呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
長浜は、近ごろ妙に人が増えていた。
増えている、というより流れ込んでくると言ったほうが近い。田畑の様子を見に出れば、新しく見かける顔がある。市場へ顔を出せば、知らぬ訛りが聞こえる。城下の端では、勝手に小屋を建てて住み着こうとする者まで出る始末だった。
木下藤吉郎――いや、もう羽柴秀吉である――は、朝からその報せを聞かされて、机に頬杖をついた。
「増えすぎではないか」
書付を読む秀吉の前で、竹中半兵衛が静かに笑った。
「贅沢な悩みですな」
「贅沢すぎて困るわ。田は増えぬ、道は細い、井戸の数にも限りがある。人が増えれば飯も要るし、揉め事も増える。わしは人が来ぬ土地をどうにかするつもりでおったのに、来すぎるのも考えものじゃ」
ねねが、隣で呆れたように言った。
「前は前で、人が来ぬ、銭が足りぬ、腹が減るって言ってたじゃないの」
「それはそうじゃが」
「来てくれるうちは来てもらえばいいでしょう。出ていかれるより、ずっとましだわ」
「だからそのうち、少し締めようかと思うてな」
秀吉がそう言った瞬間、ねねの顔がすっと冷えた。
「何を締めるの」
「いや、何も追い返すとまでは言わぬ。だが、少しばかり勝手を――」
「だめ」
即答だった。
半兵衛がまた笑う。
秀吉は顔をしかめた。
「おぬしまで笑うな」
「いえ、失礼。ただ、奥方様の仰る通りかと」
「半兵衛まで」
「人が来る土地というのは、それだけで強い。田も、町も、いずれ人が呼びまする。いま急いて絞れば、せっかく整い始めた流れを自分でせき止めることになりましょう」
「流れ流れと、おぬしは何でも水みたいに言うの」
「土地も人も、似たようなものです」
さらりと言う。
風水の男は、いつもこうだ。話の筋は通っているくせに、どこか人を煙に巻く。だがその煙の向こう側で、ちゃんと田は荒れず、村は揉めず、井戸は枯れず、変な呪いも溜まりにくい。結果だけ見ると、腹が立つほど正しい。
秀吉は鼻を鳴らした。
「わかったわかった。来たい者は来させよう。どうせそのうち、わしのほうが音を上げる」
「今も上げているように見えますが」
「うるさい」
ねねが笑った。
その笑いに釣られて、秀吉も少しだけ肩の力を抜く。
こういう時、長浜はよい、と思う。
半兵衛が土地の流れを見て、ねねが人の暮らしへ引き戻す。自分はそのあいだで走り回っていれば、案外なんとかなる。呪いも、飢えも、戦場ほどべたついてこない。全部がきれいに収まるわけではないが、少なくとも「生きていける土地」になっていく感触があった。
それは、悪くなかった。
悪くなかったのだが、だからこそ嫌な予感もした。
こういう時に限って、信長から呼びが来る。
その日の昼過ぎ、案の定、使者が来た。
書付を読んだ秀吉は、しばらく無言だった。
ねねがじっと顔を見る。
「何」
「呼ばれた」
「信長様?」
「そう」
「嫌な顔してる」
「嬉しさ半分、嫌な予感半分じゃ」
秀吉は正直に言った。
「いや、三分の二くらい嫌な予感かもしれぬ」
ねねが肩をすくめる。
「それでも行くんでしょう」
「行くとも」
秀吉は立ち上がった。
「半兵衛とこうして田畑見てるのも悪くはないが、やはりわしは、いくさのほうが向いておる」
そう言いながら、腹の底では少しだけ別のことも思っていた。
本当にそうか、と。
だがその問いに長く留まる暇はない。信長に呼ばれて行かぬわけにはいかぬし、行かねばたぶん後悔する。あの人は、そういう人だ。
「じゃあ行ってらっしゃい」
ねねがあっさり言う。
「ただし、また変なもの背負って帰ってこないでよ」
「無茶を申すな」
「無茶を言ってるのは信長様でしょう」
それには秀吉も反論できなかった。
長浜を発って数日、現地へ着く頃には、秀吉はすっかり「戦」の顔になっていた。
長篠。
武田勝頼。
有名すぎるほど有名な大戦の匂いが、道中からぷんぷんしていた。織田と徳川が組み、武田を受ける。兵の数、地形、流言、補給。どれも大きい。大きい戦になるだろうとは、秀吉も思っていた。
だから現地で最初に見たものには、さすがに少し面食らった。
「……何をしておるのじゃ、これは」
目の前には、山があった。
銃の山である。
弾丸の山でもある。
火薬、木箱、槍立て、札、布、墨、記録係、運ぶ者、詰める者、積む者、数える者、呪力を通す者。戦場というより、どこかの気の狂った工房だった。
その中心に、丹羽長秀がいた。
目が死んでいた。
「来たか」
第一声がそれだった。
声そのものはいつもの長秀だ。落ち着いているし、言葉も整っている。だが目だけが違う。焦点は合っているのに、生気が薄い。きちんとした人間がきちんとしたまま過労の向こう側へ行くと、こういう顔になるのだな、と秀吉は変に感心した。
「何をしておるのですか、と聞いたのですが」
「見てわからんか」
「見てわかることと、わかりたくないことは別です」
長秀が小さく鼻を鳴らす。
笑ったのだろう。たぶん。
「弾だ」
「それは見ればわかります」
「呪力を込めている」
「それも見ればわかります」
「なら手伝え」
あまりに自然に言うものだから、秀吉は一瞬聞き返しそうになった。
「手伝え、と申したか」
「そうだ」
「戦は?」
「これが戦だ」
長秀は即答した。
その即答の仕方が、妙に信長っぽくて秀吉はむっとする。
「いや、そうではなく」
「武田は来る。こちらは迎え撃つ。そのために鉄砲を並べる。鉄砲に込める弾が要る。その弾へ、信長様が集めた呪力を落とす。間に合わねば撃てぬ。撃てねば死ぬ。何かおかしいか」
秀吉はしばらく黙った。
理屈はわかる。
わかるが、こう、もう少し、何というか、あるだろう。戦場の花とか、主役っぽさとか、晴れ舞台とか。そういうものが、目の前には一切ない。あるのは山ほどの鉛玉と、死んだ目をした丹羽と、ひたすら手を動かす連中ばかりである。
「……何だか、思うていたのと違うのう」
「私もだ」
長秀は淡々と言った。
「だが足りておる」
「何がです」
「呪力は足りている。流れも間に合っている」
「ならよいではありませぬか」
「手が足りぬ」
秀吉は黙って銃と弾丸の山を見た。
なるほど。
たしかに、これは手が要る。
弾丸ひとつひとつへ呪力を込める。銃へ術式の痕を通す。札で分類し、火薬と合わせ、渡し先を間違えぬよう積む。しかも量が頭がおかしい。呪力も流れも足りているのに、人の手だけが追いついていない。地味で、致命的な不足だった。
秀吉はため息をついた。
「信長様は」
「向こうだ」
長秀が顎で奥を示した。
そちらを見ると、少し離れたところで、信長が座していた。
座している、というより、そこにいるだけで周囲の空気の向きが決まっている。兵が近づき、札が運ばれ、銃弾の箱が積まれ、そのたびに人の緊張と期待と怯えがあの人へ寄っていく。そして寄っていったものが、熱へ変わるのが秀吉には見えた。
信長の術式の本質は、怨嗟や恐れの吸引と呪力化だ。
本来なら、あの人自身の中で焼かれるはずのもの。
それがいま、ここでは違う形を取っている。
軍の火力だ。
兵器への分配だ。
集権された熱が、鉄砲と鉛へ落ちていく。
秀吉は舌の先で歯をなぞった。
「……とんでもないことを考えつくものじゃの」
「いまさらか」
長秀の声は淡々としている。
だが、その淡々とした声の下にうっすら疲労がにじむのが、今日は妙に面白かった。
「手伝え、羽柴」
「そう急かさずとも」
「急ぐ」
「目が死んでおりますよ、丹羽殿」
「お前もすぐそうなる」
「嫌な予言をする」
そう言いつつ、秀吉は積まれた銃弾のひとつを手に取った。
重い。
ただの鉛の重みだけではない。まだ火は入っていないが、既に器としての重みがある。
秀吉は呪力を通してみた。
が、思ったほど乗らない。
「む」
「そうだろう」
長秀が言う。
「ただ流すだけでは足りん。しかし信長様の呪力は濃い。濃すぎる。私の術式で中継し、薄く分け、向きを整えてようやく落とせる」
「丹羽殿みたいに器用に流せぬのですが」
「私もお前のように現場で飛んだり跳ねたりはできん」
「それは別にいま必要ないでしょう」
「うるさい。手を動かせ」
秀吉はもう一度やってみる。
やはり効率が悪い。呪力自体が足りぬのではない。こちらの手の向きと、流す先の質が合わぬのだ。秀吉の猿学は、本来もっと“盗んで使う”側であって、ひたすら均質な流れを維持する仕事にはあまり向いていない。
長秀はそれでも淡々と作業を続けている。
信長のほうから来る熱を、いったん受け、整え、分け、銃と弾と人へ流す。しかも平行でいくつもだ。無駄に器用である。いや、無駄ではないのだが、こうして横で見ると少し腹が立つほど器用だった。
「……待てよ」
秀吉はふと顔を上げた。
「何だ」
「信長様の術を借りればよいのではないか」
長秀の手が一瞬だけ止まる。
「どういう意味だ」
「信長様の呪力そのものを、信長様の術の理で一度こちらへ引く」
「引く?」
「それを丹羽殿の術理で流す。わしがやる。つまり信長様から見れば、おぬしを一人増やすようなものじゃ」
長秀は無言で秀吉を見た。
その顔が、過労で死んでいる目のまま、わずかに「面倒なことを思いついたな」と言っているように見えた。
「できるのか」
「たぶん」
「たぶんで言うな」
「やってみぬとわからぬでしょうが」
秀吉は立ち上がると、そのまま信長のほうへ行った。
あの人は、こちらが近づいても顔を上げなかった。
上げないまま、言う。
「遅い」
「着いて早々こき使われております」
「そういう時のために呼んだ」
「ありがたいようなありがたくないような」
信長はそこでようやく少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「何だ」
「信長様の呪力を、わしが一度引き取りたい」
信長の目が、秀吉へ向く。
それだけで喉が少し鳴る。
「ほう」
「丹羽殿の流しに乗せれば、手が増えます」
「お前が中継するのか」
「そうにございます。信長様の術の理を借りれば、いけるかと」
信長はしばし黙った。
普通ならおかしい。
信長の本来の術式は、怨嗟や恐れを吸って呪力へ変えるものだ。ただの呪力そのものを誰かが横から引き取るのは筋が違う。違うのだが、筋が違うことを可能にするのが猿学であり、信長の理を借りたうえで信長の呪力を扱うという、この妙な例外だった。
「よい」
信長は短く言った。
「やれ」
返事が速い。
秀吉は内心で少しだけ安堵し、少しだけ嫌な予感もした。こういう時の「よい」は、だいたい後からしんどい。
案の定、しんどかった。
最初のひと流しで、秀吉は歯を食いしばった。
「っ……!」
熱い。
熱いというより、重い。
いや、重さとも違う。信長の呪力には、あの人の周囲へ集まってきたざらつきが混ざっている。兵の恐れ、敵への殺意、勝てるかどうかの不安、勝ってしまえという期待、その全部が熱へ変わったものが一度に来る。
「羽柴!」
長秀の声。
秀吉は慌てて意識を切り替えた。借りた理で引き、丹羽の理で流す。ひとつの器として抱え込んではならぬ。通す。整える。分ける。銃へ、弾へ、人へ。
流れた。
長秀の目がわずかに見開く。
「……通ったな」
「通りましたわ!」
秀吉はぜいと息をつく。
「先に言っておきますが、これは長くやりとうない」
「私もだ」
「でもやるのでしょう」
「やる」
「最悪じゃのう」
そのあと、二人はひたすら働いた。
信長から熱が来る。
長秀が広く分ける。
秀吉がその一部をさらに引き受け、流し、銃と弾へ落とす。
札を切る者、火薬を合わせる者、箱を運ぶ者、記す者、積む者。みな働く。よく働く。戦場よりよほど喋らぬ。喋っている暇がない。
戦はいつか、翌週か、三日後か、明日か。戦端は神仏のみぞ知るか。なのに秀吉は、ひたすら鉛玉へ呪力を込めている。
「これ、わし戦に来たのですよな」
手を動かしながら言うと、長秀が即座に返した。
「そうだ」
「ずっと座っておるのですが」
「戦だ」
「首の一つも取りませぬぞ」
「取るための矢玉を、お前はいま作っておる」
「嫌な言い方じゃのう」
「本当のことだ」
秀吉は口をへの字にしたまま、また弾へ呪力を落とした。
呪力は足りている。
流れも間に合っている。
だが手が足りぬ。
その言葉が、作業を続けるうちに妙に腹へ落ちてきた。
戦というと、どうしても前へ出る者ばかり目立つ。槍を振るう者、首を取る者、夜を駆ける者。秀吉自身、そういう側の人間だ。そういう側に向いていると、自分でも思っている。
だが、それだけでは戦は成立せぬ。
鉄砲が並ぶなら、弾が要る。
弾があるなら、火薬が要る。
火薬があるなら、運ぶ人手が要る。
運ぶなら、道が要る。
道があるなら、飯が要る。
その全部へ、呪力の流れを落とし込む者が要る。
兵站こそ戦争。
そんな言い方を誰かにされた覚えはない。
だが秀吉は、その日、鉛の冷たさと信長の熱と丹羽の死んだ目のあいだで、それを腹で知った。
日が傾く頃には、秀吉もだいぶ目が死んでいた。
「……丹羽殿」
「何だ」
「これもまた、戦か」
長秀が、珍しくはっきり笑った。
「ようやくわかったか」
「わかりとうなかった」
「お前は現場向きだからな」
「長浜へ帰りたい」
「私もだ」
二人でしばらく無言になった。
その沈黙の向こうで、また遠く、戦の音がした気がした。
秀吉は手を止めなかった。
止められなかった。止めれば死ぬのだ。自分が、ではない。前線の誰かが。鉄砲を撃つ誰かが。あるいは、信長の描く大きな戦そのものが。
そう思うと、ひどくおかしかった。
笑い話のようだ。
なのに少しも笑えない。
秀吉は次の弾丸を手に取り、そこへまた熱を流し込んだ。
これもまた戦。
そう思った瞬間、腹の底で何かが静かに形を変えた。