呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
播磨が、ようやく一つの顔になりかけていた。
姫路へ人が寄る。荷が寄る。国衆の顔ぶれも、昨日までの敵味方では割り切れぬまま、それでも少しずつこちらへ揃い始めている。姫路を節にし、加古川で人を見、上月と三木の先を読み、毛利へ伸びる喉をどこで締めるかを考える。中国方面軍とは、つまるところそういう面倒な仕事の積み重ねだった。
秀吉はそれを、ようやく腹へ落としかけていた。
だからこそ、その報せは腹立たしかった。
荒木村重、離反の気配あり。
しかも、官兵衛が説得へ入ったまま戻らぬ。
幕舎の中の空気が変わる。
誰かが息を呑み、誰かが目を逸らし、誰かが「やはり」と言いたげな顔をする。
「……これは離反では無いじゃろ」
秀吉が言うと、居並ぶ者の顔が少しだけ動いた。
「なぜですか」
問い返したのは、若い使番だった。
責めるような口調ではない。だが周りも皆、同じことを思っている顔だった。播磨の男が、地元の縁と旧主の誘いに引かれて転ぶ。よくある話ではある。
秀吉は鼻を鳴らした。
「官兵衛にとって、半兵衛と儂以上に読めて効く駒はおらぬからじゃ」
幕舎が一瞬しんとする。
秀吉は続けた。
「播磨の理を読み、人の阿呆さまで算段へ入れて、なお一番働ける盤を、あやつが自分から捨てるものか。そんな殊勝な男ではあるまい」
半兵衛が、横で小さく笑った。
「それは信じているのか、駒として見ているのか、どちらでしょう」
「両方じゃ」
秀吉は即答した。
「どちらでもよい。離反ではない」
そう言い切ってから、秀吉は舌打ちした。
離反でないなら、なお悪い。
つまり荒木のほうが、官兵衛を抱え込んだのだ。
「で、荒木は何を考えておる」
秀吉が問うと、半兵衛は少しだけ目を伏せた。
「官兵衛殿の言葉を借りるなら、裏表あるのでしょう」
「意味わっからんわ!」
思わず本音が出た。
秀吉は立ったまま腕を振った。
「怖いなら怖いでようござる。旧い縁に引かれたなら引かれたでまだわかる。秀吉が出世して気に食わぬ、でも結構。どれか一つならまだ腹へ落ちる。何じゃ、裏表あるとは。腹があるなら表へ出せい」
半兵衛は静かに答えた。
「人は、そう綺麗には割れませぬ」
「綺麗でなくとも、筋は通せるじゃろ」
「通せぬ時もあります」
その言い方が、妙に優しかった。
だからこそ秀吉は余計に腹が立った。
信長が怖い。
それはわかる。
織田が大きくなりすぎて、内にいる者まで呑み込まれそうになる。
それもわかる。
秀吉が西で膨らみ、中枢に近いはずの者ほど面白くない。
それも、わからぬでもない。
だが、それで背くのか。
秀吉にはどうにも気持ちが悪かった。
「……用意せい」
低く言う。
「荒木を叩く。官兵衛を引っこ抜く。話はそれからじゃ」
軍は動き始めた。
人を動かす時、秀吉の頭は妙に静かになる。どこへ兵を流し、どこで押さえ、どの口を塞ぎ、どの道を開けるか。姫路で学び始めた「通す」仕事が、そのまま戦の形になる。腹の底ではまだ「意味わからん」が燻っているくせに、表の将は勝手に段取りを組む。そういうところだけ、最近ますます信長に似てきている気がして、それもまた不愉快だった。
有岡のまわりは、嫌な空気だった。
城が強いというより、人の腹の中身が濁っていた。
こちらへ来る使者の言葉も、向こうから飛ぶ矢の癖も、皆どこか半端である。決死でもなければ、綺麗な防戦でもない。立つと決めた者の顔ではなく、立ってしまった者の顔だった。
「嫌な城じゃのう」
秀吉が言うと、半兵衛が小さく頷いた。
「理が遅れております」
「何じゃそれは」
「腹が先に動いて、理屈が後から追ってくる時の城です」
秀吉は、それを聞いて少しだけ目を細めた。
なるほど。
荒木村重とは、そういう男かもしれぬ。
戦は、長くは引かせなんだ。
長引かせれば濁りは増す。増した濁りは、こちらの兵まで腐らせる。秀吉はそういう手合いを嫌った。押すところは押し、切るところは切る。綺麗ではないが早い。早いぶんだけ、後始末の苦味も濃い。
城の一角が落ち、火の手が上がり、ようやく中へ入った時、秀吉は真っ先に官兵衛を探した。
見つかった時、官兵衛はひどい有様だった。
痩せている。汚れている。歩けるようで歩けぬ。だが、目だけがまだ生きていた。いや、生きているどころか、こちらの人数と損耗と、外の動きまで一目で勘定している目だった。
「ほれ見い」
秀吉は言った。
「離反ではなかろうが」
官兵衛は、乾いた顔で一度だけ息を吐いた。
「第一声がそれですか」
「それですとも。裏切ったなら蹴って帰るところじゃ」
「では、まだ価値はあると」
「あるから腹が立つんじゃ」
官兵衛の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのか、痛んだのか、秀吉にはわからなんだ。
半兵衛が少し遅れて入ってくる。官兵衛を見て、その顔にだけほんの一瞬、感情が出た。安堵だろう。だがすぐに消える。
「ご無事で何より」
「無事には見えますまい」
「生きておれば十分です」
官兵衛はそこで、目を閉じた。
それきり、少しだけ肩の力が抜けた。半兵衛の前でだけ抜けるあたりが、何となく癪だった。
城を出るころには、もう夕方だった。
空は低く、風は重い。勝ったはずなのに、腹の中は少しも晴れぬ。
秀吉は馬上で、黙ったまま前を見ていた。
織田も、もう一枚岩ではないのだろう。
大きくなりすぎた。
北があり、東があり、西があり、皆が同じ信長を見ているようで、実際には違う。恐れる者、縋る者、利用する者、焼かれる者。ひとつの熱のまわりに、それぞれ違う顔で集まっている。
それにしたって、あそこから離反とは、怖いもの知らずな。
秀吉はそう思ってから、すぐに首を振った。
違うかもしれぬ。
怖いからこそ、ああいう濁り方をするのかもしれぬ。
「理が通らぬのも、また人か」
ぽつりと漏らすと、横で半兵衛が目を細めた。
「そうかもしれませぬ」
「気に食わぬのう」
「でしょうね」
短い返事だった。
秀吉は鼻を鳴らした。
信長に背く。
それだけでも十分気味が悪い。
そのうえ、筋が通らぬ。余計に悪い。
だが今は、そういう人間まで盤の上におるのだと、嫌でも知るしかなかった。
西の空はまだ広い。
広いくせに、どこかで既に濁り始めている気がした。