呪術戦国譚『太閤立死伝』 作:蓮華
東海一の弓取りと呼ばれたその男が、ついに上洛へ動くという報せは、尾張の空気を一変させた。
やがてそれは現実となる。押し寄せる今川の大軍。家の格も、兵の数も、積み重ねた歴史も、織田など比ぶべくもない。道の上に転がる小石ほどのものにすぎなかった。
されど織田信長は退かなかった。
乾坤一擲の奇襲。
後世、桶狭間の戦いと呼ばれるいくさである。
雨は、戦の始まる前からずっと不機嫌に降っていた。
桶狭間へ向かう山道はぬかるみ、草鞋の裏へ泥が重くまとわりつく。葉の先から絶えず雫が落ち、衣の端はとうに湿り切っている。空は低く、兵の顔も暗い。
織田方の小勢が進むには、あまりにも分の悪い天気で、あまりにも分の悪い日だった。
木下藤吉郎は、列のやや後ろから信長の背を見ていた。
今川義元。
その名だけで、兵の腹は冷える。大軍、名将、格が違う。まともにぶつかれば潰れる。そんなことは、戦の理をまだ半分も知らぬ藤吉郎にだってわかる。だから空気が重い。口を噤んでいる者ほど、内側では「本当に行くのか」と怯えている。
織田信長は、その怯えを知っていた。怯えも恐れも混乱も狂騒もその背に背負い、逆に前に出るいつもの目であった。
馬はない。徒歩だ。
濡れた陣羽織の裾を雨に打たせ、何でもないことみたいに先へ進んでいる。周囲の不安があの背へ寄っていくのを、藤吉郎はもう何度か見ている。寄っていった恐れが、あの人の歩幅を狭めるのでなく、逆に前へ押し出す熱になっていることも。
信長の術を、藤吉郎はまだ完全にはわかっていなかった。
だが、何を喰っているのかくらいは知っている。
恐れだ。
人がこの人に向ける怯え、ざわめき、悪い想像、その手前の冷えたもの。
あれを、信長は燃やし、力そのものにしている。
だから、道中で藤吉郎は一つだけ口を挟んだ。
「信長様」
返事はなかった。
だが無視ではない。あの人は足を止めず、耳だけこちらへ向ける時がある。
「隠れて寄るのでございましょう」
「そうだ」
「なら、隠れ切らぬほうがよろしいかと」
少し前を行く丹羽長秀が、ちらりとこちらを見た。
雨音の中でも、その一言の意味は伝わったらしい。
「ほう」
信長が短く言う。
「隠れ切ると、敵は“おらぬ”と思いまする。ですが、見えたと思ったら消え、消えたと思ったらまた近くにおる。そうなれば、相手は数も位置もわからぬまま怯えます。信長様にはそのほうが都合がよい」
言ってから、少しだけ喉が鳴った。
信長の術の本質を、自分が口にしている。前ならしなかった。だが今は、あの人の背に付き従っていくうち、それくらいは見えてしまっている。
信長は少しだけ顎を引いた。
「小賢しいな」
「小物ゆえにございます」
藤吉郎はすぐ返した。
「大きい方は、こういう陰気な怖がらせ方はあまり思いつかぬでしょう」
その言葉に、後ろの兵が何人か息を呑んだのがわかった。
だが信長は怒らなかった。
むしろ、雨の向こうで口元が少しだけ持ち上がった気がした。
「よい。やれ」
それだけだった。
藤吉郎は頷き、丹羽へ合図を送る。長秀もすぐに理解した。彼はこういう時、言葉を重ねぬ。兵へ薄く呪力を回しつつ、藤吉郎が京都で見よう見まねで掴んだ“隠れる術”を通しやすい間を作ってくれる。
明智光秀の術。
「隠蔽」とだけ言った。
だが、あれはただ消える術ではない。相手の認識の焦点から、自分たちをずらす術だ。
完全には真似られぬ。
だが、細切れにはできる。自身の性分とも相性が良かった。
藤吉郎は腹へ息を落とし、丹羽の術を借りて呪力の薄膜をかける。
兵が木立と木立のあいだへ紛れる。
次の瞬間には、また別の場所へ現れる。
すぐ消える。
また別の角度から見える。
相手からすれば、最悪だ。
山道の木々のあいだに、織田方がいる。
いるはずなのに、数が読めぬ。
ひとたび見えた影が、もう次にはいない。
いないと思った側面に、もう別の気配がある。
雨に煙る視界の中ではなおさらだった。
葉擦れと雨音の向こうで、こちらの気配が断続的に点る。
今川方の斥候がそれをどう見たか、藤吉郎にはわからぬ。だが少なくとも、まともな数の把握はできまいと思った。
肝を冷やしながらの決死行の折、急に丹羽が叫んだ。
「織田方だ!!」
隠密の力を流し始めたそのさなかに。ご丁寧に呪力に声を乗せて拡散させ。
いや理屈はわかる。恐怖の残響を残せば混乱は増す。理があるからとはいえ、上品とは限らぬらしい。
「ふむ、よいな、では派手なほうがよかろう」
隠密と奇襲のその狭間、鬼を纏う。つい先ほどまで気配が無かったところに急に手におえない暴威の気配が立ち上る。
柴田勝家。織田家中きっての猛将だ。出会いから少し時間がたってよくわかったが、織田家中内においてこの男は術師としても将としても”ぴかいち”だ。それは目の前で敵の兵が木っ端のように吹き飛んでいくことからもよくわかる。それにしてもやり方が雑に寄っているのだが。
織田におると、時折人の正気を疑うときがある。
そして、その“見え隠れ”の中心に、信長がいる。
圧倒的な存在感を纏う大将が、消えたと思ったら近い。
近いと思ったら遠い。 そのうえ本当に進んでくる。
これは敵からすれば、ただの奇襲ではない。悪夢に近い。
その間にも、兵の恐れはみるみる高まっていった。
味方の緊張は信長の背へ寄り、敵の不安は“見えぬ織田”への悪い想像になって膨らむ。
信長の周囲の熱が、雨の中でじわじわ増していくのがわかった。
やがて今川の本陣に近づく。
藤吉郎はそこで、空気がまた別の質へ変わるのを感じた。
ただの戦場の圧ではない。
もっと静かで、もっと奥へ引き込むような、嫌な秩序の匂い。濡れた木の匂いに混じって、焼香の残り香のようなものが鼻につく。
来た、と思った。
義元の周囲だけ、戦場の雨から少し切り離されている。
矢も石も飛んでいるはずなのに、その奥だけが妙に静かだ。静かすぎて、逆に不自然だった。
信長はそこへ向かっていく。
藤吉郎も、その少し外側を行く。
空気が、ひとつずれた。
泥の匂いが薄くなる。
雨音は聞こえているはずなのに、妙に遠い。
足元のぬかるみは消えていないはずなのに、靴裏へ返る感触だけが、濡れた板敷きの冷たさに変わっていく。
まずい、と藤吉郎は思った。
木立の向こうに、誰かがいる。
人の形をしているようにも見える。
だが、そこへ視線を置こうとすると、姿より先に“場”のほうが迫ってくる。柱、梁、障子の白、薄暗い廊下、奥の見えぬ座敷。寺だ、と思う。人が暮らす寺ではない。人の匂いが抜け、理と作法だけが湿気を吸って残ったみたいな、嫌に静かな寺だった。
その静けさの中心に、何かがいる。
藤吉郎は反射で身をずらした。
ずらしたのに、視線が追ってくる。
いや、違う。見られているのではない。見抜かれている。
どういう理屈かまではわからなかった。
だが、ぞっとした。
さっきまで山道で織田方の“見え隠れ”を回していた起点が、自分だと看破されたのだと、腹の底でわかった。
信長ではない。
あの人は見えようが見えまいが前へ出る。恐れを喰う。
ならば、あの小賢しい見せ方を作っている手元から切る。
そういう古い知恵の冷たさが、この静かな寺にはあった。
「……ああ、そう来ますかい」
呟いた時には、もう遅い。
廊下が伸びた。世界が切り離される。
さっきまで数歩先だった柱が、次の瞬間には十歩先にある。
障子の向こうにまた障子、その向こうにまた暗がり。
庭と戦場と雨が、すうっと遠のいていく。残るのは寺の匂いだけだ。濡れた木、古い畳、焼香のかすかな残り香。気取った匂いだな、と一瞬思ったが、その腹立たしさで恐怖を押し戻す暇もなかった。
来る。
頭でそう思うより先に、右から何かが叩きつけられた。
とっさに身をひねる。
避けた、と思った。
だが肩に鈍い衝撃が走る。見ると、太い数珠の珠が一つ、血のように黒く濡れて肩へめり込んでいた。
「は?」
数珠。
いや、それだけではない。
次は床板そのものが跳ねた。
板敷きの継ぎ目が裂け、木片が刃のように突き上がる。さらに頭上から、鐘の音だけが落ちてきた。形のない一打だ。耳で聞いたはずなのに、脳髄の内側を直接殴られたみたいに視界が揺れる。
必中、というやつかと藤吉郎は遅れて思った。
避けたつもりでも、寺の側がこちらへ届く。
この空間では、柱も床も、数珠も鐘も、全部が攻撃の手になる。
理不尽だった。理不尽だが、理が通っている感じもするのがまた癪に障る。
「っ……!」
藤吉郎は地を蹴った。
猿の軽さを思い出す。館の一件の時、自分の中へ勝手に降りてきた、あの落ち着きのない機敏さ。重く受けるのではなく、横へ滑る。高く飛ぶ。柱を蹴り、梁へ手をかけ、視線の外へ出る。
猿なら、見つかる前に動ける。
そう思った。
だが甘かった。
柱の影へ滑り込んだ瞬間、そこへすでに数珠が待っていた。
梁へ飛べば、梁の上から木魚のような音が落ちる。
横へ抜ければ、障子の桟が骨のようにしなって打ち据えてくる。
見られていない。
だが、行き先が合っている。
猿降ろしで逃げるつもりが、逃げた先へ先回りされる。
この寺はこっちの“次の一手”を読む。いや、読むというより、そこへ踏み込ませる。逃げ道を逃げ道として置いておいて、踏んだ瞬間にそれを攻撃へ変える。
藤吉郎は舌打ちした。
「納得いかぬ」
だが納得がいかぬからといって、死なずに済むわけではない。
戦場での勘だけは、もう育っていた。理不尽なら理不尽なりに、相手の土俵を認めるしかない。逃げることを主にすると読まれる。なら、迎撃へ切り替える。
藤吉郎は床へ着地すると、ぐっと腹へ息を落とした。
起点は腹。
そこで起こす。
腕へ通す。
飛んでくる数珠を、今度は避けずに叩く。
ぱし、と弾ける。
ひとつは払えた。
だが二つ目、三つ目は無理だ。鐘の音が落ち、障子の縁が薙ぎ、板敷きが足首を打つ。捌いても捌いても、削られていく。柴田勝家なら、鬼を降ろしてもっと正面から押し返せるのだろう。だが自分にはそこまでの出力はない。
痛い。
腹が減る。
息が短くなる。
肩で呼吸した瞬間、次の一打が来る。
だめだ、と藤吉郎は思った。
このままでは削り切られる。
避けると読まれる。受けるには足りぬ。迎撃しても手数が合わぬ。
その時、不意に京都の光秀の横顔が浮かんだ。
――大きく勝てずとも、呑まれぬだけならできます。
――境を立てるのですよ。まず、自分の周りだけ。
「簡易……領域、か」
藤吉郎は歯を食いしばり、足を止めた。
腹へ落とす。
起こす。
今度は外へ放たず、自分の周囲へ薄く広げる。
板敷きの上へ、目に見えぬ膜を一枚引くように。大層なものではない。勝ちに行く領域ではない。ただ、こちらを“そのまま呑ませぬ”ためだけの、薄い境。
次の数珠が飛ぶ。
ぶつかった。
膜がきしむ。
だが、直撃ではない。
必中が、一度だけずれた。
「……そういうことか」
藤吉郎は息を吐いた。
この寺そのものがはあれの腹の内なのだろう。狩られているという段階はとうに過ぎて、自分はもう腹の中の獲物に過ぎないわけだ。
しかし、膜を張れば少しだけ焦点をぼかせる。
境を立てる。看破そのものは消せぬ。だが、読まれる精度を落とせる。精度が落ちればかわせもするし打ち払えもしよう。
数珠が来る。
今度は肩ではなく、耳の横を抜けた。
鐘が落ちる。
頭蓋の芯までは響かず、外側で弾けた。
板敷きの突き上げも、足裏をかするだけで済む。
いける、と思った。
いや、勝てる、ではない。
持つ。
持てる。
この我慢比べなら。
寺の奥で、何かが揺らいだ。
人影のようなものは依然として静かだ。だが、その静けさの底に、わずかな歪みが混じった。不快感。苛立ち。そういう負の色が、ぴしり、と白い障子紙へ墨を垂らしたように滲む。
焦っているのか、と藤吉郎は思った。
看破しているはずの獲物が、完全には崩れない。
静かに詰めるつもりの盤が、少しずつ狂っている。
そういう“嫌さ”が、この寺の主の側にも生まれ始めている。
その瞬間だった。
藤吉郎の腹の底で、何かがひくりと動いた。
あの感覚は、もう知っている。
信長の近くにいるとき、たまにごく薄く、自分の中にも起こる。相手の恐れや不快が、自分の内側へ流れ込みきる前に、勝手に熱へ変わろうとするあの感じ。
「……あ」
藤吉郎は息を呑んだ。
無意識だった。
やろうと思ったのではない。
ただ、相手が焦れ、不快を漏らしたその負の感情を、腹の奥が勝手に掠め取った。
熱くなる。
いや、熱いというほど綺麗ではない。
もっと汚い。空腹に似た熱だ。
腹は減る。
減るのに、呪力だけは満ちる。
足りぬものを食ってさらに飢えるみたいな、海水を飲んでさらに乾くような、気持ちの悪い増え方だった。
「ほんに……嫌な真似を覚えた」
藤吉郎は笑った。
腹は減る。
気分は最悪だ。
だが、呪力は漲る。
寺の数珠が飛ぶ。
鐘が鳴る。
板が裂ける。
藤吉郎は、簡易領域を張り直し、その全部を迎え撃った。
耐える。
勝てぬなら耐える。
耐えて、相手の苛立ちが増えるほど、こちらの腹は減り、そのぶんだけ呪力が湧く。
「我慢比べだな、これは」
吐き捨てるように言うと、寺の静けさがまた歪んだ。
藤吉郎は、それを見て歯を剥いた。
まだ勝ってはいない。
だが、負けてもいない。
外では、信長が義元とやっている。
ならばこちらは、持つだけだ。
持って、持って、持ちきればいい。
空腹には慣れっこだった
一刻耐えたか、半刻耐えたか、いや、一瞬きほども耐えられていないかもしれない。
突如、寺の空間が割れ、激しい熱が一気に流れ込んだ。
義元が落ちたのだと、藤吉郎は理屈ではなく知った。
静謐の寺が揺らぐ。
柱の影が歪む。
障子の白が煤ける。
そこへ、外から信長が来た。
まるで雨の中を燃えながら歩いてきたみたいだった。
火は見えない。
だが、濡れた衣のまま、全身から熱だけが立ちのぼっている。
静けさが裂ける。
寺の理が、戦場の無理に押し切られる。
老人めいた気配が初めて乱れる。
その一瞬へ、藤吉郎は横から入った。
簡易領域で守り、呪霊の焦りを食らい、最後に猿めいた速さで脇から噛みつく。
ほんの一瞬だけ、敵の“静けさの芯”が露わになる。
そこへ、信長の熱が入った。
決まった。
雨音が戻る。
泥の匂いが戻る。
弓と石と短槍の、粗い戦場が戻る。
信長が立っていた。
頬に血がついている。
それが誰のものかはわからない。
だが顔は、ひどく晴れやかだった。大仕事を片づけた者の顔というより、自分で盤面をひっくり返し、その通りに世界が動いたのを面白がっている顔だった。
信長は藤吉郎を見た。
「生きておったか」
それだけだった。
よくやった、でもない。
助かったな、でもない。
ただ、そこにまだいることを認める、短い一言。
藤吉郎は息を切らしながら、情けない顔で笑った。
「死ぬかと思いましたよ」
「死なん」
信長はあっさり言った。
そのまま、喉の奥でからりと笑う。
さわやかな大笑いだった。
勝ったあとの武者笑いにしては、妙に澄んでいる。雨が上がった空をそのまま肺へ入れるみたいな、妙な明るさのある笑いだ。
「さあ、征くぞ」
もう次を見ている。
その時、ほんとうに雨が上がった。
雲の切れ間から光が差し、濡れた草と泥と血の跡を一斉に照らす。信長の背だけが、その光を先に受けていた。
藤吉郎は立ち上がった。
脚がまだ震えている。
怖かった。
いまも少し怖い。
だが、もうわかってしまった。
この人の後ろは、ただの安全地帯ではない。
むしろ、いちばん危うい。
いちばん前で、いちばん恐ろしくて、いちばん熱い。
それでも、ついていきたくなる。
それがたぶん、覇王の器なのだろうと、藤吉郎はまだ言葉にならぬまま思っていた。