呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1573 長浜

 

 褒美だと言われた時、木下藤吉郎改め羽柴秀吉はまず眉をひそめた。

 

「は?」

 

 名前が変わった時もそのようなことがあったような気がしたが、今回はその比ではなかった。

 

 織田信長は、いつものように人の顔色をうかがわない顔で座っていた。周りの家臣たちは、これがどれだけ大きな話かわかっているらしく、妙にかしこまっている。だが当の秀吉には、どうにも腹へ落ちなかった。

 

「浅井の旧領を、おぬしへ任せる」

 

 軽い。

 言葉が軽い。

 小刀でも一本投げ渡すみたいな調子で、国の話をする。

 

「……は?」

 

 もう一度言ってしまった。

 信長は少しだけ口元を上げた。機嫌が悪いわけではないらしい。だから余計に困る。

 

「何じゃ、その顔は。恩賞じゃぞ」

 

「いや、恩賞と申されましても」

 

 秀吉は思わず手を振った。

 

「わしに領主なんぞ務まるはずがありませぬでしょう。ましてや小谷を、でございますぞ」

 

 浅井の旧領。

 小谷の山。

 まだつい先日まで、人が死んでいた土地だ。名門の親子が腹を括り、妹君がいた家が潰れ、あれやこれやの情がまだ乾ききっておらぬ。そういうものを、いきなり「任せる」と言われて、はい喜んでと受け取れるほど、藤吉郎は鈍くもなかった。

 

 信長はその反応を、さして不思議とも思っていない顔だった。

 むしろ「まあそう言うであろうな」くらいの目つきである。腹が立つ。

 

「百姓上がりが、いきなり殿様にございますぞ」

 

「百姓であろうが猿であろうが、使えるなら同じことじゃ」

 

「同じではありませぬよ」

 

「同じじゃ」

 

 信長は言い切った。

 こういう時、この人は絶対に揺れぬ。

 

「城を取るだけでは足りぬ。取ったあとの土地も回さねばならぬ。おぬしはそこを覚えい」

 

 そこでほんの少しだけ、言葉が間を置いた。

 それから、いかにも面倒くさそうに付け加える。

 

「駒を使う事を覚えい」

 

 その一言で、秀吉の頭にぱっと何人かの顔が浮かんだ。

 

 弟。羽柴秀長。

 竹中半兵衛。

 いつもの供回り。

 荷を運び、声を掛け、棒で殴り、文句を言いながらもついてくる、あの顔ぶれ。

 

 駒。

 駒、か。

 

 昔の自分なら、そう呼ばれる側だった。いや、今も半分はそうだと思っている。信長の手の中で、前へ走らされ、横へ回され、気づけば危ないところへ突っ込んでいる。そんなことばかりやってきた。

 

 それがいつの間にか、使えと言われている。

 

「……ずいぶん遠くへ来たもので」

 

「今さら何を言う」

 

「いや、ほんに」

 

 苦笑いを漏らした。

 

「わしは百姓にございますぞ。いつの間にか侍ぶって戦までしておりましたが、腹の中身はそう変わっちゃおりませぬ」

 

「変わっておる」

 

 信長は即座に切った。

 

「そうでなければ、こんな話はせぬ」

 

 それで話は終わりだった。

 この人はいつもそうだ。返事を待たぬ。相手が腹へ落とすまで付き合ってもくれぬ。勝手に大事なものを投げてよこして、あとは何とかしろという顔をする。

 

 退出してからもしばらく、腑に落ちぬ顔をしていた。

 

 その顔を見て、弟が眉を下げた。

 

「兄者、そんなに嫌そうな顔をせんでも」

 

「嫌そうにもなるわ」

 

「大抜擢にございますぞ」

 

「そういう顔をしておるから、おぬしはまだ気楽でよい」

 

「気楽ではありませぬよ。兄者が領主になれば、こちらまで忙しうなります」

 

「ほれ見い。やはり気楽ではないか」

 

「理屈が雑でございます」

 

 弟は口を尖らせたが、秀吉のほうもそれどころではない。歩きながら、どうにも小谷の山が頭から離れぬ。名門の滅びだの、お市の方だの、そういう湿ったものがまだ土地へ染みている気がする。

 

 そこへ半兵衛が、いつもの静かな足取りで寄ってきた。

 

「秀吉殿」

 

「おう」

 

「嫌そうですね」

 

「嫌じゃよ」

 

 秀吉は素直に答えた。

 

「何じゃ領主て。わしにそんな大層なものが務まると思うか」

 

「務まると思われたのでしょう」

 

「人の心を逆撫でする天才じゃなおぬし」

 

「恐れ入ります」

 

 恐れ入っておらぬ顔である。

 

 ため息をつく。ため息もでようものだ。

 

「小谷じゃぞ。あの山じゃ。まだ死んだ者の息が残っておるような土地を、いきなりどうせえと言うのじゃ」

 

「小谷を治めよ、とは仰せになっておられないでしょう」

 

「……何?」

 

 半兵衛は少しだけ視線を上げた。

 その向こう、見えぬはずの北近江を見ているような目だった。

 

「国を回せ、と仰せだったはずです」

 

 それを聞いた時、秀吉は少しだけ黙った。

 

 城ではない。

 国。

 土地。

 人。

 

 そう言われると、ますます荷が重くなる。だが、不思議と少しだけ筋が通る気もした。信長が人を領地へ置く時というのは、たいてい人一倍働かせる時だ。いや、二倍か三倍かもしれぬ。ろくでもない。

 

「……見に行くか」

 

「はい」

 

 弟が即座に頷いた。

 

「見ぬうちに嫌がっておっても仕方ありますまい」

 

「おぬし、たまに兄に厳しいの」

 

「たまにではありませぬ」

 

 そうして数日後、羽柴一行は北近江へ向かっていた。

 

 小谷の山は、遠目にもまだ嫌な形をしていた。

 

 険しい。

 閉じている。

 人を寄せて暮らしを営むより、籠もって、睨んで、堪えるための城だ。戦のためにはよいのだろう。だが戦が終わったあと、人がそこでどう息をつくのか、藤吉郎にはあまり想像がつかなかった。

 

 山裾で馬を降りた半兵衛は、しかし小谷そのものにはあまり長く目をやらなかった。

 代わりに、湖のほうを見た。

 

 琵琶湖である。

 

 風が抜ける。

 水が光る。

 朝の靄がゆっくりと動いている。

 

 秀吉は半兵衛を半ばにらみ、腕を組んだ。

 

「城を見に来たのではないのか」

 

「見ましたよ」

 

「早いな」

 

「十分です」

 

 半兵衛は本当に十分という顔だった。

 

「城は死んでおります」

 

 さらりと言う。

 軽い口調ではない。だが重くもない。ただ事実を言う声だった。

 

「山の上に籠もるにはよろしいでしょう。睨みを利かせるにもよろしい。ですが、人を呼び、物を流し、長く国を生かすには向きませぬ」

 

「……城を貰うたのに、城を捨てろと言うのか」

 

「そうは申しておりません」

 

 半兵衛は湖のほうへ顎を向けた。

 

「国はまだ死んでおりません、と申しております」

 

 その言い方は静かだったが、妙に腹へ落ちた。

 

 半兵衛のまなざしの先を見る。

 湖。

 浜。

 舟が着けられる場所。

 荷が流れ、人が寄り、散り、また集まる場所。

 

 山より、よほど生き物の息がする。

 

「……なるほどの」

 

 ぽつりと漏れる。

 弟が横から口を挟んだ。

 

「兄者、あの浜あたりなら、舟もつけやすうございましょうな」

 

「おぬしまで、いきなりその気になるな」

 

「だって、兄者」

 

 弟は少しだけ笑った。

 

「小谷の上で暮らすより、よほど食えそうにございます」

 

 兄はつられて笑った。

 

「それはそうじゃ」

 

 食える。

 そこで、妙に腹へ落ちる。

 

 昔の自分なら、土地を見て最初に考えるのはそこだった。食えるか、食えぬか。家へ何を持ち帰れるか。腹が減る。どうやって埋めるか。

 

 今は違う。

 腹は相変わらず減っている。忌々しいことに、呪力の扱いが上手くなるほど、身体はよく動くくせに腹は余計に減る。戦のあとはもちろん、こうして朝から歩いて風を浴びているだけでも、底のほうが空いて仕方がない。

 

 だが今の自分は、食う側であると同時に、食わせる側へ回されようとしている。

 

「……妙なものじゃの」

 

「何がです」

 

 弟が訊く。

 

「いや」

 

 秀吉は湖を見たまま言った。

 

「忌々しいことに、呪力のせいで腹は減っておる。じゃが、いつの間にか、わしは食うだけでなく、食わせる側へ回されてしもうたらしい」

 

 弟が少し目を丸くする。

 半兵衛は何も言わぬ。ただ、ほんのわずかに口元が緩んだ。

 

「悪いことではありますまい」

 

 と、半兵衛が言った。

 

「悪くはない」

 

「でしょう」

 

「じゃが、急すぎる」

 

「それは否定いたしません」

 

 否定せぬのか、とは思ったが、それで少しだけ気が楽になった。半兵衛まで「最初からあなたなら当然できます」みたいな顔をすると、こっちの腹が余計に立つ。急だと認めた上で、それでもやるしかないと言われるほうがまだよい。

 

 しばらく三人で黙って湖を見た。

 

 風が抜ける。

 水面がきらつく。

 遠くで舟が小さく動いている。

 

 その光景を見ていると、小谷の山に残っている嫌な気配が、少しだけ遠くへ退く気がした。

 

「半兵衛」

 

「はい」

 

「おぬし、風水とかそういうものがわかるのであろう」

 

「少々は」

 

「それは、吉凶を当てる類のものか」

 

 半兵衛は首を振った。

 

「そんな大層なものではございません。水と風と人の流れを、どこで溜め、どこで抜くかを見るだけです」

 

「戦も同じじゃな」

 

「ええ」

 

 半兵衛はあっさり頷いた。

 

「戦も町も同じです。淀みを見つけ、流れを変える。手札と手札、理と理を組み合わせる。それを策と申します」

 

 それを聞いた時、秀吉は鼻で笑った。

 

「おぬし、結局そこへ戻すのう」

 

「好きなのです、そういう理屈が」

 

「知っておる」

 

「秀吉殿も一緒でしょう?同類ですよ、私たちは」

 

 自分がぱちくりと目を瞬いたことがわかる。

 そして、もう一度湖を見る。

 

 長く生きる町。

 人が寄る町。

 荷が流れる町。

 食える町。

 

 小谷の残骸を抱えたままではいかぬ。

 ならば、嫌でも手を入れねばならぬのだろう。

 

「……城は、どうでもよいわけではないぞ」

 

「それはもちろん」

 

「じゃが、あの山にこだわりすぎるのも違う気がしてきた」

 

「そうでしょう」

 

 半兵衛はまた頷いた。

 当たり前のことのように頷くのが、少しだけ腹立たしい。だが嫌ではない。

 

「兄者」

 

 弟が言う。

 

「名はどう致します」

 

「名?」

 

「このまま今浜でもようございましょうが」

 

 藤吉郎は少し考えた。

 浜。

 長く。

 流れ。

 信長の「長」の字がふと頭をよぎる。

 

「……長浜、でよいかもしれぬな」

 

 口に出すと、妙に座りがよかった。

 弟が小さく繰り返す。

 

「長浜」

 

 半兵衛もそれを口の中で転がして、それから静かに言った。

 

「よい名です」

 

「そうか?」

 

「ええ。長く、浜に人が寄る」

 

「今、ちょっと後づけしたじゃろ」

 

「いえ、最初からそう思っておりました」

 

「嘘をつけ」

 

 呵々と笑った。いつ頃ぶりかわからない。信長旗下に入ってからは無茶な要求への苦笑いばかりで、もっと昔は生きるのに必死で笑ってなどいなかったように思う。

 

 不思議なもので、笑ってしまうと、さっきまであった小谷のじっとりした気配がまた少し薄くなる。消えはせぬ。消えはせぬが、ずっとそこに居座られても困るのだ。ならばこっちは、こっちで別の流れを通すしかない。

 

 わしは百姓じゃ。

 いつの間にか侍ぶって、戦をして、城を落として、鬼だ猿だと騒いでおるが、もとはそう大したものではない。

 

 だが百姓なればこそ、食うことは知っておる。

 食えぬ苦しさも知っておる。

 ならば食わせることも、少しはわかるかもしれぬ。

 

 そう思うと、領主という言葉も、さっきより少しだけ腹へ落ちた。

 

「……いつの間にか、使われる側から使う側になったのう」

 

 ぼそりと言うと、弟が即座に返した。

 

「今さらでございます」

 

「今さらとは何じゃ」

 

「兄者は昔から人を振り回しておられました」

 

「それはひどい言い草じゃな」

 

「供回りに聞いてみればよろしい」

 

「聞かぬ。あやつら調子に乗る」

 

 半兵衛が少しだけ笑う。

 

「ですが、これからはもっと使っていただかねば困ります」

 

「おぬしまでそう言うか」

 

「もちろんです」

 

 柔らかいが、逃がさぬ声だった。

 

「城を取るだけでは足りません。取ったあとの土地を、どう生かすか。信長公は、そこを見ておられるのでしょう」

 

「……そうじゃろうな」

 

 秀吉は湖を見ながら言った。

 

 信長は、こういうところがある。

 一つの戦に勝った、その先まで平然と見ている。こっちがまだ血の匂いの中に立っておるのに、もう次の流れを寄越してくる。

 

 ろくでもない。

 だが、そのろくでもなさが時にひどく遠い。

 

 全戦全勝など最初から目指しておらぬような、そんな遠さだ。

 人を一人一人、場所へ当てて、勝ち負けのその先まで盤へ置いていく。信長にとっては、自分もまた、その駒の一つなのだろう。

 

 そう思うと少し腹が立つ。

 少し腹が立つが、悪い気もしない。

 

「よし」

 

 立ったまま膝を叩いた。

 

「まずは浜を見て回るぞ。舟着き、道、泊まり場、蔵の置き所、商人を寄せる場所、飯の炊ける場所」

 

「最後だけ兄者らしゅうございます」

 

「最後が一番大事じゃ」

 

「それはそうでございます」

 

「半兵衛、おぬしは風の抜けを見よ」

 

「承知しました」

 

「弟は人足を数えよ」

 

「はい」

 

「……いや待て」

 

 少し首をひねった。

 

「わし、ほんに領主みたいなことを言い始めておるな」

 

「ようやくでございます」

 

「遅いくらいです」

 

 弟と半兵衛の声が重なる。

 秀吉は顔をしかめ、すぐに笑った。

 

「うるさいの」

 

 そう言って三人で湖畔へ下りていく。

 

 風が抜ける。

 水が光る。

 腹は減っている。

 

 だが今は、その空腹が少しだけ気持ちよかった。

 遠くへ来てしまった。ほんに遠くへ。

 それでも、まだ前へ行ける気がする。行かされる、と言うほうがたぶん正しいのだろうが、それでもよい。

 

 羽柴秀吉は、小谷の死の気配を背にして、これから長浜と呼ぶことになる浜へ下りていった。

 

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