呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1578 摂津の濁り

 

 

 播磨が、ようやく一つの顔になりかけていた。

 

 姫路へ人が寄る。荷が寄る。国衆の顔ぶれも、昨日までの敵味方では割り切れぬまま、それでも少しずつこちらへ揃い始めている。姫路を節にし、加古川で人を見、上月と三木の先を読み、毛利へ伸びる喉をどこで締めるかを考える。中国方面軍とは、つまるところそういう面倒な仕事の積み重ねだった。

 

 秀吉はそれを、ようやく腹へ落としかけていた。

 

 だからこそ、その報せは腹立たしかった。

 

 荒木村重、離反の気配あり。

 しかも、官兵衛が説得へ入ったまま戻らぬ。

 

 幕舎の中の空気が変わる。

 誰かが息を呑み、誰かが目を逸らし、誰かが「やはり」と言いたげな顔をする。

 

「……これは離反では無いじゃろ」

 

 秀吉が言うと、居並ぶ者の顔が少しだけ動いた。

 

「なぜですか」

 

 問い返したのは、若い使番だった。

 責めるような口調ではない。だが周りも皆、同じことを思っている顔だった。播磨の男が、地元の縁と旧主の誘いに引かれて転ぶ。よくある話ではある。

 

 秀吉は鼻を鳴らした。

 

「官兵衛にとって、半兵衛と儂以上に読めて効く駒はおらぬからじゃ」

 

 幕舎が一瞬しんとする。

 

 秀吉は続けた。

 

「播磨の理を読み、人の阿呆さまで算段へ入れて、なお一番働ける盤を、あやつが自分から捨てるものか。そんな殊勝な男ではあるまい」

 

 半兵衛が、横で小さく笑った。

 

「それは信じているのか、駒として見ているのか、どちらでしょう」

 

「両方じゃ」

 

 秀吉は即答した。

 

「どちらでもよい。離反ではない」

 

 そう言い切ってから、秀吉は舌打ちした。

 離反でないなら、なお悪い。

 つまり荒木のほうが、官兵衛を抱え込んだのだ。

 

「で、荒木は何を考えておる」

 

 秀吉が問うと、半兵衛は少しだけ目を伏せた。

 

「官兵衛殿の言葉を借りるなら、裏表あるのでしょう」

 

「意味わっからんわ!」

 

 思わず本音が出た。

 

 秀吉は立ったまま腕を振った。

 

「怖いなら怖いでようござる。旧い縁に引かれたなら引かれたでまだわかる。秀吉が出世して気に食わぬ、でも結構。どれか一つならまだ腹へ落ちる。何じゃ、裏表あるとは。腹があるなら表へ出せい」

 

 半兵衛は静かに答えた。

 

「人は、そう綺麗には割れませぬ」

 

「綺麗でなくとも、筋は通せるじゃろ」

 

「通せぬ時もあります」

 

 その言い方が、妙に優しかった。

 だからこそ秀吉は余計に腹が立った。

 

 信長が怖い。

 それはわかる。

 織田が大きくなりすぎて、内にいる者まで呑み込まれそうになる。

 それもわかる。

 秀吉が西で膨らみ、中枢に近いはずの者ほど面白くない。

 それも、わからぬでもない。

 

 だが、それで背くのか。

 

 秀吉にはどうにも気持ちが悪かった。

 

「……用意せい」

 

 低く言う。

 

「荒木を叩く。官兵衛を引っこ抜く。話はそれからじゃ」

 

 軍は動き始めた。

 人を動かす時、秀吉の頭は妙に静かになる。どこへ兵を流し、どこで押さえ、どの口を塞ぎ、どの道を開けるか。姫路で学び始めた「通す」仕事が、そのまま戦の形になる。腹の底ではまだ「意味わからん」が燻っているくせに、表の将は勝手に段取りを組む。そういうところだけ、最近ますます信長に似てきている気がして、それもまた不愉快だった。

 

 有岡のまわりは、嫌な空気だった。

 

 城が強いというより、人の腹の中身が濁っていた。

 こちらへ来る使者の言葉も、向こうから飛ぶ矢の癖も、皆どこか半端である。決死でもなければ、綺麗な防戦でもない。立つと決めた者の顔ではなく、立ってしまった者の顔だった。

 

「嫌な城じゃのう」

 

 秀吉が言うと、半兵衛が小さく頷いた。

 

「理が遅れております」

 

「何じゃそれは」

 

「腹が先に動いて、理屈が後から追ってくる時の城です」

 

 秀吉は、それを聞いて少しだけ目を細めた。

 

 なるほど。

 荒木村重とは、そういう男かもしれぬ。

 

 戦は、長くは引かせなんだ。

 長引かせれば濁りは増す。増した濁りは、こちらの兵まで腐らせる。秀吉はそういう手合いを嫌った。押すところは押し、切るところは切る。綺麗ではないが早い。早いぶんだけ、後始末の苦味も濃い。

 

 城の一角が落ち、火の手が上がり、ようやく中へ入った時、秀吉は真っ先に官兵衛を探した。

 

 見つかった時、官兵衛はひどい有様だった。

 痩せている。汚れている。歩けるようで歩けぬ。だが、目だけがまだ生きていた。いや、生きているどころか、こちらの人数と損耗と、外の動きまで一目で勘定している目だった。

 

「ほれ見い」

 

 秀吉は言った。

 

「離反ではなかろうが」

 

 官兵衛は、乾いた顔で一度だけ息を吐いた。

 

「第一声がそれですか」

 

「それですとも。裏切ったなら蹴って帰るところじゃ」

 

「では、まだ価値はあると」

 

「あるから腹が立つんじゃ」

 

 官兵衛の口元が、ほんのわずかに動いた。

 笑ったのか、痛んだのか、秀吉にはわからなんだ。

 

 半兵衛が少し遅れて入ってくる。官兵衛を見て、その顔にだけほんの一瞬、感情が出た。安堵だろう。だがすぐに消える。

 

「ご無事で何より」

 

「無事には見えますまい」

 

「生きておれば十分です」

 

 官兵衛はそこで、目を閉じた。

 それきり、少しだけ肩の力が抜けた。半兵衛の前でだけ抜けるあたりが、何となく癪だった。

 

 城を出るころには、もう夕方だった。

 空は低く、風は重い。勝ったはずなのに、腹の中は少しも晴れぬ。

 

 秀吉は馬上で、黙ったまま前を見ていた。

 

 織田も、もう一枚岩ではないのだろう。

 

 大きくなりすぎた。

 北があり、東があり、西があり、皆が同じ信長を見ているようで、実際には違う。恐れる者、縋る者、利用する者、焼かれる者。ひとつの熱のまわりに、それぞれ違う顔で集まっている。

 

 それにしたって、あそこから離反とは、怖いもの知らずな。

 

 秀吉はそう思ってから、すぐに首を振った。

 

 違うかもしれぬ。

 怖いからこそ、ああいう濁り方をするのかもしれぬ。

 

「理が通らぬのも、また人か」

 

 ぽつりと漏らすと、横で半兵衛が目を細めた。

 

「そうかもしれませぬ」

 

「気に食わぬのう」

 

「でしょうね」

 

 短い返事だった。

 

 秀吉は鼻を鳴らした。

 

 信長に背く。

 それだけでも十分気味が悪い。

 そのうえ、筋が通らぬ。余計に悪い。

 

 だが今は、そういう人間まで盤の上におるのだと、嫌でも知るしかなかった。

 

 西の空はまだ広い。

 広いくせに、どこかで既に濁り始めている気がした。

 

 

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