呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
吉川経家は、白装束で待っていた。
鳥取の城内は、もう戦の匂いではなくなっていた。血や汗や火薬の気配ではない。もっと乾いて、もっと低く、腹の底へ沈むような匂いだ。人が長く飢えると、空気が痩せる。秀吉はそれを知っていた。
だからこそ、通された一室に座る経家の姿を見た時、秀吉は一瞬だけ妙な心持ちになった。
白い。
死に装束の白である。
しかも、ただ着せられているのではない。本人がもう、そのつもりで着ている白だった。
まだ話は終わっていない。
条件も、兵の扱いも、民のことも、これから詰めるはずだった。
なのに、目の前の男はもう、終わりの向こう側に半歩足を出して座っている。
秀吉は少しだけ目を細めた。
経家は痩せていた。
それでも崩れてはいない。
頬は落ち、目の下には影があり、声を出すだけでも体力を使いそうな有様のくせに、背筋だけは妙にまっすぐだ。将としての形を、最後の最後まで保つつもりなのだろう。
そして、その経家が秀吉を見た瞬間、わずかに目を見開いた。
ほんの一拍だった。
だが驚いたのははっきりわかった。
秀吉は怪訝に思った。
「……何じゃ」
そう問うと、経家はすぐに視線を戻した。
「いや」
声は少し掠れている。
それでも言葉の骨は立っていた。
「まことに、殿自ら来られるとは思うておりませなんだ」
「人を寄越して済む話ならそうしたがの」
秀吉はそう言って腰を下ろした。
「おぬしほどの将なら、顔を見ておくに越したことはない」
経家は黙っている。
秀吉はその顔を見た。
痩せてはいる。
だが気力は尽きていない。飢えに削られ、城を囲まれ、それでも将としての見得だけは手放しておらぬ顔だ。
そして、さっきの驚き。
秀吉にはその理由がよくわからなかった。
敵将のもとへ少人数で来たことに驚いたのか。あるいはもっと別の何かか。秀吉自身にとってはいつものことだった。格のある敵と会うなら、自分で行く。軍ごとはひっくり返せずとも、館一つ、場一つなら一人で崩せる。何より、近くで見れば相手の術理の端がわかる。猿学とはそういうものだ。
周りはいつも嫌がる。
無用心だ、理に合わぬ、伏兵がある、窮鼠がどうの。
だが秀吉からすれば、腹を括って座っている敵将の前に、大勢の兵を引き連れて行くほうがよほど無粋だった。
それに――
秀吉は経家を見ながら、腹の底でひどく乾いたものが鳴るのを感じていた。
飢えを武器にした。
相手をここまで削った。
だったら最後くらい、自分で見ねばならぬ。
感傷ではない。
責めだ。
自分でやったことの最後を、他人任せにせぬだけの話だった。
「で」
秀吉は口を開いた。
「話を聞こうかの」
経家は一度だけ深く息を吐いた。
「もはや城は尽き申した」
「見ればわかる」
「されど、まだ人は残っております」
「……おるな」
「兵も、民も」
秀吉は頷かなかった。
その代わり、経家の顔をまっすぐ見た。
この男は自分の命乞いをする顔ではない、と思った。
ならば何を言うかは、もうだいたい決まっている。
果たして、経家は少しも回りくどくせず言った。
「拙者一命と引き換えに、城兵並びに城中の者どもの命をお助け願いたい」
部屋が静かになった。
供の者たちの気配が、わずかに張る。
だが誰も口を出さぬ。
秀吉はその言葉を、思ったよりすんなり受け取った。
そう来るだろうとは思っていた。
そして、そう来られるなら、受けるしかないとも、どこかでわかっていた。
経家は続けた。
「もとより、今さら城を保てるとは思うておりませぬ。されど、これ以上飢えさせてよい者らではない」
その言い方に、秀吉は少しだけ眉を上げた。
立派だ、と思った。
自分が助かりたいとは一言も言わぬ。
武将としての格好をつけたいわけでもない。
あくまで預かった者の命を最後に前へ出す。
こういう男は、嫌いではない。
好きとも違う。
だが、背負うに足る相手だと思う。
「おぬしは」
秀吉はゆっくり言った。
「領主なのだの」
経家が、わずかに目を伏せる。
「そうありたかった、というだけのことにございます」
「いや」
秀吉は首を振った。
「そうでなければ、そんな顔はせぬ」
経家はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、というほどでもない。だが痩せた顔に、たしかに人らしい温度が戻った。
「羽柴殿」
「何じゃ」
「殿のお顔を見て、思うたのです」
「何を」
「本当に来られたのだな、と」
秀吉は怪訝なまま、片眉を上げた。
「だから来たと言うておろうが」
「いえ」
経家は秀吉を見た。
その視線には、先ほどの驚きの余韻がまだ少し残っている。
「もっと、遠い方かと思うておりました」
「遠い?」
「城の外から人を殺すだけの将なら、もっと遠い顔をしておられよう」
秀吉は一瞬、言葉を失った。
それは褒めているのか、咎めているのか、経家自身にもわかっていない声音だった。
「だが、殿は直に来られた」
経家は静かに言う。
「しかも……」
「しかも?」
「これは、失礼を承知で申し上げるが」
秀吉は無言で促した。
「術師としても、格上のお方だ」
秀吉は、そこでようやく先ほどの驚きの意味を少しだけ理解した。
そうか。
この男には、こちらの術師としての格が見えていたのか。
秀吉自身にはあまりそういう自覚がなかった。
自分はまだ、信長を追う猿のつもりでいる。前へ出る者であり、理を盗み、必要なら腹を汚し、それでもなお上には信長がいる、そういう感覚が抜けていない。
だが相手から見れば違うのだろう。
飢え殺しの指揮を執り、こうして自ら現れ、しかも呪力の底が読めぬ。そういう存在は、たしかに“格上”と見えるのかもしれぬ。
秀吉はそのズレに、少しだけ居心地の悪さを覚えた。
「……そう大仰なものでもない」
つい、ぶっきらぼうに返してしまう。
経家は何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
秀吉は、そこで話を切った。
「よい」
経家が顔を上げる。
「おぬしの命と引き換えに、助けられる者は助けよう」
供の気配がもう一段張る。
だが秀吉は気にしない。
「ただし、全部を丸ごと助けるなどと言うてはおらぬ。城がここまでなった責めはある。だが、飢えさせたまま皆殺しにするつもりもない」
経家は、そこで深く頭を垂れた。
「かたじけない」
その声音に、ようやく少しだけ安堵が混じる。
安堵というのは不思議なもので、飢えた者の声に乗ると、ひどく軽く、ひどく弱い。
秀吉はその軽さを聞きながら、胸のどこかが少し痛むのを感じた。
その晩、経家は切腹した。
その死は潔かった。
満ち足りた死ではない。
勝家のように、どこか晴れやかに、正しい終わりへ歩いていく類のものではない。まだそこまで秀吉は知らぬ。だが、それでも経家の死にはひとつのきれいさがあった。
責めを引き受ける者の死だ。
領主として預かったものを守り切れなかった。
そのうえで、残る者の命を少しでも拾うため、自分が散る。
その筋だけは通して死ぬ。
秀吉は少し離れたところで、その最期を見届けた。
良い死に様だ、とは思わなかった。
そんな軽い感想で済ませたくはない。
ただ、この男は最後まで将であった、と思った。
それで十分だった。
翌朝、粥が振る舞われた。
秀吉は、あの場にいた。
いなくてもよい。
むしろ普通はいないほうがよいのだろう。助命を受けた者らが粥を食うところまで、大将自ら見に来る必要はない。
だが秀吉は来た。
見ておかねばならぬと思った。
そうしなければ、自分がやったことが本当に終わらぬ気がした。
粥の匂いが、ひどく薄かった。
米の匂いはする。
湯気も立っている。
だが本来の飯の匂いではない。延ばしに延ばし、ようやく形にした匂いだ。それでも飢えた者にとっては、十分すぎるほど飯の匂いだった。
人が列をなす。
だが列の形が、もう少しおかしい。
きちんと並ぼうとする者もいる。礼を保とうとする者もいる。だが、どうしても手の動きだけが先に出る者もいる。視線が椀へ吸い寄せられ、喉が勝手に鳴る者もいる。浅ましい、とは秀吉は思わなかった。飢えればそうなるだけだ。
人は、腹が減るとこうなる。
秀吉は、ただそれを見た。
物質として腹が減ることからは、ずいぶん遠ざかっていた。
空腹を知らぬわけではない。呪力の副作用みたいに、どれだけ食ってもどこか満ちぬ感じは、いまだ身体にこびりついている。だが、こういう腹の空き方は久しい。
だから、懐かしかった。
懐かしい、と思ってしまってから、秀吉は少しだけおかしくなった。
何が懐かしいものか。
城一つ干からびさせて、その人間どもが粥へ手を伸ばすさまを見て、懐かしいなど。
だが、本当に懐かしかったのだ。
限界まで腹を空かせていた頃。
何か食えるものはないかと、地面や人の手元ばかり見ていた小猿みたいな自分。
あの時の自分も、たぶんこういう目をしていた。
そして、その飢えた猿を拾ってくれた男がいた。
信長。
秀吉は、ふと遠くを見る目になった。
逆光の中で、こちらもろくに見ずに士官しろと言い、返事も待たずに行ってしまったあの背。
食い扶持のためについていっただけのはずなのに、いつの間にか焼かれ、継ぎ、追い、ここまで来てしまった。
鳥取の飢えた者たちを見ながら、秀吉はそこで初めて少しだけ可笑しく思った。
あの時の小猿を拾った信長を、いま中国統一の仕上げで呼ぶのだな、と。
感傷ではない。
泣きもしない。
ただ、腹の底に古い熱が戻る。
ここまで来た。
鳥取は落ちた。
経家も死んだ。
飢えを武器にした、その責めも背負った。
ならば次だ。
秀吉は粥を啜る音を背に、静かに立ち上がった。
中国は、まだ終わっていない。
だが終わりは見えている。
その終わりに、信長を呼ぶ。
拾われた猿が、ようやくそこまで来たのだと、あの人に見せねばならぬ。
秀吉は歩き出した。
もう、その足は次の戦を踏んでいた。