呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
「明智殿謀反! 信長様、信忠様ともに討死に!」
その声は、報せというより裂け目だった。
幕の外で膝をついた使者の息は、もう半分死んでいた。走ってきたのだろう。喉を潰し、口の中を切り、肺をひっくり返すみたいにして、ようやくここまで持ち込んだ声だった。
秀吉は、最初の一瞬、言葉の意味を拾えなかった。
拾えなかったのではない。
拾うより先に、腹の底が冷えた。
明智。
謀反。
信長。
信忠。
討死。
ひとつひとつを理解する前に、身体が先に知っていた。
信長の気配が、どこにもなかった。
秀吉は座ったまま、ゆっくり顔を上げた。
使者の顔が見える。砂に汚れ、汗に濡れ、目だけが異様に剥かれている。だが、そんなことはどうでもよかった。
信長の気配がない。
中国の空は広い。
まだ鳥取の飢えの匂いも、戦の土も、毛利の残り火も、この空の下にある。
あるのに、そのどこにも、あの人の熱がない。
「……何を」
秀吉の声は、自分でも驚くほど薄かった。
使者はもう一度言った。
言葉としてきちんと届く前に、もう十分すぎるほどだった。
「本能寺にて、明智殿叛かれ……信長様、御自害……御嫡男信忠様も二条にて――」
そこから先は崩れた。
崩れたところで、もう足りていた。
信長がいない。
秀吉はそこで、ようやく立ち上がった。
膝が妙に軽い。
軽いのに、地面はぐらつく。
喉が渇く。
だが腹だけは、からっぽのまま焼けていた。
あの人が死んだ。
あの信長が。
理解はしていない。
信じてもいない。
だがいないことだけは、猿学が先に知ってしまっている。
それが、何よりも腹立たしかった。
「官兵衛」
呼ばれた黒田官兵衛は、すぐ前へ出た。
あの男も、顔色は変えていない。だが目だけが冷えている。事の重さを瞬時に測り、次に何が崩れるかまで、もう頭の中では見えているのだろう。
「毛利は」
秀吉はそれだけを問うた。
「まだ抑えております」
「講和じゃ」
即答だった。
周囲の気配が動く。
だが秀吉はそちらを見ない。
「いま、この場で何としても畳め。明智の報せを向こうへ渡すな。渡ったとしても、こちらが先に抜ける」
官兵衛は一拍だけ置いた。
「条件は」
「おぬしが詰めろ」
「は」
「こちらはまだ、何も知らぬ顔をしておれ。毛利にはそう見せる。明智の術理を使う」
そこで周囲の何人かが顔を上げた。
光秀の術を使う。
その一言の棘を、皆どこかで感じたのだろう。
秀吉は感じていた。
感じていたが、構わなかった。
業腹だ。
だが使う。
毛利を足止めし、こちらの本命を隠し、時間を稼ぐなら、光秀の偽装ほど噛み合うものはない。こういう時に、理が通るのが余計に腹立たしい。
「羽柴殿」
官兵衛が静かに呼ぶ。
秀吉は目だけを向けた。
「どちらへ」
「決まっておる」
喉が鳴った。
言葉にした瞬間、自分でも声の底が崩れそうになるのがわかる。
「戻る」
帰る、ではなかった。
戻る、だ。
戻る先に、あの人はもういない。
いないのに戻る。
その矛盾が、秀吉にはひどくしっくり来た。
「官兵衛」
「は」
「最低限の指図は残す。術理は仕込む。あとは全部おぬしが回せ」
官兵衛は何も言わない。
否、言いたいことはあるのだろう。羽柴の大将がこの局面で中国の処理を細かく詰めず、自分で飛び出すのがどれほど危ういか、わからぬ男ではない。
だが、いま目の前にいる秀吉が、もう半分壊れていることも、あの男は見ていた。
「馬を用意しろ」
秀吉は言った。
「軽いのでよい。止まらぬやつがよい」
そこから先は、妙に速かった。
秀吉は必要なことだけを口にした。
誰をどこへ。
どこを伏せる。
どこまでを官兵衛へ任せる。
兵をどう切り分け、どの隊を残し、誰を連れて走るか。
残す隊へ割り振った力、何を為させるか
毛利への顔、味方への顔、裏で動かす伝令の口止め。
必要最低限。
最低限なのに、足りてしまう。
足りてしまうのが、秀吉には嫌だった。
自分はほとんど何も考えていない。
いや、考えてはいる。だが思考の真ん中は全部、信長の不在で埋まっている。それなのに口だけは勝手に動き、理だけはまだ崩れずに出てくる。
まるで羽柴秀吉という将が、自分の中にもう一人いて、勝手に戦の処理だけしているみたいだった。
その間、信長を失った猿のほうは、腹の底でただ吠えている。
嘘だろう。
信長様が。
あの人が。
そんなわけがあるか。
だが、その吠え声を表へ出す暇はない。
いや、暇がないというより、出したらもう立っておれぬ気がした。
もしくは猿が将を駆り立てていたのかもしれない。いいからすぐ戻るために働けと。
秀吉は最後の指示を吐き捨てるように言った。
「毛利は足止めじゃ。時を稼げ。交わす文も、使者も、おぬしが決めろ」
「承知」
「こちらは先に行く」
「はい」
「……中国は、おぬしに預ける」
そこで初めて、官兵衛がほんのわずかに顔を上げた。
預ける。
いまこの瞬間の秀吉は、それを口にしたのだ。
官兵衛はその重さをわかったのだろう。だが何も言わない。ただ深く頭を下げた。
「必ず」
「よい」
秀吉はそれを遮った。
「よい、回せ」
声がひどく荒かった。
説明不足で、ぶっきらぼうで、相手の納得など待たずに切る言い方だった。少し前なら、秀吉はもっと愛想よく整えたかもしれぬ。だがいまは駄目だった。
気づく暇もなく、あの人の言い方が口から出る。
表の将にあの人が貼りついていることで、腹の中の猿がまたうるさくなった気がした。
馬はすぐに引かれてきた。
兵たちの顔は強張っている。何が起きたか、皆まだ完全にはわかっていない。だがただならぬことだけは伝わっている。羽柴殿の気配が変わった。大将の周囲の空気が、急に一段冷えた。そういう変化は、戦場の人間にはすぐわかる。
秀吉は鐙へ足をかけ、ひらりと跨った。
軽い。
身体が軽い。
まるでどこかが抜け落ちたみたいだ。
信長がいない。
もう一度その事実が腹へ落ちる。
今度はさっきよりも深いところへ落ちて、胃の腑のあたりで冷えた。
秀吉は馬首を返した。
中国の地が後ろへ広がる。
鳥取の飢え、高松の先、毛利、城、兵、泥、飯、呪い、全部がある。
ここまで積み上げてきたものがある。
中国統一の仕上げを、ようやく信長へ見せられると思っていた。
その矢先だ。
「……ほんに、酷いお人じゃ」
誰にも聞こえぬよう、秀吉はそう呟いた。
拾われた猿が、ようやくここまで来たのだ。
見せに行けると思った。
信長様、あの時の小猿が、ここまで来ましたぞ、と。
そう言えると思った。
その先で、いなくなる。
阿呆め、と言って笑うくらいしてくれればよいものを、気配ごと綺麗に消えてしまう。
こんなもの、置いていかれたも同じではないか。
怒りとも悲しみともつかぬものが、ようやく形を持ち始める。
秀吉はそれを噛み殺し、踵で馬腹を蹴った。
走る。
とにかく走るしかない。
道中、秀吉はほとんど喋らなかった。
伴の者たちもまた、余計な口をきかぬ。馬の息と、蹄と、道を裂く音だけが続く。
だが秀吉の中は静かではなかった。
光秀か、と思う。
思うが、それだけではない。
光秀の理も、あの男がなぜそうするかも、どこかではわかってしまうのが腹立たしい。寺社も京都も旧秩序も全部知ったうえで、あの男は信長の危うさを見ていた。大器が大きすぎることを、誰よりも恐れていた。
だから、理は通るのだ。
理は通る。
通るが、だから何だ。
秀吉は歯を食いしばった。
理が通るからといって、あの人を殺してよい道理にはならぬ。
知ったことか、と秀吉は思う。
いや、知っている。
知っているから余計に腹が立つ。
理解できるのに許せぬ。
道は長い。
馬を替え、人を替え、ただひたすら西から東へ削るように進む。
どこかで一度、秀吉は吐いた。
吐いて、胃の中がほとんど空なのに、それでも腹の底だけがぎりぎりと鳴るのを感じた。
飢えとは少し違う。
だが似ていた。
満たすものが、もう無い。
その時、秀吉はふと、奇妙に冷えたことを考えた。
いま自分は、どんな顔をしているのだろう。
伴の者たちが、妙にこちらを見ぬ。
目が合ってもすぐ逸らす。
怖がっているのか。遠慮しているのか。それともその両方か。
秀吉にはわからなかった。
自分はただ、急いでいるだけだ。
腹の底で何かが叫び続けているのを押さえ込み、最低限の理だけを口にして、前へ走っているだけだ。
なのに周りから見れば、きっと違うのだろう。
腹に落ちる飢えと熱から察するにそれは呪いではあるのだろう。
信長を失い、しかも壊れぬまま走っている羽柴秀吉。
その姿が、どんなふうに見えるのか。
秀吉自身には、まだわからない。
それでも走る。
止まれば、そこで全部崩れる気がした。
中国で積んだものも、鳥取の飢えも、経家の死も、長浜も、ねねも、半兵衛も、信長も、何もかも行き先がなくなる。
だから走る。
途中、何度目かの馬替えの折、供のひとりが恐る恐る口を開いた。
「殿……お休みを」
「要らぬ」
「しかし」
「要らぬと言うた」
そこで声が少し跳ねた。
供はすぐに黙る。
秀吉はそこで、荒くなった自分の声に内心で舌打ちした。
いらいらしている。説明が足りぬ。切り捨てるような物言いになる。
こんなところまで、あの人に似るな、と秀吉は思う。
いや違う、あの人は言葉は足りぬがその焦熱を呪いとして周りに振りまきはしなかった。
儂は勝手に追い、勝手に焦がれた。それだけだ。
だが、もう信長はいない。
いないのに、あの人の影だけが、自分の中のそこかしこに残っている。
ならば走れる。走らねばならぬ。
やがて、都に近い空気が混じり始めた。
土の匂いが変わる。
人の密度が増す。
道の幅、村の間合い、流れる情報の速さ。どれも中国とは違う。秀吉はまだ京都へ着いてはいなかったが、もう京都が近いことだけは身体でわかった。
ここから先は、また別の戦になる。
喪失のまま駆け抜けた中国大返しは、もうすぐ終わる。
次に始まるのは、明智光秀を討つための、もっと冷たい戦だ。
秀吉は馬上で、長く息を吐いた。
信長はいない。
その事実だけは、最後まで変わらぬままだった。
だが、いないからこそ、先へ行くしかない。
秀吉は前を見た。
都のほうの空は、まだ見えない。だがその向こうに、光秀がいる。山崎の地がある。そこへ向けて、自分はもう走っている。
拾われた猿は、ようやくそこで牙を剥くのだと、秀吉は思った。
そうでも思わねば、この喪失を抱えたまま前へ出られなかった。