呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
評定の間は、妙に広く感じた。
別にいつもより広いわけではない。
天井も柱も畳の数も変わらぬ。だが人の顔ぶれが少し違うと、部屋の広さというものは案外変わる。北陸だ、中国だ、播磨だと、戦の重みをそれぞれ抱えた者が集まると、座敷は自然と詰まる。今日はその詰まりが薄かった。
信長がいる。
丹羽長秀がいる。
光秀もいる。
他にも二、三人、近習や側近が控えている。
そこまではよい。
問題は、上座の少し脇に、見慣れぬ小さな影がちょこんと座っていることだった。
八つか、九つか。
いや、もう少し幼いかもしれぬ。
子供だった。
きちんと座っている。
膝の置き方も、背筋も、無理に作ったようでいて、崩れてはいない。衣も上等だ。顔立ちは整っている。いかにも賢そうというほど尖ってはおらぬが、ぼんやりしているわけでもない。目がよう動く。ただし、余計に泳がぬ。
可愛い、と秀吉は思った。
思ってから、いや待て、何でここに子供がおる、と考え直した。
「猿」
信長が言った。
「は」
「これを持て」
秀吉は、反射的に膝を進めかけて止まった。
これ。
またそれだ。
また「これ」である。
茶器かもしれぬ。
書付かもしれぬ。
領地でも役目でも、あの人はだいたいそんな顔で寄越す。
だが今回は、目の前にある「これ」が、どう見ても子供だった。
秀吉はしばらく黙ったまま、その子を見た。
子供のほうも、こちらを見返している。
怯えているようには見えぬ。かといって、妙に肝が据わりすぎているわけでもない。ただ、今ここで何が起きようとしているかを、年相応以上には理解している顔だった。
「……は?」
久しぶりに、間の抜けた声が出た。
長秀が横で、ああ、という顔をした。
光秀は袖の中で何かを堪えている。笑うな。
「於次だ」
信長が言う。
説明になっておらぬ。
「於次」
「おぬしの養子にやる」
あまりにあっさりしていた。
秀吉は、今度こそ本当に固まった。
「……は?」
さっきよりひどい声だった。
信長は少しだけ眉をひそめる。
「何度も言わせるな」
「いやいやいや」
秀吉は思わず両手を振った。
「いやいやいやいや、お待ちくだされ」
「待っておる」
「そういう意味ではなく!」
評定の間だというのに、つい大きな声が出た。
だが仕方がない。これは仕方がない。
「子供にございますぞ!?」
「見ればわかる」
「見ればわかるではありませぬ! 於次様にございますぞ!?」
「そうだ」
「実子ではありませぬか!」
「そうだ」
「そうだ、で済ませてよい話ではござらぬでしょうが!」
信長はそこで、少しだけ首を傾げた。
「何がだ」
何が、ではない。
何から言えばよいのかわからぬのだ。
秀吉は頭を抱えたくなった。
荒木の件も一段落し、播磨以西もようやく織田の理へ寄りはじめている。中国方面軍の手応えも、半兵衛と官兵衛とで少しずつ腹へ落ちてきた。安土の茶室で利休ともまた顔を合わせ、この人はやはり何か大事なものを一碗へ収める術を持っておるのだな、と苦い感心もしたばかりである。
そのうえで、今度は子供だ。
しかも信長の子だ。
重いにも程がある。
秀吉はそこで一度だけ深呼吸し、ようやく少し冷えた頭で於次を見た。
その瞬間、ふっと妙な引っかかりがあった。
この子、と思う。
術師としての勘だった。
ただの気配ではない。秀吉は、もう信長の術理を長く浴びすぎていた。恐れ、怨嗟、熱、人の目に宿るざらつき、そういうものをどう吸い、どう飲み込み、どう力へ変えるか。全部はわからぬ。全部わかるはずもない。だが、輪郭だけなら骨に染みている。
於次の周りにあるものは、その輪郭に少し似ていた。
吸う。
ほんのりと、だが確かにそういう性質がある。
ただし、信長とは決定的に違う。
器が小さい。
いや、小さいというより、抱え込めるだけの頑丈さがまだない。吸ったものが中で綺麗に回らず、身体のどこかへ薄く滞る感じがある。熱というほど強くはない。だが、余計なものを拾いやすい子の気配だった。
なるほどな、と秀吉は思った。
なるほどな。
こりゃたしかに、長浜のような風の抜ける町へ置いたほうがよい。戦場へ連れ歩く類ではない。人も荷も来るが、どこかでほぐれる町。あそこなら、吸いすぎてもまだ壊れにくい。
そして、それが分かる相手として秀吉を選ぶ理も、分からんではない。
分からんではない、が。
それはそれとして!
秀吉はようやく口を開いた。
「……なるほど、理はわかります」
「そうか」
「そうか、ではない」
やはり信長は軽い。
「体質のこと、気づいておられたのでしょう」
「おぬしも気づいたか」
「気づきますわ、これだけ近うおれば」
秀吉は思わず於次を指しそうになって、慌てて手を引っ込めた。子供相手に指を差すな。
「吸う側の性質だけ、うっすらありますな。だが器が小さい。抱えきれぬ。戦場の濁りは吸わせとうない。長浜のほうがまだ合いましょう。それはわかります」
「そうだ」
「そうだ、で終わるなと申しておる!」
信長の横で、長秀がとうとう咳払いをした。
笑いを誤魔化したのだろう。後で覚えておれ。
「でございますが、羽柴殿」
長秀が穏やかに言う。
「信長様の理としては、筋は通っております」
「筋は通っておる。筋は通っておるが、それにしたって子供でしょうが」
「そうだな」
長秀は妙に素直に頷いた。
おい。
光秀がそこで静かに口を開いた。
「血筋を分ける」
短い。
「長浜の気も悪くない。羽柴殿の実子のこともある。信長様なりに、半分は情、半分は打算というところでしょう」
「半分どころか、どっちも一緒くたにしておるわ」
秀吉が言うと、光秀は少しだけ目を細めた。
「それもまた、信長様らしい」
癪だが、その通りだった。
信長は、そこでようやく少しだけ本音らしきものを口にした。
「於次は、あまり丈夫ではない」
評定の間が少しだけ静まる。
於次本人はぴくりとも動かなかった。
そのことが、かえって秀吉には痛かった。
「丈夫でないものを、無理に強いところへ置けば壊れる。あれはそういう質だ」
信長は言う。
「貴様のところなら、まだ死なせぬだろう」
その一言は、重かった。
あの人にしては珍しく、重い言葉だった。
だが言い方はやはり軽い。さらりと置く。置くだけ置いて、相手がどう受け止めるかはあまり見ていない。
秀吉はそこで、ぐっと口を結んだ。
実子のことを思い出した。
自分の子が、小さく、あっけなく先に逝った時のこと。腹の底へ残ったあの嫌な空洞を、信長が知らぬはずもない。知らぬはずもないのに、こういう物の置き方をする。
ほんに大事なものほど雑に寄越しおる。
腹が立つ。
だが、それが信長なりの信でもあることくらい、もうわかってしまうのが余計に厄介だった。
「で」
秀吉は言った。
「名はどうなります」
「秀勝」
信長が即答した。
秀吉は固まった。
「……は?」
「秀勝でよい」
「よくありませぬ」
「何故だ」
「何故も何も」
秀吉は今度こそ本気で頭を抱えた。
「それ、わしの死んだ子につけた名にございますぞ! いやいやいや、それを於次様へそのまま流すのは、さすがに失礼でしょうが!」
長秀が横で、ああ、とまた言った。
光秀は袖の中で完全に笑っている。こやつ。
信長は少しも悪びれぬ。
「いい名だ」
「そういう問題ではない!」
「良いものは良い」
「子供の名は器や城と同じではありませぬ!」
「似たようなものだ」
「似ておるか!」
思わず立ちそうになって、秀吉は慌てて膝を押さえた。
於次が、そこで初めて口を開いた。
「秀吉殿」
細い声だった。
子供の声だ。だが、思っていたより落ち着いている。
「……何でございましょう」
秀吉が返すと、於次はきちんと背筋を伸ばしたまま言った。
「戦国の習いにございます」
そこで一度言葉を切る。
「兄上もおられますし。わたくしが秀吉殿の子となるのは、お家のためにもようございましょう」
誰に習ったのか、妙に整った言い方だった。
可愛げがあるのかないのか分からぬ。
だが賢いのは分かった。
賢くて、ちゃんと空気を読んでいる。
そのことが、秀吉にはかえってきつかった。
子供らしく泣きつかれたほうが、まだ楽だったかもしれぬ。
だが於次は、武家の子としてここへいる。腹を括るほどではないにせよ、括らねばならぬ場だとはわかっている顔だった。
「それに」
於次は続けた。
「秀吉殿の養子となれるのであれば、光栄にございます」
少しだけ、頬が紅い。
言わされているだけではないらしい。
本当にそう思っている部分もあるのだろう。
秀吉はそこで、とうとう言葉に詰まった。
困る。
こういうのが一番困る。
可愛い。
賢い。
しかも、妙に健気だ。
そのくせ、術師として見れば危うい。
信長の理の断片を持ちながら、器が小さい。抱え込めばすぐに身体へ響く。大きい戦場へ出せば、あっという間に食われるだろう。守らねばならぬ。
なるほど、儂に預ける理も分からんではない。
分からんではないが、それにしても!
秀吉は天を仰ぎたくなった。
「……殿」
「何だ」
「いよいよなものまで寄越しおりましたな」
信長は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「そうか」
「そうかではございませぬ」
「持てると思うたから寄越す」
それだけだった。
やはりこの人は、言葉が足りぬ。
足りぬが、足りぬなりに本気なのだと分かってしまう。
秀吉は於次を見た。
於次もこちらを見ている。
大きな目だな、と思った。信長ほど刺さる目ではない。だが、何かを吸ってしまいそうな目ではあった。まだ柔らかいぶんだけ危うい。
長浜へ置こう、と秀吉はその時すでに思っていた。
戦場はだめだ。
人も荷も来るが、風が抜ける町でなければだめだ。茶室のように、人を一度人へ戻せる場が近くにあるのもよい。半兵衛が見た流れ、利休が均す熱、ああいうものがこの子には要る。
そこまで考えてから、秀吉は少しだけ自分に嫌気がさした。
もう受け取る算段をしている。
そういうところだけ、あの人に似てきてしまう。
「……承りましょう」
秀吉は、とうとう言った。
「そうか」
「ただし」
秀吉は慌てて付け加えた。
「名は少し考えさせてくだされ!」
「秀勝でよい」
「よくない!」
「よい」
「よくない!」
押し問答になった。
長秀が今度こそ顔を背けた。肩が揺れている。笑うな。
於次――いや、もう半分、秀勝になるのかもしれぬその子は、そこでふっと笑った。
小さく、だがたしかに笑った。
その顔が年相応で、秀吉は少しだけ救われた。
ああ、まだ子供だ。
ちゃんと子供なのだ。
それなら、まだ守れるかもしれぬ。
評定の間を出る時、秀吉はふと振り返った。
信長はもう次のことを考えている顔だった。血を預けたばかりだというのに、こちらを見てもおらぬ。たぶん本当に、もう置いたつもりでいるのだろう。
秀吉は鼻の奥で息を鳴らした。
名も。
器も。
城も。
役目も。
子も。
この人は、ほんに大事なものほど軽く寄越す。
廊下の外は、少し風があった。
於次――秀勝を横へ連れて歩く。子供の歩幅はまだ小さい。だが歩く速さは案外しっかりしていた。
「秀吉殿」
於次が呼ぶ。
「何じゃ」
「長浜は、よいところにございますか」
秀吉は一瞬だけ考えた。
「よいところじゃ」
それから少しだけ笑う。
「少なくとも、安土ほど人が無茶を言わぬ」
於次はまた小さく笑った。
その笑い声を聞きながら、秀吉は胸のあたりに妙な重さが乗るのを感じていた。
褒美か。
信か。
責か。
たぶん全部だ。
それにしても。
「……ほんに、いよいよなものまで寄越しおった」
秀吉は誰にともなく呟いた。
だが、その声にはもう、さっきまでのような剥き出しの困惑ばかりではなく、ほんの少しだけ、守る側の熱が混じっていた。