呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1580 三木城

 竹中半兵衛が死んだ。

 

 その報せは、泣き声より先に、気配でわかった。

 

 幕舎の外で人が膝をつく音がした。砂を噛むような、妙に低い音だった。走ってきた者の乱れた息も聞こえる。だが、喚きはせぬ。喚いてよい報せではないと、持ってきた者のほうが先にわかっているのだろう。

 

「羽柴様」

 

 呼ばれても、秀吉はすぐには返事をしなかった。

 

 机の上には地図が広げてあった。三木の城、周囲の山道、流れる川、村落の位置、こちらの陣の配置、運び込める兵糧の量、逆に相手へ入りうる道筋。見ていたのはそのはずだった。だがいまは、どの線もどの印も、ただ黒い筋にしか見えぬ。

 

 半兵衛が死んだ。

 

 まだ、使者はそう言っていない。

 それでも、もうそれ以外の報せではありえなかった。

 

「……そうか」

 

 秀吉はようやくそれだけ言って、筆を置いた。

 

 外へ出ると、風が少し冷えていた。秋の気配が、日暮れの端にだけ混じっている。草も木もまだ青いくせに、風だけが先に季節を知っているようだった。

 

 秀吉は、しばらく何も言わずに歩いた。

 

 半兵衛は、こういう男だった。

 

 善い男だった。

 

 戦国に生まれ、策を知り、城を落とし、人の裏をかく術にも長けていたくせに、根のところだけがどうしようもなく善かった。甘いと言えば甘い。戦国に向かぬと言えばその通りだ。だが、その甘さを、秀吉は好いていた。

 

 稲葉山の話を聞いたとき、秀吉はもっと別の男を思い描いていた。

 

 十数人で城を奪った知恵者。

 敵の懐へ忍び込み、わずかな手勢で大事をひっくり返す化け物。

 信長のような、個で戦場を歪める類の術師かもしれぬと、どこかで思っていた。猿学の手癖が、まずそういうふうに働いたのだ。強いと聞けば見たくなる。盗める理があるなら盗みたくなる。

 

 だが会ってみれば、あの男はそうではなかった。

 

 風だの、水だの、道だの、土地の流れだの、最初はそんな話ばかりする。

 秀吉からすればまどろっこしい。敵をどう斬るかでもなく、どう欺くかでもなく、どこへ兵を差し込むかでもなく、まず地面の話をする。秀吉は何度か、本当にこの男が稲葉山を返した半兵衛なのかと疑った。

 

 けれど、見ているとわかってくる。

 

 あれは甘いだけの男ではない。

 勝ち筋は見えているのだ。

 ただ、その勝ち筋の先に残るものまで見えてしまう。

 

 土地に澱みがどう溜まるか。

 飢えた者がどこへ流れるか。

 道が荒れれば次の冬に何が起きるか。

 城を落としたあと、その土地にどんな苦しみが残るか。

 

 見えてしまうから、軽々しく奪わぬ。

 奪えるから奪う、では終われない。

 

 稲葉山を返したことだって、そういうことだったのだろう。

 ただ賢いのではない。

 勝ったあとに生まれる呪いまで見てしまうから、踏み切れぬ。

 

 秀吉は、そういう半兵衛をもどかしく思ったこともある。

 だが同時に、羨ましくもあった。

 

 あんなふうに善くあれたら、と。

 

 長浜へ入ってからは、なおさらだった。

 

 半兵衛は風水を見、ねねは人の顔を見る。

 秀吉はその真ん中で、走って、怒鳴って、笑って、土を掘らせ、道を直させ、田を増やし、人を呼び込んだ。

 気づけば、長浜には人が集まるようになった。

 

 百姓が来る。

 商いをする者が来る。

 土地が穏やかだから、人が寄る。

 秀吉はその流れが嬉しいくせに、増えすぎると今度は面倒だと文句を言った。

 

 ――少し締めようかと思うてな。

 ――だめ。

 

 ねねにぴしゃりと言われて、秀吉がむくれる。

 半兵衛が横で、土地の流れはせき止めるなと静かに笑う。

 

 あの頃は、良かった。

 

 良かった、と思ってしまうあたり、半兵衛の死はもう秀吉の中で過去を作ってしまっていた。

 

 戦の最中だというのに、長浜の陽の匂いが蘇る。

 あれは、呪いが薄かった。

 いや、薄くなるように半兵衛が土地を整え、ねねが人を地面へ繋ぎとめていたのだ。

 

 半兵衛は、戦が苦手だった。

 

 戦が怖いのではない。

 死ぬのが怖いのでもない。

 ただ、戦が生む苦しみを、まっすぐ見てしまう。

 

 敵であれ味方であれ、苦しめば呪いが生まれる。

 飢えればなおさらだ。

 飢えた者の呪いは、腹の底へ沈む。目にも顔にも出にくいくせに、土へ重く残る。

 半兵衛はそれを、敵に対してすら知ってしまう。

 

 甘い。

 

 だが、そういう甘さがなければ、長浜はあそこまでうまく育たなかっただろう。

 秀吉も、少なくとも味方に対しては、あそこまで執着深くなれなかった。

 

 味方の兵は、ただの兵ではなかった。

 

 三木の陣にいる者たちの何割かは、長浜から来ている。

 あの土地で田を見ていた男だ。祭りの時に騒いでいた若い衆だ。ねねに叱られ、半兵衛に水路の掘り方を教わり、秀吉に怒鳴られ、それでも笑ってついてきた者たちだ。

 全部の名は知らぬ。だが顔を見れば、ああ、どこどこの村の者だとわかる。

 

 死なせたくなかった。

 

 秀吉は、そこではきっぱり偏っている。

 

 敵は殺せる。

 残酷にだって殺せる。

 軍人だからだ。戦国の男だからだ。

 だが味方は死なせたくない。

 領主だからだ。

 半兵衛とねねと一緒に、土地ごと育ててきたからだ。

 

 だからこそ、この三木が嫌だった。

 

 正面からぶつかれば、味方が死ぬ。

 城を一気に潰そうとすれば、こちらの血が多く流れる。

 それは嫌だ。たまらなく嫌だ。

 

 ではじわじわ削るか。

 補給を断つか。

 飢えさせるか。

 

 それもまた、嫌だった。

 

 嫌だが、こちらの兵が飢えるよりはましだとも思う。

 そう思えてしまう自分が、秀吉には少し嫌だった。

 

 丘へ出ると、三木城が見えた。

 

 近くはない。だが近く感じる城だった。山の輪郭と重なり、じっとこちらを見返してくるような、目のある城だ。囲まれながらまだ息をしている。人がいる。食うものが減り、水が細り、それでもまだ中で人が生きている。

 

 その城を見ながら、秀吉は、半兵衛の死がこの戦に負けたからではないと知っていた。

 

 もともと病弱だった。

 体は丈夫ではない。

 風邪ひとつでも長く尾を引く。

 それでもついてきた。

 

 たぶん、秀吉ひとりにしておけなかったのだろう。

 

 自分が見ていなければ、この男はどこまでも荒いほうへ行く。

 味方を守ろうとするあまり、敵へ寄せる苦しみを見ぬふりしかねない。

 そういう危うさを半兵衛は知っていた。

 

 だから、ついてきた。

 

 苦手な戦に。

 心身を削るしかない戦に。

 敵が飢え、味方もまた消耗し、日ごと呪いだけが濃くなる戦に。

 

 善い人にとって、これはつらすぎたのだ。

 

 秀吉は、そこでようやく息を吐いた。

 

 吐いた息が、やけに熱かった。

 

 背後に人の気配がする。

 振り向かずともわかる。黒田官兵衛だ。

 

 あの男は、半兵衛とは正反対のところから物を見る。

 苦しみに鈍いわけではない。むしろよく見えている。

 見えたうえで、それを数字に置き換えられる。

 それができるから秀吉は使うし、使うたびに少し嫌になる。

 

「……竹中殿は」

 

「死んだ」

 

 秀吉は城を見たまま言った。

 

 官兵衛はしばらく何も言わなかった。

 悼んでいるのか、計算しているのか、あるいは両方か。

 その沈黙に、秀吉は助けられた。

 

「策はございます」

 

 やがて官兵衛が言った。

 

 秀吉は、まだ振り向かない。

 

「申せ、ただし条件がある。味方の被害を能う限り減らせ」

 

黒田は目を見開き、しかし少しばかり考えてすぐ応えた。

理を通す術を心得ている。ゆえに命さえ明確であればこやつはそれを叶える。

 

「では、正面からは攻めませぬ。道を断ち、流れを切り、水を締め、飯を締める。時間はかかりますが、こちらの損耗は最小です」

 

 秀吉は目を細めた。

 

 その言い方に、ほんの少しだけ半兵衛の影があるようで、余計に腹が痛んだ。

 だが官兵衛の口から出る以上、それはもう半兵衛の優しさではない。損害計算だ。

 

「ただし」

 

 官兵衛が続ける。

 

「敵方の被害と怨嗟は、相応に増えますが」

 

 相応、では済まぬだろう。

 

 飢えは人を削る。

 飯がなければ、理も礼も削れる。

 それを秀吉は知っている。

 知っているから、その先に何が溜まるかもわかる。

 

 城内に残る者の腹。

 子の泣き声。

 年寄りの目。

 それを想像してしまう。

 半兵衛は、そういうものを敵に対してすら想像してしまう男だった。

 

 秀吉は、それを継ぎきれない。

 

 善き人ではない。

 半兵衛ほどには。

 ねねほどにも。

 だが、全く捨てたわけでもない。

 その半端さが、いちばん厄介だった。

 

 もし信長なら、もっと早かっただろう。

 必要ならば切る。

 全部呑むと言う。

 それで済む。

 

 もし半兵衛と官兵衛が二人だけで策を練れば、もっと別の最適があったかもしれぬ。

 苦しみを減らし、味方も敵も少しでも長く生かしながら、それでも勝つ手。

 あの二人なら考えたかもしれぬ。

 

 だが自分には無理だ。

 

 自分は半端者だ。

 善だけでは動けず、合理だけでも割り切れぬ。

 味方だけはどうしても守りたい。

 だから結局、敵へ寄せる。

 

 その寄せた怨嗟を、自分が呑むつもりで前へ出るしかない。

 

 秀吉はそこで初めて振り返った。

 

 官兵衛は、いつもの顔でこちらを見ている。

 冷えている。

 だが冷えたまま、命じられたことはやる男だ。

 

「官兵衛」

 

「は」

 

「構わぬ。可能な限り、極限まで味方の被害を減らせ」

 

 官兵衛の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 先を読んだのだろう。

 

「敵は」

 

「そんなもんは」

 

 秀吉は一度言葉を切った。

 

 半兵衛の顔が浮かぶ。

 稲葉山を返した男。

 長浜で風の向きを見て、百姓の顔を見て、戦が嫌いなくせに、この中国までついてきた善い男。

 その善さを、自分は半分しか持てなかった。

 

「……そんなもんは、わしが呑む」

 

 声は思ったより低く、静かに出た。

 

「やれ」

 

 官兵衛は深く頭を下げた。

 

「は」

 

 それだけだった。

 

 秀吉はもう一度、三木の城を見た。

 

 風が吹いている。

 半兵衛なら、きっとその風の流れを読んだだろう。

 どこで呪いが濃くなるか、どこへ苦しみが沈むか、この城が落ちたあと何が残るか、全部見えていたはずだ。

 

 その上で、苦しんだのだ。

 

 秀吉は、そこまで善くはなれない。

 だがせめて、味方だけは守る。

 

 その偏りだけは、どうしても捨てられなかった。

 

 三木の干殺しは、そうして始まった。

 

 善き人が死んだ、そのすぐあとに。

 

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