「…………ふふ、あははっ。ああ……あのアッシュの顔、素敵だ……!ボクだけの、ボクだけに向けたもの……ふふっ」
ようやくだ。やっとアッシュを独り占めにすることができた。彼と出逢ってから4年の月日……いや、彼を知ったのはボクが5歳の頃が初めてだから……9年の月日だろうか。思えばあの頃から、アッシュはこの裏の世界でまともであろうとしてきた。
表の世界と裏の世界は、隔てられているようでその実そんな事はない。表裏一体とは上手く言ったもので、ボクらの世界はそもそも一緒の舞台にある。表も裏もあるわけがない。同時に起こりうる世界であり、その上で各々の『まとも』が違っているだけ。
もう少し分かりやすく言えば、この世界はどこにでもある『テレビ』だ。そして、『表』のチャンネルと『裏』のチャンネルはこの『テレビ』を介さねば観ることができない。そう、根本は一緒。なら、どこが違う?
チャンネルという、
それを、ボクだけが気付いて。そしてその甘い甘い果実をボクだけが享受していた。ボクはずっと彼の中で『大切な友人』として壊れ物のように大事に扱われてきた。
愛するお父サマによって『おしおき』される度に連れていかれたあの暗い独房で、ボクが欲しかった答えをアッシュは簡単に差し出してくれた。おかしいのは彼じゃない。彼がそうあることを許しちゃくれないシラクーザが狂っているんだ。
「……でも、それだけじゃ足りない」
残念なことに、アッシュは人を惹きつける。世界を変えてくれるかもと思わせるような、チェリーニアに似たカリスマ的資質なんか彼にあるわけない。けれど、泥臭くて人間らしくて……その上でとっても暖かくて優しいから……自然と周りに人が集まってくる。
みんなは分かってない。アッシュのその本質を初めに見つけたのは、ボクなのに。ボクの……ボクだけのアッシュなのに。嫉妬でどうにかなってしまいそうだったけど、裏腹にアッシュに惹かれて集まる人たちは少なくとも善性を備えている人ばかりだった。そうだなぁ……きっとアッシュもこう感じていたと思うし、ボクもそう感じた。
───とってもみんなに囲まれている日常は充実していたな、ってね。
アッシュのくだらない思いつきに付き合わされて、苦笑いしているアンジェリーナや、ため息をつくけどなんだかんだ参加するチェリーニア。
家族を紹介するみたいにタブレットにヴェネツィアのイングリッドの一人娘の写真を出してきたりして、「めっちゃ可愛くない!?」なんて笑いかけてくるアッシュ。
嫌いじゃなかったよ。ボクも普通の女の子らしい日々が過ごせて、なんだかいつものボクを忘れることができていい気分だった。まあ、本当に退屈なくらい平和だったんじゃないかな?それまではさ。明らかにアッシュが変わってしまったと言えるきっかけは、仲良くなるはずだったベアトリーチェの出来事からだろうね。
あの時ボクもベアトリーチェの歌声に充てられて、お父サマに対しての感情の整理が難しかった。オペラの題目もなんだか近しいものだったしね。連想せずにはいられなくて、終幕と同時に涙で崩れたメイクを戻しに化粧室に向かってしまった。
そうしてボクが戻ってくる頃には、呆然と立ち尽くすアッシュと劇場の入り口に剣呑な視線を向け続けるチェリーニアが居て、少し戸惑った。何があったのかは後でチェリーニアに訊けばいいからそれに対しては戸惑いは無かったよ。
ボクが戸惑い、驚いたのは……アッシュの切羽詰まった苦しそうな表情に、だ。今までのアッシュはもう少し冷静に物事に対処するイメージだった。
それがどうだろう、過呼吸を起こして地面を睨みながらぶつぶつと酷い汗をかきながら何かを呟いている。冷静とは程遠い、明らかなるパニック状態にあった。
少し、胸の奥がちくりと傷んだ。ここまで彼が狼狽するほどの相手がいた。よっぽど大切に想われていたのかなぁ?このボクを差し置いて!
あの時アッシュを抱き締めて落ち着かせたのはそうすればアッシュの頭の中を席巻している人物を追い払えるから。ボクで上書きして、ボクのお陰で立ち直ってくれれば……もっともっと、ボクだけを想ってくれると考えたのさ。
そしてボクの胸の中で静かに目を瞑るアッシュに背徳的な快感を得たんだ。ああ、年相応な可愛らしいアッシュ。ボクに縋って、弱々しく手を握り返してくるか弱いアッシュ。やめておくれよ、ボクの心をどうしたいの?もう心臓が張り裂けて……狂っちゃいそうだよ……!
そこから紆余曲折を経て、ベアトリーチェを殺す覚悟をしたアッシュだったけれど、その時だって彼はビビってた。少し収穫だと思ったのは、別に特定の誰かじゃなく身近な人の生死が目前に迫った時におかしくなるってこと。
つまり誰かが抜け駆けしてアッシュの一番になったわけじゃない。ボクがアッシュの一番になる余地はあるってことだ!それと同時に、アッシュの精神状態をこんなに壊したヴェネツィアの奴らには腸が煮えくり返りそうになったけどね。
……ちょっと格好がつかないかもしれないけど、アッシュにはサルッツオの婿として来てもらおう!ヴェネツィアの奴らにこんなに可哀想なアッシュを置いてなんかやれない。でも安心して。いつかお父サマを殺して……サルッツオさえボクのモノにしてあげるから!そうしたら、ボクとアッシュが生きやすい環境を用意しよう!アハッ…………アハハハハ!!
さっきまでのアッシュとのやり取りを思い出して、足取りが軽くならざるを得ないボク。今日は吉日だねぇ……どうにかなっちゃいそうだって、今も胸の辺りが高鳴っているけれど……不思議と嫌じゃないんだ。ずっとこの気持ちでいたいくらいには、心地がいい。
「────ラップランドちゃんっ」
「……ああ! どうしたのかな、アンジェリーナ」
「アッシュ……その、大丈夫だった?」
……この子は経緯は違えどアッシュにボクと同じ感情を抱いている。知ってたさ、アッシュに向ける視線の色がなんとなく熱を帯びていたものね。ボクとしては、彼女はお友達だし仲良くしたい。けどね────。
「うん! これからアッシュはボクが支えていくことになったから……もう大丈夫だと思うよ?」
それとこれとは話が別。ボクのアッシュを渡すわけない。アンジェリーナは賢い子だから……分かるよねぇ?ほぉら、その驚きに満ちた顔!偉いじゃないか、ちゃんと理解できて!
「……そ、そうなんだ! おめでとうっ……って言うべきなのかな……?」
…………愛しい人と居ると性格が移るっていうけど、ボクもそうなっちゃったかな。下手に誤魔化して祝福しようとするアンジェリーナには、友達なんだから胸を張ってもらいたいんだよね。ここはわざとらしく、挑発する。彼女がしっかりとその胸の内を吐き出せるよう。
「────ボクはアンジェリーナの気持ちをわかってて、アッシュを手篭めにしようとしたよ」
「……えっ!? あ、あたしって、そんなにわかりやすい!?」
「あはは。アッシュの次くらいには……わかりやすいかなぁ?ボクは狡いんだ。……アンジェリーナ、キミが言いたいことを我慢する必要は、この狡いボク相手に無いんじゃないの」
まず第一にボクらって友達なんでしょ?何を遠慮しあってるのさ。アッシュもいつも言ってるじゃない。いっぱい喧嘩をして、いっぱい話し合えるのって友達の特権だって。他人はそこまでボクらに優しくしてくれないんだから。
手をぎゅっ……と握り、心の内を言うか言わないかで悩んでいるアンジェリーナ。ボクは待つ。ボクは望んだものを手に入れているから、焦る必要なんてない。余裕があるから、受け止めてあげる。これは優しさなんかじゃない。ボクからのイジわるな餞別。
「……悔しい。 アッシュの隣を歩くのはあたしが良かったぁっ……! アッシュと色んなところにデートして、笑いあって……楽しかったねって……甘酸っぱいこと、いっぱいっ……!」
「────うん、ボクも同じ気持ちだったよ」
「ラップランドちゃんがアッシュに特別な感情を持ってたの、あたし知ってた。だから付き合うのを知ってもそうだろうな〜って思ったよ。おめでとうって思うのもほんと!……だからこそっ、あたしっ……!」
堰き止めていた気持ちが溢れ出すかのように、思いつく言葉を継ぎ接ぎでも紡いでいくアンジェリーナ。純粋で、汚いシラクーザの裏の顔を知らない、綺麗な感情の数々。
今のアッシュが本当に必要なのは
彼を堕とす責任は重いものだ。一生を懸けて彼を支えて、そして共に果てるつもりじゃないと。ボクはできるよ。彼の頭蓋骨を抱きとめて、口付けをして、彼の後を追うことができる。とてもじゃないけどアンジェリーナ、キミにはできないことでしょ?
「……いつでも
アッシュは自覚し始めている。自分の精神の均衡はもはや己に無く、他者によって支えられていることに。当たり前だよ。彼のご両親は既に亡くなって久しい。
本来幼い頃に埋まるはずだった愛情は本当の意味で埋められていないんだから。自己形成が育まれるはずが無い。自分の軸っていうものが欠けていて当然なんだ。
いつも欠かさず命日に墓参りしていたというのに、はたとそれが途切れたのもその証拠だ。ベラ・ヴェネツィアが眠りについてから、アッシュはアッシュ自身と縁のあるものすべてを捨て去ろうと壊れかけているんだ。
捨て去りたいと思ってしまっているほど、よく客観視できているし、愛情が十分に与えられていたら決断しない選択をしている。だが誰がそんな彼を「間違っているよ」なんて指摘できるの?この世界に彼のことを叱咤できる人なんて指折り数えても数人もいるかいないかなんじゃないかな。
ボクが知る限り、その権利は……今のところはアンジェリーナにしかない。でも真っ当に情操が育ちつつある彼女に、今それを押し付けるのは酷なことだ。シラクーザが……テラが産んだ悲劇の被害者。アンジェリーナもボクも、そんな彼を愛してしまった。
滲ませた涙を手首の腹でごしごしと拭いながら、しっかりボクを見据えて指を指して宣言するアンジェリーナ。……うん、アンジェリーナのそういうところ、ボクは気に入ってるんだ。倒れても倒れても、前を向いて歩こうとする善性。ここまで快いほどの善い人は、そうそういない。
「……あたし、負けないから。ラップランドちゃんにも納得してもらえるくらい……かわいくなって……アッシュともっともっと仲良くなるし! ……気を付けてねっ!? 目を離したらアッシュはあたしが奪っちゃうんだから!」
「……そんな日が来たら面白いだろうね! 精々頑張りたまえ、アンジェリーナ! ボクは今からアッシュと……『デート』なんだ。それじゃ、お暇するよ」
「……うぇっ!? も、もう『デート』ぉ!? うう…………早いよもぉ〜〜! 」
ああ、素直にボクの言うことを聞いて待ち合わせの場所にてボクを待っているのだろうか。そんな些細な愛情で、どこまでも浮つくことができる。
……好きだ。ボクのアッシュ。とってもとっても……可愛いなぁ。それがたとえ空いた心の隙間に無理やり居座ってるだけだって分かってても……それでもいい。
「時間はたくさんあるんだ。────じっくりアッシュの心にボクを教えこませてあげるから……あはっ!」
結構適当な意識だからあれなんですけど、ラップランドが笑う時
「アハ!」とか「ッハハ!」とかカタカナのときは確実に本心を押し殺した作り笑いです。
「ふふっ」とか「あはっ」とかは誤魔化しきれなかった本心から出た笑い声なので、俺が間違ってなければ見返してみるとおもしろいかもね。うん。
あ、だからこの話のラップランドは基本的に心から笑っています