呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1581 鳥取餓え殺し

 吉川経家は、白装束で待っていた。

 

 鳥取の城内は、もう戦の匂いではなくなっていた。血や汗や火薬の気配ではない。もっと乾いて、もっと低く、腹の底へ沈むような匂いだ。人が長く飢えると、空気が痩せる。秀吉はそれを知っていた。

 

 だからこそ、通された一室に座る経家の姿を見た時、秀吉は一瞬だけ妙な心持ちになった。

 

 白い。

 

 死に装束の白である。

 しかも、ただ着せられているのではない。本人がもう、そのつもりで着ている白だった。

 

 まだ話は終わっていない。

 条件も、兵の扱いも、民のことも、これから詰めるはずだった。

 なのに、目の前の男はもう、終わりの向こう側に半歩足を出して座っている。

 

 秀吉は少しだけ目を細めた。

 

 経家は痩せていた。

 それでも崩れてはいない。

 頬は落ち、目の下には影があり、声を出すだけでも体力を使いそうな有様のくせに、背筋だけは妙にまっすぐだ。将としての形を、最後の最後まで保つつもりなのだろう。

 

 そして、その経家が秀吉を見た瞬間、わずかに目を見開いた。

 

 ほんの一拍だった。

 だが驚いたのははっきりわかった。

 

 秀吉は怪訝に思った。

 

「……何じゃ」

 

 そう問うと、経家はすぐに視線を戻した。

 

「いや」

 

 声は少し掠れている。

 それでも言葉の骨は立っていた。

 

「まことに、殿自ら来られるとは思うておりませなんだ」

 

「人を寄越して済む話ならそうしたがの」

 

 秀吉はそう言って腰を下ろした。

「おぬしほどの将なら、顔を見ておくに越したことはない」

 

 経家は黙っている。

 

 秀吉はその顔を見た。

 痩せてはいる。

 だが気力は尽きていない。飢えに削られ、城を囲まれ、それでも将としての見得だけは手放しておらぬ顔だ。

 

 そして、さっきの驚き。

 

 秀吉にはその理由がよくわからなかった。

 敵将のもとへ少人数で来たことに驚いたのか。あるいはもっと別の何かか。秀吉自身にとってはいつものことだった。格のある敵と会うなら、自分で行く。軍ごとはひっくり返せずとも、館一つ、場一つなら一人で崩せる。何より、近くで見れば相手の術理の端がわかる。猿学とはそういうものだ。

 

 周りはいつも嫌がる。

 無用心だ、理に合わぬ、伏兵がある、窮鼠がどうの。

 だが秀吉からすれば、腹を括って座っている敵将の前に、大勢の兵を引き連れて行くほうがよほど無粋だった。

 

 それに――

 

 秀吉は経家を見ながら、腹の底でひどく乾いたものが鳴るのを感じていた。

 

 飢えを武器にした。

 相手をここまで削った。

 だったら最後くらい、自分で見ねばならぬ。

 

 感傷ではない。

 責めだ。

 自分でやったことの最後を、他人任せにせぬだけの話だった。

 

「で」

 

 秀吉は口を開いた。

「話を聞こうかの」

 

 経家は一度だけ深く息を吐いた。

 

「もはや城は尽き申した」

 

「見ればわかる」

 

「されど、まだ人は残っております」

 

「……おるな」

 

「兵も、民も」

 

 秀吉は頷かなかった。

 その代わり、経家の顔をまっすぐ見た。

 

 この男は自分の命乞いをする顔ではない、と思った。

 ならば何を言うかは、もうだいたい決まっている。

 

 果たして、経家は少しも回りくどくせず言った。

 

「拙者一命と引き換えに、城兵並びに城中の者どもの命をお助け願いたい」

 

 部屋が静かになった。

 

 供の者たちの気配が、わずかに張る。

 だが誰も口を出さぬ。

 

 秀吉はその言葉を、思ったよりすんなり受け取った。

 

 そう来るだろうとは思っていた。

 そして、そう来られるなら、受けるしかないとも、どこかでわかっていた。

 

 経家は続けた。

 

「もとより、今さら城を保てるとは思うておりませぬ。されど、これ以上飢えさせてよい者らではない」

 

 その言い方に、秀吉は少しだけ眉を上げた。

 

 立派だ、と思った。

 

 自分が助かりたいとは一言も言わぬ。

 武将としての格好をつけたいわけでもない。

 あくまで預かった者の命を最後に前へ出す。

 

 こういう男は、嫌いではない。

 

 好きとも違う。

 だが、背負うに足る相手だと思う。

 

「おぬしは」

 

 秀吉はゆっくり言った。

「領主なのだの」

 

 経家が、わずかに目を伏せる。

 

「そうありたかった、というだけのことにございます」

 

「いや」

 

 秀吉は首を振った。

「そうでなければ、そんな顔はせぬ」

 

 経家はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑った、というほどでもない。だが痩せた顔に、たしかに人らしい温度が戻った。

 

「羽柴殿」

 

「何じゃ」

 

「殿のお顔を見て、思うたのです」

 

「何を」

 

「本当に来られたのだな、と」

 

 秀吉は怪訝なまま、片眉を上げた。

 

「だから来たと言うておろうが」

 

「いえ」

 

 経家は秀吉を見た。

 その視線には、先ほどの驚きの余韻がまだ少し残っている。

 

「もっと、遠い方かと思うておりました」

 

「遠い?」

 

「城の外から人を殺すだけの将なら、もっと遠い顔をしておられよう」

 

 秀吉は一瞬、言葉を失った。

 

 それは褒めているのか、咎めているのか、経家自身にもわかっていない声音だった。

 

「だが、殿は直に来られた」

 

 経家は静かに言う。

「しかも……」

 

「しかも?」

 

「これは、失礼を承知で申し上げるが」

 

 秀吉は無言で促した。

 

「術師としても、格上のお方だ」

 

 秀吉は、そこでようやく先ほどの驚きの意味を少しだけ理解した。

 

 そうか。

 この男には、こちらの術師としての格が見えていたのか。

 

 秀吉自身にはあまりそういう自覚がなかった。

 自分はまだ、信長を追う猿のつもりでいる。前へ出る者であり、理を盗み、必要なら腹を汚し、それでもなお上には信長がいる、そういう感覚が抜けていない。

 

 だが相手から見れば違うのだろう。

 飢え殺しの指揮を執り、こうして自ら現れ、しかも呪力の底が読めぬ。そういう存在は、たしかに“格上”と見えるのかもしれぬ。

 

 秀吉はそのズレに、少しだけ居心地の悪さを覚えた。

 

「……そう大仰なものでもない」

 

 つい、ぶっきらぼうに返してしまう。

 

 経家は何も言わず、ただ小さく頭を下げた。

 

 秀吉は、そこで話を切った。

 

「よい」

 

 経家が顔を上げる。

 

「おぬしの命と引き換えに、助けられる者は助けよう」

 

 供の気配がもう一段張る。

 だが秀吉は気にしない。

 

「ただし、全部を丸ごと助けるなどと言うてはおらぬ。城がここまでなった責めはある。だが、飢えさせたまま皆殺しにするつもりもない」

 

 経家は、そこで深く頭を垂れた。

 

「かたじけない」

 

 その声音に、ようやく少しだけ安堵が混じる。

 安堵というのは不思議なもので、飢えた者の声に乗ると、ひどく軽く、ひどく弱い。

 

 秀吉はその軽さを聞きながら、胸のどこかが少し痛むのを感じた。

 

 その晩、経家は切腹した。

 

 その死は潔かった。

 

 満ち足りた死ではない。

 勝家のように、どこか晴れやかに、正しい終わりへ歩いていく類のものではない。まだそこまで秀吉は知らぬ。だが、それでも経家の死にはひとつのきれいさがあった。

 

 責めを引き受ける者の死だ。

 

 領主として預かったものを守り切れなかった。

 そのうえで、残る者の命を少しでも拾うため、自分が散る。

 

 その筋だけは通して死ぬ。

 

 秀吉は少し離れたところで、その最期を見届けた。

 

 良い死に様だ、とは思わなかった。

 そんな軽い感想で済ませたくはない。

 ただ、この男は最後まで将であった、と思った。

 

 それで十分だった。

 

 翌朝、粥が振る舞われた。

 

 秀吉は、あの場にいた。

 

 いなくてもよい。

 むしろ普通はいないほうがよいのだろう。助命を受けた者らが粥を食うところまで、大将自ら見に来る必要はない。

 

 だが秀吉は来た。

 

 見ておかねばならぬと思った。

 そうしなければ、自分がやったことが本当に終わらぬ気がした。

 

 粥の匂いが、ひどく薄かった。

 

 米の匂いはする。

 湯気も立っている。

 だが本来の飯の匂いではない。延ばしに延ばし、ようやく形にした匂いだ。それでも飢えた者にとっては、十分すぎるほど飯の匂いだった。

 

 人が列をなす。

 だが列の形が、もう少しおかしい。

 きちんと並ぼうとする者もいる。礼を保とうとする者もいる。だが、どうしても手の動きだけが先に出る者もいる。視線が椀へ吸い寄せられ、喉が勝手に鳴る者もいる。浅ましい、とは秀吉は思わなかった。飢えればそうなるだけだ。

 

 人は、腹が減るとこうなる。

 

 秀吉は、ただそれを見た。

 

 物質として腹が減ることからは、ずいぶん遠ざかっていた。

 空腹を知らぬわけではない。呪力の副作用みたいに、どれだけ食ってもどこか満ちぬ感じは、いまだ身体にこびりついている。だが、こういう腹の空き方は久しい。

 

 だから、懐かしかった。

 

 懐かしい、と思ってしまってから、秀吉は少しだけおかしくなった。

 

 何が懐かしいものか。

 城一つ干からびさせて、その人間どもが粥へ手を伸ばすさまを見て、懐かしいなど。

 

 だが、本当に懐かしかったのだ。

 

 限界まで腹を空かせていた頃。

 何か食えるものはないかと、地面や人の手元ばかり見ていた小猿みたいな自分。

 あの時の自分も、たぶんこういう目をしていた。

 

 そして、その飢えた猿を拾ってくれた男がいた。

 

 信長。

 

 秀吉は、ふと遠くを見る目になった。

 

 逆光の中で、こちらもろくに見ずに士官しろと言い、返事も待たずに行ってしまったあの背。

 食い扶持のためについていっただけのはずなのに、いつの間にか焼かれ、継ぎ、追い、ここまで来てしまった。

 

 鳥取の飢えた者たちを見ながら、秀吉はそこで初めて少しだけ可笑しく思った。

 

 あの時の小猿を拾った信長を、いま中国統一の仕上げで呼ぶのだな、と。

 

 感傷ではない。

 泣きもしない。

 ただ、腹の底に古い熱が戻る。

 

 ここまで来た。

 鳥取は落ちた。

 経家も死んだ。

 飢えを武器にした、その責めも背負った。

 

 ならば次だ。

 

 秀吉は粥を啜る音を背に、静かに立ち上がった。

 

 中国は、まだ終わっていない。

 だが終わりは見えている。

 その終わりに、信長を呼ぶ。

 

 拾われた猿が、ようやくそこまで来たのだと、あの人に見せねばならぬ。

 

 秀吉は歩き出した。

 もう、その足は次の戦を踏んでいた。

 

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