呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
「猿」
呼ばれた瞬間、秀吉は反射的に膝をついた。
「はっ!!」
広間は、妙に静かだった。
評定のようでもあり、そうでないようでもある。長秀がいた。光秀もいる。ほかにも何人か近くの者が控えておる。誰もが平静な顔をしていたが、空気は少し張っていた。敗戦のあとの呼び出しとは、だいたいこういうものだ。
秀吉は額が畳につくほど頭を下げた。
「面目次第もございませぬ!!」
先に詫びが出る。
それは本音でもあり、半ば癖でもあった。詫びるなら早いほうがよい。勝家がどうこう、自分がどうこう、理屈をつけるのはそのあとでよい。
ところが信長は、そこへ一拍も置かなんだ。
「貴様、中国方面を受け持て」
秀吉はしばらく、その言葉の意味がわからなかった。
いや、わからぬはずはない。
中国方面。
西だ。
播磨、その先、毛利。動かす城の数も、人の数も、荷の量も、洒落にならぬ。織田の外へ覇業をさらに押し出す、大きな戦場の話である。
わかる。
わかるが、今ここで、それを自分へ言うのか。
「北は柴田に任せる。もうヘマはせんであろう」
信長は何でもないことみたいに言った。
秀吉はそこで、ようやく顔を上げた。
「……は?」
間抜けな声が出た。
光秀の目が少しだけ細まる。
長秀はわずかに視線を逸らした。
笑いを堪えたのかもしれぬ。ひどい話だった。
「何じゃ、その顔は」
信長が言う。
「いや」
秀吉はまだ膝をついたまま、思わず口を開いた。
「いや、にございます」
「何がだ」
「何がと申されましても……」
秀吉は一瞬、本気で言葉に詰まった。
「手取川にございますぞ」
「そうだ」
「そうだ、ではなく」
つい口調が崩れた。
だが、もう止まらない。
「わし、しくじっておりますが」
「うむ」
「勝家殿を止めきれておりませぬが」
「うむ」
「撤退支援はいたしましたが、勝ってはおりませぬが」
「だから何だ」
その一言は、妙に乾いていた。
秀吉は口を噤んだ。
そう来るかと思った。
思ったが、やはり腹へは悪い。
信長はそこで、ほんの少しだけ身体を前へ倒した。
あの人がそうする時は、だいたい面倒な話になる。
「勘で残ったのであろう」
秀吉は一瞬、目を瞬いた。
見ていたのか。
「は」
「退かせもした」
信長は言う。
それだけで終わる。
秀吉はそこで、よけいに困った。
褒められておるのか、責められておるのか、半端にわかりづらい。
「それはよい」
信長は続けた。
「だが、おぬしはいまだに自分をそこまでの男と思っておらぬ」
秀吉は、すぐには返せなんだ。
そこまでの男。
それは何だ。
勝家を止める男か。
北の軍をまとめる男か。
戦を一つの流れとして取り、勝ち負けだけでなく、その後まで見て動く男か。
秀吉が黙ったのを、信長は肯定と取ったらしい。
「柴田は柴田だ」
信長は言った。
「勝手にやる。あれはそういう男だ。いまさら直らぬ」
それはその通りだった。
秀吉にもわかる。
「だが貴様は違う」
信長の声は高くない。
なのに、やけに腹へ落ちる。
「貴様は、あれを見て『ああ、柴田殿なら』と半歩引いた」
図星だった。
秀吉の喉が、ひやりと冷えた。
「勝てた、とは言わぬ」
信長は続ける。
「謙信はああであった。神なぞが本当におるなら、ああいう顔をして出てくるのであろうよ」
広間の空気がわずかに静まる。
あの人がそこまで言うのは珍しい。
「だが」
信長の目が秀吉を刺す。
「貴様はもう、何とか退かせればよい立場ではない」
秀吉は、そこでようやく意味を掴みはじめた。
叱られているのだ。
敗けたことを、ではない。
勝家のわがままに付き合ったことだけを、でもない。
おぬしは、もうそこではない。
そこへ自分を置いておらぬのが悪い。
そう言われている。
「……買いかぶりにございます」
秀吉は低く言った。
言いながら、自分でも半分は逃げだとわかっていた。
信長は鼻で笑った。
「そう思うておるのが悪い」
そこでようやく、長秀が小さく息を吐いた。
助け舟なのか、確認なのかはわからぬ。たぶん両方だった。
「羽柴殿」
「何じゃ」
「東は、信忠様がおられる」
長秀は静かに言った。
「岐阜は織田家そのものの芯だ。家康殿もおる。長篠で武田もかなり削った。信長様の中では、あちらの算段はすでに立っておるのでしょう」
秀吉はそちらを見た。
なるほど、と腹のどこかで嫌な形に納得する。
信忠がいる。
家康がいる。
勝家もいる。
北は勝家に任せ続けるにせよ、あまり“勝家のまま”で居座られても困る。なら、一度痛い目を見るのも織り込みのうちかもしれぬ。引き分け以下くらいで帳尻が合えばよし、そのために秀吉をつけていた。
そこまで考えた瞬間、秀吉は嫌な顔をした。
「……わし、半分保険だったのか」
信長は答えぬ。
答えぬことで、答えた。
秀吉は思わず天井を仰いだ。
「ひどい話じゃのう」
「ひどくはあるまい」
信長が言う。
「貴様は働く」
「そういう問題ではありませぬ」
「そういう問題だ」
本当にこの人は、重いことを軽く寄越す。
名もそうだった。
領地もそうだった。
器も、役目も、だいたいそうだ。
人が一生かけて抱えるようなものを、「おぬしにやる」「持て」「使え」で済ませる。受け取る側がどれだけ面食らうかなど、たぶん半分も考えておらぬ。
だが同時に、そうして寄越す時は、たいてい本気だということも秀吉は知っていた。
「中国方面は」
光秀がそこで口を開いた。
理屈を補う時の声だった。
「北と違い、ただ正面で押し切るだけでは回りませぬ。播磨の国衆、毛利、城、川、海、荷、寺社、こちらに降る者、まだ様子を見る者、すべてが絡みます」
「面倒くさいのう」
「面倒くさいから、お前に回ってきたのです」
光秀はさらりと言った。
癪に障るが、筋は通る。
「柴田殿は重い。勝家殿の重さは北で要る。だが西は、もう少し編まねばならぬ」
「編む」
「人も、術も、兵站も」
長秀が続けた。
「羽柴殿は、そこがいちばん向いている」
秀吉は、思わず二人の顔を見比べた。
こやつら、いつの間にそんな話を済ませておった。
いや、済ませておるに決まっておる。信長が今この場で唐突に言ったように見えるだけで、周囲の頭はもう動いていたのだ。そういうところもまた、腹立たしい。
「半兵衛をつける」
信長が言った。
秀吉の目が動く。
「官兵衛も使え」
さらに言う。
「姫路を要にせよ。播磨を噛め。毛利の前に、まずあのあたりを織田の理へ通せ」
秀吉の胸の奥で、何かが少しだけ熱くなった。
二兵衛。
半兵衛は、流れを見る。
綺麗な勝ち筋を描く。
官兵衛は、まだ深く付き合ったことはないが、播磨の地と人脈に通じておると聞く。地縁のある男だ。人を口説き、城を使い、泥の中の理を通すには便利だろう。
便利、などと言うと失礼かもしれぬ。
だが秀吉にとっては、まずそこだった。
戦は、勝つだけでは終わらぬ。
姉川で軍を見た。
長篠で職場環境の悪い軍の理を見た。
安土で、信長が戦国そのものを片づける気なのだと知った。
その延長として西があるのなら、たしかに自分の役目なのかもしれぬ。
そう思う自分と、いやいや待て待て、しくじった直後にそれを寄越すか、という自分が、腹の中でひどく忙しく喧嘩した。
「返事は」
信長が言う。
秀吉は、そこでようやく背筋を伸ばした。
わからぬ。
わからぬが、あの人はもう置いている。
自分がそこへ立てると思っているから、雑に置いている。
その雑さが腹立たしく、同時に抗いがたい。
「……承りましてございます」
秀吉は言った。
「何だ、その顔は」
「重すぎるだけにございます」
「重くなければ預けぬ」
平然と言う。
本当にこの人は。
秀吉は一度だけ深く息を吸った。
中国方面。
姫路。
播磨。
毛利。
二兵衛。
城と荷と由緒と人をまとめて噛み、西へ通す。
その大きさを、まだ全部は掴めていない。
だが、掴めぬから受けぬ、が通る相手ではなかった。
信長が立つ。
それで、この話は終わりだという合図だった。
「猿」
「は」
「今度は、退かせて終わりではないぞ」
秀吉は一瞬だけ、息を止めた。
「通せ」
それだけだった。
長い説明はない。
戦の理も、西の重さも、播磨の厄介さも、半兵衛と官兵衛の使い分けも、全部ひっくるめて、その一言へ押し込んでくる。
秀吉は頭を下げた。
「は」
広間を出ると、廊下の風が少しだけぬるかった。
安土の外はいつも通り動いている。人が走り、荷が通り、どこかで木槌が鳴り、誰かが誰かへ頭を下げる。天下が少しずつ形を持ち始めた頃の城というものは、休まず息をしている。
その呼吸の中へ、また一つ重いものを放り込まれた気がした。
「ひどい顔ですな」
横で長秀が言った。
「おぬしにまで言われとうない」
「言いますとも」
長秀は少しだけ笑う。
「猿の頃は、もう少し自分の腹だけ気にしておいででした」
「今も腹は気にしておるわ」
「そうでしょうとも」
その返しが妙にいつも通りで、秀吉は少しだけ気が抜けた。
光秀がその横で袖へ手を入れたまま言う。
「播磨は面倒ですよ」
「おぬしに言われると、余計に嫌になるのう」
「褒めております」
「どこがじゃ」
「面倒なものは、貴方のほうがよく噛む」
秀吉は鼻を鳴らした。
癪だが、わからぬでもないのがまた腹立たしい。
中国方面軍。
まだ名前だけが先にある。
実感はあとから来るだろう。
だが、ひとつだけわかることがある。
手取川で勝家を見送り、撤退を支え、それで少しはやったつもりでいた自分は、もうそこへ置かれていない。
信長は、そう言うたのだ。
秀吉は廊下の先を見た。
西の空はまだ見えぬ。
見えぬが、その向こうに、また別の面倒くさい戦と人と城と荷が待っているのだろう。
「……難儀な話じゃ」
小さく呟く。
だがその声は、思ったほど沈んでいなかった。
重いものほど雑に寄越す。
あの人は昔からそうだ。
名も、役目も、器も、こうしてぽんと寄越して、あとは勝手に通せと言う。
腹立たしい。
だが、腹立たしいのと、嬉しくないのとは別だった。
秀吉はそのことに気づいてしまい、ひどく嫌な顔をした。