呪術戦国譚『太閤立死伝』   作:蓮華

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織田の家督争い
織田信長がまず越えねばならなかった壁は外ではなく内にあった。
相手は実弟・織田信雄
家督相続は容易ではない。家中は割れ、後の家臣柴田勝家もはじめはうつけに対峙する立場であった。
されど信長はこれを打ち破る。
信勝という男、その実像は多く残さぬ。
母の助命嘆願を経てなお、再度の反乱時に弟の命を絶った信長の苛烈さが残るのみである。
柴田勝家という宿将を得、そして足場を固めた信長は近く飛躍の時を迎える。



1559 織田家のとある屋敷

 

 館の空気は、戦場跡よりずっと気持ちが悪かった。

 

 木下藤吉郎は、廊下の奥を見ながら顔をしかめた。

 人は住んでいた。つい昨日まで住んでいたのではないかと思うほど、障子も畳も整っている。床の間の花もまだ完全には枯れきっておらず、どこかの部屋には香の名残まである。だがそれでも、この館はもう人の住む場所ではなかった。

 

 静かすぎるのだ。

 

 死体がごろごろしている戦場のほうが、まだましだった。あちらは臭いも音も剥き出しで、腹が減っていようが怖かろうが、生きている側がそこにいるとわかる。

 だがこの館には、それがない。

 暮らしの形だけがきれいに残り、その底のほうで、見えぬものだけが澱んでいる。

 

「……なんとも嫌な家でございますな」

 

 藤吉郎がそう言うと、前を歩いていた柴田勝家が振り返りもせず鼻を鳴らした。

 

「家が嫌なのではない」

「では何でございましょう」

「残っておるのだ」

 

 答えはそれだけだった。

 雑だな、と藤吉郎は思う。だがこの男は、大事なことを説明せずに言い切るところがある。腹は立つが、あとで思い返すとだいたい芯は外していない。

 

 家督争いそのものは、もう決着している。

 信長が家中をねじ伏せ、表向きには収まった話だ。だから藤吉郎は、今日の役目もせいぜい散った小呪いの掃除くらいに思っていた。最近よくやらされる、後始末の一つだろうと。

 

 最初のうちは、その認識でだいたい合っていた。

 

 廊下の角、閉め切った納戸の前、誰もいない座敷の隅。そういうところに、小さな淀みがいる。湿った布みたいなもの、黒い染みみたいなもの、泣き声にも息にもつかぬ気配。

 藤吉郎はそれを見つけると、指先か掌でさっと払った。信長に拾われ、呪力の流し方を覚えさせられてから、こういう小さなものは前より扱いやすい。腹へ落とし、手先へ通す。それだけだ。

 

 散る。

 消える。

 次へ進む。

 

「どうだ」

 

 勝家が足を止めずに訊く。

 

「順調にございます」

「口が軽い」

「手も軽うございますよ」

「調子に乗るな」

「乗らぬとやっていられませぬ」

 

 勝家の肩が、わずかに揺れた。笑ったのかもしれない。

 この人は、いかにも怒りそうな見た目のくせに、案外それだけでは怒らぬ。些事をいちいち拾う人でもない。

 

 もう一つ、小さな影が柱の裏から這い出た。

 藤吉郎は鬱陶しそうに舌打ちし、掌を払う。ぱし、と乾いた音とともに消える。

 

「ほれ、また一つ」

「浮かれるな」

「浮かれてはおりませぬよ。少しばかり腹が満ちた気がしただけで」

「満ちはせぬだろう」

「そうなのですよ。腹は減るばかりでございます」

 

 その時だった。

 

 風もないのに、奥の襖がひとりでに鳴った。

 ぴし、と細い音。

 人の気配ではない。もっと、ぬめったものだ。

 

 藤吉郎の足が止まる。勝家も止まった。

 館の奥、いちばん日当たりのよいはずの座敷のほうから、重いものが滲み出してくる。

 

 いままでの残滓とは質が違う。

 濃い。近い。

 戦場の怨みとは違う。遠い敵への怒りではなく、もっと内輪の、逃げ場のない感情。裏切られた、わかってもらえぬ、見捨てられた、家のためにあったのに、というような湿って逃げぬ感情が、幾重にも折り重なっている。

 

 藤吉郎は無意識に唾を飲み込んだ。

 

「柴田殿」

「下がれ」

「まだ何も――」

「下がれ、木下」

 

 声色が変わっていた。

 雑さはそのままなのに、その下の硬さだけが急に増した。

 

 襖が、音もなく開いた。

 

 そこに“それ”がいた。

 

 人の形をしている、と最初は思った。

 だが次の瞬間には違うとわかる。

 若い男の面差しらしきものが、どろりと崩れた女の顔の奥に沈み、その脇に子の手のようなものがいくつも絡みついている。母だの乳兄弟だの近習だの、そういう“近い者”だけが持つ甘えと恨みの濁りが、ひと塊になっていた。

 泣いているようでもあり、怒っているようでもある。

 だがそのどちらも、外へ向いてはいない。

 家の内側だけをぐるぐる回り続け、出口を失った感情の塊だった。

 

 そしてそれは、勝家を見た。

 ぞわりと、空気が変わる。

 

 藤吉郎には理屈はわからぬ。ただ、その視線の向きだけで十分だった。

 あれは勝家を知っている。

 少なくとも、勝家に向けるべき怒りを持っている。

 

 勝家の眉間に、初めて深い皺が寄った。

 ほんの一瞬だけだ。だが見逃せぬほど、はっきりと。

 

「下がっておれ」

 

 低い。

 命令というより、確認する暇すら与えぬ声だ。

 

「……はい」

 

 藤吉郎は素直に退いた。

 悔しくないと言えば嘘になる。だが悔しがっている余裕もなかった。ここで意地を張れば、自分はただ邪魔なものとして巻き込まれる。

 

 勝家は一歩前へ出た。

 

 息を吐く。

 腹へ落とす。

 

 訓練場で見た時と同じ起点だった。だが、その先が違う。

 勝家の背が、わずかに膨れたように見えた。

 空気がざらつく。肩が上がる。眼が深く沈む。何か別の重さが、その肉体の内側へ滑り込んでくる。

 

 鬼だ、と藤吉郎は思った。

 

 思っただけで、教わったわけではない。だが他に言いようがなかった。

 人の中へ、鬼じみた暴が降りてくる。勝家の輪郭が一段大きく、濃くなる。武人の図体へ、さらに別の荒々しさが着込む。

 

 呪いの塊が唸った。

 声ではない。館じゅうの襖や柱がきしみ、女の湿った泣き声と若い男の押し殺した怒声が一緒くたになったような振動だった。

 

 次の瞬間、勝家とそれはぶつかった。

 

 音が消えた。

 いや、音はあったのだろう。だが藤吉郎の耳には、激突の衝撃だけが鈍く響き、細かな音は押しつぶされて届かなかった。

 勝家の拳が、呪いの腕らしきものを吹き散らす。だが散った先から、また袖が、手が、若い顔が浮かび上がる。

 今度は呪いのほうが勝家へ絡みついた。足首へ、腕へ、肩へ。まるで家の中のしがらみそのものが縄になって、裏切った者を引き留めるみたいに。

 勝家はそれを、力任せに引きちぎる。

 ちぎって、踏み込んで、叩く。

 まっすぐ強い。見ているだけなら、頼もしさしかない。

 

 だが、決まらない。

 

 勝家が殴るたび、呪いは削れる。

 削れるが、そのたび勝家の動きもわずかに鈍る。重い拳はたしかに効いている。けれど相手は、殴って砕けば終わるたぐいのものではなかった。砕くたび、むしろ感情の芯だけが濃くなる。

 

 そして呪いは、たびたび勝家だけを狙った。

 

 他へは散らぬ。

 藤吉郎へも来ぬ。

 勝家へ、勝家へと、湿った執念で寄っていく。

 

「返せ」

 

 そう聞こえた気がした。

 

 誰の声かはわからぬ。若い男にも、母親にも聞こえる。いや、どちらでもあったのかもしれぬ。

 

「返せ」

「返せ」

「返せ」

 

 館の四方八方から、同じ湿り気がにじむ。

 勝家は顔色一つ変えず、それを正面から受けた。

 

「うるさい」

 

 低く吐き捨てる。

 

「戦で負けたのだ。終わった話を引きずるな」

 

 その言葉は、正しいのだろう。

 だが正しいからこそ、呪いとは噛み合わぬ。

 

 呪いが膨れた。

 座敷の畳が浮く。障子が内側から膨らみ、柱の木目が悲鳴みたいに軋む。

 勝家の肩へ、濁った顔が幾つも食いついた。若い男の怒り、母の湿った執着、近しい者らの嘆き。全部が「裏切り」と「奪われた家」だけで繋がっている。

 

 相性が悪い、と藤吉郎は思った。

 

 なぜ悪いのかまではわからぬ。

 ただ、勝家の戦い方は、まっすぐ受けて、まっすぐ割る。

 だがこれは、割って済む怒りではない。まっすぐ言われるほど、ねじれて濃くなるたぐいの怒りだ。

 

「柴田殿!」

 

 思わず声が出た。

 

「来るな!」

 

 即座に怒鳴り返される。

 

「今の貴様では、横やりにもならん! 引っ込んでおれ!」

 

 その通りだった。

 悔しいが、その通りだ。

 今の自分は、呪力の扱いをようやく覚え始めたばかり。訓練場で腹から通せと言われ、巻き藁を叩き、信長のそばで「熱」の気配を感じた程度でしかない。

 手札は、まだない。

 この場へ割って入れるだけの何かは、何もない。

 

 藤吉郎は歯を食いしばった。

 

 何か、何かないのか。

 このまま見ているだけか。

 小呪いを払えた。巻き藁も前よりはましになった。だが、だからどうした。肝心な時に手が出ぬなら、食える口が一つ増えた程度の価値しかないではないか。

 

 勝家が押し返す。

 呪いが絡みつく。

 決まらぬ。

 互いに決め手がない。

 

 その押し合いを見ているうちに、藤吉郎の中で妙な衝動が湧いた。

 

 真似ろ、と言われた。

 見えたなら真似てみろ、と。

 

 いま目の前にあるのは、勝家の術だ。

 自分に何かを入れて、強さを借りる。

 鬼を降ろす。

 

 そんな大層なことができるはずもない。

 だが、できるできぬではない。何かを寄せる。何かを借りる。勝家の背中で起きていることの、形だけでも。

 

 藤吉郎は無意識に、腹へ息を落とした。

 巻き藁の時と同じように。

 そこへ、何か重いものを無理に引き寄せるつもりで。

 

 来たのは、鬼ではなかった。

 

 ひどく軽い。

 だが速い。

 

 肩が勝手に前へ傾き、視界が少しだけ高く広くなる。爪先が勝手に地面を掻きたがる。笑いたいような、飛びつきたいような、妙な浮つきが背筋を走る。

 

「……なんじゃこりゃ」

 

 藤吉郎は呟いた。

 

 猿だった。

 

 鬼の重さではない。

 獣とも少し違う。もっと、すばしこく、せわしなく、油断なく、横から入るための軽さ。

 

 勝家が呪いを正面から受け止めた、その瞬間だった。

 藤吉郎の身体が、考えるより先に動いた。

 

 走る。

 低く。

 速く。

 

 柱を蹴り、畳の縁を飛び越え、勝家と呪いの押し合いの外縁をなめるように回る。正面には入らない。入れない。だが横からなら――

 

 見えた。

 

 呪いの塊の中で、男の怒りでも女の嘆きでもない、もっと濃い黒ずみがひとつだけ脈打っている。感情の核。凝り固まった中心。

 名まではわからぬ。

 ただ、負けた者が、負けたまま終われずに残した“家督”の棘みたいなものだと、身体のどこかが知った。

 

 藤吉郎は、そこへ手を突っ込んだ。

 

 拳ではない。

 巻き藁のように腹から通す。だが鬼のように重くではなく、猿のようにすばやく、引っかいて奪う。

 ぐしゃり、と嫌な感触があった。

 

 館じゅうに張っていた湿った気配が、そこで一度だけ悲鳴のように膨れ、それから細く裂けた。

 

 勝家の拳が、その裂け目へ叩き込まれる。

 今度は決まった。

 若い顔も、女の袖も、子の手も、一斉にほどける。泣き声に似たものが柱の間を駆け、やがて雨上がりの蒸気みたいに薄れていく。

 館の重さが、ようやく少し軽くなる。

 

 藤吉郎は、その場へ尻もちをついた。

 猿めいた軽さはすぐ消えた。残るのは全身のだるさと、腹の奥をひっくり返したような空腹だけだ。

 

「……は、腹が……減った」

 

 息も絶え絶えにそう言うと、勝家がこちらを見下ろした。

 鬼の気配はもう引いている。だが顔は険しい。

 

「阿呆が」

「よう言われます」

「余計なことをするなと言ったはずだ」

「余計でございましょうか」

 

 藤吉郎は座り込んだまま笑った。

「決まりましたよ」

 

 勝家はしばらく黙っていた。

 それから、大きく息を吐く。

 

「……決まりはした」

「では、ようございました」

「ようござらぬ」

 

 言葉はきつい。だが、その声にはさっきまでの切迫がもうなかった。

 

「貴様、いま何を降ろした」

「わかりませぬ」

「わからぬでやったのか」

「見よう見まねにございます」

「鬼ではなかったな」

「ええ。もっとこう、軽うて、落ち着きがなくて、勝手に動くやつで」

 

 勝家の口元が、ほんの少しだけ動いた。

 呆れたのか、笑いかけたのか、その中間みたいな顔だった。

 

「猿か」

 

「……そうかもしれませぬな」

「似合っておる」

「ありがたいような、ありがたくないような」

 

 勝家は腕を組み直した。

 館の奥にまだ残る薄い淀みへ目をやり、それから藤吉郎へ視線を戻す。

 

「木下」

「はい」

「今のは忘れるな」

 

 藤吉郎は瞬きをした。

 

「鬼を真似るのではない。貴様に来たものを、貴様のやり方で使え」

「それはお褒めに与ったと受け取ってよろしいので?」

「好きに取れ」

 

 いつも通り雑だ。

 だが、それで十分だった。

 

 藤吉郎は立ち上がろうとして、膝に力が入らず、また少し座り直した。

 腹が減っている。頭もふらつく。ひどい有様だ。

 けれど手応えはあった。巻き藁の時とは比べものにならぬ、もっと深い手応えだ。本物の真似は本物にはならぬ。だが本物にならぬからこそ、自分に合う形で出る。そんな感触が、うっすらと掴めた気がする。

 

「柴田殿」

「何だ」

「ありがとうございます」

 

 勝家の眉が跳ね上がる。

 

「何がだ」

「いえ、もっと粗雑な御方かと思うておりました」

「今のは前よりひどいぞ」

「ですが、思ったより面倒見がようございます」

 

 勝家はとうとう短く笑った。

 喉の奥で鳴るような、小さな笑いだった。

 

「小生意気な猿だ」

「猿で結構。食える猿になれればなお結構」

「その口をまず何とかしろ」

「腹が満ちましたら考えます」

「またそれか」

 

 館の奥にまだ少しだけ残る湿り気を感じながら、藤吉郎はようやく立ち上がった。

 さっきまでの気味悪さは、完全には消えていない。それでも先ほどよりはずっとましだ。

 

 勝家が先に歩き出す。

 藤吉郎はその背を見ながら、さっきの猿めいた軽さを思い出した。意図して出せたわけではない。だが、たしかに自分の中へ来た。鬼を真似ようとして、猿が来た。

 

 ああ、と思う。

 それでいいのかもしれぬ。

 

 人の真似をしても、まるきり同じにはならぬのだ。

 

 館を出る時、藤吉郎は一度だけ振り返った。

 奥の暗がりはまだ静かだった。静かであることが少しだけ不気味で、少しだけ哀れだった。

 

 何があったのか、細かいことは自分にはまだわからない。

 ただ、戦場の呪いとは違うものがこの家には残っていた。そしてそれは、正面から勝つだけでは祓いきれぬ種類のものだった。

 

 そのことだけが、腹の底に石のように残った。

 空腹とはまた別の、もっと固い何かとして。

 

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