呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1575 越前一向一揆

 

 

 長篠の戦が終わって、ようやく一息つけるかと思ったのが間違いだった。

 

 羽柴秀吉は馬上で北風に吹かれながら、これはもう織田家というより織田の市か座か何かの人使いの問題ではなかろうか、と本気で考えていた。武田をくじいた。そのまま寝かせぬ。休ませぬ。傷の浅い者は荷を引かせ、傷の深い者は後ろへ回し、主だった将はそのまま次の戦へ向かわせる。信長はたぶん人を人と思っておらぬ。いや、思っているからこそ使い切るのかもしれぬが、それはそれで質が悪い。

 

「どうした、羽柴」

 

 前を行く柴田勝家が振り返りもせずに言った。

 

「顔が死んでおるぞ」

 

「長篠のあとにそのまま越前へ来れば、誰でも半分は死にますわ」

 

「半分で済んでおるなら結構」

 

「そういう問題ではない」

 

 勝家は鼻を鳴らした。

 相変わらず太い背中だった。この人は、疲れておる時ほど逆に機嫌が良く見えることがある。戦う理由がはっきりしておる時は、余計なことを考えずに済むからかもしれぬ。

 

 越前である。

 

 一向一揆。

 しかも越前のそれは、ただの寄せ集めではない。国人、土豪、門徒、寺内の力が長く絡まり、国そのものを食うように広がっていた。美濃や近江でちらちら見たものとも違う。根が深い。信仰が太い。土地にこびりついている。

 

 だが秀吉は、どこかでまだ軽く見ていた。

 

 一揆は一揆だ。群れれば厄介でも、しょせん武家の鍛えとは違う。信長、勝家、長秀、光秀、こちらは織田軍の大物がずらりと揃っている。まして長篠を越えたあとだ。負ける気はしない。いや、負ける気はしないというより、負ける図が想像しにくい。

 

 その甘さを、勝家は最初から嫌っていた。

 

「羽柴」

 

「何でございましょう」

 

「一向一揆を舐めるな」

 

 勝家はようやく馬首を少しだけこちらへ向けた。

 

「武が未熟でも、腹の決まった群れは厄介じゃ」

 

「腹が決まっておる、で済む話ですかな」

 

「済まぬ」

 

 勝家は言い切った。

 

「信仰で固まった群れは、壊れる時に壊れぬ。しかもあやつらは、唱えて強うなる」

 

 その言い方に、秀吉は少しだけ首をひねった。

 

「南無阿弥陀仏、にございますか」

 

「そうじゃ。仏に救われると思うておる者は、目の前の死に鈍い。鈍いまま前へ来る。しかも効いておる。効くから、なお信じる」

 

 勝家の声音には、珍しく嫌悪が混じっていた。

 

「考えるのを捨てて、強うなる。あれは気色が悪い」

 

 秀吉はそこで少し黙った。

 

 勝家がこういう言い方をする時は、だいたい本当に嫌な相手だ。

 そして将来もぶつかる相手だ、と腹のどこかで決めている。

 

「柴田殿ほどの御仁が、そこまで申すとはの」

 

「わしが申すからには、そういうことじゃ」

 

 それきり勝家は前を向いた。

 背中が太い。

 太いくせに、言うことは案外理にかなっている。勝家の勘は、後から考えるとだいたい筋が通っているから腹が立つ。

 

 戦はじきに始まった。

 

 越前の空気は、近江とも尾張とも違う。風が重い。山の湿り気と、土地にこびりついた信仰の匂いが混じっている。城一つ、砦一つを巡る戦というより、国そのものがどちらへ傾くかを争うような、そういう重たさがあった。

 

 織田軍は、まさに総出であった。

 

 前へ出る勝家の圧。

 全体を崩さず通す長秀。

 静かに位置と見え方を変える光秀。

 そしてその中心に、信長がいる。

 

 信長の気が前線へ流れている。

 長秀を経由して整えられたそれが、兵の列へじわりじわりと染みていく。将ばかりではない。旗持ち、槍持ち、馬の口取り、荷を運ぶ者の端まで、薄く、均一に。濃く盛るのではない。通す。揃える。乱れぬように、恐れを余計に膨らませぬように。

 

 この人たちは、軍を一つの術式にする。

 

 それがもう、気持ち悪いほど板についてきていた。

 

 だが、それでも気持ち悪さで言えば、向こうが上だった。

 

 戦端が開いた時、一向一揆の前列から、声が揃って上がった。

 

「南無阿弥陀仏――!」

 

 ただの唱和ではなかった。

 空気がびりりと震えた。

 門徒たちの呪力が、一瞬で揃う。揃って、前へ噴く。

 

 目の色が変わる。

 いや、変わるというのは違う。

 焦点の合わせ方が変になるのだ。自分の身を守るための細かい計算が、すっと抜け落ちる。その代わり、「進め」「殴れ」「倒れてもなお前へ」という単純な指向だけが濃く残る。

 

「……うわ」

 

 秀吉は思わず声を漏らした。

 

「何じゃ、あれ」

 

 敵は夜襲で崩れるものだ。奇襲ならなおさら。人は暗がりと不意打ちに弱い。声が乱れ、列が乱れ、誰かが走れば皆が走る。そういうものだ。

 

 なのに、こやつらは違う。

 

 隠蔽を入れて位置をずらし、側面から槍を差し、火を散らし、夜のうちに騒ぎを起こしても、混乱はする。するのに、腹が座っている。

 

 いや、違う。

 腹が座っているのではない。

 考えるのを捨てている。

 

 それがわかった瞬間、秀吉はぞっとした。

 

「延暦寺の呪いより、よほど気持ち悪いの……!」

 

 延暦寺の異形は、淀んで腐ったものだ。形を失い、救われ損ねたものが貼りつき合っていた。

 だが目の前のこやつらは、まだ生きておる。生きておるくせに、自分で唱えて、自分で呪いを強めて、考えることを放り捨てて前へ来る。

 

 生きた呪いだった。

 

「言うたであろうが!」

 

 勝家が前で吠えた。

 

 そしてそのまま、鬼のような一撃を叩き込む。

 いや、鬼そのものだった。

 勝家の周りだけ空気が重く沈み、一揆の前列がごっそり吹き飛ぶ。子供の棒遊びで石か栗かが飛ぶかのように、呪力を纏った人体が吹き飛んでいく。

 

 だが一向一揆は、それでも止まらぬ。

 

 倒れる。

 血を吐く。

 足を失う。

 それでも「南無阿弥陀仏」が止まらぬ。止まらぬから、後ろの列がまた前へ出る。前の者が倒れるのを見ても、怯えが広がらぬ。広がる前に、唱和で押し潰される。

 

「気色が悪い!」

 

 秀吉は棒を構えた。

 

 右で光秀の隠蔽が走る。

 左で長秀の通しが味方へ乗る。

 そして信長の気が、今度は前線の限られた一角へ濃く落ちてくる。

 

 濃い。

 長篠で浴びた時よりさらに濃い。

 皮膚の上を乾いた熱が走り、腹の底が焼ける。人間がそのまま使うには少々危うい。だが今はそれがちょうどよかった。

 

「羽柴殿」

 

 光秀の声が、妙に近いのに姿は見えぬ。

 

「右手、林沿い。退き道を見つけております」

 

「見えておるか」

 

「見えております」

 

「わしは見えておらぬ」

 

「見えるようにしてあります」

 

 嫌な言い方だが、頼もしい。

 秀吉は舌を打って、そちらへ飛んだ。

 

 脚が軽い。

 だがただ軽いのではない。

 勝家から借りた鬼が、踏み込みの重さを増す。長秀の通しが、供回りを引き連れる。光秀の隠蔽が、夜の中で位置を消す。そして信長の気が、その全部へ上から乾いた芯を通してくる。

 

 理と理。

 手札と手札。

 

 全部借り物だ。

 だが借り物だからこそ、今は強い。

 

 一揆勢の側面へ回り込んだ時、門徒の一団がこちらへ顔を向けた。

 普通なら、ここで怯む。横から急に現れた敵へ、列がぶれる。

 だがこやつらは違う。

 

「南無阿弥陀仏――!」

 

 また揃う。

 また押してくる。

 傷ついているはずの脚で、まだ前へ出る。

 

「本当に嫌じゃの、おぬしら!」

 

 秀吉は怒鳴り、棒を振り抜いた。

 

 一人の肩口を砕く。

 返す肘で二人目の喉を打つ。

 そこへ三人目が槍ごと突っ込んでくる。半歩ずらし、鬼の重さを肩へ落としてそのまま土へ叩きつける。

 血が飛ぶ。

 土が跳ねる。

 それでも後ろから、また「南無阿弥陀仏」。

 

 鬱陶しい。

 怖い。

 そして、気持ち悪い。

 

 強い相手はいくらでもいた。

 武田もそうだ。浅井朝倉にも嫌な敵はいた。

 だが、ここまで「夜襲を掛けておるのに混乱しきらぬ」相手は初めてだった。

 

「考えを捨てると、ここまで厄介か……!」

 

 秀吉は吐き捨て、今度は濃いめに信長の呪力をばら撒いた。

 

 じわり、と空気が変わる。

 織田方の兵の背が揃う。

 槍の運びが揃う。

 踏み込みが揃う。

 

 一人が強くなるのでなく、群れの仕事が急に滑らかになる。

 

 そこへ長秀の通しが噛む。

 前列から後列へ、押す力が綺麗に伝わる。

 さらに光秀の隠蔽が、一向一揆の視界へ微妙なずれを生む。正面にいるはずの槍が、半歩だけ違う位置から出る。たったそれだけで、単調な突撃は崩れ始める。

 

「今じゃ、押せ!」

 

 秀吉が吠える。

 

 勝家が正面でぶち割り、秀吉と光秀が夜のずれで裂き、長秀がそれを全体へ通す。

 信長はもっと大きいところから、その全部が噛み合うよう気を落としている。

 

 織田軍勢揃いこんな連中が一つの戦場へ揃っておるのだ。そりゃあ強い。強いが、相手もまた手心を加えてよい相手ではなかった。

 

 一向一揆の列が、ようやく崩れた。

 崩れた、が、逃げるというより倒れ込むように乱れる。最後まで腹を捨てきっているのが、なお気色悪い。

 

「追うぞ!」

 

 光秀の声がした。

 

「竜門寺の方へ落ちます!」

 

「よし!」

 

 秀吉は走った。

 ここからは夜襲の時間だ。

 散りきらぬ群れを、暗がりの中で細く切る。出口を塞ぎ、横から噛み、思考停止のまま前へ来る者を、そのまま夜の中で沈める。

 

 だが追いながら、秀吉は一つだけ理解した。

 

 信長が一向一揆へ苛烈なのは、性根が悪いからではない。

 こやつらは、手心を加える余裕のある相手ではない。

 

 効く呪言。

 強くなる群れ。

 考えるのを捨ててまで前へ出る信仰。

 

 放っておけば増える。

 半端に叩けば、また増える。

 しかもそれが、呪霊のように外で膨らむのでなく、人間の中へ呪いとして入り込む。

 

 なるほど、これは片付けねばならぬ。

 

「……信長様は、これを見ておったのか」

 

 秀吉は小さく呟いた。

 その答えは、前線のさらに奥にいる信長が、すでに知っている顔で見ている気配だけで十分だった。

 

 戦ののち、越前はようやく静まり始めた。

 そして後に、柴田勝家が北ノ庄へ収まる。

 

 それがどれほど似合うことか、その時の秀吉には、もうわかっていた。

 あの男は最初から、一向一揆の嫌さを知っていた。土地の湿り気も、群れの重さも、正面から受けるのにふさわしいのは柴田だ、と腹のどこかで納まってしまう。

 

 秀吉は血の乾いた棒を見た。

 思考を捨ててまで前へ出る群れ。

 それを押し返す織田軍の群れ。

 どちらも、集団の理だった。

 

 だが違う。

 織田の群れは、考えて強い。

 一向一揆は、考えるのを捨てて強い。

 そこの違いだけは、はっきりとわかった。

 

「あぁ気色が悪い、そして気に食わない」

 

 秀吉が吐き捨てると、横で勝家が鼻を鳴らした。

 

「ゆえに舐めるなと言うたのじゃ」

 

「柴田殿の言う通りでしたな」

 

「今さらわかったか」

 

「今さらわかることも、あるのです」

 

 勝家は答えず、ただ前を見た。

 その先には、越前の荒れた空と、これから誰がそこへ座るかという盤があった。

 

 羽柴秀吉はそこで、もう一つだけ学んだ。

 

 信仰と呪いが結びついた相手には、勝つだけでは足りぬ。

 きっちり折り、残り香まで片付けて、ようやく次へ行ける。

 

 ろくでもない。

 だが、そういう戦がこの先もまだまだ続くのだろう。

 

 そう思うと、腹の底が少しだけ冷えた。

 

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