呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
竹中半兵衛が死んだ。
その報せは、泣き声より先に、気配でわかった。
幕舎の外で人が膝をつく音がした。砂を噛むような、妙に低い音だった。走ってきた者の乱れた息も聞こえる。だが、喚きはせぬ。喚いてよい報せではないと、持ってきた者のほうが先にわかっているのだろう。
「羽柴様」
呼ばれても、秀吉はすぐには返事をしなかった。
机の上には地図が広げてあった。三木の城、周囲の山道、流れる川、村落の位置、こちらの陣の配置、運び込める兵糧の量、逆に相手へ入りうる道筋。見ていたのはそのはずだった。だがいまは、どの線もどの印も、ただ黒い筋にしか見えぬ。
半兵衛が死んだ。
まだ、使者はそう言っていない。
それでも、もうそれ以外の報せではありえなかった。
「……そうか」
秀吉はようやくそれだけ言って、筆を置いた。
外へ出ると、風が少し冷えていた。秋の気配が、日暮れの端にだけ混じっている。草も木もまだ青いくせに、風だけが先に季節を知っているようだった。
秀吉は、しばらく何も言わずに歩いた。
半兵衛は、こういう男だった。
善い男だった。
戦国に生まれ、策を知り、城を落とし、人の裏をかく術にも長けていたくせに、根のところだけがどうしようもなく善かった。甘いと言えば甘い。戦国に向かぬと言えばその通りだ。だが、その甘さを、秀吉は好いていた。
稲葉山の話を聞いたとき、秀吉はもっと別の男を思い描いていた。
十数人で城を奪った知恵者。
敵の懐へ忍び込み、わずかな手勢で大事をひっくり返す化け物。
信長のような、個で戦場を歪める類の術師かもしれぬと、どこかで思っていた。猿学の手癖が、まずそういうふうに働いたのだ。強いと聞けば見たくなる。盗める理があるなら盗みたくなる。
だが会ってみれば、あの男はそうではなかった。
風だの、水だの、道だの、土地の流れだの、最初はそんな話ばかりする。
秀吉からすればまどろっこしい。敵をどう斬るかでもなく、どう欺くかでもなく、どこへ兵を差し込むかでもなく、まず地面の話をする。秀吉は何度か、本当にこの男が稲葉山を返した半兵衛なのかと疑った。
けれど、見ているとわかってくる。
あれは甘いだけの男ではない。
勝ち筋は見えているのだ。
ただ、その勝ち筋の先に残るものまで見えてしまう。
土地に澱みがどう溜まるか。
飢えた者がどこへ流れるか。
道が荒れれば次の冬に何が起きるか。
城を落としたあと、その土地にどんな苦しみが残るか。
見えてしまうから、軽々しく奪わぬ。
奪えるから奪う、では終われない。
稲葉山を返したことだって、そういうことだったのだろう。
ただ賢いのではない。
勝ったあとに生まれる呪いまで見てしまうから、踏み切れぬ。
秀吉は、そういう半兵衛をもどかしく思ったこともある。
だが同時に、羨ましくもあった。
あんなふうに善くあれたら、と。
長浜へ入ってからは、なおさらだった。
半兵衛は風水を見、ねねは人の顔を見る。
秀吉はその真ん中で、走って、怒鳴って、笑って、土を掘らせ、道を直させ、田を増やし、人を呼び込んだ。
気づけば、長浜には人が集まるようになった。
百姓が来る。
商いをする者が来る。
土地が穏やかだから、人が寄る。
秀吉はその流れが嬉しいくせに、増えすぎると今度は面倒だと文句を言った。
――少し締めようかと思うてな。
――だめ。
ねねにぴしゃりと言われて、秀吉がむくれる。
半兵衛が横で、土地の流れはせき止めるなと静かに笑う。
あの頃は、良かった。
良かった、と思ってしまうあたり、半兵衛の死はもう秀吉の中で過去を作ってしまっていた。
戦の最中だというのに、長浜の陽の匂いが蘇る。
あれは、呪いが薄かった。
いや、薄くなるように半兵衛が土地を整え、ねねが人を地面へ繋ぎとめていたのだ。
半兵衛は、戦が苦手だった。
戦が怖いのではない。
死ぬのが怖いのでもない。
ただ、戦が生む苦しみを、まっすぐ見てしまう。
敵であれ味方であれ、苦しめば呪いが生まれる。
飢えればなおさらだ。
飢えた者の呪いは、腹の底へ沈む。目にも顔にも出にくいくせに、土へ重く残る。
半兵衛はそれを、敵に対してすら知ってしまう。
甘い。
だが、そういう甘さがなければ、長浜はあそこまでうまく育たなかっただろう。
秀吉も、少なくとも味方に対しては、あそこまで執着深くなれなかった。
味方の兵は、ただの兵ではなかった。
三木の陣にいる者たちの何割かは、長浜から来ている。
あの土地で田を見ていた男だ。祭りの時に騒いでいた若い衆だ。ねねに叱られ、半兵衛に水路の掘り方を教わり、秀吉に怒鳴られ、それでも笑ってついてきた者たちだ。
全部の名は知らぬ。だが顔を見れば、ああ、どこどこの村の者だとわかる。
死なせたくなかった。
秀吉は、そこではきっぱり偏っている。
敵は殺せる。
残酷にだって殺せる。
軍人だからだ。戦国の男だからだ。
だが味方は死なせたくない。
領主だからだ。
半兵衛とねねと一緒に、土地ごと育ててきたからだ。
だからこそ、この三木が嫌だった。
正面からぶつかれば、味方が死ぬ。
城を一気に潰そうとすれば、こちらの血が多く流れる。
それは嫌だ。たまらなく嫌だ。
ではじわじわ削るか。
補給を断つか。
飢えさせるか。
それもまた、嫌だった。
嫌だが、こちらの兵が飢えるよりはましだとも思う。
そう思えてしまう自分が、秀吉には少し嫌だった。
丘へ出ると、三木城が見えた。
近くはない。だが近く感じる城だった。山の輪郭と重なり、じっとこちらを見返してくるような、目のある城だ。囲まれながらまだ息をしている。人がいる。食うものが減り、水が細り、それでもまだ中で人が生きている。
その城を見ながら、秀吉は、半兵衛の死がこの戦に負けたからではないと知っていた。
もともと病弱だった。
体は丈夫ではない。
風邪ひとつでも長く尾を引く。
それでもついてきた。
たぶん、秀吉ひとりにしておけなかったのだろう。
自分が見ていなければ、この男はどこまでも荒いほうへ行く。
味方を守ろうとするあまり、敵へ寄せる苦しみを見ぬふりしかねない。
そういう危うさを半兵衛は知っていた。
だから、ついてきた。
苦手な戦に。
心身を削るしかない戦に。
敵が飢え、味方もまた消耗し、日ごと呪いだけが濃くなる戦に。
善い人にとって、これはつらすぎたのだ。
秀吉は、そこでようやく息を吐いた。
吐いた息が、やけに熱かった。
背後に人の気配がする。
振り向かずともわかる。黒田官兵衛だ。
あの男は、半兵衛とは正反対のところから物を見る。
苦しみに鈍いわけではない。むしろよく見えている。
見えたうえで、それを数字に置き換えられる。
それができるから秀吉は使うし、使うたびに少し嫌になる。
「……竹中殿は」
「死んだ」
秀吉は城を見たまま言った。
官兵衛はしばらく何も言わなかった。
悼んでいるのか、計算しているのか、あるいは両方か。
その沈黙に、秀吉は助けられた。
「策はございます」
やがて官兵衛が言った。
秀吉は、まだ振り向かない。
「申せ、ただし条件がある。味方の被害を能う限り減らせ」
黒田は目を見開き、しかし少しばかり考えてすぐ応えた。
理を通す術を心得ている。ゆえに命さえ明確であればこやつはそれを叶える。
「では、正面からは攻めませぬ。道を断ち、流れを切り、水を締め、飯を締める。時間はかかりますが、こちらの損耗は最小です」
秀吉は目を細めた。
その言い方に、ほんの少しだけ半兵衛の影があるようで、余計に腹が痛んだ。
だが官兵衛の口から出る以上、それはもう半兵衛の優しさではない。損害計算だ。
「ただし」
官兵衛が続ける。
「敵方の被害と怨嗟は、相応に増えますが」
相応、では済まぬだろう。
飢えは人を削る。
飯がなければ、理も礼も削れる。
それを秀吉は知っている。
知っているから、その先に何が溜まるかもわかる。
城内に残る者の腹。
子の泣き声。
年寄りの目。
それを想像してしまう。
半兵衛は、そういうものを敵に対してすら想像してしまう男だった。
秀吉は、それを継ぎきれない。
善き人ではない。
半兵衛ほどには。
ねねほどにも。
だが、全く捨てたわけでもない。
その半端さが、いちばん厄介だった。
もし信長なら、もっと早かっただろう。
必要ならば切る。
全部呑むと言う。
それで済む。
もし半兵衛と官兵衛が二人だけで策を練れば、もっと別の最適があったかもしれぬ。
苦しみを減らし、味方も敵も少しでも長く生かしながら、それでも勝つ手。
あの二人なら考えたかもしれぬ。
だが自分には無理だ。
自分は半端者だ。
善だけでは動けず、合理だけでも割り切れぬ。
味方だけはどうしても守りたい。
だから結局、敵へ寄せる。
その寄せた怨嗟を、自分が呑むつもりで前へ出るしかない。
秀吉はそこで初めて振り返った。
官兵衛は、いつもの顔でこちらを見ている。
冷えている。
だが冷えたまま、命じられたことはやる男だ。
「官兵衛」
「は」
「構わぬ。可能な限り、極限まで味方の被害を減らせ」
官兵衛の目が、ほんの少しだけ細くなる。
先を読んだのだろう。
「敵は」
「そんなもんは」
秀吉は一度言葉を切った。
半兵衛の顔が浮かぶ。
稲葉山を返した男。
長浜で風の向きを見て、百姓の顔を見て、戦が嫌いなくせに、この中国までついてきた善い男。
その善さを、自分は半分しか持てなかった。
「……そんなもんは、わしが呑む」
声は思ったより低く、静かに出た。
「やれ」
官兵衛は深く頭を下げた。
「は」
それだけだった。
秀吉はもう一度、三木の城を見た。
風が吹いている。
半兵衛なら、きっとその風の流れを読んだだろう。
どこで呪いが濃くなるか、どこへ苦しみが沈むか、この城が落ちたあと何が残るか、全部見えていたはずだ。
その上で、苦しんだのだ。
秀吉は、そこまで善くはなれない。
だがせめて、味方だけは守る。
その偏りだけは、どうしても捨てられなかった。
三木の干殺しは、そうして始まった。
善き人が死んだ、そのすぐあとに。