呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
木下藤吉郎。
のちに羽柴秀吉と名を改め、さらには豊臣秀吉として天下を執る男である。
されどその始まりは、名もない戦場を漁る飢えた小者にすぎなかった。
織田信長。尾張のうつけ、魔王の卵。
二人が出会った時、戦国は静かに回り始める。
腹が減っていた。
それはもう、朝からずっとそうだったのか、昨日からそうだったのか、自分でもわからぬくらい当たり前のことになっていた。木下藤吉郎にとって、腹が減っているというのは天気のようなものだった。晴れか曇りか雨か、その程度の違いでしかない。今日はただ、その空腹が少しばかりひどい。
泥の上を歩くたび、草鞋の底がぬめる。
小競り合いの跡だった。大戦ではない。城攻めでも野戦でもない。せいぜい村境で起きた揉め事か、落ち武者狩りに毛が生えた程度の争いだろう。それでも人が死ねば血は流れ、血が流れれば空気は淀む。折れた槍、片輪の荷車、捨てられた笠、踏み荒らされた畑。草の匂いと土の匂いの上に、鉄のような血の臭いが薄くかぶさっている。
藤吉郎は、そういう場所に鼻が利いた。
何かが落ちているかもしれぬ。まだ使えるものがあるかもしれぬ。食えるものが残っているかもしれぬ。
そう思って歩く。
懐は軽い。
家へ持ち帰れるものがあるなら、母も少しは楽をする。弟だって、腹を鳴らして寝るのはつらかろう。別に立派なことを考えているわけではない。ただ、自分一人が食えればそれでよいというほど薄情にもなり切れなかった。
泥の中から、まだ使えそうな小刀を拾い上げる。柄に血が乾いてこびりついていた。売れば多少の銭にはなるかもしれぬ、と袖へ差し込んだところで、耳元に、ぶん、と鬱陶しい羽音がした。
藤吉郎は顔をしかめた。
「なんじゃ」
手で払う。
払ったつもりが、目の端のものは消えない。
羽虫ではないと気づいたのは、二度目にそれが眼前をかすめた時だった。
蠅頭だった。藤吉郎はその名を知らぬが
人に害をなすことすらできぬ小さな呪いである。
この程度の戦の跡なら、たいてい湧く。人の苛立ちや、負けた者の悔しさや、明日も食えぬというみじめさが、腐った羽虫みたいな形を取って残るのだ。
寺の者だの、術の家の者だのなら、もっと真面目な顔で相手をするのかもしれぬ。だが百姓か兵か分かたれていない程度の身分の藤吉郎にとっては、ただ腹立たしいだけだった。
腹が減っているのに、顔の周りをぶんぶん飛ばれる。
虫ならば払うことも、気にせぬよう堪えることもできようが、呪いとはどんなに小さいとはいえ拳大ほどの大きさがある。
もうそれだけで十分に腹が立つ。
「鬱陶しい」
そう吐き捨てて、藤吉郎は手の甲で蠅頭を打った。
ぺちゃり、とでも音がしそうなくらいあっけなく、蠅頭は空中で潰れて泥へ落ちた。黒い煤のようなものが一瞬散って、耳慣れた音を立ててすぐ消える。
藤吉郎はそれを見ても、自分が何をしたのか深く考えなかった。昔からこういうことは、ある。嫌なものを嫌だと思うと、勝手に払えてしまうことがある。理屈は知らぬ。知ったところで、腹はふくれない。
そこで初めて、背後の気配に気づいた。
誰かが見ている。
藤吉郎は振り返った。
眩しくて、目を細めた。
馬上に男がいた。
逆光だった。昼の日はすでに傾きかけているはずなのに、その男の背後だけが妙に白く明るい。馬の首筋にかかる光も、その男の肩も、目を細めねば輪郭が見えぬほどだった。
若い。
だが若さより先に、場の真ん中にいる感じがあった。
何もしておらず、何も言っておらぬのに、その場でいちばん大きく見える人間というのが、たまにいる。男はまさにそういうふうに馬上にいた。
衣は派手ではない。だが汚れてもいない。
供も何人かいる。誰もがその男の顔色をうかがっているのが、すぐにわかった。
藤吉郎は、こういうとき頭を下げるほうが得だと知っていた。
だから素直に頭を垂れた。
男は、しばらく黙って藤吉郎を見ていた。
まるで品定めでもするような目だった。腹立たしいといえば腹立たしい。だがその目に怯えはなかった。自分が人を見る側であることを、最初から疑っていない目だった。
「名は」
唐突に問われた。
声は意外に軽い。もっと重々しいものを想像していたので、藤吉郎はわずかに面食らった。
「木下藤吉郎にございます」
「木下、か」
男はそれだけ言って、泥の上に転がる蠅頭の消え痕を見た。
藤吉郎は嫌な気がした。変なところを見られたな、と思う。
見える者と見えぬ者がおるのだ。どちらかというと、見えぬ者のほうがわずかに多い。まったく少なければ隠すことも控えることもできようが、微妙な塩梅での小勢というものは何であれ小競り合いの中で不利になる。見える物が気味悪いものであればなおの事。
ただ、武の家のものはどうも、力としてこの呪いを扱うことが多いのだと、何度か出た戦場で知った。只人の理を外れているため、お武家様には敵なら近づくな、味方なら逆らうな、とも言われた。
「いま、何をした」
「何をと申されましても」
藤吉郎は少し肩をすくめた。
「うるさかったゆえ、払うただけにございます」
後ろの供の一人が、あからさまに顔をしかめた。無礼と思ったのだろう。だが男は怒らなかった。むしろ口元がわずかに歪んだ。笑ったのかもしれなかった。
「払うた、か」
「は」
「それで落ちた」
「落ちましたな」
「怖くはないのか」
「腹が減っておりますゆえ、怖がっておる暇もありませぬ」
自分で言って、少し言い過ぎたかと思った。だがもう遅い。
供の顔がますます険しくなる。今度こそ怒鳴られるかもしれぬ。頬のひとつも張られるか。首が落ちなければ儲けもの、か。
だが男は、なぜか機嫌を損ねなかった。
「腹が減っておるか」
「は」
「何日」
「さて。覚えておりませぬ」
嘘ではない。
満足に食った日のほうが少なすぎて、いちいち数える意味がなかった。
「母はおるか」
「おります」
「ほかには」
「弟が一人」
男は、ふうん、とでも言うように鼻を鳴らした。
それから、何の前触れもなく言った。
「来い」
藤吉郎は顔を上げた。
「は…?」
「儂に仕えよ」
言葉があまりに軽く落ちてきたので、一瞬、意味がわからなかった。
だが隣の供が即座に反応した。
「殿」
止めに入る声だった。
「素性も定かでない者にございます。まして今は――」
「今だからじゃ」
男は供を見もしなかった。
視線はなお藤吉郎にある。
「使えるであろう。目も死んでおらぬ」
供がさらに何か言おうとする。
だが男はもう聞いていなかった。聞く気がないというのが、見ていてわかる。こういう人間はたぶん、止めるだけ損だ。
藤吉郎は、そこでようやく、この男が誰か気づいた。
織田信長。
名くらいは知っている。尾張で騒ぎを起こし、家中も身内もまとめて引っ掻き回して、それでもなお前へ出るうつけだの何だの、いろいろな噂がある。よい噂も悪い噂も聞いた。
だが、噂は噂だった。目の前にいる男は、噂よりずっと現実的で、噂よりずっと勝手だった。
藤吉郎の胸に、何か熱いものが走った――
ということはなかった。そんな綺麗な話ではない。
最初に浮かんだのは、ただ一つ。
食える。
これに尽きる。
食い扶持だ。
働き口ができる。
母と弟に持たせるものも増えるかもしれぬ。
それで十分だった。
もちろん怖さもあった。
この男に仕えれば、ろくでもない目に遭うだろう。
だが、仕えずに飢えているよりはましだ。
少なくとも、いまの藤吉郎にはそう思えた。
「どうする」
信長は訊いた。
だが声には、答えを待つ響きがほとんどなかった。
藤吉郎が口を開く前に、信長は馬首を返した。
「来るなら来い」
それだけだった。
供の者たちが慌てて馬を寄せる。
信長はもう、藤吉郎の返答などどうでもよいと言わんばかりに、先へ進み始めている。
あまりに勝手で、あまりに当然のような背だった。
藤吉郎は一瞬だけ呆れた。
返事くらい聞け、と言いたくもなる。だが、その理不尽さがどこか可笑しくもあった。
逆光の中を行く馬上の背は、やはり眩しかった。
ただ、それは信仰のような眩しさではない。日の当たるところに立つ人間の眩しさだ。自分は泥の中にいて、あれは高いところにいる。その、ただの位置の差が、ひどく目に染みた。
藤吉郎は舌打ちし、小刀の柄を懐へ押し込み直した。
拾えるものはもう持った。腹は減っている。家へ戻るより、あの背を追ったほうが今日の飯には近い。
「これ幸い、か」
誰に言うでもなく呟く。
それから走った。
泥が跳ねる。
草鞋が鳴る。
供の一人が振り返って、まだついてくるのかという顔をしたが、藤吉郎は気にしなかった。信長は一度も振り返らない。振り返らないまま、当然のように前へ行く。
藤吉郎はその背を追った。
まだ忠義も憧れもない。
あるのは空腹だけだ。
空腹と、食える口を逃したくないという、あまりにみじめで、あまりに切実な打算だけ。
それでも、その日の夕暮れの逆光の中で、木下藤吉郎の人生は、たしかに信長の背のほうへ折れ曲がったのだった。