呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
姫路の城をはじめて見た時、羽柴秀吉は馬上で少しだけ目を細めた。
「ほう」
それだけ言って、しばらく黙った。
よい城だった。
派手すぎぬ。
だが弱そうでもない。
山へ食らいつくように築かれた城とは違い、地へ根を張りながら、人と物の流れを受ける顔をしている。守るためだけの要害ではない。寄せて、ためて、また出すための城だ。堀と土塁と曲輪の形も、無駄に尖っておらぬくせに、抜け道だけはよく考えられている。人の暮らしと戦の顔が、うまく一つに収まっていた。
「ようできておりますな」
横から竹中半兵衛が言った。
相変わらず、風を読むような声だった。
この男は城を見ても、壁の厚さや兵の数の前に、まず流れを見る。水がどこへ溜まるか、人がどこへ寄るか、風がどこを抜けるか。そういうことばかりを先に見る。
「よい城に見える」
秀吉は答えた。
「見えるのではなく、よい城にございます」
静かな声が、反対側から返ってきた。
黒田官兵衛だった。
まだ若い。
だが若いわりに顔つきが落ち着きすぎている。出立ちも派手ではない。むしろ地味なほうだ。だが、地味な顔というのは時に怖い。こちらが勝手に油断するからである。この男の目もそうだった。よく笑うわけではない。かといって陰気でもない。ただ、何を見ても一度腹の中で勘定してから口へ出しているような目だ。
秀吉はそれを見て、内心で少しだけ身構えた。
「そりゃあ、自分の城ならそう申すでしょうな」
「自分の城だから申すのではございませぬ」
官兵衛は淡々と答えた。
「播磨で人と荷を集め、ほどき、また西へ通すなら、ここが最も向いております」
秀吉はそこで少しだけ笑った。
「ははあ。もうわしの城にする気でおる」
「そうしていただかねば困ります」
あまりにあっさり言うので、秀吉は一瞬ぽかんとした。
「困る」
「播磨は、誰か一人が槍を振るっておれば済む土地ではありませぬ」
官兵衛は城下のほうへ目をやった。
「国衆はそれぞれに面子があり、利があり、古いしがらみがある。毛利へ通じる道も、海も、寺も、皆どこかで繋がっておる。これを押し切るには、まず寄せる場所が要ります」
「姫路がそれだと」
「はい」
秀吉は鼻を鳴らした。
「ずいぶんと自信があるのう」
「ございます」
「嫌味な若造じゃ」
「よく言われます」
言い返しに熱がない。
これがまた気に障る。
秀吉は馬から城下へ目を落とした。
人の動きが見える。荷が動く。道が細るところ、広がるところ、町の息が少し詰まるところ。なるほど、姫路は悪くない。ここを握れば、播磨の喉元へ手が届く。
ただし、それだけでは足りぬ。
「城がよいのはわかった」
秀吉は言った。
「だが、人はどうする」
半兵衛が少しだけ目を細めた。
官兵衛は逆に、わずかに口元をゆるめた。
「人は」
官兵衛が言う。
「愚かですから」
秀吉は眉を上げた。
「いきなりそこへ行くか」
「いきますとも」
官兵衛は本当に何でもない顔で続けた。
「利で動く者もおります。恩で動く者もおります。意地で動く者もおります。怖れで動く者もおります。だが、たいていはそのどれか一つでは足りませぬ。自分では利で動いておるつもりで、実際には面子に引かれておる者もおります。義を語りながら、腹の底では損得を数えておる者もおります」
「身も蓋もないのう」
「蓋をしても腐るだけにございます」
半兵衛がそこで小さく咳払いした。
「官兵衛殿」
「はい」
「少し言い方を和らげてもよろしい」
官兵衛は一瞬だけ考えた。
「人は複雑にございます」
「悪化しておるわ」
秀吉が即座に突っ込むと、半兵衛が珍しくはっきり笑った。
その笑いで空気が少しだけやわらぐ。
秀吉は二人を見た。
よくできた並びだな、とその時ふと思った。
半兵衛は流れを見る。地を見る。勝ち筋をできるだけ綺麗な形で通そうとする。
官兵衛は人を見る。利害を見る。人が愚かな時どう動くかまで含めて読んでおる。
どちらも知の人だが、向いている先が違う。
「二兵衛、とはよく申したものじゃのう」
秀吉がぼそりと言うと、半兵衛が少しだけ首を傾げた。
「光栄ではありますが、並ぶには少々恐れ多い」
「恐れ多い?」
官兵衛が言う。
「それはまた、竹中殿らしからぬ」
「おや、私らしいとは」
「もっと涼しい顔で受け流すかと」
半兵衛は袖の内で笑った。
「貴殿ほど図太くはありませぬ」
「図太いかどうかは存じませぬ。ただ、使えるものは使うべきかと」
「ほう」
秀吉はそこで口を挟んだ。
「では、わしも使えると?」
官兵衛は即答した。
「使えねば困ります」
やはり熱がない。
あまりに当然のように言うので、秀吉は少しだけむっとした。
「おぬし、初対面の相手へようそれを言うの」
「初対面ではございませぬ」
「ん?」
「名は前から存じております。播磨で織田を通すなら、いずれ羽柴殿と組むだろうとも思っておりました」
秀吉は目を細めた。
「先に算段へ入れておったわけか」
「はい」
「嫌な男じゃなあ」
「よく言われます」
同じ答えが返る。
やはり嫌な男だった。
だが、嫌なだけではない。
この男はたぶん、本当にそういうふうにしか見ておらぬのだ。誰が上で誰が下というより、何がどこへハマるかで人を見る。だからこそ調略ができるのだろう。相手の欲や愚かさや怖れを、怒りも軽蔑もせず、ただ最初から勘定に入れている。
そういう合理は、秀吉の周りにはあまりいなかった。
光秀の理とは少し違う。光秀は理へ寄りすぎる。官兵衛はもっと泥の中で理を使う顔をしている。
「で」
秀吉はあらためて城を見上げた。
「本当に寄越すのか、これを」
官兵衛は頷いた。
「はい」
「そんな軽い話ではなかろう。播磨の城ぞ」
「軽くはありませぬ」
「では何でそんな顔で言う」
「重いものほど、置くべきところへ置かねばなりませぬから」
秀吉はそこで、ふと信長の顔を思い出した。
重いものほど、妙に雑に寄越す人である。
名も、役目も、器もそうだった。中国方面もそうだ。人がひとつ抱えれば一生ものになりそうなものを、「持て」「使え」「通せ」で済ませる。
官兵衛の言い方は信長ほど雑ではなかったが、物の置き方の理は少し似ていた。
「……気に食わぬのう」
「何がにございます」
「おぬしも、うちの殿も、重いものを置くのが軽い」
官兵衛は少しだけ黙り、それから思いのほか素直に言った。
「そういうものかもしれませぬ」
そこで半兵衛が口を開いた。
「羽柴殿」
「何じゃ」
「姫路は城にございますが、城だけではありませぬ」
半兵衛の声は、また風の向きを読むみたいに静かだった。
「ここは節です」
「節」
「東から来るものが、一度ここで収まり、西へ向かう。人も、荷も、話も、噂も、呪いも」
秀吉は少しだけ目を見張った。
節。
その言い方は妙に腹へ落ちた。
安土で見たものが、一瞬だけ頭をよぎる。人も物も熱も呪いも、ただ集めれば腐る。だから流す。流すには節が要る。節がなければ、流れは散り、濁り、力にならぬ。
姫路は、その節か。
「ここで播磨の顔を揃える」
官兵衛が続ける。
「加古川で国衆を集め、誰がこちらへ寄るか、誰がまだ迷うか、誰を先に崩せば全体が寄るかを見ます」
「見てどうする」
「崩します」
簡潔だった。
秀吉は少し笑った。
「やはり物騒ではないか」
「戦にございます」
まったくその通りである。
「ただし」
官兵衛の目が、初めて少しだけ温度を帯びた。
「崩し方は選べます」
「ほう」
「人は愚かですが、愚かなりに守りたいものはある。面子、家、子、土地、名。そこを見誤らねば、無駄に敵を増やさずに済みます」
秀吉はそこで、ようやく官兵衛の合理の形を少し掴んだ。
冷たいのではない。
冷たいように見えて、むしろ人の愚かさを前提にしている。人は理屈どおりには動かぬ。だからその歪みまで計算へ入れる。そういう合理か。
それはたしかに、調略向きだった。
「気に入ったかもしれぬ」
秀吉が言うと、官兵衛は少しだけ目を細めた。
「それは何より」
「まだ全部ではないぞ」
「全部気に入られては、こちらが困ります」
「何でじゃ」
「緩みます」
やはり嫌な男である。
だが、使える。
すごく使える。
秀吉はそう思ってから、少しだけ顔をしかめた。
まただ。
人を見る時の自分の目が、少しずつ変わってきている。昔は、使えるか使えぬかといえば、もっと直接的な話だった。腹が減る。走れる。殴れる。騙せる。生き残れる。せいぜいその程度だ。
だが今は違う。
城が節になるか。
誰が流れを読むか。
誰が人の愚かさを数に入れるか。
そういう見方をしはじめている。
中国方面を預かるというのは、こういうことかもしれぬ。
「羽柴殿」
半兵衛が呼んだ。
「何じゃ」
「顔が、少しだけ大将の顔になりました」
秀吉は思わず嫌な顔をした。
「やめい」
「何故」
「まだようわからぬからじゃ」
半兵衛は静かに笑った。
官兵衛はそれを見て、ほんの少しだけ首を傾げる。
「わからぬままで進めるのが、大将では」
「おぬしな」
秀吉は呆れたように言った。
「本当に、そういうところが可愛げない」
「可愛げで播磨は取れますまい」
「取れぬな」
「なら結構にございます」
秀吉はとうとう声を立てて笑った。
城下では人が動いている。
姫路の城は、ただそこにあるだけでなく、これからさらに人を寄せ、荷を寄せ、面倒を寄せるだろう。加古川には国衆が集まる。播磨はまだ静まりきらぬ。毛利も遠くで待っておる。
面倒な話だった。
だが、妙に血が動く。
信長に中国方面を寄越された時は、「は?」のほうが先だった。いまでも半分はそうだ。重い。重いし、雑に寄越しすぎだとも思う。
だが姫路を前にし、半兵衛と官兵衛の顔を見ていると、その重さが少しずつ具体的な手触りを持ちはじめる。
通せ、と信長は言った。
なるほど、こういうことかもしれぬ。
秀吉は馬を下りた。
「よし」
城を見上げる。
姫路は静かだった。だが静かな城ほど、中へ入れた時に何を通すかで顔が変わる。
「まずは、ここをこちらの顔にする」
そう言うと、半兵衛が頷いた。
官兵衛は少しだけ笑った。
「それでこそにございます」
秀吉はそこで初めて、ほんの少しだけ、中国方面軍の大将というものの重さを、誤魔化しきれぬ形で肩へ感じた。
嫌な重さだった。
だが、嫌なだけでもなかった。