呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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小谷城の戦い。
小谷城は、もはや終わっていた。
織田の手勢は多く、浅井は姉川で血を流しすぎた。
盟を結んだ朝倉はすでに滅び、浅井の命脈もまた尽きようとしている。
浅井の親子は、その本拠・小谷城にあって、滅びの時を待っていた。



1573 小谷城の戦い

 

 山は夜になると、息が細くなる。

 

 木下藤吉郎、改め羽柴秀吉は、闇の奥に沈んだ京極丸を見上げながら、そう思った。昼の内に見れば、山中腹へしがみつくように築かれた一郭にすぎぬ。だが夜になると違う。道は細く、木々は深く、見張りの火は遠いくせにやけに目立つ。城というより、山そのものが歯を剥いているように見える。

 

 そういう夜は嫌いではなかった。

 

 夜はよい。

 見えぬものが増えるぶん、見えるものも増える。

 人の気配、火の揺れ、怯えの濃さ。昼なら勢いでごまかせるものが、夜にははっきり滲む。

 

 京極丸。

 小谷の親子をつなぐ中腹の要だ。ここを噛めば、上と下の息が細る。城そのものを正面から殴るより、まず喉を締める。竹中半兵衛の策は、相変わらずきれいだった。

 

「城を落とすと思うのではなく」

 

 出立の前、半兵衛は地図の上へ指を置いて、そう言った。

 

「流れをおとすのです。人の流れ、声の流れ、兵の流れ。京極丸は、その喉にあたります」

 

「ふむ、のどが詰まれば飯は食えぬの」

 

 秀吉が言うと、半兵衛は少しだけ笑った。

 

「そういうことです。ですからお願いするのです」

 

 変に勿体もつけぬ。頼まれたから考え、使えると思うたから出す。ただそれだけの顔だった。

 

「隠蔽を供回りへ回すのです。全軍でなく少人数で寄り、騒ぎを起こし、内へ流れ込み、あとは噛み砕けば仕舞いです」

 

「最後だけ雑じゃの」

 

「慣れているでしょう?」

 

 もっともである。雑なのにも、戦いとなれば単純なのも慣れている。

 

 金ヶ崎以来、秀吉は供回りへ呪力を渡す訓練をずっと続けていた。最初は惨憺たるものであった。身体は軽くなる。脚は出る。腕は振れる。だが感覚が追いつかぬ。半歩のつもりが一歩出る。刀の間合いを誤る。小石一つで躓く。強くはなる。だが、その強さを使う身体を持っておらぬ。

 

 だから鍛えた。

 

 夜道で。

 川辺で。

 荷駄の横で。

 伏せろ、止まれ、飛べ、回れ、切れ、引け。そういう細々したことを、呪力を渡したまま繰り返し叩き込んだ。

 

 供回りのほうも、ずいぶん文句を言った。

 

「旦那、脚が勝手に前へ出ます」

 

「出るなら転ぶな」

 

「それが転ぶのでございます」

 

「なら転ばんよう覚えい」

 

 そんな調子である。

 だが連中は慣れた。慣れると顔つきが変わる。目がよく働き、足音が軽くなり、いざとなれば躊躇なく前へ出る。大層な侍には見えぬ。だが夜の山で喧嘩を売りたい相手でもなくなる。

 

 今夜連れてきたのは、その中でもさらに口の堅い、足の軽い者ばかりだった。

 

「旦那」

 

 背後で、弟、秀長が低く呼んだ。

 

「配置、これでよろしゅうございますか」

 

「よろしいとも」

 

 秀吉はしゃがんだまま、土へ指で線を引いた。

 京極丸は大きくない。見張り、柵、門、櫓。ひと通り揃ってはいるが、あくまで中継の砦だ。主役ではない。だからこそ落ちる。

 

「まずここまで隠れて寄れ」

 

 闇の中、見えぬはずの位置を指す。

 

「旦那、ほんに見えておるので?」

 

「見えぬものを見るのが、おぬしらの旦那じゃ」

 

 小さく笑いが漏れる。緊張しておる時ほど、こういう笑いはよい。

 

「合図は指じゃ。一つで右が回る。二つで左が入る。三つ目まで聞いたら、もう騒ぎは起きておる」

 

「旦那が暴れておられる頃合いでございますな」

 

「そういうことじゃ」

 

 秀吉は弟へ目をやった。

 

「おぬしは中へ入ったら門を見よ。門番を黙らせ、縄を切り、閂を落とせ」

 

「兄者が前で騒いでくださるなら」

 

「くださる、とは何じゃ」

 

「いつものことにございます」

 

 兄弟で目が合う。口元が少しだけ緩んだ。

 

 そこへ半兵衛が歩み寄る。戦場の前でも、この男は声を荒げぬ。

 

「名を付けておきますか」

 

「は?」

 

「今夜の手に、です。後で呼びやすいほうがよろしい」

 

 秀吉は少し考えた。

 隠蔽を撒く。夜を這う。騒ぎを起こし、鬼の力で砕く。

 

「……百鬼夜行、でどうじゃ」

 

 半兵衛は頷いた。

 

「よいですね」

 

 そして地図から顔を上げ、秀吉を見る。

 

「手札と手札を組み合わせる。理と理を継ぎ合わせる。それを策と申します」

 

 静かな声だった。

 

「秀吉殿は、そこがお上手です」

 

「褒めても何も出んぞ」

 

「出していただこうと思って言っているわけではありません」

 

 少し間を置いて、半兵衛は続けた。

 

「信長公は大きすぎますので、あのお方は策ごと呑み込んでしまうでしょう。しかし、秀吉殿は、手札を見て、継いで、勝ち筋を作る。だから私は、むしろ貴公を買っております」

 

 秀吉は鼻を鳴らした。

 

「そんなに買うなら、もう少し楽な策を出せ」

 

「楽な策と、良い策は違うのです」

 

 あっさり返された。

 

 ため息をつきながら秀吉は立ち上がる。

 腹へ息を落とす。底のほうで猿が目を覚ます。肩が前へ傾き、脚が山へ噛みつきたがる。そこへ今夜はさらに鬼も寄せる。勝家ほど太くはない。正面から地を割る鬼ではない。戦の途中で借りる分だけ借りた、軽くて噛みつくための鬼だ。

 

 足りぬところを継ぎ接ぐ。

 それでよい。

 

「よいか」

 

 声を落とす。供回りが頷く。

 

「強くはしてやる。じゃが、その強さに振り回されるな。脚が軽いなら、その軽い脚で止まれ。腕が出るなら、出る前に見よ。感覚が狂うのは承知の上じゃ。その上で使いこなせ」

 

「承知いたしました」

 

「転ぶなよ」

 

「なるべく転ばぬように致します」

 

「なるべく、では足らぬ」

 

「では転びませぬ」

 

「最初からそう言え」

 

 男たちが闇へ散る。

 気配が薄れる。以前ならただの雑兵の散り方だった。今は違う。渡した呪力が芯へ通り、息も足も夜へ馴染んでいく。

 

 秀吉は山腹を這った。

 京極丸が近づく。柵、見張り、門前の火。見張りの一人が退屈そうに槍を持ち替える癖まで見える。

 

 指を一つ鳴らす。

 

 乾いた音。

 右が回る。

 

 見張りの一人が振り向きかけた、その首筋へ闇から棒が滑り込んだ。呻きも上がらぬ。もう一人が息を吸う前に、左から手が伸び、口を塞ぎ、膝裏を払う。崩れたところへ木札が喉へ刺さる。弟の手際だった。

 

 指を二つ。

 

 左が入る。

 

 柵の向こうで、小さな騒ぎが生まれる。

 小さいから、人はまだ大事ではないと思う。そこが夜襲の肝だ。

 

 見極めて前へ出た。

 

 門前に兵が二人。片方が槍を構える。遅い。猿降ろしで一気に穂先の内へ入る。棒で手首を打つ。骨が鳴る。返す肘で顎を跳ね上げ、そのまま肩口へ鬼の力を落とす。身体が嫌な向きに折れた。

 

 もう一人が刀を抜く。

 抜き終わる前に足を払う。転がったところを首根で掴み、そのまま門へ叩きつける。板戸が鳴る。内側で怒号。

 

「来たぞ!」

 

「来ておるとも」

 

 猿は笑った。

 

 ここからは静かな夜襲ではない。騒ぎを騒ぎとして広げる。だが全貌は見せぬ。百鬼夜行とはそういうものだ。

 

 屋根の上から木札が飛ぶ。

 柵の陰から石が飛ぶ。

 門脇の兵が倒れる。

 見えぬところから、一つずつ悪いことだけが起きる。

 

「ば、化け物……!」

 

「それでよい」

 

 秀吉は門へ掌を当てた。

 腹から通す。鬼の出力を、今度は棒ではなく板へ流す。

 どん、と鈍い音。

 閂が鳴る。内から弟が縄を落とした気配がわかった。

 

「開けい!」

 

 門が割れる。

 供回りが流れ込む。脚が軽い。だが転ばぬ。ここが鍛えたところだ。強くなった身体に振り回されず、きちんと相手を見て、段差で止まり、次へ移る。一群の将はそれを見て、少しだけ満足した。

 

 門内の広場は狭い。狭いところは好きだ。数が物を言わぬ。流れを握ったほうが勝つ。

 

 兵がまとまろうとする。

 その前へ飛ぶ。

 

「散れ」

 

 棒を振る。

 一人の兜を横から打ち割る。返しで膝を砕く。そこへ飛び込んだ別の兵の胸へ、鬼の力ごと肩をぶつける。息が潰れる。上から槍。半歩ずれる。棒で巻き込み、引き寄せ、そのまま額へ頭突き。血が飛ぶ。

 

 共回りも入る。

 二人一組でよく動いていた。片方が目を引き、片方が足を奪う。訓練の成果か、呪力で筋は強くなっている。だが強いだけでは使えぬ。今の連中は、その強さの半歩先をようやく覚え始めていた。

 

「右の櫓、押さえました!」

 

「裏坂、二人下ろしました!」

 

「よし、そのまま見ておれ!」

 

 声が飛ぶ。

 よい。ちゃんと回っておる。

 

 これが信長なら、もっと大きい。

 長秀が後ろで通せば、軍ごと一つの獣になる。

 だが今の秀吉にそこまでは無理だ。せいぜい顔がわかるなじみの部下に繋ぐのみ。それでも十分だった。十分に無法だった。

 

 砦の中央へ出た時、奥からようやく将らしき男が現れた。具足の良い男だ。怒鳴り声も太い。だが遅い。夜襲とはそういうものだ。将が前へ出る頃には、流れはもう決まりかけている。

 

「木下……!」

 

「残念、今は羽柴じゃ、覚えんでもよいぞ」

 

「猿め!」

 

「そういうのは、もっと早う言うべきじゃな」

 

 男が斬りかかる。

 真っ直ぐで悪くない。悪くないが、この夜には遅い。

 

 藤吉郎はわざと半歩引いた。太刀が空を切る。その切っ先へ棒を絡め、下へ払う。重心が泳ぐ。そこへ鬼の拳を鎧の合わせ目へ叩き込む。

 

 鈍い手応え。

 男の身体が浮く。

 そのまま踏み込み、肩で押し切る。男は後ろの柱へ叩きつけられ、息とも血ともつかぬものを吐いた。

 

「ぐ……」

 

「城とは、守れば堅いが」

 

 低く言った。

 

「喉を噛まれれば、案外もろい」

 

 棒を振り下ろす。

 男が沈む。

 

 あとは早かった。

 

 櫓が落ちる。

 裏坂が押さえられる。

 火をかけるまでもない。京極丸は、夜のうちに死んだ。死んだまま、まだ形だけ立っている。

 

 秀吉は息を吐いた。

 鬼を引く。猿の軽さだけが残る。腹の底がひどく空く。

 

「兄者」

 

 秀長が寄ってきた。頬に血がついている。自分のものではあるまい。

 

「落ちましたな」

 

「見ればわかる」

 

「百鬼夜行、ようございました」

 

「おぬしが門を開けたからじゃ」

 

「半兵衛殿は、策の功とおっしゃりそうでございます」

 

「それならそれで、あやつの顔も立つ」

 

 そこへ半兵衛が入ってくる。

 戦のあとでも、この男だけは妙に静かだ。

 

「御見事です」

 

「他人事のようじゃの」

 

「貴公の戦でしたので。他人事ですね」

 

 半兵衛は倒れた兵、荒れた門、押さえた櫓をひと通り見て、静かに頷いた。

 

「そして、想定より早いです。供回りもよく動いておりました。」

 

「鍛えたからの」

 

「素晴らしい」

 

 山の夜気の向こう、見えぬ湖のほうから風が抜けた。血の匂いを少しだけ薄めていく。半兵衛はその風を見た。何か言いたげだったが、今はまだ言わなかった。

 

 秀吉も追わぬ。

 今夜はまだ、武功の夜だ。

 土地の話、町の話はそのあとでよい。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 金ヶ崎で背を守るために覚えたものが、延暦寺で焼かれながら掴んだものが、今夜ようやく手札として噛み合った。

 

 猿は速い。

 鬼は重い。

 隠蔽は夜を深くする。

 供回りは、もうただの供ではない。

 

 手札と手札。

 理と理。

 それを継いで勝ち筋にする。

 

 なるほど、たしかに策というやつであった。

 

「さて」

 

 京極丸の奥を見据える。

 

「喉は噛み切った。あとは上が、どう息を詰めるかじゃな」

 

 山の上には、まだ小谷がある。

 親も子も、まだ終わってはいない。

 だが終わりの始まりとしては、今夜の手は悪くなかった。

 

 腹が減っていた。

 ひどく減っていた。

 

 それでも今夜ばかりは、次を見る気になっていた。。

 

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