呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
北陸の空は、どうにも薄かった。
晴れておるのに明るくない。
雲は高いのに、色だけが抜けたみたいに白い。風はある。だが乾ききらず、川の水気と混じって、肌へぬるくまとわりつく。戦の前の空としては、あまり気分のよいものではなかった。
羽柴秀吉は、その薄い空を見上げてから、川のほうへ目を落とした。
手取川。
名の通り、手のひらからすり抜けるような川である。広い。浅いところもある。だが、その浅さがかえって厄介だった。踏み込めば渡れる気がする。渡れる気がするくせに、足を取られ、流れに持っていかれ、列が崩れる。川というものは、たいてい人をそういう顔で騙す。
嫌な川じゃのう、と秀吉は思った。
もっとも、嫌なのは川ばかりではない。
相手が嫌だった。
上杉謙信。
名だけで人が固くなる手合いは、この世にそう多くない。信長がそうだ。あの人の名を聞けば、味方は腹を括り、敵は腹を冷やす。そういう種類の大きさである。だが上杉は、それとは少し違っていた。熱で人を飲み込むのではない。むしろ逆だ。名を聞くと、場が妙に静まる。騒ぎ立てるより先に、喉の奥へ冷たいものが一本落ちる。
信長が魔王なら、こやつは何じゃ。
秀吉はそこで、少しだけ歯を見せた。
毘沙門天、か。
噂はいくらでも耳に入る。自らをそう称するだの、旗印がどうだの、信仰がどうだの。尾張や美濃の頃なら鼻で笑ったろう。ところがいまは違う。戦の場数を踏み、異形も呪いも色々見たあとでは、そういう人間がいてもおかしくないと思えてしまうのが嫌だった。
「もう行かせたのか」
背後から声がした。
秀吉が振り返ると、柴田勝家がいた。
具足はすでに整っている。太い。大きい。背中だけで戦ができそうな男である。いつ見ても、あまり人の形をしておらぬ。人が鎧を着ているというより、古い凶事がそのまま鋼を纏って歩いているみたいだった。
「行かせました」
秀吉は答えた。
「横槍無用にございますからの。わしの手勢は、もう少し後ろへ」
勝家は鼻を鳴らした。
「おぬしも戻ってよかったのだぞ」
秀吉は少しだけ口を尖らせた。
「いや」
「何だ」
「勘です」
勝家はそこで一瞬だけ黙り、それから妙に素直に頷いた。
「勘か」
それだけだった。
普段なら逆である。
勝家が「勘じゃ」と言い、秀吉が「その勘で兵を動かされては困る」とぶつぶつ足す。今日はなぜだか、それがひっくり返っていた。
秀吉自身、うまく説明はできなんだ。
ただ、嫌な気がしたのだ。軍としては一度引く。そこはよい。だが、このまま全部引いてしまうのも違う気がした。勝家が何を考えておるかも、何となくわかってしまっていた。
やりたいのだ、この人は。
上杉謙信という武将・術師と、正面で一度やり合ってみたい。勝ち負けだけではない。どれほどのものか、武人として、術師として、その身で受けてみたい。
阿呆かと思う。
思うが、わからぬでもないのがまた腹立たしかった。
秀吉は、信長という個を前にして何度も焼かれてきた。強いものが、理を超えて一人で戦場の相を塗り替える、その気色の悪い快感も恐ろしさも、半ば骨身に染みている。勝家の「やってみたい」が、ただの無謀ではなく、武人の性のほうから来ていることくらい、わかってしまう。
そこがよくなかったのだろう、と秀吉は後で思う。
「おぬし」
勝家が前を向いたまま言う。
「上杉は、信長様とは違うぞ」
「でしょうな」
「熱くはない」
「嫌な話ですな」
「嫌な話だ」
短いやり取りだった。
だがそれで十分だった。
前線の空気が変わる。
上杉方が動いた。
見ればわかる。派手さはない。鬨の声も、こちらほど荒くない。馬の列も、人の列も、妙に乱れぬ。気迫がないわけではない。むしろ逆だ。気迫が、余計な熱へ膨らまず、そのまま前へ通っている。
冷たい。
秀吉はそこで、思わず舌を打った。
「……何じゃ、あれ」
勝家は答えぬ。
ただ前へ出た。
鬼の圧が、ぐんと戦場へ張る。
こちらの兵の腹が据わる。勝家のよいところは、こういう時に一切ぶれぬことだ。負け戦になろうと、相手が何であろうと、前へ出ると決めたなら、本当に前へ出る。そういう男である。
だから強い。
だから厄介だ。
勝家の重さに引かれ、前列が押し出される。槍が揃う。馬の口が前を向く。織田方の列はまだ死んではいない。いや、勝家の背を見る限り、むしろ上がっているとすら言えた。
秀吉はその様子を見て、腹のどこかで少しだけほっとした。
やれる。
やるのだ、この人は。
そう思うたのだ。
思うた、その先が悪かった。
上杉方の中央が、まるで雪の芯でも走るみたいに静かに割れた。
馬が出る。
人が出る。
そこにいるはずの一人へ、周囲の視線が吸われる。
謙信だ、と秀吉はすぐわかった。
顔を知っておったわけではない。
見ればわかる、というやつだった。信長のように周囲の恐れを喰って膨らむのではない。勝家のように凶をその身へ降ろして重くなるのでもない。もっと細い。もっと削がれている。無駄なものを全部捨てた先に、一本の刃だけが残って歩いてくるような気配だった。
神降ろし。
その言葉が、秀吉の腹へ嫌な形で落ちた。
武を極めて神へ寄るのか。
神を降ろして武へ寄せるのか。
そんなことはどうでもよかった。ただ、あれは人が強いというより、何か別のものが人の形を借りて前へ出ている顔だった。
勝家が笑った。
笑った、というより、口の端が少しだけ上がった。
嬉しそうだった。
やめい、と秀吉は心の中で悪態をついた。
勝家が踏み込む。
謙信も来る。
ぶつかった。
音が、変だった。
鉄と鉄の音ではない。
鬼と鬼のぶつかり合いとも違う。勝家の重さはたしかに本物だ。受ければ潰れ、押されれば骨まで軋む、あの人らしい圧である。だが謙信は、それを正面から砕くというより、重さごと切って進む。勝家の土俵へ乗って押し返すのではない。一段上の理で「重いから何だ」と言わんばかりに、すっと断ちにくる。
ぞくりとした。
秀吉はそこで初めて、本気で嫌な予感の形を知った。
これ、勝家でもまずい。
前線が軋む。
勝家ひとりが踏ん張っているあいだはよい。だが、その周りが追いつかぬ。鬼の重さで受ける戦は、勝家の近くにいる者まで勝家の理へ乗っておらねばならぬ。ところが謙信の冷たさは、そこを許さない。気負いも興奮も吹き上がらぬまま、すっと列の継ぎ目へ刃が入る。
兵の顔が変わる。
崩れたのではない。
崩れる前の顔だ。
これはだめだ、と身体だけが先に知った顔。
「退ける準備を!」
秀吉は怒鳴った。
自分の残した手勢へ向けて、すぐ後ろの者へ向けて、誰へともなく。
「今じゃ、早う!」
勝家がまだ前にいる。
だがもう、ここで「何とかなるだろう」とは思えなんだ。思えた自分が少し嫌だった。
上杉の槍が来る。
流れが変わる。
馬が横へ流される。
泥が跳ねる。
勝家はなお踏ん張っていた。あの人は本当にしぶとい。しぶといが、しぶといことと勝てることは別だ。秀吉は歯を食いしばり、残していた兵を引っ張った。
「柴田殿!」
怒鳴る。
「退きますぞ!」
勝家が一瞬だけこちらを見る。
その視線の向こうで、謙信の刃がまた来る。勝家は受けた。受けたが、その足が半歩だけ沈む。その半歩で十分だった。
秀吉は、そこでようやく本気の撤退支援へ頭を切り替えた。
負けた。
もう負けた。
なら、生きて退くしかない。
理屈は簡単だった。
身体はそう簡単ではなかった。
人が走る。
叫ぶ。
馬が暴れる。
川のほうへ退く列が、細く長く伸びる。そこへ矢が来る。槍が来る。足を取られる。川の浅瀬へ踏み込んだ者から、列がばらける。
最悪じゃのう、と秀吉は思った。
だがその最悪の中で、ひとつだけ救いがあった。
水行を齧っておってよかった。
六角の理から掠め、棒へ木行を通し、猿の脚を借り、隠蔽を真似、そうして織ってきた手札の中に、水も少しだけ混ざっていた。得意ではない。得意ではないが、いま必要なのは美しい運用ではなく、生き残るための雑な応用だった。
秀吉は川縁へ飛び込み、足元の流れへ呪力を落とした。
水は木のように素直ではない。
鬼のように重くもない。
掴めぬ。
流れる。
だから嫌いだ。
だが、いまは嫌いで済ませておられぬ。
流れの向きを半歩だけずらす。
浅いところを一瞬だけ深く見せる。
逆に深いところへ石の感触を寄せる。
それだけでよい。兵は走る。人は「渡れる」と思えれば渡る。ほんの一瞬、足の行き先が揃えば、崩れきる前に向こう岸へ押し出せる。
「そこじゃ! 右へ寄れ! まっすぐ行くな、足を取られる!」
叫ぶ。
声が枯れる。
ひとりの足軽が転ぶ。腕を掴んで引き起こし、その背を蹴るように前へ出す。馬が横倒しになる。口取りが泣きそうな顔でこちらを見る。知らぬ。知るか。綱を切れ、荷は捨てろ、人だけ渡せ。
秀吉はそういう顔になっていた。
勝家もようやく退いてくる。
肩口に血がある。だが足は死んでいない。やはり化け物だ。あのやり合いのあとで、自分の脚で退いてくるのだから、腹が立つほど丈夫だった。
「柴田殿!」
秀吉が叫ぶ。
「早う!」
「見ておる!」
勝家が怒鳴り返す。
その声がまだ太いことに、秀吉は妙に腹が立ち、妙に安心した。
その直後、川向こうで鬨が上がった。
上杉だ。
秀吉は振り返り、歯噛みした。
追ってくる。
当然である。こちらは負けた。相手が謙信なら、半端なところで満足するはずもない。
秀吉はその瞬間だけ、川向こうへ濃いめに呪力を撒いた。
信長の呪力ではない。
自前の、継ぎ接ぎの、嫌にしつこい呪力だった。水面へ落ち、泥へ混ざり、追う側の足元へ薄くまとわりつく。大した妨害ではない。数息稼げれば上等の細工だ。
だが今は、それで十分だった。
「渡れ!」
秀吉は吠えた。
「生きて退け!」
誰へ向けたかもわからぬ声だった。
とにかく退く。
退かせる。
勝ち負けの理屈も、武人の面子も、神降ろしがどうこうも、いまは全部後だ。川を越えねば死ぬ。それだけだった。
向こう岸へ足をかけた時、秀吉は膝が笑うのを感じた。
怖かったのだろう。
今さら気づいた。
勝家が横へ上がってくる。
鬼の気配はまだ濃い。だが、その濃さの中にさっきまでにはなかった静かな疲れが混じっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
言えることが少なすぎた。
やがて勝家が、川向こうを見たまま低く言った。
「……強いのう」
秀吉は、濡れた息を吐いた。
「強いなどでは済みませぬ」
「済まぬか」
「済まぬ」
勝家は、それ以上言わなかった。
秀吉も何も足さなんだ。
足せる言葉がなかった。
謙信やっぱヤバいな、と、秀吉はひどく雑な言い方で思った。
思いながら、その雑さの奥にまだ別のものが引っかかっているのも知っていた。
勝家のわがままは、たしかにあった。
武人として、術師として、あの個へ触れてみたいという、いかにもあの人らしい時代錯誤の欲だった。
だが、それを見て、わからぬでもないと半歩譲ったのは誰か。
自分だ。
秀吉はそこで、川の水を振り払うように頭を一度だけ振った。
今はよい。
今はまだよい。
生きて退いた。勝家も退いた。兵も半分以上は残っている。最悪ではない。自分は勘で残り、できるだけの撤退支援もした。
そう思うた。
思うたのだが、腹の底ではもう別の嫌な気配が育ち始めていた。
これで済むのか。
済まぬだろうな、と、秀吉はすぐに思い直した。
信長の顔が浮かぶ。
熱い顔ではない。
むしろ妙に静かな、ああいう時いちばん嫌な顔だ。
秀吉は濡れた陣羽織の裾を絞った。
川の水は冷たいはずなのに、腹の底だけがじわりと熱かった。
北陸の空は、相変わらず薄かった。
敗けた空の色など、だいたいこんなものかもしれぬ。
そう思って笑おうとしたが、うまく笑えなんだ。