呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
木下藤吉郎 のちの 羽柴秀吉
羽柴という苗字には由縁がある
丹羽長秀・織田家の宿老であり天下統一を進めた知将
柴田勝家・おなじく宿老であり天下統一を進めた猛将
丹羽の羽、柴田の柴、接いで羽柴
最終的に天下人になったのは席次を追い越して羽柴秀吉であった。
そして織田信長すらも成しえなかった天下統一を成し遂げた。
それだけの才覚があった。
その成り上がり譚は未来、時代が江戸になっても太閤様と愛された。
巻き藁は、どう見てもただの藁の塊だった。
庭の隅、踏み固められた土の上に、杭へ括りつけて立ててある。日除けもなく雨除けもなく、陽に焼けて、いかにも古びて見える。よく見れば表面の藁はところどころ擦り切れているし、打ち込みの跡らしい窪みもある。見かけだけなら、百姓家の納屋の隅にでも転がっていそうな代物だ。
だが木下藤吉郎が朝から打ち込んでみて知ったことがある。
こいつは見た目ほど素直ではない。
棒で叩いても、拳で殴っても、木刀で打っても、何か薄い膜がその手前にあるように力が抜ける。
藁は柔らかいはずなのに、手応えは妙に固い。
固いくせに、石や木みたいに真っ向から跳ね返してくるでもない。
こちらの力を呑み込んで、何事もなかったように立っている。
「腹が立つな」
藤吉郎は巻き藁の前で腕をぶらつかせながら言った。
朝から打ち込み続けたせいで手の皮が少し剥け、指の節がじんじんする。腹の底にはいつもの空洞がある。飯を食ったところで埋まりはせぬ類のものだが、それでも空腹は空腹である。
腹が減る。藁には腹が立つ。
世の中、腹は立つが、こちらの腹は減るばかりだな、と藤吉郎は思った。
そこへ後ろから、どすどすと地面を踏み鳴らす音が来た。
「朝から何に怒っておる」
柴田勝家。
織田家中きっての猛将である。武勇をもって敵を打ち崩す如何にもといった侍だ。
声からして大きい。 身体も大きい。
立っているだけで影が落ちる。
藤吉郎が最初にこの人を見たときの印象は、術師というよりまず「でかい」で、いまもその印象は少しも改まっていない。
「藁ににございます」
藤吉郎は振り返りもせずに言った。
「腹は減るばかりで立ったことはありませぬが、こやつには朝から存分に腹が立っております」
後ろで小さく笑う声がした。
丹羽長秀。
「お前は本当に、どこへ出しても口だけは減らぬな」
丹羽は呆れたように言ったが、怒ってはいなかった。
丹羽は柴田の横へ並んだ。こちらは柴田のような威圧がない。大声でもないし、立ち居振る舞いも妙にきっちりしているのに、それが窮屈に見えない。柴田が絵にかいたような猛将だとするのであれが彼は反対に知将然とした人間である。
しかし理と知に偏った人間によくあるこちらを見下げるような視線はない。人当たりがよい、というのとも少し違う。信長の近くに長くいて、だいぶ無茶なものを見慣れている人間の余裕、みたいなものがある。
「信長様のご命令だ」
長秀が巻き藁へ目をやって言った。
「お前を術師として使うなら、まず基礎を入れろ、と」
「術師として、ですか」
藤吉郎はようやく振り返った。
その言葉が少しだけ意外だった。
信長に拾われてからというもの、雑事は山ほどやらされた。走り回り、運び、拾い、届け、覚え、食らいつく。使われるのには慣れた。だが“術師として使う”と言われると、まだ少しだけ実感がない。
「何だ、不満か」
勝家が腕を組む。
「不満ではありませぬが、そこまで見込まれておりますかなあと」
「見込まれておるからこうして時間を割いておるのだ、阿呆」
勝家の一言は雑だが本質だけは外さない。
藤吉郎は口の端を少し持ち上げた。
「それはそれは、光栄なことで」
「光栄なら口を動かす前に手を動かせ」
「その手がうまく動かぬから、こうして腹が立っておるのでございます」
「また腹か」
「術の起点には向いている言葉ではあるな」
長秀が、少しおかしそうに言った。
藤吉郎はそちらを見る。
「術の起点?」
「腹だ」
長秀は自分の下腹あたりへ、軽く手を置いた。
「腕ではない。肩でもない。脚だけでもない。丹田、と言う者もある。そこから流し、通し、末端で散らさぬ。今のお前は、怒るのも殴るのも全部先端だけでやっている」
「腹から殴れ、と?」
「雑に言えばそうだな」
「では、ようございました。腹だけは昔から空いております」
勝家がぶっと鼻を鳴らす。
長秀も、とうとう声に出して笑った。
「そういう意味ではない」
「わかっておりますよ」
「わかっておらぬ顔だ」
「五分五分にございます」
勝家は巻き藁の前へ出た。
「口で言っていても入らぬ。見ておれ」
藤吉郎は少し身を引いた。
勝家の手本は、豪快だが雑ではない。身体が大きいせいで雑に見えるだけで、よく見るとどこにも無駄がない。武の理が通っている、とでも言えばよいのか。
立つ。腹へ力を落とす。そこから腰、背、肩、腕へと、見えぬ何かが太くまっすぐ通っている。
拳が巻き藁へ入った。
どん、と重い音がして、藁束が大きく沈む。
藤吉郎は思わず目を細めた。
すごいことはすごい。だが、悔しいかな、まず思うのは「そりゃあんたの身体ならなあ」である。背の丈は儂に儂が肩車でもすれば届くか?重さなど儂二人でも間違いなく足りなかろう。
「どうだ」
勝家が振り向く。
「どうだも何も」
藤吉郎は肩をすくめた。
「それは柴田殿だからできるのでしょう」
「ほう」
「その肩、その腕、その図体。いかにもできそうではありませぬか。こちらは見ての通り、藁より細うございます」
「言うなあ」
長秀が笑いを堪えている。
勝家の眉がぴくりと動いた。
「つまり貴様、儂は力任せにやっておると申すか」
「そこまでは申しておりませぬ。申してはおりませぬが、まあ、見た目にはそう見えるというだけのことにございます」
「生意気な猿だ」
「猿が生意気でなくてどうします」
「人並みに謙虚になることを覚えろ」
「腹が満ちましたら考えます」
長秀がついに吹き出した。
「木下、お前それ、本当に信長様の前でも言うなよ」
「たまに申しております」
「知っている。だから言っている」
勝家は呆れたように首を振り、巻き藁から一歩退いた。
「丹羽、お前もやれ」
「私がですか」
「こやつは儂では納得せぬ。なら、お前が見せろ」
長秀は少しだけ肩を竦めた。
「まあ、よいが」
そう言って前へ出る。
勝家のあとへ立つと、ますます体格差が目立つ。武の威圧だけで言えば勝家に分があるのは誰の目にも明らかだ。だが長秀には、それとは別の“崩れなさ”があった。帳面面だの実務屋だのと陰口を叩く者もいるだろうが、そういう人間はたいてい、長秀みたいな者がいないと組が回らぬことを知らぬだけだと、藤吉郎は薄々感じ始めていた。
「よく見ろ」
長秀は言った。
藤吉郎は素直に頷く。
勝家の時よりも、むしろこちらのほうが見ようと思えた。
長秀は静かに立ち、腹へ息を落とした。
目立った力みはない。だが中心がすっと落ちる。藤吉郎はそこを見逃すまいと目を凝らした。腹から上がる。腰もめぐる。背で折れない。肩で詰まらない。その流れが、そのまま掌へ抜ける。
打つ。
ぱしん、と勝家より軽い音がした。
だが巻き藁は、今度は中から崩れるように沈んだ。表面を押し込まれるのではなく、内部へ筋が通ったような沈み方だ。
藤吉郎は目を見開いた。
「……ああ」
「筋だけの話ではないだろう」
長秀が手を払いながら言った。
「柴田殿のような太い流れでも通る。私のような細い流れでも通る。違うようでいて、起点は同じだ。腹から入れて、途中で散らさぬ」
勝家がそこで横から口を挟む。
「見えたなら真似ろ」
藤吉郎は思わず顔をしかめた。
「それがあまりにも雑なのですよ、柴田殿の教えは」
「見えぬのか」
「見えておりますとも」
「なら真似ろ」
「見えても、すぐそのまま身体が動くなら苦労はありませぬ」
「できぬのは、まだ見えておらぬからだ」
「いや、見えて――」
「木下」
長秀が、笑いを含んだままこちらを呼んだ。
「柴田殿の言い方は乱暴だが、間違ってはいない」
「丹羽殿まで」
「私は少しだけ通訳してやっているだけだ」
「ありがたいような、ありがたくないような」
「ありがたく思っておけ」
「はいはい」
藤吉郎は巻き藁の前へ戻った。
腹だ、と自分に言い聞かせる。腹から入れて、通す。腕で殴るな。肩で散らすな。そういうことなのだろう。
だが言葉にすると余計に難しい。
腹と言われても、腹は昔から減るばかりで、何かが満ちている感じなどしたことがない。
「どうした」
「考えております」
「考えるな、通せ」
「それを考えておるのです」
勝家が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
長秀は、まあまあ、という顔で手を振った。
藤吉郎は一度目を閉じた。
腹。
丹田。
難しいことは知らぬ。
だが、勝家も長秀も、起点だけは同じだった。身体の違いも、力の太さも、その後の話でしかない。
よし、と小さく息を吐き、打つ。
――まるで動かない。
指先だけが痛い。
藤吉郎は顔をしかめ、すぐ手を振った。
「散ったな」
勝家が即座に言う。
「ええい、そこを待っておられるのでしょうな」
「待つ。待っていた」
「嫌な先生にございます」
「先生と呼ぶな」
「では鬼」
「ああ、確かに柴田殿は鬼だな」
長秀がそう言うと、勝家は珍しく本気で眉を寄せた。
「お前までか」
「事実だから仕方ない」
藤吉郎は苦笑しつつ、もう一度巻き藁を見た。
悔しい。
だが、手応えが何もなかったわけではない。さっき一瞬だけ、腹の奥で何かが動きかけた。そのまま上まで通らず散っただけだ。
ならば、もう一度だ。
「丹羽殿」
「何だ」
「もう一遍、最初だけ見せてくだされ」
「最初だけでいいのか」
「そこから先は、たぶん柴田殿と同じです」
長秀は、へえ、という顔をした。
それから何も言わず、もう一度立った。
息を腹へ落とす。その静かな起点だけを、藤吉郎は必死に見る。
「わかったか」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「食う前の確信は、いつもこんなものにございます。食ってみねば毒か薬かわかりませぬ」
「それはお前だけだ」
長秀が笑う。
勝家は腕を組んだまま、黙って見ている。
藤吉郎は立った。
今度は、勝家の重さも長秀の滑らかさも真似しない。起点だけを盗る。腹から出して、上へ通す。ただそれだけを、猿真似る。
踏み込み、打つ。
巻き藁が、わずかに沈んだ。
ごくわずかだった。
だが確かに、手応えが返った。表面ではなく、中に入った感触。
藤吉郎の顔が、思わずぱっと明るくなる。
「お」
「ほう」
勝家が低く言う。
長秀は巻き藁を見て、うん、と頷いた。
「今のはよかった。まだ細いが、通っている」
「細い、か」
「お前の今の力なら十分だ。太くするのはそのあとでいい」
勝家が鼻を鳴らす。
「小生意気なわりに、見る目だけはあるな」
「ありがとうございまする」
「褒めてはおらん」
「ですが、褒められた時は素直に受け取るのが木下流にございます」
「誰がそんな流儀を作れと言った」
「腹が減った者は、食える時に食う。褒めも同じにございます」
長秀がまた笑った。
「やるじゃないか、木下」
「丹羽殿にそう言われると、なかなか悪くありませぬな」
「私の言葉は、柴田殿の三倍は価値があるからな」
「こら丹羽」
「冗談ですよ、柴田殿」
「言い方が冗談ではない」
藤吉郎は、二人のやり取りを聞きながら、もう一度巻き藁へ向き直った。
手のひらの痛みが、いまは少し心地よい。できぬものが、できかけた。その感触は腹に落ちる。食い扶持のために生きてきた男にとって、こういう“手に入るかもしれぬ”感触は、それだけで甘かった。
その時だった。
「ほう」
背後から、聞き覚えのある声がした。
全員が振り返る。
いつの間に来たのか、信長が庭口のあたりに立っていた。供の者を一人だけ後ろに控えさせ、こちらを面白そうに見ている。
「信長様」
長秀が軽く頭を下げる。
勝家も一歩下がった。
藤吉郎は慌てて背を正す。
「ずいぶん楽しそうだな」
「木下がうるさいだけにございます」
勝家が言う。
「腹が減っておるのはうるさいものです」
藤吉郎がつい口を挟むと、信長の口元が僅かに上がった。
「知っておる」
そう言って、巻き藁へ目をやる。
「できたか」
「ほんの少し」
藤吉郎は正直に答えた。
信長は頷き、何も言わずに前へ出た。
巻き藁の前に立つ。
構えない。
いや、構えているのかもしれぬが、藤吉郎には見えない。勝家のような重みも、長秀のような滑らかな流れも、どこにも見えぬ。ただ、立っているだけだ。
なのに空気が変わった。
腹の奥が、すう、と冷たくなる。
いや、冷たいのではない。深いのだ。
どこから何が立ち上がるのか、まるで見えぬ。すべてが立ち上がっているだけなのかもしれぬ。なにも起きていないのかもしれぬ。
信長はそのまま、軽く手を出した。
巻き藁が、音もなく崩れた。
叩き潰されたのでも、押し込まれたのでもなかった。巻藁の形に固めている何かが貫かれたように、一拍遅れてはらりと崩れた。
藤吉郎は、思わず目を瞬かせた。
見えなかった。
勝家も、長秀も、一瞬だけ黙っている。
その沈黙の意味は、藤吉郎にもなんとなくわかった。根本的に違うのだ。少なくとも、自分たちが教えているような“流れ”ではない。
信長は巻き藁を一瞥し、振り返った。
「木下」
「は」
「お前はまず、腹から覚えろ」
「……腹は昔から減るばかりにございます」
ついそう返すと、信長はくつくつと笑った。
「減るならなおよい。入る余地がある」
そう言って、さっさと踵を返す。
いつものことだが、返事を待つ気がない。
長秀が小さく息をつき、勝家が肩をすくめた。
「見たか」
勝家が言う。
「見えませなんだ」
藤吉郎は素直に答えた。
「だろうな」
長秀が苦笑する。
「我らの手本は、お前に覚えさせるためのものだ。信長様のは、見ても今すぐ腹へ落ちるものではない」
「そのうち見えるようになるのでしょうか」
「さあな」
勝家が言う。
「なるようにしろ」
「やはり雑」
「雑で結構」
信長の背はもう遠い。
藤吉郎は、その背を目で追ってから、ふっと巻き藁へ視線を戻した。
さっきまでは腹が立つだけだった。
だが今は違う。少し食らいつけそうな気がする。柴田の太さも、丹羽の整いも、信長の見えぬ深さも、いまは全部手の届かぬところにある。だが、腹の奥から通す、その起点だけは、ようやく掴みかけている。
「……もう一度」
藤吉郎が呟くと、長秀が笑った。
「よし。今度は十本だ」
「柴田殿と同じことを仰る」
「柴田殿は雑なだけで合っているからな」
「鬼が二人になってしまった」
「失礼だな」
「ほんに失礼だ」
二人の声を聞きながら、藤吉郎はもう一度、巻き藁の前に立った。
腹は減っている。
だが手応えもある。
それで十分だった。