呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
現在、能楽として伝わるものの多くは、当時「猿楽」と呼ばれていたものである。
能の題材は、怨み、執着、死者の未練、そして悲劇をその芯に置くものが多い。
太閤豊臣秀吉もまた、晩年には猿楽を深く愛好したことで知られる。
人の死と残りし思いを舞う芸は、この世の栄華のただ中にあっても、なお人を離れずにいた。
館の一件の翌日、木下藤吉郎は訓練場の隅に座って、ひどく不機嫌そうに握り飯を食っていた。
ひと口ごとに腹へ落ちていく。
だが足りない。
飯が足りないのではない。飯は飯でありがたい。けれど昨日のあとから、妙な減り方をするようになっていた。どれだけ食っても、腹の底のほうがまだ何かを欲しがっている。
「食いながら難しい顔をするな。まずそうに見える」
声のしたほうを見ると、丹羽長秀が立っていた。
いつもの通り、きちんとしているくせに堅苦しすぎない顔だ。横にいる柴田勝家が黙っていると場が詰まりがちになる分、こうして長秀が軽く言葉を置くだけで空気が少し和らぐ。
「まずくはございませぬ」
藤吉郎は握り飯をもうひと口かじった。
「ただ、足りませぬ」
「三つ目だろう」
「四つ目にございます」
「やはり多いな」
長秀が笑う。
その横で勝家が腕を組んだまま言った。
「飯の話ではない」
「柴田殿はすぐ腹を満たす方向の話を終わらせたがりますな」
「館で何をやった」
藤吉郎は口を閉じた。
やはりそこだ。いや、当然そこなのだが、飯を食っている最中くらいは見逃してほしいとも思う。
勝家は昨日と同じように、要るところだけを真っ直ぐ訊いてくる。
「見よう見まねにございます」
「何の」
「柴田殿の」
「同じ術か、と訊いている」
藤吉郎は、そこで少し困った。
説明ができない。
館で起きたことは、たしかに勝家を見て真似ようとした結果だ。鬼のような重いものを降ろして、真正面から押し切る。そういう力を真似たかった。だが、実際に自分の中へ来たのは、もっと軽く、もっと落ち着きがなく、脇から入り込むようなものだった。
「……同じ、ではない気がいたします」
「気がする、ではわからん」
「わからぬから、気がすると申し上げておるのです」
勝家が鼻を鳴らす。
長秀は、その横で「まあまあ」とでも言うように片手を上げた。
「木下、お前の言い分もわかる。話を聞くに、たしかに柴田殿の鬼降ろしではないのであろう。むしろ、降霊術という皮だけを使ったように思う。」
「では自分も降霊術師であると?」
「それを今から見る」
長秀はそう言って、訓練場の中央に歩み出た。
勝家も無言でついていく。どうやら最初から、こうするつもりだったらしい。
訓練場には、巻き藁のほかに、木太刀、石、木札、簡単な的などが雑然と置かれている。長秀はその中から、手頃な木札を一枚拾い上げた。
「柴田殿」
「何だ」
「少し貸してくれ」
勝家は面倒くさそうな顔をしたが、何も言わずに長秀の前へ立った。
長秀がその腕へ軽く指を添える。
藤吉郎は、食うのをやめて見た。
そこから先は、妙に見慣れた感じがした。
腹から起こした呪力が、勝家の中にある。
それを長秀が受ける。
まるで水路を一つ横へ引くみたいに、流れの向きが変わる。勝家の中にある太く重い呪力が、長秀の手元へ一度集まり、それからすっと整えられる。
「ほれ」
長秀が、今度は藤吉郎へ木札を放った。
藤吉郎は反射で受け取る。
その瞬間、木札がずしりと重くなった。
重くなったというよりも、呪いをもって存在そのものの圧が増したような感じだ。
「……うわ」
「それが私の術だ」
長秀が言う。
「人の呪力を受けて、通しやすい形へ整えて、別の場所へ渡す。人でも、物でも。」
藤吉郎は木札を見た。
ただの札だったものが、いまは明らかに何かを含んでいる。握っているだけで、勝家の重い力の名残が手に伝わる。
「柴田殿の呪力を、丹羽殿が受けて、これへ?」
「そういうことだ」
長秀が頷く。
「信長様のように巨大な器にはなれぬ。だが、強い術師の出力を整えて、兵や物や別の術師へ渡すことはできる。軍ではそのほうが役に立つ時もある。
巻き藁はその理屈で呪力を通さねばろくに傷つかないようになっている」
「ため池と水路、というわけか」
藤吉郎がぼそりと言うと、長秀が感心した顔をした。
「その言い方は悪くないな」
「腹が減っていても、たまにはよいことを申します」
「たまにでは困る」
勝家が横から切る。
そして藤吉郎の手元の木札を顎で示した。
「で、見たな」
「見ました」
「真似ろ」
「やはり雑うございますな」
「見たものをどうするのだ」
「せめて飯を食い終えてから――」
「真似ろ」
勝家は譲らない。
長秀も、今度は止めなかった。むしろ少し面白がっている目だった。
藤吉郎はため息をつき、立ち上がった。
手の中の木札へ意識を向ける。
丹羽長秀の術。
受ける。整える。渡す。
理屈はわかる。だが、実際に真似ようとしてみると、最初の“受ける”のところで妙な引っかかりがあった。
「……あれ」
「どうした」
長秀が訊く。
「受ける、というのがよくわかりませぬ」
「よくわからぬ?」
「はい。いま丹羽殿がやったことは見えました。だが、そのまま自分の腹へ入れようとしても、入ってくる感じがない」
藤吉郎は眉を寄せた。
起点は腹だ。そこはもう掴んでいる。呪力を起こし、通し、末端へ運ぶ基礎はわかる。だが、長秀の術の最初の段階――外から来た力を、自分の中へ素直に迎え入れるあの感じが、自分にはどうにもぴんと来ない。
長秀が少し考え込んだ。
勝家は腕を組んだまま「ほう」と言う。
「では、逆にやってみろ」
勝家が言った。
「逆?」
「受けられぬ、流せぬ。なら、押し込め」
「柴田殿は相変わらず雑だが、今回は悪くない」
長秀が苦笑する。
「木下、自分の呪力でやってみろ。受けるのではなく、何かへ持たせる」
藤吉郎は少し考え、訓練場の端に転がっていた小石を一つ拾った。
腹へ落とす。
起こす。
そこまではもうできる。
そのまま掌へ通し、握った小石へ押し込むようにしてみる。
すると石の感触がわずかに変わった。重さではない。もっと、芯が通る感じだ。
「……おや」
長秀が目を細める。
藤吉郎はその小石を、巻き藁へ投げた。
ぱし、と小さな音が鳴る。
ただの小石なら藁へ当たって終わるはずだった。だが今の一投は、巻き藁の表面を少しだけ抉った。
「おお」
思わず藤吉郎の口から声が出る。
「なるほど」
長秀が、今度ははっきりと感心した顔をした。
「儂と違い受け取る機能は弱い。あるいはほとんどない。だが、自分の呪力を外へ持たせるのはうまい」
藤吉郎は自分の手を見る。
小石。木札。木切れ。
そういうものが、自分の呪力を乗せる先になるのかもしれない。
「丹羽殿のように、人から受けて回すのではなく?」
「いまのところはな」
長秀が頷く。
「お前は水路にはなれぬ。だが手札は増やせる。手の中から離れた場所へ、自分の呪力を持ち込める」
「それは……なかなか悪くありませぬな」
「知恵の使いどころだな」
「ただし」
勝家が口を挟む。
「見て真似た結果がそれだ。要するに猿真似だな」
藤吉郎が即座に顔をしかめる。
「柴田殿」
「何だ」
「言いようというものがありませぬか」
「ない。見たものを真似て、少しずれて別物になる。猿真似だ」
「事実ではあるが、あんまりだ」
長秀が笑った。
「柴田殿、それでは木下が拗ねる」
「拗ねておるか」
「腹は減っておりますが、心は拗ねております」
「やはり面倒な猿だな」
藤吉郎が何か言い返す前に、長秀がひらりと手を振った。
「猿真似、ではなく――猿学、でどうだ」
一瞬、藤吉郎はきょとんとした。
「猿学」
「見て、学んで、真似る。ただの猿真似より、少しはましだろう」
「結局猿ではあるのですな。」
「面を付け替えて踊る舞いに猿楽というものがあるのだ。洒落が効いておるだろう?」
長秀は楽しそうに言う。
藤吉郎は、その言葉を腹の中で転がした。
猿学。
悪くない。
かなり悪くない。
何より、自分の力がただの失敗や出来損ないではなく、一つの輪郭を持つと知れたことが大きかった。館で猿めいたものが降りた時も、ただ必死でやっただけだった。あれが何だったのか、自分でも説明できなかった。
だが今は違う。
見て、学び、真似て、自分の形へずらす。
そういう術なのだと、初めて言える。
「猿学、か」
もう一度口に出す。
勝家は腕を組み直した。
「好きにせい。名などどうでもよい」
「どうでもようございませぬよ。名がつけば、腹の減り方も少し前向きになります」
「腹の減り方に前向きも後ろ向きもあるか」
「ありまする」
藤吉郎は小石をもう一つ拾った。
今度はさっきより自然に、腹から起こした呪力を乗せられる。
投げる。
巻き藁がまた少し削れる。
なるほど、と思った。
これなら、戦えば戦うほど手札が増える。
見た術は、自分の中へ何かしら残る。
真似て、ずらして、持たせる。
そしてそのたび、腹は減るだろう。馬鹿みたいに。だが、その飢えは、ただ苦しいだけのものではない。もっと欲しい、もっと取れる、もっと強くなれる、という飢えでもある。
「……面白い」
藤吉郎はぽつりと言った。
「何がだ」
勝家が訊く。
「戦えば戦うほど、強くなれるやもしれませぬ」
長秀が目を細めた。
勝家は鼻を鳴らす。
「最初からそう言っておる」
「ですが、いまようやく腹へ落ちました」
「落ちたなら結構」
藤吉郎は小石を指先で弾きながら、信長の顔を思い出した。
あの人の見えぬ深さ。柴田の鬼。丹羽の受け渡し。そういうものを、これから先、戦のたびに見て、盗んで、腹へ入れていけるのなら。
腹は減る。
けれど悪くない。
「猿学、にございますか」
「不満か」
「いいえ」
藤吉郎はにやりと笑った。
「食えそうで、ようございます」
長秀が吹き出し、勝家が呆れたように天を仰ぐ。
訓練場の昼は、そこからまた少しだけ騒がしくなった。