呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1577 姫路城

 

 姫路の城をはじめて見た時、羽柴秀吉は馬上で少しだけ目を細めた。

 

「ほう」

 

 それだけ言って、しばらく黙った。

 

 よい城だった。

 

 派手すぎぬ。

 だが弱そうでもない。

 山へ食らいつくように築かれた城とは違い、地へ根を張りながら、人と物の流れを受ける顔をしている。守るためだけの要害ではない。寄せて、ためて、また出すための城だ。堀と土塁と曲輪の形も、無駄に尖っておらぬくせに、抜け道だけはよく考えられている。人の暮らしと戦の顔が、うまく一つに収まっていた。

 

「ようできておりますな」

 

 横から竹中半兵衛が言った。

 

 相変わらず、風を読むような声だった。

 この男は城を見ても、壁の厚さや兵の数の前に、まず流れを見る。水がどこへ溜まるか、人がどこへ寄るか、風がどこを抜けるか。そういうことばかりを先に見る。

 

「よい城に見える」

 

 秀吉は答えた。

 

「見えるのではなく、よい城にございます」

 

 静かな声が、反対側から返ってきた。

 

 黒田官兵衛だった。

 

 まだ若い。

 だが若いわりに顔つきが落ち着きすぎている。出立ちも派手ではない。むしろ地味なほうだ。だが、地味な顔というのは時に怖い。こちらが勝手に油断するからである。この男の目もそうだった。よく笑うわけではない。かといって陰気でもない。ただ、何を見ても一度腹の中で勘定してから口へ出しているような目だ。

 

 秀吉はそれを見て、内心で少しだけ身構えた。

 

「そりゃあ、自分の城ならそう申すでしょうな」

 

「自分の城だから申すのではございませぬ」

 

 官兵衛は淡々と答えた。

 

「播磨で人と荷を集め、ほどき、また西へ通すなら、ここが最も向いております」

 

 秀吉はそこで少しだけ笑った。

 

「ははあ。もうわしの城にする気でおる」

 

「そうしていただかねば困ります」

 

 あまりにあっさり言うので、秀吉は一瞬ぽかんとした。

 

「困る」

 

「播磨は、誰か一人が槍を振るっておれば済む土地ではありませぬ」

 

 官兵衛は城下のほうへ目をやった。

 

「国衆はそれぞれに面子があり、利があり、古いしがらみがある。毛利へ通じる道も、海も、寺も、皆どこかで繋がっておる。これを押し切るには、まず寄せる場所が要ります」

 

「姫路がそれだと」

 

「はい」

 

 秀吉は鼻を鳴らした。

 

「ずいぶんと自信があるのう」

 

「ございます」

 

「嫌味な若造じゃ」

 

「よく言われます」

 

 言い返しに熱がない。

 これがまた気に障る。

 

 秀吉は馬から城下へ目を落とした。

 人の動きが見える。荷が動く。道が細るところ、広がるところ、町の息が少し詰まるところ。なるほど、姫路は悪くない。ここを握れば、播磨の喉元へ手が届く。

 

 ただし、それだけでは足りぬ。

 

「城がよいのはわかった」

 

 秀吉は言った。

 

「だが、人はどうする」

 

 半兵衛が少しだけ目を細めた。

 官兵衛は逆に、わずかに口元をゆるめた。

 

「人は」

 

 官兵衛が言う。

 

「愚かですから」

 

 秀吉は眉を上げた。

 

「いきなりそこへ行くか」

 

「いきますとも」

 

 官兵衛は本当に何でもない顔で続けた。

 

「利で動く者もおります。恩で動く者もおります。意地で動く者もおります。怖れで動く者もおります。だが、たいていはそのどれか一つでは足りませぬ。自分では利で動いておるつもりで、実際には面子に引かれておる者もおります。義を語りながら、腹の底では損得を数えておる者もおります」

 

「身も蓋もないのう」

 

「蓋をしても腐るだけにございます」

 

 半兵衛がそこで小さく咳払いした。

 

「官兵衛殿」

 

「はい」

 

「少し言い方を和らげてもよろしい」

 

 官兵衛は一瞬だけ考えた。

 

「人は複雑にございます」

 

「悪化しておるわ」

 

 秀吉が即座に突っ込むと、半兵衛が珍しくはっきり笑った。

 

 その笑いで空気が少しだけやわらぐ。

 

 秀吉は二人を見た。

 

 よくできた並びだな、とその時ふと思った。

 

 半兵衛は流れを見る。地を見る。勝ち筋をできるだけ綺麗な形で通そうとする。

 官兵衛は人を見る。利害を見る。人が愚かな時どう動くかまで含めて読んでおる。

 どちらも知の人だが、向いている先が違う。

 

「二兵衛、とはよく申したものじゃのう」

 

 秀吉がぼそりと言うと、半兵衛が少しだけ首を傾げた。

 

「光栄ではありますが、並ぶには少々恐れ多い」

 

「恐れ多い?」

 

 官兵衛が言う。

「それはまた、竹中殿らしからぬ」

 

「おや、私らしいとは」

 

「もっと涼しい顔で受け流すかと」

 

 半兵衛は袖の内で笑った。

 

「貴殿ほど図太くはありませぬ」

 

「図太いかどうかは存じませぬ。ただ、使えるものは使うべきかと」

 

「ほう」

 

 秀吉はそこで口を挟んだ。

 

「では、わしも使えると?」

 

 官兵衛は即答した。

 

「使えねば困ります」

 

 やはり熱がない。

 あまりに当然のように言うので、秀吉は少しだけむっとした。

 

「おぬし、初対面の相手へようそれを言うの」

 

「初対面ではございませぬ」

 

「ん?」

 

「名は前から存じております。播磨で織田を通すなら、いずれ羽柴殿と組むだろうとも思っておりました」

 

 秀吉は目を細めた。

 

「先に算段へ入れておったわけか」

 

「はい」

 

「嫌な男じゃなあ」

 

「よく言われます」

 

 同じ答えが返る。

 やはり嫌な男だった。

 

 だが、嫌なだけではない。

 この男はたぶん、本当にそういうふうにしか見ておらぬのだ。誰が上で誰が下というより、何がどこへハマるかで人を見る。だからこそ調略ができるのだろう。相手の欲や愚かさや怖れを、怒りも軽蔑もせず、ただ最初から勘定に入れている。

 

 そういう合理は、秀吉の周りにはあまりいなかった。

 光秀の理とは少し違う。光秀は理へ寄りすぎる。官兵衛はもっと泥の中で理を使う顔をしている。

 

「で」

 

 秀吉はあらためて城を見上げた。

 

「本当に寄越すのか、これを」

 

 官兵衛は頷いた。

 

「はい」

 

「そんな軽い話ではなかろう。播磨の城ぞ」

 

「軽くはありませぬ」

 

「では何でそんな顔で言う」

 

「重いものほど、置くべきところへ置かねばなりませぬから」

 

 秀吉はそこで、ふと信長の顔を思い出した。

 

 重いものほど、妙に雑に寄越す人である。

 名も、役目も、器もそうだった。中国方面もそうだ。人がひとつ抱えれば一生ものになりそうなものを、「持て」「使え」「通せ」で済ませる。

 

 官兵衛の言い方は信長ほど雑ではなかったが、物の置き方の理は少し似ていた。

 

「……気に食わぬのう」

 

「何がにございます」

 

「おぬしも、うちの殿も、重いものを置くのが軽い」

 

 官兵衛は少しだけ黙り、それから思いのほか素直に言った。

 

「そういうものかもしれませぬ」

 

 そこで半兵衛が口を開いた。

 

「羽柴殿」

 

「何じゃ」

 

「姫路は城にございますが、城だけではありませぬ」

 

 半兵衛の声は、また風の向きを読むみたいに静かだった。

 

「ここは節です」

 

「節」

 

「東から来るものが、一度ここで収まり、西へ向かう。人も、荷も、話も、噂も、呪いも」

 

 秀吉は少しだけ目を見張った。

 

 節。

 その言い方は妙に腹へ落ちた。

 

 安土で見たものが、一瞬だけ頭をよぎる。人も物も熱も呪いも、ただ集めれば腐る。だから流す。流すには節が要る。節がなければ、流れは散り、濁り、力にならぬ。

 

 姫路は、その節か。

 

「ここで播磨の顔を揃える」

 

 官兵衛が続ける。

 

「加古川で国衆を集め、誰がこちらへ寄るか、誰がまだ迷うか、誰を先に崩せば全体が寄るかを見ます」

 

「見てどうする」

 

「崩します」

 

 簡潔だった。

 

 秀吉は少し笑った。

 

「やはり物騒ではないか」

 

「戦にございます」

 

 まったくその通りである。

 

「ただし」

 

 官兵衛の目が、初めて少しだけ温度を帯びた。

 

「崩し方は選べます」

 

「ほう」

 

「人は愚かですが、愚かなりに守りたいものはある。面子、家、子、土地、名。そこを見誤らねば、無駄に敵を増やさずに済みます」

 

 秀吉はそこで、ようやく官兵衛の合理の形を少し掴んだ。

 

 冷たいのではない。

 冷たいように見えて、むしろ人の愚かさを前提にしている。人は理屈どおりには動かぬ。だからその歪みまで計算へ入れる。そういう合理か。

 

 それはたしかに、調略向きだった。

 

「気に入ったかもしれぬ」

 

 秀吉が言うと、官兵衛は少しだけ目を細めた。

 

「それは何より」

 

「まだ全部ではないぞ」

 

「全部気に入られては、こちらが困ります」

 

「何でじゃ」

 

「緩みます」

 

 やはり嫌な男である。

 

 だが、使える。

 すごく使える。

 

 秀吉はそう思ってから、少しだけ顔をしかめた。

 

 まただ。

 

 人を見る時の自分の目が、少しずつ変わってきている。昔は、使えるか使えぬかといえば、もっと直接的な話だった。腹が減る。走れる。殴れる。騙せる。生き残れる。せいぜいその程度だ。

 

 だが今は違う。

 

 城が節になるか。

 誰が流れを読むか。

 誰が人の愚かさを数に入れるか。

 そういう見方をしはじめている。

 

 中国方面を預かるというのは、こういうことかもしれぬ。

 

「羽柴殿」

 

 半兵衛が呼んだ。

 

「何じゃ」

 

「顔が、少しだけ大将の顔になりました」

 

 秀吉は思わず嫌な顔をした。

 

「やめい」

 

「何故」

 

「まだようわからぬからじゃ」

 

 半兵衛は静かに笑った。

 官兵衛はそれを見て、ほんの少しだけ首を傾げる。

 

「わからぬままで進めるのが、大将では」

 

「おぬしな」

 

 秀吉は呆れたように言った。

 

「本当に、そういうところが可愛げない」

 

「可愛げで播磨は取れますまい」

 

「取れぬな」

 

「なら結構にございます」

 

 秀吉はとうとう声を立てて笑った。

 

 城下では人が動いている。

 姫路の城は、ただそこにあるだけでなく、これからさらに人を寄せ、荷を寄せ、面倒を寄せるだろう。加古川には国衆が集まる。播磨はまだ静まりきらぬ。毛利も遠くで待っておる。

 

 面倒な話だった。

 だが、妙に血が動く。

 

 信長に中国方面を寄越された時は、「は?」のほうが先だった。いまでも半分はそうだ。重い。重いし、雑に寄越しすぎだとも思う。

 

 だが姫路を前にし、半兵衛と官兵衛の顔を見ていると、その重さが少しずつ具体的な手触りを持ちはじめる。

 

 通せ、と信長は言った。

 

 なるほど、こういうことかもしれぬ。

 

 秀吉は馬を下りた。

 

「よし」

 

 城を見上げる。

 姫路は静かだった。だが静かな城ほど、中へ入れた時に何を通すかで顔が変わる。

 

「まずは、ここをこちらの顔にする」

 

 そう言うと、半兵衛が頷いた。

 官兵衛は少しだけ笑った。

 

「それでこそにございます」

 

 秀吉はそこで初めて、ほんの少しだけ、中国方面軍の大将というものの重さを、誤魔化しきれぬ形で肩へ感じた。

 

 嫌な重さだった。

 だが、嫌なだけでもなかった。

 

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