呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1582 山崎の戦い:始

 京へ着いた時、自分がどれほどの速さで戻ってきたのか、羽柴秀吉にはよくわかっていなかった。

 

 ただ、着いた。

 着かねばならぬと思った。

 だから来た。

 その途中で何里あったか、兵がどれほど息を切らしたか、馬が何頭潰れたか、どこで何を捨て、どこで何を拾ったか、そんなことはもう頭の外へ落ちていた。

 

 見えたのは京の空だけだ。

 あの空の下で、信長様が終わった。

 その一点だけが、足を前へ出し続けさせた。

 

 迎えた織田方の顔には、驚きがあった。

 

 織田、いや今は神戸信孝か。信長の実子。

 丹羽長秀。織田軍の宿将、繋ぐもの。

 ほかにも何人か、こちらを見て息を呑んでいる。

 その驚きの意味が、秀吉には一瞬わからなかった。

 なぜそんな顔をする。

 信長様が討たれたのだ。

 明智が生きているのだ。

 ならば一刻でも早く討ちに戻るのが当然ではないか。

 

「……早い」

 

 誰かがそう言った。

 たぶん信孝だった。

 

 秀吉はその言葉に、ほとんど理解が及ばなかった。

 早い?

 何がだ。

 遅いだろうが、とさえ思った。

 

 十日。

 

 明智光秀は、十日も放置されていたのだ。

 十日も。

 そのあいだに、あいつは何を考え、何を悔い、何を整え、何を言い訳しようとした。

 そう思うだけで、腹の底が煮えた。

 

 信孝には実戦経験が足りぬ。

 丹羽は織田にとって不可欠な駒であるが、前へ出すより支える側だ。繋ぐ線だが核が無ければ働けぬ。

 どちらも客観に立てば、理はあるのだろう。

 だが今の秀吉には、その「理」がいちばん気に食わなかった。

 

 理。

 

 その文字だけが、今は喉に引っかかる。

 理が何だ。

 理があって信長様が返ってくるのか。

 理があって本能寺の炎が消えるのか。

 理があって、明智の首が勝手に落ちるのか。

 

 ならば理など、いらぬ。

 

「明智を討つ」

 

 秀吉はそう言った。

 

 誰に向けた言葉でもない。

 命令であり、独り言であり、祈りでもあった。

 それで済むなら、どれほど楽だったか。

 

 怒りだけで戦ができるわけではない。

 そんなことはわかっている。

 だから秀吉は、次の瞬間にはもう別のことを考えていた。

 

 餓え殺しの残り火が、まだ腹にある。

 三木・鳥取で積み上がった怨嗟は、まだすっかり消えていない。あの時引き受けた獄卒の役目が、こんなところで役に立つとは、笑えぬ話だった。

 加えて丹羽長秀がいる。

 長秀がいれば、この溢れんばかりの飢えを儂よりも効率的に軍へ散らせる。

 そして猿学がある。

 看破も、隠蔽も、鬼の重さも、猿の軽さも、いまの自分には積んである。

 

 ならばやることは一つだった。

 

 かつての呪霊の看破を兵へ渡す。

 明智の隠蔽を兵へ渡す。

 柴田の鬼の重さを、獄卒のような残酷さを、兵へ混ぜる。

 そのうえで、丹羽の流れに乗せて軍勢そのものを“羽柴”へ変える。

 

 信長様の真似事だ。

 わかっている。

 あの人のように、恐れを食って一人で戦場をひっくり返すことはできぬ。

 だが、あの人に焦がれた猿が、ここまで来た。

 だったら、この一戦くらいは、似姿でもよい。

 似てしまったもの全部を使い果たしてもよい。

 

 策は決まった。

 

 策などではなかった。

 

 もはや理も何もない。

 ただ、明智を討つために使えるものを、全部つぎはぎしただけだ。

 だが羽柴秀吉という人間は、もともとそういうものでできている。

 見て、盗み、継ぎ、織り、間に合わせる。

 ならばそれでよい。

 

 号令は短かった。

 兵は従った。

 それで十分だった。

 

 ――戦場。

 

 最初に走ったのが誰だったか、秀吉はよく覚えていない。

 気づけば自分が先頭にいた。

 

 土を蹴る。

 怒りが先に走る。

 脚がそれへ追いつく。

 看破の薄い勘が、敵の射線を半歩ずらして見せる。隠蔽の薄膜が、こちらの本命の位置をわずかに濁す。兵たちの動きが一瞬ずつ軽くなり、敵の目だけが遅れる。

 さらに鬼の重さを乗せられた前線が、獄卒のように冷たく押し込んでいく。

 

 銃弾が飛んできた気がした。

 

 実際に飛んできたのだろう。

 だがいちいち確認する余裕がない。

 撃たれたと思った時には、もう次の足が出ている。

 矢も、石も、銃声も、敵の喚きも、味方の怒号も、全部が一つの濁流になって耳を打つ。

 

 走りながら、どこかで自分を嗤っている自分がいた。

 

 信長様みたいだ、と。

 

 尾張統一の戦でも、桶狭間でも、あの人が先頭を走るたびに、どこかで呆れていた。

 大将がそこまで行くか。

 そんな速度で進むか。

 そんなものについていけるか、と。

 それが今、自分だ。

 

 止まれなかった。

 

 止まれば、その瞬間に何かが決壊しそうだった。

 怒りも、悲しみも、喪失も、理も、全部。

 止まって考えた瞬間、たぶんもう立てなくなる。

 だから走る。

 前へ、前へ。

 討つと決めた一点だけを見て、ただ走る。

 

 敵の顔が見えた。

 次の瞬間には崩れていた。

 また別の敵が出た。

 また崩れた。

 

 呪力がこもり凶器となった木棒が、木行を得て秀吉の意の如く暴れまわる

 鬼の獄卒になった兵たちが、妙に静かな顔で押し込んでいく。

 そこへ看破が混じる。隠蔽が混じる。敵の布陣は読まれ、こちらの本命はぼかされ、さらに羽柴の怒りが上から被さる。

 戦というより、災害に近かった。

 敵が整える前に、壊す。

 構える前に、食い込む。

 躊躇も猶予も与えぬ。

 

 どれだけ打ち払ったかも覚えていない。

 どこで誰が倒れたかも、もう曖昧だ。

 ただ、ある時はたと気づくと、敵軍は崩れていた。

 

 敗走していた。

 

 こちらが勝ったのだと、誰かが叫んでいる。

 勝鬨も上がっている。

 だが秀吉には、その声がひどく遠かった。

 勝った。

 それでどうした。

 明智はまだ生きている。

 

 そこで初めて、秀吉の中の看破とは別の感覚が、ぴくりと腹の底を引いた。

 

 貸し主の感知。

 

 猿学の、あまり人に言いたくない性質だった。

 見て、借りて、真似てしまった術理の“元”の気配が、うっすらわかる。

 明智とは、もうそれなりに長い。京都で会い、術を教わり、鼻につく理屈も聞かされ、何度か同じ場を踏んだ。

 嫌なことに、あの男の気配には覚えがありすぎた。

 

 隠れている。

 

 そう思った。

 敗走の混乱の中、どこかで息を潜めている。

 逃げたのではない。

 いや、逃げてはいるのだが、ただ逃げるためだけの隠れ方ではない。

 あの男は、どこかで待っている。

 たぶん、自分を。

 

 秀吉は一人で足を向けた。

 

 信孝がいた。

 長秀もいた。

 客観的に見れば、ここで秀吉が単独で動く価値などない。自分は軍の中心だ。討たれるわけにいかぬ。誰かをつけるべきだし、囲んで仕留めるべきだし、理はいくらでもある。

 だがその時の秀吉は、そんなことをひとつも考えていなかった。

 

 我を忘れていた。

 

 自分の値打ちなど、どうでもよかった。

 ただ、明智を討ちたい。

 あの男の口から、何故だと聞き出したい。

 いや、聞き出したいのかどうかさえ曖昧だった。問い詰める前に斬ってしまうかもしれぬ。それでもよかった。

 

 足が、勝手にそちらへ向く。

 

 森の陰。

 崩れた土手の向こう。

 夕の湿りが残る草むら。

 その奥に、あの気配がある。

 

 光秀も、たぶんわかっている。

 秀吉が自分を捕捉していることを。

 それでも隠れているのは、逃げきるためではない。

 話すためだ。

 あるいは、話してから終わるためだ。

 

 秀吉はそこへ、一人で入っていった。

 

 怒りを携えて。

 喪失を携えて。

 そして、信長の死だけを腹に抱えたまま。

 

 

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