呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
小谷城は、もはや終わっていた。
織田の手勢は多く、浅井は姉川で血を流しすぎた。
盟を結んだ朝倉はすでに滅び、浅井の命脈もまた尽きようとしている。
浅井の親子は、その本拠・小谷城にあって、滅びの時を待っていた。
山は夜になると、息が細くなる。
木下藤吉郎、改め羽柴秀吉は、闇の奥に沈んだ京極丸を見上げながら、そう思った。昼の内に見れば、山中腹へしがみつくように築かれた一郭にすぎぬ。だが夜になると違う。道は細く、木々は深く、見張りの火は遠いくせにやけに目立つ。城というより、山そのものが歯を剥いているように見える。
そういう夜は嫌いではなかった。
夜はよい。
見えぬものが増えるぶん、見えるものも増える。
人の気配、火の揺れ、怯えの濃さ。昼なら勢いでごまかせるものが、夜にははっきり滲む。
京極丸。
小谷の親子をつなぐ中腹の要だ。ここを噛めば、上と下の息が細る。城そのものを正面から殴るより、まず喉を締める。竹中半兵衛の策は、相変わらずきれいだった。
「城を落とすと思うのではなく」
出立の前、半兵衛は地図の上へ指を置いて、そう言った。
「流れをおとすのです。人の流れ、声の流れ、兵の流れ。京極丸は、その喉にあたります」
「ふむ、のどが詰まれば飯は食えぬの」
秀吉が言うと、半兵衛は少しだけ笑った。
「そういうことです。ですからお願いするのです」
変に勿体もつけぬ。頼まれたから考え、使えると思うたから出す。ただそれだけの顔だった。
「隠蔽を供回りへ回すのです。全軍でなく少人数で寄り、騒ぎを起こし、内へ流れ込み、あとは噛み砕けば仕舞いです」
「最後だけ雑じゃの」
「慣れているでしょう?」
もっともである。雑なのにも、戦いとなれば単純なのも慣れている。
金ヶ崎以来、秀吉は供回りへ呪力を渡す訓練をずっと続けていた。最初は惨憺たるものであった。身体は軽くなる。脚は出る。腕は振れる。だが感覚が追いつかぬ。半歩のつもりが一歩出る。刀の間合いを誤る。小石一つで躓く。強くはなる。だが、その強さを使う身体を持っておらぬ。
だから鍛えた。
夜道で。
川辺で。
荷駄の横で。
伏せろ、止まれ、飛べ、回れ、切れ、引け。そういう細々したことを、呪力を渡したまま繰り返し叩き込んだ。
供回りのほうも、ずいぶん文句を言った。
「旦那、脚が勝手に前へ出ます」
「出るなら転ぶな」
「それが転ぶのでございます」
「なら転ばんよう覚えい」
そんな調子である。
だが連中は慣れた。慣れると顔つきが変わる。目がよく働き、足音が軽くなり、いざとなれば躊躇なく前へ出る。大層な侍には見えぬ。だが夜の山で喧嘩を売りたい相手でもなくなる。
今夜連れてきたのは、その中でもさらに口の堅い、足の軽い者ばかりだった。
「旦那」
背後で、弟、秀長が低く呼んだ。
「配置、これでよろしゅうございますか」
「よろしいとも」
秀吉はしゃがんだまま、土へ指で線を引いた。
京極丸は大きくない。見張り、柵、門、櫓。ひと通り揃ってはいるが、あくまで中継の砦だ。主役ではない。だからこそ落ちる。
「まずここまで隠れて寄れ」
闇の中、見えぬはずの位置を指す。
「旦那、ほんに見えておるので?」
「見えぬものを見るのが、おぬしらの旦那じゃ」
小さく笑いが漏れる。緊張しておる時ほど、こういう笑いはよい。
「合図は指じゃ。一つで右が回る。二つで左が入る。三つ目まで聞いたら、もう騒ぎは起きておる」
「旦那が暴れておられる頃合いでございますな」
「そういうことじゃ」
秀吉は弟へ目をやった。
「おぬしは中へ入ったら門を見よ。門番を黙らせ、縄を切り、閂を落とせ」
「兄者が前で騒いでくださるなら」
「くださる、とは何じゃ」
「いつものことにございます」
兄弟で目が合う。口元が少しだけ緩んだ。
そこへ半兵衛が歩み寄る。戦場の前でも、この男は声を荒げぬ。
「名を付けておきますか」
「は?」
「今夜の手に、です。後で呼びやすいほうがよろしい」
秀吉は少し考えた。
隠蔽を撒く。夜を這う。騒ぎを起こし、鬼の力で砕く。
「……百鬼夜行、でどうじゃ」
半兵衛は頷いた。
「よいですね」
そして地図から顔を上げ、秀吉を見る。
「手札と手札を組み合わせる。理と理を継ぎ合わせる。それを策と申します」
静かな声だった。
「秀吉殿は、そこがお上手です」
「褒めても何も出んぞ」
「出していただこうと思って言っているわけではありません」
少し間を置いて、半兵衛は続けた。
「信長公は大きすぎますので、あのお方は策ごと呑み込んでしまうでしょう。しかし、秀吉殿は、手札を見て、継いで、勝ち筋を作る。だから私は、むしろ貴公を買っております」
秀吉は鼻を鳴らした。
「そんなに買うなら、もう少し楽な策を出せ」
「楽な策と、良い策は違うのです」
あっさり返された。
ため息をつきながら秀吉は立ち上がる。
腹へ息を落とす。底のほうで猿が目を覚ます。肩が前へ傾き、脚が山へ噛みつきたがる。そこへ今夜はさらに鬼も寄せる。勝家ほど太くはない。正面から地を割る鬼ではない。戦の途中で借りる分だけ借りた、軽くて噛みつくための鬼だ。
足りぬところを継ぎ接ぐ。
それでよい。
「よいか」
声を落とす。供回りが頷く。
「強くはしてやる。じゃが、その強さに振り回されるな。脚が軽いなら、その軽い脚で止まれ。腕が出るなら、出る前に見よ。感覚が狂うのは承知の上じゃ。その上で使いこなせ」
「承知いたしました」
「転ぶなよ」
「なるべく転ばぬように致します」
「なるべく、では足らぬ」
「では転びませぬ」
「最初からそう言え」
男たちが闇へ散る。
気配が薄れる。以前ならただの雑兵の散り方だった。今は違う。渡した呪力が芯へ通り、息も足も夜へ馴染んでいく。
秀吉は山腹を這った。
京極丸が近づく。柵、見張り、門前の火。見張りの一人が退屈そうに槍を持ち替える癖まで見える。
指を一つ鳴らす。
乾いた音。
右が回る。
見張りの一人が振り向きかけた、その首筋へ闇から棒が滑り込んだ。呻きも上がらぬ。もう一人が息を吸う前に、左から手が伸び、口を塞ぎ、膝裏を払う。崩れたところへ木札が喉へ刺さる。弟の手際だった。
指を二つ。
左が入る。
柵の向こうで、小さな騒ぎが生まれる。
小さいから、人はまだ大事ではないと思う。そこが夜襲の肝だ。
見極めて前へ出た。
門前に兵が二人。片方が槍を構える。遅い。猿降ろしで一気に穂先の内へ入る。棒で手首を打つ。骨が鳴る。返す肘で顎を跳ね上げ、そのまま肩口へ鬼の力を落とす。身体が嫌な向きに折れた。
もう一人が刀を抜く。
抜き終わる前に足を払う。転がったところを首根で掴み、そのまま門へ叩きつける。板戸が鳴る。内側で怒号。
「来たぞ!」
「来ておるとも」
猿は笑った。
ここからは静かな夜襲ではない。騒ぎを騒ぎとして広げる。だが全貌は見せぬ。百鬼夜行とはそういうものだ。
屋根の上から木札が飛ぶ。
柵の陰から石が飛ぶ。
門脇の兵が倒れる。
見えぬところから、一つずつ悪いことだけが起きる。
「ば、化け物……!」
「それでよい」
秀吉は門へ掌を当てた。
腹から通す。鬼の出力を、今度は棒ではなく板へ流す。
どん、と鈍い音。
閂が鳴る。内から弟が縄を落とした気配がわかった。
「開けい!」
門が割れる。
供回りが流れ込む。脚が軽い。だが転ばぬ。ここが鍛えたところだ。強くなった身体に振り回されず、きちんと相手を見て、段差で止まり、次へ移る。一群の将はそれを見て、少しだけ満足した。
門内の広場は狭い。狭いところは好きだ。数が物を言わぬ。流れを握ったほうが勝つ。
兵がまとまろうとする。
その前へ飛ぶ。
「散れ」
棒を振る。
一人の兜を横から打ち割る。返しで膝を砕く。そこへ飛び込んだ別の兵の胸へ、鬼の力ごと肩をぶつける。息が潰れる。上から槍。半歩ずれる。棒で巻き込み、引き寄せ、そのまま額へ頭突き。血が飛ぶ。
共回りも入る。
二人一組でよく動いていた。片方が目を引き、片方が足を奪う。訓練の成果か、呪力で筋は強くなっている。だが強いだけでは使えぬ。今の連中は、その強さの半歩先をようやく覚え始めていた。
「右の櫓、押さえました!」
「裏坂、二人下ろしました!」
「よし、そのまま見ておれ!」
声が飛ぶ。
よい。ちゃんと回っておる。
これが信長なら、もっと大きい。
長秀が後ろで通せば、軍ごと一つの獣になる。
だが今の秀吉にそこまでは無理だ。せいぜい顔がわかるなじみの部下に繋ぐのみ。それでも十分だった。十分に無法だった。
砦の中央へ出た時、奥からようやく将らしき男が現れた。具足の良い男だ。怒鳴り声も太い。だが遅い。夜襲とはそういうものだ。将が前へ出る頃には、流れはもう決まりかけている。
「木下……!」
「残念、今は羽柴じゃ、覚えんでもよいぞ」
「猿め!」
「そういうのは、もっと早う言うべきじゃな」
男が斬りかかる。
真っ直ぐで悪くない。悪くないが、この夜には遅い。
藤吉郎はわざと半歩引いた。太刀が空を切る。その切っ先へ棒を絡め、下へ払う。重心が泳ぐ。そこへ鬼の拳を鎧の合わせ目へ叩き込む。
鈍い手応え。
男の身体が浮く。
そのまま踏み込み、肩で押し切る。男は後ろの柱へ叩きつけられ、息とも血ともつかぬものを吐いた。
「ぐ……」
「城とは、守れば堅いが」
低く言った。
「喉を噛まれれば、案外もろい」
棒を振り下ろす。
男が沈む。
あとは早かった。
櫓が落ちる。
裏坂が押さえられる。
火をかけるまでもない。京極丸は、夜のうちに死んだ。死んだまま、まだ形だけ立っている。
秀吉は息を吐いた。
鬼を引く。猿の軽さだけが残る。腹の底がひどく空く。
「兄者」
秀長が寄ってきた。頬に血がついている。自分のものではあるまい。
「落ちましたな」
「見ればわかる」
「百鬼夜行、ようございました」
「おぬしが門を開けたからじゃ」
「半兵衛殿は、策の功とおっしゃりそうでございます」
「それならそれで、あやつの顔も立つ」
そこへ半兵衛が入ってくる。
戦のあとでも、この男だけは妙に静かだ。
「御見事です」
「他人事のようじゃの」
「貴公の戦でしたので。他人事ですね」
半兵衛は倒れた兵、荒れた門、押さえた櫓をひと通り見て、静かに頷いた。
「そして、想定より早いです。供回りもよく動いておりました。」
「鍛えたからの」
「素晴らしい」
山の夜気の向こう、見えぬ湖のほうから風が抜けた。血の匂いを少しだけ薄めていく。半兵衛はその風を見た。何か言いたげだったが、今はまだ言わなかった。
秀吉も追わぬ。
今夜はまだ、武功の夜だ。
土地の話、町の話はそのあとでよい。
ただ一つ、確かなことがあった。
金ヶ崎で背を守るために覚えたものが、延暦寺で焼かれながら掴んだものが、今夜ようやく手札として噛み合った。
猿は速い。
鬼は重い。
隠蔽は夜を深くする。
供回りは、もうただの供ではない。
手札と手札。
理と理。
それを継いで勝ち筋にする。
なるほど、たしかに策というやつであった。
「さて」
京極丸の奥を見据える。
「喉は噛み切った。あとは上が、どう息を詰めるかじゃな」
山の上には、まだ小谷がある。
親も子も、まだ終わってはいない。
だが終わりの始まりとしては、今夜の手は悪くなかった。
腹が減っていた。
ひどく減っていた。
それでも今夜ばかりは、次を見る気になっていた。。