呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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1582 山崎の戦い:結

 雨は上がっていた。

 だが、地はまだ濡れている。血も泥も、踏み荒らされた草も、すべてが湿って、夜の匂いを濃くしていた。

 

 山崎の戦は終わった。

 終わったというには、いささか荒っぽい終わり方ではあったが、それでも大勢は定まった。明智方は潰え、散り、逃げた。追討はなお続いている。だが、それはもう戦ではなく、始末に近い。

 

 羽柴秀吉は、濡れた陣羽織の裾を払って、粗末な庵へ入った。

 元は寺の末坊か、農家の離れか。梁は低く、壁土はひび割れ、灯りはひとつ、隅の油皿で弱々しく揺れている。これから入れ替わる天下人が向かい合うには、あまりにみすぼらしい場所だった。

 

 その薄明かりの下に、明智光秀はいた。

 

 傷の深さゆえに動けぬ、まさに満身創痍といった様相であった。肩口から脇腹にかけて、黒ずんだ血が乾ききらず、着物に貼りついている。息は浅い。

だが、今は隠れも、偽りもせず、ただそこにいた。

背筋は落ちていない。かつてと同じように、理と知を携えて凛とたたずんでいた。顔色は土のように白いのに、目だけが妙に澄んでいた。

 

 秀吉は、ひとまずその目が気に食わなかった。

 敗者の目ではない。

 命乞いする者の目でもない。

 かといって、憤るでも、呪うでもない。

 何かを、もうとっくに見切った者の目だった。

 

「……ようやく見つけたぞ、十兵衛」

 

 秀吉はそう言って、庵の中央で足を止めた。

 声は低かった。怒鳴るでもなく、勝ち誇るでもない。むしろ低く抑えすぎて、自分でも少し驚くほどだった。もっと、腹の底から煮えたぎった怒りが吹き出してくるものと思っていた。信長を討った逆臣を前にして、吐き捨てたい言葉ならいくらでもあったはずだった。

 

 だが実際に口から出たのは、それだけだった。

 

 光秀はうっすら笑った。

 笑った、というより、口元がわずかに動いたにすぎない。

 

「お早うございましたな、羽柴殿」

 

 その声音もまた、敗者のものではなかった。

 秀吉の胸の奥で、何かがざらりと引っかかった。

 

「早うござったと? 抜かせ。貴様の首を獲るには遅すぎたくらいじゃ」

 

「さようで」

 

「……言い訳はあるか」

 

 わざとそう訊いた。

 乞うような声が聞きたかったのではない。逆だ。信長を討った理由だの、天下のためだの、何なりといつも通り賢しらに口にしてみせよ、それを踏みにじってやるつもりだった。

 

 だが光秀は、しばらく秀吉を見つめたあと、まるで別の問いに答えるように言った。

 

「羽柴殿は、ご存じなかったのですな」

 

 秀吉は眉をひそめた。

「……何をじゃ」

 

 光秀は一度、浅く息を吸った。傷が疼いたのか、わずかに眉根が動く。それでも口調は崩れなかった。

 

「術師は、呪力で殺す、それが決まりなのです」

 

 庵の外で、風が鳴った。

 屋根板がきしんだ。

 それだけだった。

 それだけなのに、空気の温度がひとつ変わった気がした。

 

 秀吉は、思わず返す言葉を失った。

 意味がわからなかったわけではない。

 わからなかったのは、その言葉が、いまこの場で、どういう顔をして出てくるのかということだった。

 

「……何じゃと」

 

「術師は呪力で殺す。さもなくば、死は終わりませぬ」

 

 光秀の声には、誇示も哀願もなかった。

 ただ当然のことを告げている、それだけの平たさがあった。

 

 秀吉のこめかみが、どくりと脈打つ。

 知らぬ言葉ではない。呪いの死後が厄介であることも、強い術師が死に損ねれば面倒なものを残すことも、聞いたことがないわけではない。だがそれは、遠い話だった。寺社の者だの、名門の術師だのが知っていればよい、古い作法の話にすぎぬと思っていた。

 

 少なくとも、秀吉の戦では、そんなものは表に出てこなかった。

 

 強い術師は倒れる。

 首は挙がる。

 戦は終わる。

 それで済んできた。

 

 ――済んできた、はずだった。

 

「……いまさら何をほざく。貴様、自分の所業を理で飾るつもりか」

 

「理でなければ、私はあの方の前へ出ませぬ」

 

「あの方、じゃと?」

 

 秀吉の喉が鳴った。空虚な腹から怒りがそれでも湧き上がる。

「信長様をその口で呼ぶな、十兵衛」

 

「ならば何と申せと」

 

 光秀は静かだった。静かすぎた。

「私が討ったのは、織田信長でございます」

 

 秀吉は一歩、踏み込んだ。

 握りしめた棒が、もはや鋼より硬い棒からきしむ音がする。

 そのまま斬り捨ててしまえば、どれほど楽かと思った。勝者の情けも、問いも、要らぬ。逆臣は逆臣として死ねばよい。それで話は終わる。

 

 だが終わらなかった。

 さきほどの一言が、耳の奥に棘のように残っていた。

 

 術師は、呪力で殺す。

 

「……ならば守ればよかったではないか」

 

 声が、思ったより低く出た。

 怒鳴りつけるつもりだったのに、うまく熱が上がらない。

 

「信長様が危ういと知っていたのなら、なぜ守らなんだ。なぜ本能寺などに追い込み、なぜ刃を向けた。貴様ほどの男が、その理屈に気づいておったというなら、なぜもっと早う、信長様を――」

 

「守った先に、何がございます」

 

 秀吉は黙った。

 

 光秀は、こちらを責めるでもなく見ていた。

 

「羽柴殿。あなたは、あの方を最優先に見ておられた」

 

 そう言われて、秀吉の奥歯がきしんだ。

 否定する必要を感じなかった。

 最優先で、何が悪い。

 

「当然じゃ。あの方あっての日ノ本よ」

 

「ええ。そうお考えだったでしょう」

 

 光秀の視線が、かすかに伏せた。

「私は違いました」

 

 庵の灯りがふるえた。

 秀吉の耳に、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。

 

「私は、あの方の先を見た」

 

「先、じゃと」

 

「信長様がこのまま戦乱を畳み切ったその後を、です」

 

 光秀の声は、乾いた土に染み込む水みたいに、ゆっくりと落ちてきた。

 

「信長様は、前へ出て戦を動かせた。人の恐れを喰らい、その熱ごと己を前へ押し出すことができた。だがあの方は、勝ち続けすぎた」

 

 秀吉は何も言えなかった。

 

「人はあの方を恐れ、怨み、呪った。そのたびに、あの方はそれを喰った。戦で倒れた術師の死に損ねた呪いすら、ご自身へ引き受けておられた。愚問ですな。羽柴殿、あなたはそれを誰よりも解っているはずだ」

 

 その言葉が、刃より深く入った。

 

  その通りだった。

 

 秀吉は、信長の戦い方を見てきた。

 兵の動かし方も、敵の崩し方も、城の落とし方も、恐れの集め方も見てきた。

 だから猿真似た。鳥取でも、大返しでも、山崎でも、まるで信長様がいたようにできた。

 

 猿真似の自分ですらこれだ。かの方であればその力は、呑んだ呪いはいか程か。

 

「……だから、討ったと申すか」

 

「ええ」

 

 光秀は、そこで初めてほんのわずかに口の端を歪めた。笑みではない。疲労と痛みのあいだに浮かぶ、妙な影だった。

 

「事故死ではいけなかった。流れ矢でも、火でも、雑兵の槍でもいけなかった。術師として、正しく終わらせねばならなかった。そうでなければ――」

 

「真に魔王になる」

 

「はい」

 

 そのはい、は静かだった。

 

 秀吉は、何か言い返そうとして言葉を失った。

 理屈はわかる。いや、わかってしまう。

 光秀の言っていることの筋だけなら、たしかに通っている。

 

 だが、だからといって赦せるかといえば、まるで別の話だった。

 

「……ならばなおさらじゃ」

 

 今度ははっきりと怒りが出た。

 胸の奥からではなく、腹の底からでもなく、もっと深いところから絞り出すような声になった。

 

「そこまで見えておったなら、なおさら信長様を守ればよかったではないか。貴様ほどの男が側にいて、なぜ本能寺を避けられなんだ。なぜ別の道を探らなんだ。なぜ、なぜ、よりによって貴様がその役目を負う」

 

 光秀は答えなかった。

 少しの沈黙のあと、ようやく口を開く。

 

「羽柴殿」

 

「何じゃ」

 

「あなたは、あの方が終わることを、考えたことがなかった」

 

 秀吉の顔が、わずかに強張った。

 

「あなたは勝ち方を学んだ。兵を動かし、城を落とし、飢えを使い、恐れを束ねることを学んだ。だが、終わらせ方だけは学ばなかった。いや――学べなかった」

 

 その通りだ、と誰かが心の奥で囁いた。

 秀吉はそれを振り払うように、目を瞬く。

 

 光秀は、もはや勝者に対して語っていなかった。

 もっと冷たいものに向かって語っていた。事実そのものに。

 

「あの方がそれをご自身で引き受けておられたからです」

 

 庵の空気が、音もなく沈んだ。

 

 秀吉は、そこで初めて理解した。

 自分は信長の最も大きなところを見落としていたのではないか、と。

 

 信長はただ勝ってきたのではない。

 戦場のあとに残るべきものまで、自分の器で受けていた。

 だから戦は“きれいに”終わっていた。

 秀吉が表面上だけ理解したその裏で、あの人は自分の飢えなど比にならぬほど焼かれていたのだ。

 

 だから。

 だからこそ。

 秀吉には、どうしても赦せなかった。

 

 その苦しみにたどり着いてなお、光秀が刃を向けたことが。

 理があったとしても。

 日ノ本を見ていたとしても。

 自分が信長を最優先に見ていたのだとしても。

 

「……十兵衛」

 

 秀吉は静かに呼んだ。

 

「はい」

 

「お前の理は、わかった」

 

 光秀の目が、ほんのわずかに細くなった。

 安堵でもなく、感謝でもない。理解が届いたことを確認しただけの表情だった。

 

「じゃが、儂はお前を赦さん」

 

「それでよろしい」

 

「よろしい、ではない」

 

 秀吉は一歩前へ出た。

 灯りの揺れで、二人の影が壁の上で重なっては離れる。

 

「信長様を見た儂には、理などでは済まぬ。お前が何を見ておったにせよ、日ノ本の先を見ておったにせよ、あの方に刃を向けたことだけは、儂が背負う」

 

「ええ」

 

「お前は死ね、十兵衛」

 

「はい」

 

 あまりにも素直な返答だった。

 最後まで、この男は敗者らしくはなかった。

 

 秀吉は構えた。呪力を込める。木行が棒にまとわりつく。

 意を通し、刃筋を立てる。それを要しないがための棒であったはずなのに。

 

 光秀は目を閉じない。

 その目に映る自分が、勝者なのか、執行人なのか、秀吉にはわからなかった。

 

「術師は呪力で殺す、だったな」

 

「さもなくば、死は終わりませぬ」

 

「……覚えたわ」

 

 秀吉は高く構えた。

 その手はぶれなかった。

 だが心のどこかで、今この瞬間、自分は光秀の言葉によって新しい地獄へ押し込まれたのだと知っていた。

 

 勝ち方は学んだ。

 終わらせ方は学ばなかった。

 そのことを、死にゆく逆臣から教わるとは。

 

 刃が振り下ろされる一瞬前、秀吉は思った。

 

 この男は、最後まで信長より先を見ていた。

 だが、自分にはその“先”のために信長を捨てることはできなかった。

 これから先も、きっとできない。

 

 呪いが走った。

 

 短い音がした。

 呼気のようなものが漏れ、庵はふたたび静まった。

 

 灯りだけが揺れていた。

 秀吉はしばらく、その場から動けなかった。

 

 勝ったはずだった。

 光秀は死んだ。

 逆臣は討たれた。

 それでも、胸の奥には勝利の軽さがなかった。

 

 あるのは、抜けない棘だけだった。

 

 信長を最優先に見ていた自分。

 信長の先にある日ノ本を見ていた光秀。

 そして、そのどちらにもなり切れぬまま、これから信長の不在を背負わねばならぬ自分。

 

 秀吉は静かに血を振り払った。

 だがその手つきは、いつものようには定まらない。

 掌に、じっとりと汗がにじんでいる。

 

 庵を出ると、夜気が頬を打った。

 遠くで追討の声がする。兵たちはまだ勝利の熱の中にいる。だが秀吉ひとりだけが、奇妙に冷えた場所へ取り残された気がした。

 

 光秀を討った。

 なのに、討ち漏らしたものがある。

 

 いや。

 討ち漏らしたのではない。

 いま、たったいま、光秀がそれを自分の中へ置いていったのだ。

 

 術師は呪力で殺す。

 さもなくば、死は終わらぬ。

 

 秀吉は、湿った夜の中で一度だけ深く息を吸い、それからゆっくり吐いた。

 肺の底に、鉛のように重いものが残った。

 

 その苦さは、敗者の血の臭いではなかった。

 もっと先まで尾を引く、知ってしまった者の味だった。

 

 

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