「ちゃんと忘れ物はない? 宿題……お弁当……ああ、今日は音楽の授業があるそうだね。リコーダーは持ってるかな」
「……もお、お母さん。わたしもうこどもじゃないよ? しっかり宿題も2日まえに終わらせたし、お弁当はさっき渡してくれたじゃない。リコーダーも……ほら!」
「うん。なら良いんだ……やっぱりリサは賢くて、いい子だね」
「わふっ……えへへ……はっ! も、もぉ〜! 子供あつかいはやめてよね〜!」
早朝に学校へ行くリサにお弁当を持たせて、玄関で見送る。心配症の私の夫が託した御守り袋がスクールバッグに結ばれて、揺れている。そういえば、最近目まぐるしく日々を駆け巡っていて極東へと顔を見せるのを忘れていた。
もしも顔を見せたなら色々話すことがある。まずは、私たちの子供であるリサは立派に育っているということ。それから、生まれつき身体の弱かったベラが誰かの悪意によるものとはいえ、元々短かったその寿命を更に縮めることになってしまったこと。
だがやはり一番話したいことは……アッシュという少年についてだろうか。当時私はヴェネツィアの得意先のトランスポーターから情報を買っていた。この都市で市役所に勤めているチェーネレ姓は一世帯しかないこと。
その夫妻は子供がおらず、無理をすれば富裕層の生活エリアで暮らすこともできたというのに、
正直に言えば、誤算だった。ヴェネツィアというマフィアは確かに有事には殺人を厭わない無慈悲な側面を併せ持つが、ファブリツィオの『ディチェンテ』からすれば前途ある子供たちの芽を潰すような手段は取るべきではないというのがファミリー内での共通認識だった。
私は、アッシュという若い芽を潰しかけ、あまつさえ殺しに慣れた冷酷な頭は、生かす道よりも殺す道のほうが遥かに面倒事が少ないという答えを弾き出した。
一切の感情群が見られないと思っていたあの頃の彼は、思えば衝撃的なシーンに脳が強制的なシャットアウトを起こしていたのだろう。今の壊れかけているアッシュを見れば、そうであるとしか言いようがない。
よくベラに夜酒は身体に悪いと注意されていたな。込み上げる罪悪感を私は消すために、出来の悪い葡萄酒を買いためて、脳裏に焼き付く風味の強さによって次々と湧き上がる思考を上書きしていた。
そんなことをしていたら……9年も経過してしまった。私はアッシュの両親に償うべき業がある。いや、ヴェネツィアらしく言えば守らねばならない『ディチェンテ』がある。
せめて、彼が成人するまでは私が育てなければ。死を顧みず、無鉄砲に荒事を成す彼を放ってはおけない。アッシュには、帰るべき家が必要だ。
「……私の悪酒を咎めてくれる彼女はもういないのか」
アッシュがいて、ベラがいて、リサがいたこの別荘。リサを産む前、私は母親としてあの子の面倒を見れるのかと小さな不安があった。アッシュは大きくなっていく私のお腹を優しく撫でながら、本当は積もる話もあっただろうに「あんたなら大丈夫さ」と慰めてくれたのを覚えている。
「……天罰と言われれば、そうなのかもしれないね」
今やここには私一人しかいない。独りごちるこの言葉に大袈裟にリアクションをしてくれる彼もいなければ、友人のように語り合う彼女もいない。賑やかだったこの屋敷は、盛者必衰のごとき静けさを得ていた。
久しく抑えていた葡萄酒の匂いに頭をやられながら、傾けたグラスに煌めく赤を眺めて一句諳んじることにした。
いつだって、私自身に罰は下さずに私の大切なものを奪っていくこの世界には、もはや親近感すら抱いた。
「…………ん。もう正午……?寝てしまっていたのか」
寝惚けた頭を、テーブルに乱雑に置かれていた飲み残しの葡萄酒で気つけして、辺りを見回す。洗うのを後回しにしていた食器類、積み重ねられた私の仕事着と下着。
……実はと言うと、私はあまり家事が得意でなかった。
あまりと言うのは少し言い訳がすぎる。かなり出来ない方だろう。アッシュがこの惨状をいくらか目撃して、いつも目頭に指を当てて見下げ果てていた。
専らこの屋敷の家事を兼任していたのはアッシュとベラだった。動き回らないといけない屋敷の掃除や洗濯はアッシュが行い、料理や帳簿などはベラが行っていた。
アッシュがよく「ベラ姉、これ取り込んだから畳んでくれるか?」だとか「洗剤切れたからさぁ、他に足りなくなってるものない?買い出しに行くわ」などと言って、
ベラがそれに対して「任せなさいな」だとか「少しお待ちになって。この紙に足りないものをリストアップしておきました。すべて買えとは言いませんから、上から順に優先的に買ってきてくださいまし」などと返していた。
これには流石の私も申し訳ないと思うよ。なにか出来ることはないかと協力の意思を見せたら、アッシュに苦い顔をされてはぐらかされたんだ。私は短気でね、侮られることが何より嫌いだ。むきになって、厨房で料理を作って貢献できることを示そうとした。
「…………なぁベラ姉、これ何に見える?」
「製法を間違えた食品サンプルのゴムかしら?」
「……ぶはっ! 真面目な顔でそれはひでーや!!!! だははははは!!!!」
「……君たちはどうやら三途の川を拝みたいみたいだね」
そのとき作ったのは目玉焼きだったのだけど、確かに不格好な出来映えではあったと思う。ただその日のアッシュの稽古は倍の時間みっちりと付けてあげることにした。
もう成人からしばらく経つとは言え、私も女で、恥じらいというものはある。その夜読書に耽っていたベラの寝室を訪ねて料理の腕を見てもらう約束を取り付けた。
お陰でリサのお弁当くらいは作れるようになったけれど、未だにその他は手につかない。しっかり服の裾がはみ出さないように折り畳んでいるはずなのに最終的にはぐちゃぐちゃになるし、各部屋を掃除をしようとすると水浸しになってしまう。
「殺しの才能は一級品なのに、家事の才能はからっきしだなぁ……」
もはやここまでくるとアッシュは呆れではなく一種の感嘆を漏らしていた。穴があったら入りたいと言うけれど、この時の私は正にこの言葉がぴったりだった。私だって驚きだ。こんなにできないものだとは思わなかった。
「…………とりあえず、仕分けくらいはしようか」
私の脱いだ服はこっちへ、リサの脱いだ服はあっち。食器は似たような種類の形で積み重ねておいて、一応水を張ったシンクに浸けておく。
家事をしていたらモタついて日が暮れてしまうから、これくらいにしておいて、私は今最もやるべきことをしようと思う。
ベラに毒薬を盛って、深昏睡へと陥らせた犯人への報復。
アッシュもかなり力を入れて捜索しているようだけど、私はあの子に手をかけさせてはいけないと感じている。いくら声をかけても心ここに在らずといったようで、気付けばあらゆるシラクーザの下部組織を潰しに回っていた。
アッシュは私が手塩にかけて稽古した、いわば秘蔵の弟子だ。そこらのマフィアに引けを取らないどころか、圧倒するだけの実力がある。……実力を、つけさせてしまった。
もしもこのまま犯人を見つけ、アッシュはベラの仇を討ったとしても……あまりに目立ちすぎてしまった。これ以上は良くない方向へと向かってしまう。それこそ、ミズ・シチリアが黙って見過ごすはずがない。
その前に……そうなってしまう前に、私が終わらせる。アッシュは幸せにならないといけない。これ以上不幸にその身を溺れさせてはいけない。彼の両親にも……そして最低にも、彼を息子のように想ってしまった私にも、顔が立たないから。
アッシュが掴んだ情報を私は一手遅れて入手した。問いただすべきベラのかかりつけ医だった男は既にアッシュによってこの世から消え去っていて、シラクーザにあった医療法人も空き地へと変わっていた。
だが地主や近隣の住民もここを利用していないわけではない。少しだけ無理を言って、過去数ヶ月に渡る処方箋の薬剤の名称を見せてもらった。
その薬剤の名称を足のつかないサイトで検索をかけたところ、源石産業を主にしていたはずのトラディトーレの名前がヒットした。あの『鎧』の出来事からすぐのこと、テキサスファミリーがトラディトーレの残党を引き込んだのだろう。
製薬会社の名前にトラディトーレの名残が垣間見えたが、地図を見るにテキサスが管轄しているクルビアの土地であった。アッシュと仲良くしているテキサスの孫娘が手引きした……とは考えられない。
そして、こういった手口を老サルヴァトーレは好まない。クルビアマフィアとして生業を広げるべきはずが、情けない理由で逃げ帰ったトラディトーレを受け入れるほど彼は優しくない。となれば……自ずと答えは見えてくる。
「────ジュセッペ・テキサスによるものか」
老サルヴァトーレはミズ・シチリアと並ぶ老練である。彼の全盛期は私なんて足元も及ばないほど苛烈で、そして暴力的だった。今でこそ彼も老いには勝てず衰えているが、私は未だに1対1で戦って勝てるビジョンが湧きやしない。
ならば、なぜ老サルヴァトーレは息子ジュセッペの横暴を許してしまっているのか。曲がりなりにも彼も老サルヴァトーレの血統、血腥い手段を好まず裏で策を練り根を回すことを美徳としているようだが、実力は折り紙付きなんだ。そうだな……ジュセッペとは……片腕くらいは無くなる覚悟をすれば殺せるかな。
ふぅん。ミズ・シチリアはこのあらましを知ればどちらを支持するのだろうか。彼女はこのジュセッペに良い印象を抱いていないはずで、本心では消えてもらいたいとさえ思っているだろうね。
恐らくは、アッシュと私の行動にはあえて目を瞑るだろう。だから『目立ちすぎて死ぬ』ことはアッシュには起こりえなくなった。
ただ、十中八九アッシュはジュセッペには勝てない。生きて帰ることも許されないだろう。一方的な蹂躙を受けて死んでしまう。今、私の目的はかなりの角度で舵を切り返すことになった。
ジュセッペと戦うタイミングは私が決める。問題は狂いかけているアッシュを止めなければならない。急がねば。どこにアッシュが居るのかを突き止めなければならない。
ノートパソコンを閉じ、下着の上に白いシャツ一枚の私の姿が質素なスタンドミラーに映る。……気持ちはやってこのままで外に出かけてしまうところだった。良くないね。
「……さて、少しは義母らしく振舞うことを許してくれるかな。君の両親は」
黒いコートを羽織り、昔アッシュと撮った写真を入れた写真立てを、なんとなくそっと倒して外へと出かけることにした。
「……あ、イングリッド。ちょーど良かった! 俺ラップランドと付き合うことにした!」
「……う、うん?」
ちょっと待って欲しい。変に行動力のあるアッシュのことだから、もしかすればクルビアに単独で乗り込んでいるものかと思っていたら、まだシラクーザに残っていた。
それだけじゃなく、どこか憑き物が落ちたかのように穏やかさを取り戻して、こちらを見るやいなや駆け足で近づいてくるじゃないか。
…………サルッツォのお嬢さんと、付き合う? いや、恋愛事は自由にするといいと思う。私も人の事は言えないしね、極東の奉られている生きた依代が夫だから。
けれど……複雑だ。どう思えばいいのだろうか。義母らしく振る舞いたいと願ったはいいものの、こういう形で実現するとは思わなかった。戸惑いが隠せない。
「あと、すげー迷惑かけた。……あん時止めてくれてありがとうな」
「ああ……礼には及ばないよ。アッシュが激昂する理由も理解できないわけではない。ただ、私は君を無差別殺人者にさせるわけにはいかないからね」
「…………そろそろさ、向き合わなきゃだと思うことがあんのさ。いつか……俺の両親の墓参り、一緒に来てくんねーかな?」
冷水を頭からかけられたような気分に陥った。どう声を掛けていいのか図りかねていた、私とアッシュの間にある見て見ぬふりをしていた原罪を、アッシュの方から言われた。また……言わせてしまった。
「…………ふっ。子供の成長は早いね。私のほうが、止まってばかりで嫌になる」
「────いや、リサちゃんにうめぇ飯食わせてあげられるようになったじゃん。イングリッドだって変わっていってるだろ」
「本当に君は──────。
……分かった。いつか君の両親に手を合わせることを許して欲しい。貴方達が愛した子は、こんなに大きくなりましたと、伝えなければね」
「……ん、あんがとね。これで少しは親父たちの無念も晴れるだろうよ」
『春巡り親よわらべよ移ろいて、その背に募る侘し想ひ出』
私たちは、自分たちがどう思おうと移ろいゆくことを止めることはできない。喜ばしいことのはずなのに、なんだか募るのは思い出のなかの彼が遠ざかっていくような心寂しい気持ちばかりだ。
アッシュ、いつかは一人でどこかに旅立ってしまうのかな。あの暖かい思い出は、私の胸の中にしっかりと残っているから……寂しいけれど、引き止めることはしない。どうかその時は……大手を振って送り出してあげよう。
適当和歌なので、下手っぴなのは許してね♡