呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
褒美だと言われた時、木下藤吉郎改め羽柴秀吉はまず眉をひそめた。
「は?」
名前が変わった時もそのようなことがあったような気がしたが、今回はその比ではなかった。
織田信長は、いつものように人の顔色をうかがわない顔で座っていた。周りの家臣たちは、これがどれだけ大きな話かわかっているらしく、妙にかしこまっている。だが当の秀吉には、どうにも腹へ落ちなかった。
「浅井の旧領を、おぬしへ任せる」
軽い。
言葉が軽い。
小刀でも一本投げ渡すみたいな調子で、国の話をする。
「……は?」
もう一度言ってしまった。
信長は少しだけ口元を上げた。機嫌が悪いわけではないらしい。だから余計に困る。
「何じゃ、その顔は。恩賞じゃぞ」
「いや、恩賞と申されましても」
秀吉は思わず手を振った。
「わしに領主なんぞ務まるはずがありませぬでしょう。ましてや小谷を、でございますぞ」
浅井の旧領。
小谷の山。
まだつい先日まで、人が死んでいた土地だ。名門の親子が腹を括り、妹君がいた家が潰れ、あれやこれやの情がまだ乾ききっておらぬ。そういうものを、いきなり「任せる」と言われて、はい喜んでと受け取れるほど、藤吉郎は鈍くもなかった。
信長はその反応を、さして不思議とも思っていない顔だった。
むしろ「まあそう言うであろうな」くらいの目つきである。腹が立つ。
「百姓上がりが、いきなり殿様にございますぞ」
「百姓であろうが猿であろうが、使えるなら同じことじゃ」
「同じではありませぬよ」
「同じじゃ」
信長は言い切った。
こういう時、この人は絶対に揺れぬ。
「城を取るだけでは足りぬ。取ったあとの土地も回さねばならぬ。おぬしはそこを覚えい」
そこでほんの少しだけ、言葉が間を置いた。
それから、いかにも面倒くさそうに付け加える。
「駒を使う事を覚えい」
その一言で、秀吉の頭にぱっと何人かの顔が浮かんだ。
弟。羽柴秀長。
竹中半兵衛。
いつもの供回り。
荷を運び、声を掛け、棒で殴り、文句を言いながらもついてくる、あの顔ぶれ。
駒。
駒、か。
昔の自分なら、そう呼ばれる側だった。いや、今も半分はそうだと思っている。信長の手の中で、前へ走らされ、横へ回され、気づけば危ないところへ突っ込んでいる。そんなことばかりやってきた。
それがいつの間にか、使えと言われている。
「……ずいぶん遠くへ来たもので」
「今さら何を言う」
「いや、ほんに」
苦笑いを漏らした。
「わしは百姓にございますぞ。いつの間にか侍ぶって戦までしておりましたが、腹の中身はそう変わっちゃおりませぬ」
「変わっておる」
信長は即座に切った。
「そうでなければ、こんな話はせぬ」
それで話は終わりだった。
この人はいつもそうだ。返事を待たぬ。相手が腹へ落とすまで付き合ってもくれぬ。勝手に大事なものを投げてよこして、あとは何とかしろという顔をする。
退出してからもしばらく、腑に落ちぬ顔をしていた。
その顔を見て、弟が眉を下げた。
「兄者、そんなに嫌そうな顔をせんでも」
「嫌そうにもなるわ」
「大抜擢にございますぞ」
「そういう顔をしておるから、おぬしはまだ気楽でよい」
「気楽ではありませぬよ。兄者が領主になれば、こちらまで忙しうなります」
「ほれ見い。やはり気楽ではないか」
「理屈が雑でございます」
弟は口を尖らせたが、秀吉のほうもそれどころではない。歩きながら、どうにも小谷の山が頭から離れぬ。名門の滅びだの、お市の方だの、そういう湿ったものがまだ土地へ染みている気がする。
そこへ半兵衛が、いつもの静かな足取りで寄ってきた。
「秀吉殿」
「おう」
「嫌そうですね」
「嫌じゃよ」
秀吉は素直に答えた。
「何じゃ領主て。わしにそんな大層なものが務まると思うか」
「務まると思われたのでしょう」
「人の心を逆撫でする天才じゃなおぬし」
「恐れ入ります」
恐れ入っておらぬ顔である。
ため息をつく。ため息もでようものだ。
「小谷じゃぞ。あの山じゃ。まだ死んだ者の息が残っておるような土地を、いきなりどうせえと言うのじゃ」
「小谷を治めよ、とは仰せになっておられないでしょう」
「……何?」
半兵衛は少しだけ視線を上げた。
その向こう、見えぬはずの北近江を見ているような目だった。
「国を回せ、と仰せだったはずです」
それを聞いた時、秀吉は少しだけ黙った。
城ではない。
国。
土地。
人。
そう言われると、ますます荷が重くなる。だが、不思議と少しだけ筋が通る気もした。信長が人を領地へ置く時というのは、たいてい人一倍働かせる時だ。いや、二倍か三倍かもしれぬ。ろくでもない。
「……見に行くか」
「はい」
弟が即座に頷いた。
「見ぬうちに嫌がっておっても仕方ありますまい」
「おぬし、たまに兄に厳しいの」
「たまにではありませぬ」
そうして数日後、羽柴一行は北近江へ向かっていた。
小谷の山は、遠目にもまだ嫌な形をしていた。
険しい。
閉じている。
人を寄せて暮らしを営むより、籠もって、睨んで、堪えるための城だ。戦のためにはよいのだろう。だが戦が終わったあと、人がそこでどう息をつくのか、藤吉郎にはあまり想像がつかなかった。
山裾で馬を降りた半兵衛は、しかし小谷そのものにはあまり長く目をやらなかった。
代わりに、湖のほうを見た。
琵琶湖である。
風が抜ける。
水が光る。
朝の靄がゆっくりと動いている。
秀吉は半兵衛を半ばにらみ、腕を組んだ。
「城を見に来たのではないのか」
「見ましたよ」
「早いな」
「十分です」
半兵衛は本当に十分という顔だった。
「城は死んでおります」
さらりと言う。
軽い口調ではない。だが重くもない。ただ事実を言う声だった。
「山の上に籠もるにはよろしいでしょう。睨みを利かせるにもよろしい。ですが、人を呼び、物を流し、長く国を生かすには向きませぬ」
「……城を貰うたのに、城を捨てろと言うのか」
「そうは申しておりません」
半兵衛は湖のほうへ顎を向けた。
「国はまだ死んでおりません、と申しております」
その言い方は静かだったが、妙に腹へ落ちた。
半兵衛のまなざしの先を見る。
湖。
浜。
舟が着けられる場所。
荷が流れ、人が寄り、散り、また集まる場所。
山より、よほど生き物の息がする。
「……なるほどの」
ぽつりと漏れる。
弟が横から口を挟んだ。
「兄者、あの浜あたりなら、舟もつけやすうございましょうな」
「おぬしまで、いきなりその気になるな」
「だって、兄者」
弟は少しだけ笑った。
「小谷の上で暮らすより、よほど食えそうにございます」
兄はつられて笑った。
「それはそうじゃ」
食える。
そこで、妙に腹へ落ちる。
昔の自分なら、土地を見て最初に考えるのはそこだった。食えるか、食えぬか。家へ何を持ち帰れるか。腹が減る。どうやって埋めるか。
今は違う。
腹は相変わらず減っている。忌々しいことに、呪力の扱いが上手くなるほど、身体はよく動くくせに腹は余計に減る。戦のあとはもちろん、こうして朝から歩いて風を浴びているだけでも、底のほうが空いて仕方がない。
だが今の自分は、食う側であると同時に、食わせる側へ回されようとしている。
「……妙なものじゃの」
「何がです」
弟が訊く。
「いや」
秀吉は湖を見たまま言った。
「忌々しいことに、呪力のせいで腹は減っておる。じゃが、いつの間にか、わしは食うだけでなく、食わせる側へ回されてしもうたらしい」
弟が少し目を丸くする。
半兵衛は何も言わぬ。ただ、ほんのわずかに口元が緩んだ。
「悪いことではありますまい」
と、半兵衛が言った。
「悪くはない」
「でしょう」
「じゃが、急すぎる」
「それは否定いたしません」
否定せぬのか、とは思ったが、それで少しだけ気が楽になった。半兵衛まで「最初からあなたなら当然できます」みたいな顔をすると、こっちの腹が余計に立つ。急だと認めた上で、それでもやるしかないと言われるほうがまだよい。
しばらく三人で黙って湖を見た。
風が抜ける。
水面がきらつく。
遠くで舟が小さく動いている。
その光景を見ていると、小谷の山に残っている嫌な気配が、少しだけ遠くへ退く気がした。
「半兵衛」
「はい」
「おぬし、風水とかそういうものがわかるのであろう」
「少々は」
「それは、吉凶を当てる類のものか」
半兵衛は首を振った。
「そんな大層なものではございません。水と風と人の流れを、どこで溜め、どこで抜くかを見るだけです」
「戦も同じじゃな」
「ええ」
半兵衛はあっさり頷いた。
「戦も町も同じです。淀みを見つけ、流れを変える。手札と手札、理と理を組み合わせる。それを策と申します」
それを聞いた時、秀吉は鼻で笑った。
「おぬし、結局そこへ戻すのう」
「好きなのです、そういう理屈が」
「知っておる」
「秀吉殿も一緒でしょう?同類ですよ、私たちは」
自分がぱちくりと目を瞬いたことがわかる。
そして、もう一度湖を見る。
長く生きる町。
人が寄る町。
荷が流れる町。
食える町。
小谷の残骸を抱えたままではいかぬ。
ならば、嫌でも手を入れねばならぬのだろう。
「……城は、どうでもよいわけではないぞ」
「それはもちろん」
「じゃが、あの山にこだわりすぎるのも違う気がしてきた」
「そうでしょう」
半兵衛はまた頷いた。
当たり前のことのように頷くのが、少しだけ腹立たしい。だが嫌ではない。
「兄者」
弟が言う。
「名はどう致します」
「名?」
「このまま今浜でもようございましょうが」
藤吉郎は少し考えた。
浜。
長く。
流れ。
信長の「長」の字がふと頭をよぎる。
「……長浜、でよいかもしれぬな」
口に出すと、妙に座りがよかった。
弟が小さく繰り返す。
「長浜」
半兵衛もそれを口の中で転がして、それから静かに言った。
「よい名です」
「そうか?」
「ええ。長く、浜に人が寄る」
「今、ちょっと後づけしたじゃろ」
「いえ、最初からそう思っておりました」
「嘘をつけ」
呵々と笑った。いつ頃ぶりかわからない。信長旗下に入ってからは無茶な要求への苦笑いばかりで、もっと昔は生きるのに必死で笑ってなどいなかったように思う。
不思議なもので、笑ってしまうと、さっきまであった小谷のじっとりした気配がまた少し薄くなる。消えはせぬ。消えはせぬが、ずっとそこに居座られても困るのだ。ならばこっちは、こっちで別の流れを通すしかない。
わしは百姓じゃ。
いつの間にか侍ぶって、戦をして、城を落として、鬼だ猿だと騒いでおるが、もとはそう大したものではない。
だが百姓なればこそ、食うことは知っておる。
食えぬ苦しさも知っておる。
ならば食わせることも、少しはわかるかもしれぬ。
そう思うと、領主という言葉も、さっきより少しだけ腹へ落ちた。
「……いつの間にか、使われる側から使う側になったのう」
ぼそりと言うと、弟が即座に返した。
「今さらでございます」
「今さらとは何じゃ」
「兄者は昔から人を振り回しておられました」
「それはひどい言い草じゃな」
「供回りに聞いてみればよろしい」
「聞かぬ。あやつら調子に乗る」
半兵衛が少しだけ笑う。
「ですが、これからはもっと使っていただかねば困ります」
「おぬしまでそう言うか」
「もちろんです」
柔らかいが、逃がさぬ声だった。
「城を取るだけでは足りません。取ったあとの土地を、どう生かすか。信長公は、そこを見ておられるのでしょう」
「……そうじゃろうな」
秀吉は湖を見ながら言った。
信長は、こういうところがある。
一つの戦に勝った、その先まで平然と見ている。こっちがまだ血の匂いの中に立っておるのに、もう次の流れを寄越してくる。
ろくでもない。
だが、そのろくでもなさが時にひどく遠い。
全戦全勝など最初から目指しておらぬような、そんな遠さだ。
人を一人一人、場所へ当てて、勝ち負けのその先まで盤へ置いていく。信長にとっては、自分もまた、その駒の一つなのだろう。
そう思うと少し腹が立つ。
少し腹が立つが、悪い気もしない。
「よし」
立ったまま膝を叩いた。
「まずは浜を見て回るぞ。舟着き、道、泊まり場、蔵の置き所、商人を寄せる場所、飯の炊ける場所」
「最後だけ兄者らしゅうございます」
「最後が一番大事じゃ」
「それはそうでございます」
「半兵衛、おぬしは風の抜けを見よ」
「承知しました」
「弟は人足を数えよ」
「はい」
「……いや待て」
少し首をひねった。
「わし、ほんに領主みたいなことを言い始めておるな」
「ようやくでございます」
「遅いくらいです」
弟と半兵衛の声が重なる。
秀吉は顔をしかめ、すぐに笑った。
「うるさいの」
そう言って三人で湖畔へ下りていく。
風が抜ける。
水が光る。
腹は減っている。
だが今は、その空腹が少しだけ気持ちよかった。
遠くへ来てしまった。ほんに遠くへ。
それでも、まだ前へ行ける気がする。行かされる、と言うほうがたぶん正しいのだろうが、それでもよい。
羽柴秀吉は、小谷の死の気配を背にして、これから長浜と呼ぶことになる浜へ下りていった。