雑である。
だが信長がこういう調子の時は、逆らっても仕方がない。どうせ名乗らせる気で言っている。
勝家が腕を組んだまま、さっそく口を挟んだ。
「ならば秀勝だな」
「は?」
藤吉郎が振り返る。
勝家はまるで名案を出した顔で続けた。
「収まりもよい。秀は長秀の秀、勝は儂の勝。何の問題がある」
「問題しかありませぬよ!」
藤吉郎は即座に返した。
「それではお二人の要素しかないではありませぬか!」
「羽柴の時点でそうだろう」
「そういう話ではない!」
長秀が横で吹き出した。
「ずいぶん嫌がるな」
「嫌がりますよ。何です、その妙に暑苦しい名は」
「暑苦しいとは何だ」
「武張りすぎております」
「武張って何が悪い」
「悪くはありませぬが、わしではない」
勝家が不満そうに唸る。
だが長秀は面白がっていた。
「では木下、お前は何にする」
藤吉郎はそこで少し黙った。
何にする、と問われると困る。
困るが、腹の底に一つだけ、すでに転がっている字があった。
「……秀、でしょうか」
ぼそりとそう言うと、長秀が「おや」と笑った。
「ずいぶん気に入ってくれたな」
「いえ、そういうことでは」
「そういうことだろう」
「丹羽殿はすぐそうやって人をからかう」
「からかってはおらぬよ。素直で結構だと思っている」
長秀は本当に楽しそうだった。
自分の字を取られるのが、案外うれしいらしい。
勝家はまだ腕を組んだまま不服そうだ。
「ならばなおさら秀勝でよいではないか」
「ですから、それは柴田殿の押しが強すぎます」
「押しが強くて何が悪い」
「名まで押しつぶされとうありませぬ」
「なんだと」
信長が笑いを含んだ声で制した。
「猿」
「は」
「秀の先はどうする」
藤吉郎は、そこで今度はあまり迷わなかった。
「……吉」
「吉?」
長秀が首をかしげる。
「はい。秀吉と名乗りたく」
勝家がすぐに顔をしかめる。
「何だ、勝はどこへ行った」
「藤吉郎の吉を残したく」
藤吉郎は即座に返した。
「急に全部を変えるのも、落ち着きませぬ」
「ああ、なるほど」
長秀が頷く。
「たしかに“ひできち”より“ひでよし”のほうが収まりはよいな」
「でしょう」
藤吉郎は少しだけ胸を張った。
「秀勝では柴田殿が押し出しすぎる。明智殿からもらって秀明だの秀光だの思いましたが陽気すぎて性に合いませぬ。秀吉がいちばん座りがよろしいかと」
「言い方がいちいち癪に障るな」
勝家が唸るが、長秀は笑っている。
「まあ、収まりで言うならたしかにそうだ」
「丹羽殿まで」
「名は収まりが大事だからな」
座敷の空気が、そこでひとまず収まりかけた。
羽柴秀吉。
口に出してみれば、悪くない。羽柴藤吉郎よりもずっと締まりがある。木下藤吉郎という、拾われ、飢え、食うために走り回っていた名から、少しだけ先へ進んだ感じもした。
その時だった。
信長が、何でもない声で言った。
「信でも長でも、欲しければくれてやるぞ」
藤吉郎は、一瞬で言葉に詰まった。
長秀が声を立てずに笑いを噛み殺す。
勝家は怪訝そうに信長と藤吉郎を見比べた。
「……いえ」
藤吉郎は、妙にきちんと背を正してしまった。
「そこまでは、畏れ多うございます」
「そうか」
信長はそれ以上何も言わなかった。
からかっているのか、見抜いているのか、その両方なのか、よくわからぬ顔で、ただ少しだけ口元を歪める。
それで十分だった。
「羽柴秀吉」
信長が、一度その名を口にする。
座敷の空気へ、その響きが落ちた。
長秀がうんと頷き、勝家はまだ少し不満そうに鼻を鳴らしたが、異論までは言わない。
「よかろう」
信長が言う。
「今日から羽柴秀吉と名乗れ」
それで決まった。
和やかな空気だった。
戦の合間の、ほんの短い、気の抜けた明るさだった。
勝家はまだ「秀勝のほうがよい」とぶつぶつ言っており、長秀はその様子まで面白がっていた。信長はもう次のことを考えている顔だった。
その中で、藤吉郎――いや、秀吉だけが、ほんの少しだけ腹の奥をくすぐられていた。
木下藤吉郎は、そこで終わる。
見て、学んで、継ぎはぎして、飢えたまま駆け上がってきた猿の名が、少しだけ形を変える。
羽柴秀吉が、そこから始まる。
それでよかった。
表向きの理由は、それで十分だった。
藤吉郎の「吉」を残し、収まりのよい名を選んだ。
それで誰も困らぬ。
それで話は済む。
済むからこそ、なおさら、その名が妙に腹へ馴染んだ。
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史実は木下藤吉郎時代から秀吉と名乗っているのですが、思いついてしまったので
なお弟は長をもらう模様(そして丹羽と三字被り)