呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
このころ、信長は織田を一つにする。
それは一つにまとめると言うよりも、遠い昔に別れたものを滅ぼし自らに一本化するような乱暴なやり方ではあったが。
その覇道においては教科書にも載らないようなささやかな戦である。
ともあれこの頃の信長は尾張の地盤を固めるために奔走していた。
「大義であった」
その一言は、妙に乾いていた。
木下藤吉郎は、勝家の少し後ろでそれを聞きながら、喉の奥に小さな棘が引っかかるような気分になった。誰に向けた言葉かは、あえて言わずとも知れている。信勝の後始末は済んだ。家中の騒ぎも、表向きは片づいた。だから大義だ、と言う。
わかる。
わかるが、それで終わらぬものもあるだろう、とも思う。
ただ、信長はもう次を見ていた。
館の軒先から空を仰ぐでもなく、死者を惜しむでもなく、ただまっすぐ前を見ている。目の前の尾張を完全に掌握せねばならぬ。その先に今川義元がいるからだ。上洛の支度をしている、という噂は、もう噂の域を越えかけていた。尾張が割れたままなら、いずれ今川に丸ごと踏み潰される。
だから、立ち止まる暇がない。
信長はそういうふうに、身内の話を踏み越えて次へ行ける人間だった。
いや、踏み越えているように見える、と言ったほうがいいのかもしれぬ。
藤吉郎にはまだ、その違いまではわからなかった。
ともかく、戦だった。
相手は籠もっている。
城、というほどの堅城ではない。館に毛が生えたような構えだが、それでも兵を入れて閉じれば厄介なものになる。まっすぐ叩けば血を吸う。尻の据わった相手ならなおさらだ。
戦場の空気は粗かった。
のちに信長が好むような、すらりと長い槍が揃って並ぶわけではない。銃声が規則正しく鳴り渡るわけでもない。あるのは短めの槍、弓、投げ石、それに血気ばかりはある雑兵どもの、ばらばらの踏み込みだ。
矢が飛ぶ。
石が飛ぶ。
短槍を持った足軽が、気勢だけでわっと来る。
田畑の延長みたいな戦だった。泥があり、草があり、人がつまずき、怒鳴りながら突っ込んで、勝手に崩れる。
その粗い戦を、まず押していたのは丹羽長秀の術だった。
丹羽の呪力は、信長のようにひとりで戦場を呑み込むたぐいではない。だが、人へ渡せる。整えて、散らさず、必要なだけ持たせることができる。
この日も、先駆けた兵たちにはその力が薄く配られていた。
踏み込みが少しだけ軽い。
息が少しだけ続く。
足が止まるところで半歩だけ出る。
その“少しだけ”のおかげで、織田方は押し返されずに済んでいた。
だが、それだけだった。
人数がそこそこいる。だから一人ひとりに配られるものは薄い。兵は動く。持つ。踏みとどまる。だが決め切れない。押せているようで押し切れぬ。敵もまた雑兵の集まりではあるが、籠もっている分だけしぶとい。短槍を壁のように突き出し、弓をひき、石を投げ、ひたすら近づかせぬことだけはうまくやる。
柴田勝家は前のほうにいた。
さすがに先駆けそのものではないが、いざとなれば押し潰すための重石みたいな位置だ。見ているだけで安心感のある立ち姿だった。だがその勝家ですら、いまは無闇に突っ込まず、戦の流れを見ている。
藤吉郎は信長の少し後ろに控えていた。
なぜ自分がここなのか、いまだによくわからぬ。
「横におれ」
信長はそう言っただけだった。
使い走りとして呼ばれたのでもなければ、前へ出て手柄を立てろと言われたわけでもない。ただ、近くにいろ、と。
近くにいたところで、この規模の戦で自分ができることなど知れている。矢を払うか、転んだ者を起こすか、せいぜいそんなものだ。
それでも信長は、自分を近くへ置いた。
不思議な人だ、と改めて思う。
人を使う時の理屈が、たいてい半歩ずれている。
館の中から石が飛んできた。
信長の前へ落ち、泥を弾く。
すぐ後から矢が来る。これは近い。藤吉郎は反射で一歩出かけたが、その前に信長が半身ずらしただけで矢は肩口を外れて後ろへ抜けた。
避けた、というより、そこへ矢が届く前にもう別の場所へいた、という感じだった。
戦はじりじりしていた。
兵が前へ出て、押され、また出る。
丹羽の力が乗っているぶん、崩れはしない。だがそれ以上でもない。
このままでは勝てても時間がかかる。時間がかかれば余計な血が流れる。
信長は、少しも苛立ったようには見えなかった。
怒って前へ出るのではない。
焦れて飛び出すのでもない。
ただ、見ていた。
敵の槍がどこで揃い、どこで揃いきらず、誰が声を張っており、誰がその声へ半拍遅れておるか。押し返されぬよう踏ん張っている者と、踏ん張っているつもりで足の裏がもう逃げておる者。そのへんを、まるで獣が獲物へ食らいつく時を見切るみたいな目で見ていた。
ああ、と藤吉郎は思った。
あのお方、いま噛みに行く場所を見つけたのだ。
そう思った次の瞬間には、もう前へ出ていた。
何の前触れもなく、ではない。
少なくとも信長の中では、前触れは済んでいたのだろう。
見るべきところを見て、噛みつけば全体が崩れると知れたから、行った。ただそれだけの話みたいに、信長は前へ出た。
大将が自分でやる動きではない。戦場の先頭に立つにしても、常識というものがあるだろう、と藤吉郎は思った。
周囲が一拍遅れた。
味方がまず呆れた。
ついで驚愕した。
敵はもっとひどい。
信長が前へ出た、その事実に引かれるように、目の前の粗い戦の連携がぐにゃりと崩れた。短槍を横一線に突き出していたはずの足軽たちが、先の穂先を揃えることより「来た」に意識を取られる。弓は狙いが散る。石を投げる手元が狂う。
人の恐れと混乱が、信長ひとりへ向いていく。
それだけなら、ただの派手好きの愚挙だ。
だが信長は、その向けられた恐れごと前へ行った。
熱があった。
火ではない。
だが、あの人の周りだけ、雨上がりの湿気を押しのけて別の温度が立ち上がる。味方が怯え、敵がびびり、そのざわめき全部を巻き込んで、信長の周囲だけが一段明るく、熱くなるように見える。
この人、おかしいな、と藤吉郎は思った。
理屈ではない。
ただ、身体がそう思った。
「おい、木下!」
後ろから誰かに怒鳴られた気がした。
だが気にしている暇がない。信長に「横におれ」と言われている以上、置いていかれるわけにはいかぬ。半分怯えながら、藤吉郎はその背を追った。
怖い。
普通に怖い。
大将の近くは安全だと思っていた。だがこの人の近くは違う。前へ出すぎる。速すぎる。常識が噛み合わぬ。こっちは露払いのひとつでも入れようと思っているのに、その余地すらない速度で、もう次の敵へ届いている。
短槍を構えた敵兵が飛び込んでくる。
信長はそれを真正面から叩き割るでもなく、半歩ずれて腕を払った。
短槍の穂先が脇へ流れる。そのがら空きになった喉元へ、信長の拳がめり込む。殴る、というより、そこに最短で届くための動きだった。兵がのけぞる。その身体を押しのける勢いのまま、信長はさらに前へ入る。
館の縁へ踏み込んだところで、別の足軽が上から斬りかかった。
信長は身を沈める。刃は髷の上を掠め、代わりに信長の手が相手の足首を取った。引く。足軽の身体が崩れる。落ちかけたところへ、今度は短槍の柄を奪って石でも払うように打った。乾いた音がして、兵が縁から転げ落ちる。
そこへ横から弓兵が腕を上げる。
近い。近すぎる。
藤吉郎は息を呑んだが、信長は一歩だけ斜めへ出た。矢は肩のあった場所を抜ける。代わりに信長の手が弓兵の腕を掴んでいた。引き寄せる。崩れた顔面へ、奪った柄の石突が叩き込まれる。
乱暴だった。
なのに妙に無駄がない。
斬り伏せておるというより、そこにある人間と武器を手近な道具として順に使い潰しておる感じだった。
怖いな、と藤吉郎は思う。
強い、より先に、怖い。
大将の戦い方ではない。ましてや織田の棟梁が、自分でこんなところまで噛みに行くなど正気ではない。正気ではないのに、その正気でなさごと勝ち筋になっている。
そして、後ろがついていってしまう。
丹羽長秀の術が、ここでようやく嫌なほど見えた。
ただ持たせるだけではない。信長が前へ出た、その一瞬に合わせて、後続の兵の足と息が半歩だけ揃う。退きかけていた者が退ききらず、踏み込みかねた者が一足だけ前へ出る。
長秀自身は前へ出ておらぬ。
だが、信長の無茶を戦の形へ通している。
「押せ!」
誰の声だったか、藤吉郎にはわからなかった。
たぶん長秀か、あるいはその声を受けた誰かだ。だが声はちゃんと通った。信長の背が荒々しく戦場を崩し、その崩れたところへ、長秀の通しが味方の押しを滑り込ませる。
勝家も、そこで初めて動いた。
ずっと重石のように構えていた男が、信長の噛み破った裂け目へ遅れて入る。
遅れて、というより、十分に崩れるのを待ってから入ったのだろう。
勝家の一撃は派手ではない。だが重い。信長が散らした敵の踏ん張りを、二度と戻らぬよう地へ打ちつける。前へ出た兵がその一撃を見て、もう半歩深く押し込む。勝家は壊すのでなく、壊れた流れを固定するために立っているようだった。
信長が噛み、長秀が通し、勝家が押し潰す。
その噛み合いが、藤吉郎にはひどく眩しく見えた。
これが織田か、と思う。
いや、織田というより、信長という熱源のまわりに、人がそれぞれのやり方で噛み合わされておるのだ。
館の中から、敵の大将格らしい声がまた飛ぶ。
兵をまとめ直そうとしている。
だがもう遅い。遅いということを、信長は最初から見ていたのだろう。どこを食えば全体が崩れるか、最初からわかっておったのだろう。
藤吉郎は半ば怯え、半ば見惚れながら、その背を追った。
館の中へ入ってからは、さらにひどかった。
廊は狭い。
柱は近い。
人が二人並べば、それだけで動きが詰まる。
館の戦とはこういうものか、と藤吉郎は妙なところで感心した。外の粗い押し合いより、よほどいやらしい。前の者が倒れれば後ろが詰まる。血は板へ広がり、足は滑る。槍は長すぎれば邪魔になり、短ければ一瞬の踏み込みを誤れば終わる。
信長はそこでも速かった。
前にいた足軽を壁へ叩きつける。
そのまま脇を抜ける。
抜けざま、横合いから出た刃を鞘で弾く。
返す手で相手の胸倉を取って、後ろの兵へぶつける。
どれもこれも、館の狭さを自分のほうへ引き寄せるみたいな動きだった。狭いからこそ、相手の数が一度に生きぬ。狭いからこそ、崩した身体がそのまま障りになる。
藤吉郎も一人、二人と露払いじみた真似はした。
転んだ兵の腕を踏み、脇から出た短槍の柄を蹴り、信長の背へ届きそうになった石を一つだけ払う。
だが、やれてその程度だ。
正面から戦を決めているのは、明らかにあの人だった。
やがて館の奥で、何か太いものが断ち切れるような気配がした。
悲鳴ではない。
怒号でもない。
もっと、場そのものの芯が折れる時の気配だった。
次の瞬間、敵の足が止まった。
まだ武器は持っている。
まだ数もいる。
だが、もう勝てぬと身体のどこかで知ってしまった顔になる。
館に籠もった兵のしぶとさは、芯があるうちだけだ。そこが折れれば、あとは早い。
味方がどっとなだれ込む。
勝家の一隊が正面を押さえ、長秀の通しで後続がもつれず入る。
館の戦は、そこでようやく織田方のものになった。
終わってみれば、あっけなかった。
もちろん死人はある。
血も流れている。
館の板は赤黒く濡れ、倒れた兵の指はまだぴくりと動く。
だが、それでも藤吉郎には、戦の長さに比して終わりだけが妙に短く感じられた。
味方も敵も、あの人の速度に呑まれて、普段通りの戦い方ができなくなる。
それでいて最後には勝つのだから、たまらない。
信長は館を振り返りもせず、すでに次の指図を飛ばしていた。
傷の始末。兵の整え。尾張の残りの収め方。人の気配より、もう地図と先の手しか見ていない。
藤吉郎は、その横で息を整えながら、泥にまみれた手を見た。
自分は何をしていた。
せいぜい、置いていかれぬように必死についていっただけだ。露払いすら満足にできたか怪しい。なのに、なぜか胸の奥は妙にざわついている。
怖かった。
いまも少し怖い。
だがそれ以上に、目が離せない。
信長がふと、遠くを見た。
その視線の先にあるのが、まだ見ぬ今川かどうか、藤吉郎にはわからぬ。
ただ、尾張ひとつ収めたからといって、この人が止まる人間ではないことだけは、よくわかった。
今川が来る。
もっと大きな戦が来る。
そしてたぶん、この人はその時も、いまみたいな顔をして前へ出るのだろう。
「……勘弁してほしいな」
藤吉郎は小さく呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
だが、その呟きの底には、うっすらと熱が混じっていた。
怖い。
なのに、次もたぶんついていくのだ。
そう思わせる背中が、もう少し先を歩いていた。