呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1576 安土普請始まる

 

 武田をくじき、一向一揆を打ち払ったその直後である。

 

 羽柴秀吉は、褒められてしかるべきだと思っていた。

 

 長篠といい、越前といい

 あれだけの戦をやったのだ。

 弾丸は飛ぶわ、兵は倒れるわ、馬は暴れるわ、信長は信長でやたら元気だわで、終わったあとはせめて二、三日は寝かせてくれてもよさそうなものだった。

 

 だが現実はそう甘くない。

 

「ま~た重労働じゃのう……」

 

 ぼやくと、横を歩く丹羽長秀が「だろうな」とでも言うように鼻を鳴らした。

 この男はこういう時、妙に落ち着いている。疲れていないわけではないはずだ。長篠の時だって、信長のそばで一番きついところを回していた。だが顔に出さぬ。出さぬまま、気の抜けたような歩き方をしている。

 

「重労働で済めばよいがな」

 

 と、長秀は言った。

 

「済まぬのか」

 

「済まぬだろう」

 

「嫌じゃの」

 

「知っている」

 

 知っているなら助けてくれ、と言いたくなる。だがこの男に言っても無駄だ。長秀は愚痴には付き合ってくれる。口は軽い。だが荷を軽くはしてくれぬ。そこがまた、いけ好かぬ。

 

 安土である。

 

 琵琶湖を望むその地に、信長は新たな城を築くと言うた。

 勝った。

 だから建てる。

 今こそ威を示すのだ。

 理屈だけ切り出せば、そういうことらしい。

 

 武田をくじいた。されど旧き戦国の残滓はまだ各地にある。ならば、ここでただ勝って終わるのでは足りぬ。勝ったあとに何を見せるか。何を置くか。それが肝要だ――信長はそういう顔をしていた。

 

 ろくでもない。

 

 だが、そのろくでもなさが今さら腹立たしいばかりでもないのが、いよいよ嫌だった。

 

「サル、長秀」

 

 呼ばれて二人そろって顔を上げる。

 信長はもう、こちらを見ていた。相変わらず、呼ぶ時にはすでにこちらが来る前提の顔である。

 

「は」

 

「何でございましょう」

 

 長秀と秀吉が並んで頭を下げる。

 信長の前には、小ぶりの茶器が一つ置かれていた。見た目は落ち着いている。派手さはない。だが、ただの茶器ではないとすぐわかった。

 

 秀吉は思わず眉をひそめた。

 

 気配がある。

 強いというより、深い。

 しかも妙に乾いて、芯だけが熱い。

 

 嫌な感じだった。

 長篠の時、弾丸が火縄の先から吐き出された直後の、あの一瞬の乾いた熱を思い出す。皮膚に当たる前から、嫌だとわかる感じ。殺意というより、用途の定まった熱だ。

 

「……信長様」

 

 秀吉は思わず口を開いた。

 

「その茶器、だいぶ嫌な気配がいたしますぞ」

 

 横で長秀が小さく肩を揺らした。

 笑っておるな、と秀吉は思う。

 

 信長は茶器を指でつついた。

 

「下げ渡す」

 

「は?」

 

 秀吉は思わず素の声を出した。

 褒美として茶器をもらうこと自体はおかしくない。信長は時々そういうことをする。だが、今ここで、しかもこの気配のものを寄越すのがわからぬ。

 

「ありがたく……」

 

 と言いかけて、手が止まる。

 ありがたくとは何だ。まるでありがたくない。

 

「顔が正直だな」

 

 信長が言う。

 

「もっと喜べ」

 

「喜べと仰せになりましても、その、長篠の弾の残り香のようなものがいたしますゆえ」

 

「よい。覚えておけ」

 

 信長はあっさり言った。

 

「今からやることに要る」

 

 そこでようやく、秀吉は茶器を受け取った。

 ずしり、と手へ落ちる。重さはさほどでもない。だが呪力の座りが妙に深い。器の形をしているだけで、まるで熱を貯めるための井戸みたいだった。

 

「……これは、何でございましょうな」

 

「器だ」

 

 信長は言った。

 

「人と物と熱を集める器。ゆくゆくは呪いも、じゃ」

 

 その言い方があまりにさらりとしていたので、秀吉は一瞬意味がわからなかった。

 

「呪いも?」

 

「そうだ」

 

 信長は立ち上がり、琵琶湖の方へ目を向けた。

 

「安土は城である。されど城であるだけでは足りぬ。人が集まり、物が集まり、熱が集まり、呪いもまた寄ってくる。古いものが淀んで溜まるのではない。寄せて、使い、流す。そういう器にする」

 

 長秀が、横で静かに補った。

 

「戦国の世には、淀みが多すぎるのです」

 

 その言葉に、秀吉は少しだけ反応した。

 淀み。

 長浜でも、半兵衛がよくそういう言い方をした。

 

「サル、長浜は悪うなかったぞ」

 

 信長が唐突に言った。

 

 秀吉は顔を上げた。

 

「は?」

 

「澱んでおらぬ。人と物の通いがよい。ああいう土地は使える」

 

 褒められた。

 それはわかった。

 だが同時に、うわ、やっぱりそこまで見ておったのか、とも思った。

 

 長浜は、秀吉なりに苦労して整えた町だ。食える町にしたかった。小谷の死の気配を少しでも薄めたかった。そういう、半ば生理的な嫌悪から手を入れた部分もある。だが、それら全部をひっくるめて、信長は「澱んでおらぬ」とだけ言った。

 

 短い。

 だが妙に腹へ落ちる。

 

「坂本も要る」

 

 信長は続ける。

 

「勝家が北で一向宗の怨嗟を受け止める。長浜は北とつなぐ。逆に西は坂本から抜き取る。湖はそのあいだを運ぶ。信忠に任せた岐阜とは通りが良くなるように作っている。安土は、その真ん中で喰う」

 

「喰う」

 

 秀吉が思わず復唱すると、信長は頷いた。

 

「人も物も熱も呪いも、寄ってくるものは寄せる。寄せて、使い、織田が喰らう」

 

 ぞっとした。

 だが、理は通っている。

 怖いことに、通ってしまっている。

 

 長秀が横でため息をついた。

 

「珍しく多弁ですな」

 

「いや、十分複雑ですが、これは怖い話にございますぞ」

 

「怖いのは今に始まったことではない」

 

「それもそうじゃ」

 

 秀吉は茶器を手の中で回した。

 長篠の弾丸を思わせる乾いた熱。長浜の流れ。坂本の位置。湖の運び。安土がその真ん中で喰らうという構想。

 

 理は通っている。

 通っているからなお怖い。

 

「サル」

 

 信長が振り返った。

 

「おぬしは縄張りを見よ。長浜でやったことを、今度はもっと大きく考えろ」

 

「もっと大きく、にございますか」

 

「そうじゃ」

 

「無茶を仰る」

 

「できるから言うておる」

 

 それだけ言って、信長はもう興味を失ったように歩き出した。話は終わりらしい。相変わらず人に荷だけ渡して、腹へ落ちるまで待ってくれぬ。

 

 その背を見送りながら、秀吉は茶器を見下ろした。

 

「……妙なものを貰うたのう」

 

「似合っているぞ」

 

 長秀が言った。

 

「どこがです」

 

「嫌そうな顔をしているところが」

 

「それは褒めておるのか」

 

「どうだろうな」

 

 やはりこの男は、時々妙に人が悪い。

 いや、人が悪いというほどでもない。面白がっているだけだ。そこがまた厄介だった。

 

 二人で歩き出す。

 まだ城など何もない。土と木と石と人足の群れがあるだけだ。だが信長の頭の中では、もう城は立っているのだろう。ろくでもない。

 

「丹羽殿」

 

「何だ」

 

「信長様は、本気であれをやるおつもりですな」

 

「当たり前だろう」

 

「戦国を片付けるおつもりで」

 

「違うわ」

 

 長秀があっさり言った。

 

 秀吉は思わずそちらを見た。

 長秀は、昼の光の中をやる気なく歩いているように見える。だが目だけはちゃんと前を見ていた。

 

「この戦乱だけではない」

 

 長秀は言った。

 

「呪いすら、本気で片付けるつもりだ」

 

 その声色に、わずかに昔を思い出すような響きが混じった。

 

「若い頃、わしも言ったぞ。信長、お前は狂っておらんか、とな」

 

「はぁ、ずいぶんと」

 

「おぉ、狂っておらぬわけがないだろう」

 

 長秀は肩をすくめた。

 

「この戦乱だけでも十分手に余る。寺社、武家、公家、土地の淀み、人の怨み、戦で増え続ける呪い――それを本気でどうにかするつもりで、しかも道筋が立っている」

 

 そこで一拍置く。

 

「よくよく考えてみろ。狂っておらんか?」

 

 秀吉はしばらく黙った。

 黙って、茶器を見た。

 長篠の弾丸を思わせる乾いた熱。長浜の流れ。坂本の位置。湖の運び。安土がその真ん中で喰らう構想。

 

 理は通っている。

 通っているからなお怖い。

 

「……狂っておりますな」

 

 やがて秀吉は言った。

 

「届きそうなのが、一番狂っております」

 

 長秀が少しだけ笑った。

 笑いながらも、否定はしなかった。

 

「そうだろうな」

 

「わしはてっきり、信長様は勝てばそれでよい方かと思うておりました」

 

「そんなわけがない」

 

「ですよな」

 

 そんなわけがない。

 ここまで来て、まだそんな甘い見方はできぬ。

 信長は、勝ったあとの土地を見ている。人の流れを見ている。戦が終わったあとの呪いの行き先まで見ている。

 

 天上天下への愛があるのかもしれぬ。

 あるいはただ、理に従っておるだけかもしれぬ。

 どちらにせよ、そこまで本気でやるのか、というところへ毎度平然と踏み込む。

 

 だから怖い。

 

「さて」

 

 長秀が両手を軽く打った。

 

「理はわかったな」

 

「わかった」

 

「なら働け」

 

「結局そこへ戻るのう」

 

「理屈が立ったのだから、さっきよりは少し元気に働けるだろう」

 

「理屈が立っても土は重いぞ」

 

「知っている。だから腰の軽いお前を呼んだ」

 

 あっさりしたものだ。

 秀吉は思わず吹き出した。

 

「丹羽殿」

 

「何だ」

 

「あなたも結構ひどいことを言いますのう」

 

「信長様ほどではない」

 

「違いない」

 

 そう言いながら、秀吉は茶器を懐へ納めた。

 熱がまだそこにある。いやな気配だ。だが不思議と、手放したいばかりでもなかった。

 

 長篠の死線を越え、長浜を回し、ここまで来て、ようやく少しだけわかる。

 信長の周りにいるとは、ただ使われることではない。

 何か大きな理の一部へ組み込まれることだ。

 その理が怖ろしく、ろくでもなく、時に狂気じみているとしても。

 

「おぬしら!」

 

 秀吉は人足へ声を張った。

 

「立ち話で城は生えぬぞ! 材木を寄せい! 石を運べ! ただし浮かれるなよ、借り物の力ではしゃぐな! 今日は山を削る、明日はたぶんもっとろくでもない!」

 

 人足たちがどっと笑った。

 その声の向こう、琵琶湖は静かに光っていた。

 

 人と物と熱と呪いを集める器。

 織田が喰らうための城。

 

 ろくでもない。

 だが、少しだけ胸が躍る自分もいる。

 

 羽柴秀吉はそのことに気づいて、内心で小さく舌打ちした。

 まったく、ほんに遠くへ来たものである。

 

 

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