呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1577 中国方面軍

 

「猿」

 

 呼ばれた瞬間、秀吉は反射的に膝をついた。

 

「はっ!!」

 

 広間は、妙に静かだった。

 評定のようでもあり、そうでないようでもある。長秀がいた。光秀もいる。ほかにも何人か近くの者が控えておる。誰もが平静な顔をしていたが、空気は少し張っていた。敗戦のあとの呼び出しとは、だいたいこういうものだ。

 

 秀吉は額が畳につくほど頭を下げた。

 

「面目次第もございませぬ!!」

 

 先に詫びが出る。

 それは本音でもあり、半ば癖でもあった。詫びるなら早いほうがよい。勝家がどうこう、自分がどうこう、理屈をつけるのはそのあとでよい。

 

 ところが信長は、そこへ一拍も置かなんだ。

 

「貴様、中国方面を受け持て」

 

 秀吉はしばらく、その言葉の意味がわからなかった。

 

 いや、わからぬはずはない。

 中国方面。

 西だ。

 播磨、その先、毛利。動かす城の数も、人の数も、荷の量も、洒落にならぬ。織田の外へ覇業をさらに押し出す、大きな戦場の話である。

 

 わかる。

 わかるが、今ここで、それを自分へ言うのか。

 

「北は柴田に任せる。もうヘマはせんであろう」

 

 信長は何でもないことみたいに言った。

 

 秀吉はそこで、ようやく顔を上げた。

 

「……は?」

 

 間抜けな声が出た。

 

 光秀の目が少しだけ細まる。

 長秀はわずかに視線を逸らした。

 笑いを堪えたのかもしれぬ。ひどい話だった。

 

「何じゃ、その顔は」

 

 信長が言う。

 

「いや」

 

 秀吉はまだ膝をついたまま、思わず口を開いた。

 

「いや、にございます」

 

「何がだ」

 

「何がと申されましても……」

 

 秀吉は一瞬、本気で言葉に詰まった。

 

「手取川にございますぞ」

 

「そうだ」

 

「そうだ、ではなく」

 

 つい口調が崩れた。

 だが、もう止まらない。

 

「わし、しくじっておりますが」

 

「うむ」

 

「勝家殿を止めきれておりませぬが」

 

「うむ」

 

「撤退支援はいたしましたが、勝ってはおりませぬが」

 

「だから何だ」

 

 その一言は、妙に乾いていた。

 

 秀吉は口を噤んだ。

 

 そう来るかと思った。

 思ったが、やはり腹へは悪い。

 

 信長はそこで、ほんの少しだけ身体を前へ倒した。

 あの人がそうする時は、だいたい面倒な話になる。

 

「勘で残ったのであろう」

 

 秀吉は一瞬、目を瞬いた。

 

 見ていたのか。

 

「は」

 

「退かせもした」

 

 信長は言う。

 それだけで終わる。

 

 秀吉はそこで、よけいに困った。

 褒められておるのか、責められておるのか、半端にわかりづらい。

 

「それはよい」

 

 信長は続けた。

 

「だが、おぬしはいまだに自分をそこまでの男と思っておらぬ」

 

 秀吉は、すぐには返せなんだ。

 

 そこまでの男。

 

 それは何だ。

 

 勝家を止める男か。

 北の軍をまとめる男か。

 戦を一つの流れとして取り、勝ち負けだけでなく、その後まで見て動く男か。

 

 秀吉が黙ったのを、信長は肯定と取ったらしい。

 

「柴田は柴田だ」

 

 信長は言った。

 

「勝手にやる。あれはそういう男だ。いまさら直らぬ」

 

 それはその通りだった。

 秀吉にもわかる。

 

「だが貴様は違う」

 

 信長の声は高くない。

 なのに、やけに腹へ落ちる。

 

「貴様は、あれを見て『ああ、柴田殿なら』と半歩引いた」

 

 図星だった。

 

 秀吉の喉が、ひやりと冷えた。

 

「勝てた、とは言わぬ」

 

 信長は続ける。

 

「謙信はああであった。神なぞが本当におるなら、ああいう顔をして出てくるのであろうよ」

 

 広間の空気がわずかに静まる。

 あの人がそこまで言うのは珍しい。

 

「だが」

 

 信長の目が秀吉を刺す。

 

「貴様はもう、何とか退かせればよい立場ではない」

 

 秀吉は、そこでようやく意味を掴みはじめた。

 

 叱られているのだ。

 敗けたことを、ではない。

 勝家のわがままに付き合ったことだけを、でもない。

 

 おぬしは、もうそこではない。

 そこへ自分を置いておらぬのが悪い。

 

 そう言われている。

 

「……買いかぶりにございます」

 

 秀吉は低く言った。

 言いながら、自分でも半分は逃げだとわかっていた。

 

 信長は鼻で笑った。

 

「そう思うておるのが悪い」

 

 そこでようやく、長秀が小さく息を吐いた。

 助け舟なのか、確認なのかはわからぬ。たぶん両方だった。

 

「羽柴殿」

 

「何じゃ」

 

「東は、信忠様がおられる」

 

 長秀は静かに言った。

 

「岐阜は織田家そのものの芯だ。家康殿もおる。長篠で武田もかなり削った。信長様の中では、あちらの算段はすでに立っておるのでしょう」

 

 秀吉はそちらを見た。

 

 なるほど、と腹のどこかで嫌な形に納得する。

 信忠がいる。

 家康がいる。

 勝家もいる。

 北は勝家に任せ続けるにせよ、あまり“勝家のまま”で居座られても困る。なら、一度痛い目を見るのも織り込みのうちかもしれぬ。引き分け以下くらいで帳尻が合えばよし、そのために秀吉をつけていた。

 

 そこまで考えた瞬間、秀吉は嫌な顔をした。

 

「……わし、半分保険だったのか」

 

 信長は答えぬ。

 答えぬことで、答えた。

 

 秀吉は思わず天井を仰いだ。

 

「ひどい話じゃのう」

 

「ひどくはあるまい」

 

 信長が言う。

 

「貴様は働く」

 

「そういう問題ではありませぬ」

 

「そういう問題だ」

 

 本当にこの人は、重いことを軽く寄越す。

 

 名もそうだった。

 領地もそうだった。

 器も、役目も、だいたいそうだ。

 人が一生かけて抱えるようなものを、「おぬしにやる」「持て」「使え」で済ませる。受け取る側がどれだけ面食らうかなど、たぶん半分も考えておらぬ。

 

 だが同時に、そうして寄越す時は、たいてい本気だということも秀吉は知っていた。

 

「中国方面は」

 

 光秀がそこで口を開いた。

 

 理屈を補う時の声だった。

 

「北と違い、ただ正面で押し切るだけでは回りませぬ。播磨の国衆、毛利、城、川、海、荷、寺社、こちらに降る者、まだ様子を見る者、すべてが絡みます」

 

「面倒くさいのう」

 

「面倒くさいから、お前に回ってきたのです」

 

 光秀はさらりと言った。

 癪に障るが、筋は通る。

 

「柴田殿は重い。勝家殿の重さは北で要る。だが西は、もう少し編まねばならぬ」

 

「編む」

 

「人も、術も、兵站も」

 

 長秀が続けた。

 

「羽柴殿は、そこがいちばん向いている」

 

 秀吉は、思わず二人の顔を見比べた。

 

 こやつら、いつの間にそんな話を済ませておった。

 

 いや、済ませておるに決まっておる。信長が今この場で唐突に言ったように見えるだけで、周囲の頭はもう動いていたのだ。そういうところもまた、腹立たしい。

 

「半兵衛をつける」

 

 信長が言った。

 

 秀吉の目が動く。

 

「官兵衛も使え」

 

 さらに言う。

 

「姫路を要にせよ。播磨を噛め。毛利の前に、まずあのあたりを織田の理へ通せ」

 

 秀吉の胸の奥で、何かが少しだけ熱くなった。

 

 二兵衛。

 

 半兵衛は、流れを見る。

 綺麗な勝ち筋を描く。

 官兵衛は、まだ深く付き合ったことはないが、播磨の地と人脈に通じておると聞く。地縁のある男だ。人を口説き、城を使い、泥の中の理を通すには便利だろう。

 

 便利、などと言うと失礼かもしれぬ。

 だが秀吉にとっては、まずそこだった。

 

 戦は、勝つだけでは終わらぬ。

 姉川で軍を見た。

 長篠で職場環境の悪い軍の理を見た。

 安土で、信長が戦国そのものを片づける気なのだと知った。

 

 その延長として西があるのなら、たしかに自分の役目なのかもしれぬ。

 

 そう思う自分と、いやいや待て待て、しくじった直後にそれを寄越すか、という自分が、腹の中でひどく忙しく喧嘩した。

 

「返事は」

 

 信長が言う。

 

 秀吉は、そこでようやく背筋を伸ばした。

 

 わからぬ。

 わからぬが、あの人はもう置いている。

 自分がそこへ立てると思っているから、雑に置いている。

 その雑さが腹立たしく、同時に抗いがたい。

 

「……承りましてございます」

 

 秀吉は言った。

 

「何だ、その顔は」

 

「重すぎるだけにございます」

 

「重くなければ預けぬ」

 

 平然と言う。

 本当にこの人は。

 

 秀吉は一度だけ深く息を吸った。

 

 中国方面。

 姫路。

 播磨。

 毛利。

 二兵衛。

 城と荷と由緒と人をまとめて噛み、西へ通す。

 

 その大きさを、まだ全部は掴めていない。

 だが、掴めぬから受けぬ、が通る相手ではなかった。

 

 信長が立つ。

 それで、この話は終わりだという合図だった。

 

「猿」

 

「は」

 

「今度は、退かせて終わりではないぞ」

 

 秀吉は一瞬だけ、息を止めた。

 

「通せ」

 

 それだけだった。

 

 長い説明はない。

 戦の理も、西の重さも、播磨の厄介さも、半兵衛と官兵衛の使い分けも、全部ひっくるめて、その一言へ押し込んでくる。

 

 秀吉は頭を下げた。

 

「は」

 

 広間を出ると、廊下の風が少しだけぬるかった。

 安土の外はいつも通り動いている。人が走り、荷が通り、どこかで木槌が鳴り、誰かが誰かへ頭を下げる。天下が少しずつ形を持ち始めた頃の城というものは、休まず息をしている。

 

 その呼吸の中へ、また一つ重いものを放り込まれた気がした。

 

「ひどい顔ですな」

 

 横で長秀が言った。

 

「おぬしにまで言われとうない」

 

「言いますとも」

 

 長秀は少しだけ笑う。

 

「猿の頃は、もう少し自分の腹だけ気にしておいででした」

 

「今も腹は気にしておるわ」

 

「そうでしょうとも」

 

 その返しが妙にいつも通りで、秀吉は少しだけ気が抜けた。

 

 光秀がその横で袖へ手を入れたまま言う。

 

「播磨は面倒ですよ」

 

「おぬしに言われると、余計に嫌になるのう」

 

「褒めております」

 

「どこがじゃ」

 

「面倒なものは、貴方のほうがよく噛む」

 

 秀吉は鼻を鳴らした。

 癪だが、わからぬでもないのがまた腹立たしい。

 

 中国方面軍。

 

 まだ名前だけが先にある。

 実感はあとから来るだろう。

 

 だが、ひとつだけわかることがある。

 手取川で勝家を見送り、撤退を支え、それで少しはやったつもりでいた自分は、もうそこへ置かれていない。

 

 信長は、そう言うたのだ。

 

 秀吉は廊下の先を見た。

 西の空はまだ見えぬ。

 見えぬが、その向こうに、また別の面倒くさい戦と人と城と荷が待っているのだろう。

 

「……難儀な話じゃ」

 

 小さく呟く。

 

 だがその声は、思ったほど沈んでいなかった。

 

 重いものほど雑に寄越す。

 あの人は昔からそうだ。

 名も、役目も、器も、こうしてぽんと寄越して、あとは勝手に通せと言う。

 

 腹立たしい。

 

 だが、腹立たしいのと、嬉しくないのとは別だった。

 

 秀吉はそのことに気づいてしまい、ひどく嫌な顔をした。

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