呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
京へ着いた時、自分がどれほどの速さで戻ってきたのか、羽柴秀吉にはよくわかっていなかった。
ただ、着いた。
着かねばならぬと思った。
だから来た。
その途中で何里あったか、兵がどれほど息を切らしたか、馬が何頭潰れたか、どこで何を捨て、どこで何を拾ったか、そんなことはもう頭の外へ落ちていた。
見えたのは京の空だけだ。
あの空の下で、信長様が終わった。
その一点だけが、足を前へ出し続けさせた。
迎えた織田方の顔には、驚きがあった。
織田、いや今は神戸信孝か。信長の実子。
丹羽長秀。織田軍の宿将、繋ぐもの。
ほかにも何人か、こちらを見て息を呑んでいる。
その驚きの意味が、秀吉には一瞬わからなかった。
なぜそんな顔をする。
信長様が討たれたのだ。
明智が生きているのだ。
ならば一刻でも早く討ちに戻るのが当然ではないか。
「……早い」
誰かがそう言った。
たぶん信孝だった。
秀吉はその言葉に、ほとんど理解が及ばなかった。
早い?
何がだ。
遅いだろうが、とさえ思った。
十日。
明智光秀は、十日も放置されていたのだ。
十日も。
そのあいだに、あいつは何を考え、何を悔い、何を整え、何を言い訳しようとした。
そう思うだけで、腹の底が煮えた。
信孝には実戦経験が足りぬ。
丹羽は織田にとって不可欠な駒であるが、前へ出すより支える側だ。繋ぐ線だが核が無ければ働けぬ。
どちらも客観に立てば、理はあるのだろう。
だが今の秀吉には、その「理」がいちばん気に食わなかった。
理。
その文字だけが、今は喉に引っかかる。
理が何だ。
理があって信長様が返ってくるのか。
理があって本能寺の炎が消えるのか。
理があって、明智の首が勝手に落ちるのか。
ならば理など、いらぬ。
「明智を討つ」
秀吉はそう言った。
誰に向けた言葉でもない。
命令であり、独り言であり、祈りでもあった。
それで済むなら、どれほど楽だったか。
怒りだけで戦ができるわけではない。
そんなことはわかっている。
だから秀吉は、次の瞬間にはもう別のことを考えていた。
餓え殺しの残り火が、まだ腹にある。
三木・鳥取で積み上がった怨嗟は、まだすっかり消えていない。あの時引き受けた獄卒の役目が、こんなところで役に立つとは、笑えぬ話だった。
加えて丹羽長秀がいる。
長秀がいれば、この溢れんばかりの飢えを儂よりも効率的に軍へ散らせる。
そして猿学がある。
看破も、隠蔽も、鬼の重さも、猿の軽さも、いまの自分には積んである。
ならばやることは一つだった。
かつての呪霊の看破を兵へ渡す。
明智の隠蔽を兵へ渡す。
柴田の鬼の重さを、獄卒のような残酷さを、兵へ混ぜる。
そのうえで、丹羽の流れに乗せて軍勢そのものを“羽柴”へ変える。
信長様の真似事だ。
わかっている。
あの人のように、恐れを食って一人で戦場をひっくり返すことはできぬ。
だが、あの人に焦がれた猿が、ここまで来た。
だったら、この一戦くらいは、似姿でもよい。
似てしまったもの全部を使い果たしてもよい。
策は決まった。
策などではなかった。
もはや理も何もない。
ただ、明智を討つために使えるものを、全部つぎはぎしただけだ。
だが羽柴秀吉という人間は、もともとそういうものでできている。
見て、盗み、継ぎ、織り、間に合わせる。
ならばそれでよい。
号令は短かった。
兵は従った。
それで十分だった。
――戦場。
最初に走ったのが誰だったか、秀吉はよく覚えていない。
気づけば自分が先頭にいた。
土を蹴る。
怒りが先に走る。
脚がそれへ追いつく。
看破の薄い勘が、敵の射線を半歩ずらして見せる。隠蔽の薄膜が、こちらの本命の位置をわずかに濁す。兵たちの動きが一瞬ずつ軽くなり、敵の目だけが遅れる。
さらに鬼の重さを乗せられた前線が、獄卒のように冷たく押し込んでいく。
銃弾が飛んできた気がした。
実際に飛んできたのだろう。
だがいちいち確認する余裕がない。
撃たれたと思った時には、もう次の足が出ている。
矢も、石も、銃声も、敵の喚きも、味方の怒号も、全部が一つの濁流になって耳を打つ。
走りながら、どこかで自分を嗤っている自分がいた。
信長様みたいだ、と。
尾張統一の戦でも、桶狭間でも、あの人が先頭を走るたびに、どこかで呆れていた。
大将がそこまで行くか。
そんな速度で進むか。
そんなものについていけるか、と。
それが今、自分だ。
止まれなかった。
止まれば、その瞬間に何かが決壊しそうだった。
怒りも、悲しみも、喪失も、理も、全部。
止まって考えた瞬間、たぶんもう立てなくなる。
だから走る。
前へ、前へ。
討つと決めた一点だけを見て、ただ走る。
敵の顔が見えた。
次の瞬間には崩れていた。
また別の敵が出た。
また崩れた。
呪力がこもり凶器となった木棒が、木行を得て秀吉の意の如く暴れまわる
鬼の獄卒になった兵たちが、妙に静かな顔で押し込んでいく。
そこへ看破が混じる。隠蔽が混じる。敵の布陣は読まれ、こちらの本命はぼかされ、さらに羽柴の怒りが上から被さる。
戦というより、災害に近かった。
敵が整える前に、壊す。
構える前に、食い込む。
躊躇も猶予も与えぬ。
どれだけ打ち払ったかも覚えていない。
どこで誰が倒れたかも、もう曖昧だ。
ただ、ある時はたと気づくと、敵軍は崩れていた。
敗走していた。
こちらが勝ったのだと、誰かが叫んでいる。
勝鬨も上がっている。
だが秀吉には、その声がひどく遠かった。
勝った。
それでどうした。
明智はまだ生きている。
そこで初めて、秀吉の中の看破とは別の感覚が、ぴくりと腹の底を引いた。
貸し主の感知。
猿学の、あまり人に言いたくない性質だった。
見て、借りて、真似てしまった術理の“元”の気配が、うっすらわかる。
明智とは、もうそれなりに長い。京都で会い、術を教わり、鼻につく理屈も聞かされ、何度か同じ場を踏んだ。
嫌なことに、あの男の気配には覚えがありすぎた。
隠れている。
そう思った。
敗走の混乱の中、どこかで息を潜めている。
逃げたのではない。
いや、逃げてはいるのだが、ただ逃げるためだけの隠れ方ではない。
あの男は、どこかで待っている。
たぶん、自分を。
秀吉は一人で足を向けた。
信孝がいた。
長秀もいた。
客観的に見れば、ここで秀吉が単独で動く価値などない。自分は軍の中心だ。討たれるわけにいかぬ。誰かをつけるべきだし、囲んで仕留めるべきだし、理はいくらでもある。
だがその時の秀吉は、そんなことをひとつも考えていなかった。
我を忘れていた。
自分の値打ちなど、どうでもよかった。
ただ、明智を討ちたい。
あの男の口から、何故だと聞き出したい。
いや、聞き出したいのかどうかさえ曖昧だった。問い詰める前に斬ってしまうかもしれぬ。それでもよかった。
足が、勝手にそちらへ向く。
森の陰。
崩れた土手の向こう。
夕の湿りが残る草むら。
その奥に、あの気配がある。
光秀も、たぶんわかっている。
秀吉が自分を捕捉していることを。
それでも隠れているのは、逃げきるためではない。
話すためだ。
あるいは、話してから終わるためだ。
秀吉はそこへ、一人で入っていった。
怒りを携えて。
喪失を携えて。
そして、信長の死だけを腹に抱えたまま。