呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
武田をくじき、一向一揆を打ち払ったその直後である。
羽柴秀吉は、褒められてしかるべきだと思っていた。
長篠といい、越前といい
あれだけの戦をやったのだ。
弾丸は飛ぶわ、兵は倒れるわ、馬は暴れるわ、信長は信長でやたら元気だわで、終わったあとはせめて二、三日は寝かせてくれてもよさそうなものだった。
だが現実はそう甘くない。
「ま~た重労働じゃのう……」
ぼやくと、横を歩く丹羽長秀が「だろうな」とでも言うように鼻を鳴らした。
この男はこういう時、妙に落ち着いている。疲れていないわけではないはずだ。長篠の時だって、信長のそばで一番きついところを回していた。だが顔に出さぬ。出さぬまま、気の抜けたような歩き方をしている。
「重労働で済めばよいがな」
と、長秀は言った。
「済まぬのか」
「済まぬだろう」
「嫌じゃの」
「知っている」
知っているなら助けてくれ、と言いたくなる。だがこの男に言っても無駄だ。長秀は愚痴には付き合ってくれる。口は軽い。だが荷を軽くはしてくれぬ。そこがまた、いけ好かぬ。
安土である。
琵琶湖を望むその地に、信長は新たな城を築くと言うた。
勝った。
だから建てる。
今こそ威を示すのだ。
理屈だけ切り出せば、そういうことらしい。
武田をくじいた。されど旧き戦国の残滓はまだ各地にある。ならば、ここでただ勝って終わるのでは足りぬ。勝ったあとに何を見せるか。何を置くか。それが肝要だ――信長はそういう顔をしていた。
ろくでもない。
だが、そのろくでもなさが今さら腹立たしいばかりでもないのが、いよいよ嫌だった。
「サル、長秀」
呼ばれて二人そろって顔を上げる。
信長はもう、こちらを見ていた。相変わらず、呼ぶ時にはすでにこちらが来る前提の顔である。
「は」
「何でございましょう」
長秀と秀吉が並んで頭を下げる。
信長の前には、小ぶりの茶器が一つ置かれていた。見た目は落ち着いている。派手さはない。だが、ただの茶器ではないとすぐわかった。
秀吉は思わず眉をひそめた。
気配がある。
強いというより、深い。
しかも妙に乾いて、芯だけが熱い。
嫌な感じだった。
長篠の時、弾丸が火縄の先から吐き出された直後の、あの一瞬の乾いた熱を思い出す。皮膚に当たる前から、嫌だとわかる感じ。殺意というより、用途の定まった熱だ。
「……信長様」
秀吉は思わず口を開いた。
「その茶器、だいぶ嫌な気配がいたしますぞ」
横で長秀が小さく肩を揺らした。
笑っておるな、と秀吉は思う。
信長は茶器を指でつついた。
「下げ渡す」
「は?」
秀吉は思わず素の声を出した。
褒美として茶器をもらうこと自体はおかしくない。信長は時々そういうことをする。だが、今ここで、しかもこの気配のものを寄越すのがわからぬ。
「ありがたく……」
と言いかけて、手が止まる。
ありがたくとは何だ。まるでありがたくない。
「顔が正直だな」
信長が言う。
「もっと喜べ」
「喜べと仰せになりましても、その、長篠の弾の残り香のようなものがいたしますゆえ」
「よい。覚えておけ」
信長はあっさり言った。
「今からやることに要る」
そこでようやく、秀吉は茶器を受け取った。
ずしり、と手へ落ちる。重さはさほどでもない。だが呪力の座りが妙に深い。器の形をしているだけで、まるで熱を貯めるための井戸みたいだった。
「……これは、何でございましょうな」
「器だ」
信長は言った。
「人と物と熱を集める器。ゆくゆくは呪いも、じゃ」
その言い方があまりにさらりとしていたので、秀吉は一瞬意味がわからなかった。
「呪いも?」
「そうだ」
信長は立ち上がり、琵琶湖の方へ目を向けた。
「安土は城である。されど城であるだけでは足りぬ。人が集まり、物が集まり、熱が集まり、呪いもまた寄ってくる。古いものが淀んで溜まるのではない。寄せて、使い、流す。そういう器にする」
長秀が、横で静かに補った。
「戦国の世には、淀みが多すぎるのです」
その言葉に、秀吉は少しだけ反応した。
淀み。
長浜でも、半兵衛がよくそういう言い方をした。
「サル、長浜は悪うなかったぞ」
信長が唐突に言った。
秀吉は顔を上げた。
「は?」
「澱んでおらぬ。人と物の通いがよい。ああいう土地は使える」
褒められた。
それはわかった。
だが同時に、うわ、やっぱりそこまで見ておったのか、とも思った。
長浜は、秀吉なりに苦労して整えた町だ。食える町にしたかった。小谷の死の気配を少しでも薄めたかった。そういう、半ば生理的な嫌悪から手を入れた部分もある。だが、それら全部をひっくるめて、信長は「澱んでおらぬ」とだけ言った。
短い。
だが妙に腹へ落ちる。
「坂本も要る」
信長は続ける。
「勝家が北で一向宗の怨嗟を受け止める。長浜は北とつなぐ。逆に西は坂本から抜き取る。湖はそのあいだを運ぶ。信忠に任せた岐阜とは通りが良くなるように作っている。安土は、その真ん中で喰う」
「喰う」
秀吉が思わず復唱すると、信長は頷いた。
「人も物も熱も呪いも、寄ってくるものは寄せる。寄せて、使い、織田が喰らう」
ぞっとした。
だが、理は通っている。
怖いことに、通ってしまっている。
長秀が横でため息をついた。
「珍しく多弁ですな」
「いや、十分複雑ですが、これは怖い話にございますぞ」
「怖いのは今に始まったことではない」
「それもそうじゃ」
秀吉は茶器を手の中で回した。
長篠の弾丸を思わせる乾いた熱。長浜の流れ。坂本の位置。湖の運び。安土がその真ん中で喰らうという構想。
理は通っている。
通っているからなお怖い。
「サル」
信長が振り返った。
「おぬしは縄張りを見よ。長浜でやったことを、今度はもっと大きく考えろ」
「もっと大きく、にございますか」
「そうじゃ」
「無茶を仰る」
「できるから言うておる」
それだけ言って、信長はもう興味を失ったように歩き出した。話は終わりらしい。相変わらず人に荷だけ渡して、腹へ落ちるまで待ってくれぬ。
その背を見送りながら、秀吉は茶器を見下ろした。
「……妙なものを貰うたのう」
「似合っているぞ」
長秀が言った。
「どこがです」
「嫌そうな顔をしているところが」
「それは褒めておるのか」
「どうだろうな」
やはりこの男は、時々妙に人が悪い。
いや、人が悪いというほどでもない。面白がっているだけだ。そこがまた厄介だった。
二人で歩き出す。
まだ城など何もない。土と木と石と人足の群れがあるだけだ。だが信長の頭の中では、もう城は立っているのだろう。ろくでもない。
「丹羽殿」
「何だ」
「信長様は、本気であれをやるおつもりですな」
「当たり前だろう」
「戦国を片付けるおつもりで」
「違うわ」
長秀があっさり言った。
秀吉は思わずそちらを見た。
長秀は、昼の光の中をやる気なく歩いているように見える。だが目だけはちゃんと前を見ていた。
「この戦乱だけではない」
長秀は言った。
「呪いすら、本気で片付けるつもりだ」
その声色に、わずかに昔を思い出すような響きが混じった。
「若い頃、わしも言ったぞ。信長、お前は狂っておらんか、とな」
「はぁ、ずいぶんと」
「おぉ、狂っておらぬわけがないだろう」
長秀は肩をすくめた。
「この戦乱だけでも十分手に余る。寺社、武家、公家、土地の淀み、人の怨み、戦で増え続ける呪い――それを本気でどうにかするつもりで、しかも道筋が立っている」
そこで一拍置く。
「よくよく考えてみろ。狂っておらんか?」
秀吉はしばらく黙った。
黙って、茶器を見た。
長篠の弾丸を思わせる乾いた熱。長浜の流れ。坂本の位置。湖の運び。安土がその真ん中で喰らう構想。
理は通っている。
通っているからなお怖い。
「……狂っておりますな」
やがて秀吉は言った。
「届きそうなのが、一番狂っております」
長秀が少しだけ笑った。
笑いながらも、否定はしなかった。
「そうだろうな」
「わしはてっきり、信長様は勝てばそれでよい方かと思うておりました」
「そんなわけがない」
「ですよな」
そんなわけがない。
ここまで来て、まだそんな甘い見方はできぬ。
信長は、勝ったあとの土地を見ている。人の流れを見ている。戦が終わったあとの呪いの行き先まで見ている。
天上天下への愛があるのかもしれぬ。
あるいはただ、理に従っておるだけかもしれぬ。
どちらにせよ、そこまで本気でやるのか、というところへ毎度平然と踏み込む。
だから怖い。
「さて」
長秀が両手を軽く打った。
「理はわかったな」
「わかった」
「なら働け」
「結局そこへ戻るのう」
「理屈が立ったのだから、さっきよりは少し元気に働けるだろう」
「理屈が立っても土は重いぞ」
「知っている。だから腰の軽いお前を呼んだ」
あっさりしたものだ。
秀吉は思わず吹き出した。
「丹羽殿」
「何だ」
「あなたも結構ひどいことを言いますのう」
「信長様ほどではない」
「違いない」
そう言いながら、秀吉は茶器を懐へ納めた。
熱がまだそこにある。いやな気配だ。だが不思議と、手放したいばかりでもなかった。
長篠の死線を越え、長浜を回し、ここまで来て、ようやく少しだけわかる。
信長の周りにいるとは、ただ使われることではない。
何か大きな理の一部へ組み込まれることだ。
その理が怖ろしく、ろくでもなく、時に狂気じみているとしても。
「おぬしら!」
秀吉は人足へ声を張った。
「立ち話で城は生えぬぞ! 材木を寄せい! 石を運べ! ただし浮かれるなよ、借り物の力ではしゃぐな! 今日は山を削る、明日はたぶんもっとろくでもない!」
人足たちがどっと笑った。
その声の向こう、琵琶湖は静かに光っていた。
人と物と熱と呪いを集める器。
織田が喰らうための城。
ろくでもない。
だが、少しだけ胸が躍る自分もいる。
羽柴秀吉はそのことに気づいて、内心で小さく舌打ちした。
まったく、ほんに遠くへ来たものである。