ダンジョンに獣狩りを求めるのは間違っているだろうか、あるいは血の夢に耽るべきか 作:もいもい130
#### 第一部
意識の浮上は、凍てついた水底から引き上げられるような感覚を伴っていた。
肺に流れ込んでくる空気は酷く濁っており、ヤーナムの街を覆っていた「獣の病」の煤けた臭いとも、あるいは禁域の森の湿った腐臭とも異なっている。
それは、生臭く、粘り気のある、無機物と有機物が混ざり合った特有の芳香――「迷宮」そのものが放つ呼気だった。
狩人は、冷たい石の床の上でゆっくりと身を起こした。
使い古された狩人装束が、重く湿った空気を吸って、鉛のように肌へ張り付いている。
帽子を目深に被り直し、乱れた呼吸を整える。
視界の端で揺れるのは、人工的な松明の火に照らされた、広大な岩の空洞だった。
何度目かも知れぬ夜明け。
あるいは、何度目かも知れぬ悪夢の終わり。
一体、自分はどれほどの年月を、あの血塗られた輪廻の中で費やしたのだろうか。
上位者。
そう呼ばれる階位にまで魂を昇らせ、月の魔物にすら取って代わったはずの存在。
人という器を脱ぎ捨て、宇宙の真理を垣間見たはずの自分が、なぜ今、こうして「肉体」という重苦しい牢獄に再び閉じ込められているのか。
その問いに答える声は、どこからも聞こえない。
狩人は無言で、自身の内に意識を向けた。
脳裏。その暗い内奥には、かつて「意志」という鋭利な楔によってねじ込まれた『カレル文字』が、今もなお不気味な熱を持って明滅している。
それはインクで書かれた文字ではなく、皮膚に刻まれた傷跡でもない。
上位者の発する「声」を無理やりに視覚的記憶として脳に定着させた、呪わしい非人道的な刻印だ。
『右回りの変態』。
『血の歓喜』。
『狩り』。
脳を直接蝕むその非物質的なシンボルは、血肉に刻まれる如何なる呪縛よりも深く根を下ろしている。
外部から与えられる力ではなく、「存在そのものの変質」を強いる絶対の理。
ゆえに、仮にこの見知らぬ世界の何者かが彼に干渉し、霊的な刻印や加護を施そうと試みたとしても、それは狩人の脳内に響き続ける「上位者の声」によって即座に掻き消され、物理的に弾き返されるだろう。
宇宙の神秘を直接脳に収めた上位者にとって、他者が魂を上書きしようとする痕跡など、あまりに卑俗で脆い落書きに等しい。
狩人は不快な脳の疼きをやり過ごし、自身の魂の深淵――「意志の武器庫」へと手を伸ばした。
集中を研ぎ澄ませれば、そこには確かに獲物たちが沈んでいた。
幾千の獣を解体し、幾柱もの上位者を屠ってきた、呪わしい鉄の塊。
『獣骨断ち』。
『ガラシャの鉄塊』。
それだけではない。教会の杭、葬送の刃、爆発金槌……。
かつての戦友たちが手にした奇矯な武器の数々が、主の呼び出しを待って静かに息を潜めている。
そして、それら全ての刃には、血の意志の極致とも言える「最上級の血晶石」が埋め込まれていた。
もしこの世界の住人が見れば、あまりの殺気と神秘の重圧に正気でいられぬほどの魔力――否、怨念に近い力が、鉄の芯にまで浸透している。
不意に、カサリ、と足元で小さな音が響いた。
普通の人間の目には、それはただの揺れる影、あるいは石の凹凸が生む錯覚にしか見えないだろう。
だが、狩人の瞳には、その正体がはっきりと、かつ愛おしく映っていた。
地面から這い出した、真っ白で細い、無数の腕。
「小さな友人」――使者たちだ。
彼らは言葉を持たない。
声帯すら持たぬその口を僅かに開き、主の帰還を歓喜するように、その煤けた外套の裾に縋り付いている。
一人は狩人の手首に触れ、一人は血に汚れたブーツをなぞり、また一人は虚空に向かって何かを差し出すような仕草を見せる。
狩人の夢という場所へ帰る道は閉ざされたが、この忠実な使者たちは、時空の狭間を抜けて彼についてきたのだ。
彼らは狩人以外の存在には決して視認できず、その気配すら感知させない。
彼らが蠢く影の底には、狩人がかつて集めた「血の意志」や、次元を越えて転送される「水銀弾」の蓄積がある。
たとえこの世界に工房がなくとも、この小さな友人たちがいる限り、狩人の戦いは終わらない。
狩人は立ち上がった。
膝の関節が軋み、使い古された革の音が静かな洞窟に響く。
その一挙手一投足には、重力そのものを無視するような、洗練された「上位者」特有の違和感が混じっている。
「……ここも、夢の続きか」
掠れた声は、自分自身の耳にも余りに久しく響いた。
周囲を見渡せば、岩肌には人工的に削られた痕跡がある。
狩人の研ぎ澄まされた直感は、この空間の異質さを正確に感じ取っていた。
ここは自然にできた洞穴でも、ヤーナムのような呪われた廃都でもない。ここは意図的に作られた「巨大な檻」だ。
狩人は歩き出した。
行き先などどこでも良かった。
ただ、この澱んだ空気の先に、狩るべき「獣」の気配が満ちていることだけは理解できた。
使者たちは音もなく地面を滑り、主の歩みに合わせて闇の中を先行する。
彼らの不可視の指先が、岩壁に残された微かな残滓をなぞる。
壁の奥で脈動する気配からは、生々しい血の熱ではなく、無機質で冷たい、システム化された殺意を感じる。
何者かがこの巨大な檻を作り、管理し、そして悪趣味な観察を続けているのだと、上位者の本能が告げていた。
狩人の口角が、僅かに、自嘲気味に吊り上がる。
ここが誰の箱庭であれ、関係はない。
自分はただ、夜明けを求めて血を啜り、獣を解体し続けてきただけの男だ。
「ジャラッ」
歩きながら、右手を外套の内に滑り込ませる。
指先が、冷たく重厚な鉄の感触に触れた。
『獣骨断ち』。
それはまだ折り畳まれた状態でありながら、これから流されるであろう血を予感してか、血晶石が微かに、鼓動のような熱を帯びる。
左手には、思考の速度で『ガラシャの鉄塊』を出現させる。
何ら装飾のない、ただの鉄の板。
しかし、それが生み出す絶対的な拒絶の力は、未知の世界においても揺るがぬ堅牢さを誇る。
前方から、湿った足音が近づいてきた。
複数が、統制の取れていないリズムで岩を叩いている。
狩人は足を止めない。
むしろ、その速度を僅かに早めた。
暗闇の奥から姿を現したのは、緑色の皮膚を持つ醜悪な小鬼の群れだった。
彼らは、迷い込んだ「無防備な獲物」を見つけたと確信し、濁った黄色い瞳を輝かせて咆哮を上げる。
だが、彼らはまだ気づいていない。
自分たちが立ち塞がっているのが、ただの放浪者などではなく、
深淵から這い出してきた、最悪の「終焉(おわり)」であることに。
狩人は、帽子の鍔をさらに深く引き下げた。
「狩りの時間だ」
その呟きは、小鬼たちの耳に届く前に、抜刀の風音によって掻き消された。
岩壁を蹴り、狩人の身体が弾丸のように加速する。
それは魔術的な強化によるものではない。
上位者の意志が、一瞬だけ世界の座標を書き換えたかのような、断絶的な移動。
小鬼が棍棒を振り上げる暇すら与えない。
狩人の右腕が外套の裾を裂くように奔った。
同時に、折り畳まれていた『獣骨断ち』が、血晶の輝きと共にジャラリと牙を剥く。
最初の個体は、何が起きたのかさえ理解できなかっただろう。
その脳天から股下までを、重厚な鉄の蛇腹が一気に叩き割り、肉と骨を同時に粉砕した。
飛び散る赤黒い血が、狩人の装束を、そして無機質な横顔を濡らす。
未知の血。
しかし、肌に触れた血は装束を通じて蒸発し、彼の生命力へと変換されていく。
『血の歓喜』。
脳内を走るカレルの記憶が、殺戮に伴う悦楽と再生を彼に強いる。
「ギィ、ギャアッ!?」
仲間が瞬時に肉塊へと変えられたことに、残りの小鬼たちがパニックを起こす。
彼らは本能のままに爪を突き立てて襲い掛かるが、その全ては無意味だった。
狩人の左手――『ガラシャの鉄塊』が、虚空を薙ぐように動く。
「ゴンッ!」という、骨を砕くような重い衝突音。
突進してきた小鬼の頭蓋が、鉄板の質量によって粉々に砕け散り、その体は後方の岩壁にまで弾き飛ばされた。
受け流す必要はない。
ただ、その存在を拒絶するように叩き落とせばいい。
狩人は返り血の中で、さらに深く迷宮の闇へと足を踏み入れた。
使者たちが、主の背中を追って、影の中から小さな拍手を送っている。
見知らぬ檻の底。
神々すら測りきれぬ、異界の狩人による「蹂躙」が始まった。
#### 第二部
石造りの迷宮。その浅い階層。
じめじめとした湿気と、苔の匂いが鼻を突く。
そこは本来、未知の世界へ足を踏み入れた初心者が、最初の恐怖と興奮を味わうための場所だ。
だが、今のこの空間を支配しているのは、瑞々しい緊張感などではない。
ただひたすらに重苦しく、血生臭い「解体」の残り香だった。
「ギィッ……ギ、ギャ……」
岩壁に背を預け、ずるずると滑り落ちる影があった。
緑色の醜悪な皮膚に、突き出た下顎。二足歩行の醜い小鬼。
しかし、その個体にはもはや、生者の活気は残っていない。
胴体は、『獣骨断ち』の無慈悲な一撃によって、肋骨ごと斜めに叩き割られていた。
断面からは内臓が溢れ出すこともない。
最上級の血晶石が放つ異常な熱量と物理的破壊力によって、傷口が乱雑に焼かれ、千切られたような無惨な姿を晒している。
狩人は、返り血を浴びた外套を無言で翻した。
無機質な瞳が、周囲の岩壁へと向けられる。
先程から、壁が不気味に脈動していた。
岩が軋む音は、まるで巨大な生物の胎動か、あるいは産声のようにも聞こえる。
狩人は微かに目を細めた。
壁の亀裂から、泥のように這い出してきたのは、犬に似た頭部を持つ獣の群れだった。
彼らは産み落とされた直後特有の、飢えた獰猛さを剥き出しにして、鼻を鳴らしながら立ち上がる。
「……奇妙な造りだ」
狩人は、手にした『獣骨断ち』の柄を握り直しながら、内心で分析した。
ヤーナムを覆い尽くしていた、あの獣たち。
彼らは元々人間であり、血の業に酔いしれ、悲痛な叫びを上げながら毛むくじゃらの異形へと成り果てていた。
そこには確かな「悲劇」と「熱」があった。
だが、この石の壁から産み落とされる獣どもはどうだ。
あまりに無機質で、魂の震えが感じられない。
まるで、何者かの悪意によって配置された、殺戮のための精巧なからくり人形のようだ。
犬頭の獣の一体が、鋭い爪を突き立てて跳躍した。
それに呼応し、残りの三体も死角から同時に襲い掛かる。
狩人は一歩も引かない。
左腕が外套の影から動き、虚空から意志の力で瞬時に『ガラシャの鉄塊』を顕現させる。
洗練された盾術などではない。
ただの分厚い鉄板を、流れるような動作で正面に突き出した。
「ガキィィィィン!」
鼓膜を揺さぶる重金属の衝突音。
獣の爪が鉄板に弾かれ、その反動で腕が異常な角度に折れ曲がる。
上位者の膂力が、鉄塊という媒体を通じて、飛んでくる質量のベクトルをそのまま敵へと叩き返したのだ。
強烈な反発は獣の体勢を完全に崩し、致命的な隙(スタッガー)を生み出す。
虚空で無防備に晒された獣の喉元。
狩人の右腕が、容赦なく動く。
「ジャラッ!」
重厚なナタが変形し、鎖で繋がれた刃が円を描いて飛翔する。
それは「斬る」というより、凶悪な質量の塊で「削ぎ落とす」挙動だった。
最上級の血晶石が嵌め込まれた獣骨断ちは、空間ごと敵を粉砕する。
中距離に位置していた二体の獣の首が、抵抗を感じさせる間もなく消失した。
遅れて噴き出す、どす黒い血。
倒れ伏した獣の死骸が、奇妙な現象を起こし始めた。
肉体そのものがボロボロと崩れ、黒い灰となって霧散していくのだ。
「……灰になるか」
狩人は眉一つ動かさず、その光景を観察する。
やはり、純粋な生物ではない。
この悪夢の主が作り出した、ハリボテの幻影に近い。
「ギギャアァッ!?」
同胞が瞬時に解体され、灰へと変わる光景に、残っていた小鬼がパニックを起こした。
理解を超えた存在への根源的な恐怖。
小鬼は武器を放り出し、背を向けて逃走を図る。
狩人はそれを逃がさない。
だが、慌てて手を伸ばすことも、武器を投擲することもしない。
石畳を軽く蹴る、硬質な革靴の音。
その直後、狩人の姿がブレた。
残像を残すほどの超高速移動――クイックステップ。
上位者の意志が、空間の座標を一瞬で書き換えたかのような、圧倒的な踏み込み。
数メートルあった小鬼との距離は、瞬き一つの間に「ゼロ」になっていた。
逃げる小鬼の背後に、影のように張り付く狩人。
脳内で、カレル文字『血の歓喜』が激しく明滅し、内臓攻撃の衝動を呼び覚ます。
狩人は武器を持たぬ素手を、怯えて背を向けている小鬼の背中へ、バターを裂くような容易さで突き立てた。
「――ガフッ」
強靭な指先が肋骨の隙間をすり抜け、体内の深部へと到達する。
指先が触れたのは、柔らかい臓器ではなく、硬く冷たい「石」のような異物だった。
狩人は一切の躊躇なく、その硬い核を鷲掴みにし、引き抜いた。
ドロリとした熱い感触と共に、怪物の生命の源が強制的に摘出される。
小鬼は悲鳴を上げることすら叶わず、一瞬で物言わぬ死骸へと変わり、その身を崩して灰へと変えていった。
狩人の手には、紫がかった色で鈍く光る、小さな石だけが残された。
「これが、この獣たちの心臓というわけか」
狩人はその石を冷ややかに見つめる。
血の匂いもしない。ただ微かな力が封じ込められているだけの、冷たい石ころ。
上位者たる彼にとって、こんなものは「血の意志」ほどの価値もない不純物だ。
彼はその石を、興味なさげに背後へと放り投げた。
石が床に落ちる前に、狩人の影の中から白い腕が何本も伸びた。
使者たちだ。
狩人以外の何者にも視認できない不可視の友人たちは、主が捨てた石を恭しく受け取る。
そして、それを自らの大きな口へと運び、バリバリと咀嚼し始めた。
彼らにとって、この未知の石は新たな栄養源として機能するらしい。
使者が石を喰らうたび、狩人の懐にある「水銀弾」の重みが増し、「輸血液」の貯蔵が不可視の理によって補充されていく。
狩人は、使者が差し出した一本の「輸血液」を受け取り、首筋に突き立てた。
「プシュッ」という音と共に、冷たい血が全身を駆け巡る。
先程までの殺戮の疲労が霧散し、神経が異常なまでに研ぎ澄まされていく。
「カツン、カツン」
再び、静寂が訪れた通路を歩き出す。
壁のあちこちから、新たな獣たちが産み落とされようと岩が軋み続けている。
だが、狩人の歩みは止まらない。
「ジャラッ、ジャラリ」
獣骨断ちの鎖が鳴る。
狩人のステップは止まらない。
敵の攻撃を紙一重で躱し、死角へと回り込み、重厚な鉄を叩き込む。
一切の無駄を削ぎ落とした、血生臭い作業。
返り血が、雨のように通路を濡らす。
狩人の装束はもはや、本来の色が判別できないほどにどす黒く染まっている。
だが、彼の生命力は、敵の血を浴びるたびに「リゲイン」によって即座に修復され、尽きることはない。
その瞳だけは、霧深いヤーナムの夜を知る者特有の、冷徹な理知を保っていた。
「……風の流れが違う」
狩人はふと顔を上げた。
脳内の直感が、微かな大気の変化を感知する。
迷宮の奥深くへと続く淀んだ空気ではない。微かに乾いた、地上からの風の匂。
狩人は、積み上がった獣の死骸を無造作に踏み越え、坂を駆け上がるように逆走を開始した。
深い闇の底へ潜るのが、狩人の習性だ。
だが、ここはヤーナムではない。
まずはこの奇妙な石の牢獄の外側を確認し、新たな悪夢の全容を把握する必要がある。
影の中から、使者たちがワラワラと這い出し、主の後に続く。
狩人は目を細め、微かに見える光の先を見据えた。
この牢獄の上には、どんな空が広がっているのか。
そこには蒼ざめた血の月が浮かんでいるのか、それとも見知らぬ街があるのか。
そして、そこには一体どのような「獣」が潜んでいるのだろうか。
狩人は静かな探求心だけを抱いて、迷宮の出口へと歩を進めた。
#### 第三部
迷宮の第一層、そのさらに浅き入り口付近。
そこは、死と隣り合わせのダンジョンにあって、唯一と言っていい「安全地帯」に近い領域だった。
「――ええ、ですから。この階層での深追いは絶対に禁物です」
澄んだ声が、湿った空気に響き渡る。
声の主は、ギルドの制服に身を包んだハーフエルフの職員、エイナ・チュールだった。
彼女の目の前には、まだ真新しい革鎧を着た、数名の新人冒険者たちが並んでいる。
彼らは皆、これから始まる「英雄譚」への期待に頬を紅潮させ、エイナの講習に熱心に耳を傾けていた。
平和な、そして希望に満ちた、ありふれた日常の風景。
だが、その穏やかな空気は、奥の通路から響いてきた「音」によって唐突に断ち切られた。
「カツン……カツン……」
石畳を叩く、硬質な靴音。
それは冒険者たちが履く、機動性を重視したブーツの音ではない。
もっと重く、冷徹で、一切の迷いがない、死神の秒針のような律動だった。
「……誰か、来るみたいですね。上の階層から戻ってきた冒険者でしょうか」
新人の一人が、通路の奥、薄暗い闇の方へと視線を向ける。
エイナもまた、目を細めて奥を見つめた。
通常、この時間に第一層を「逆走」してくる者は珍しい。
怪我人か、あるいは武器を失って撤退を余儀なくされたパーティーか。
ギルド職員としての職業意識から、彼女は必要であれば救護を行おうと身構えた。
しかし。
闇の底から姿を現したその「存在」を見た瞬間。
エイナの全身を、氷水を浴びせられたような悪寒が駆け巡った。
「な、なんだ……あの人……」
新人冒険者の誰かが、震える声で呟く。
そこにいたのは、一人の男だった。
つばの広い帽子を目深に被り、煤けた黒い外套を羽織っている。
だが、その外套は、本来の色が判別できないほどに「どす黒い何か」で重く濡れそぼっていた。
血だ。
それも、数え切れないほどの怪物を屠り、幾重にも浴び続けた、致死量の返り血。
生乾きの血の匂いが、通路の空気を一瞬にして汚染する。
新人たちは思わず口元を押さえ、後ずさった。
エイナは、ハーフエルフ特有の優れた視力と、ギルド職員としての経験を総動員して男を観察した。
奇妙だった。
あれほどの血を浴びているにも関わらず、男自身には傷一つ見当たらない。
歩様は乱れず、呼吸は静まり返り、疲労の気配すら感じさせない。
そして何より、エイナを混乱させたのは、男の「武装」だった。
武器がない。
剣も、槍も、杖も、ナイフすらも。
男の身体のどこにも、戦うための道具が見当たらないのだ。
(素手で、あれほどの血を浴びるまで戦ったというの……? そんな馬鹿な。それに、荷物持ちも連れずに、たった一人で?)
エイナの胸の内で、警鐘がガンガンと鳴り響いている。
彼女の直感が、全力で「あれに関わるな」と叫んでいた。
だが、同時に彼女は、ある決定的な「違和感」に気づいてしまった。
気配がないのだ。
オラリオの冒険者であれば、レベルの高低に関わらず、必ず発しているはずの微かな生命の熱。
上位の存在から分け与えられた「恩恵(ファルナ)」の輝き。
それが、この男からは一切感じられない。
まるで、底なしの暗い井戸を覗き込んでいるようだった。
どんな光も届かない、冷たく、深く、絶対的な「虚無」。
そこに在るのは、ただ純粋な「殺意」と「死の蓄積」だけ。
「あ、あの……!」
沈黙に耐えかねたのか、一人の新人冒険者が、震える足を前に出して声を張り上げた。
「あ、あなたは……ッ!?」
その瞬間。
男の歩みが、ピタリと止まった。
帽子の鍔の下から、無機質な瞳が、ただ一度だけ新人に向けられる。
「――ヒッ」
声をかけた新人は、短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
両手で自らの首元を掻き毟り、呼吸を忘れ、恐怖に顔を歪めている。
エイナには分からなかった。
男は、何もしていない。
魔法の詠唱もなければ、殺気を叩きつけたわけでもない。
ただ、視線を向けただけだ。
だが、その新人の脳内には、確かに「視え」ていた。
自分の身体が、不可視の巨大なナタによって、一瞬で両断される幻覚が。
上位者たる狩人が何周もの輪廻で積み上げてきた、濃密すぎる死の概念。
それが、ただ視線を合わせただけで、未熟な精神の許容量をオーバーロードさせたのだ。
男は、へたり込んだ新人にはもはや興味を示さなかった。
再び顔を前に向け、無言のまま、エイナたちの横を通り過ぎていく。
風が巻き起こる。
すれ違いざま、エイナは確かに聞いた。
男の外套の影から、無数の硬質な鉄が擦れ合う「ジャラリ」という不吉な音を。
見えないはずの武器が、男の意志の底で、次の獲物を求めて産声を上げている音。
そして、男の足元。
石畳の上を、見えない「何か」がワラワラと這い回る気配。
男が歩いた後には、血濡れのブーツの足跡に混じって、小さな、手のひらのような歪な跡が、一瞬だけ現れては消えていた。
「…………っ」
エイナは、声を発することすらできなかった。
男の背中は、長く緩やかなスロープを登り、迷宮の「出口」へと吸い込まれていく。
だが、その出口の先にあるのは、青空ではなかった。
狩人が最後の石段を踏み越えた時。
彼の視界を埋め尽くしたのは、途方もなく巨大な「人工物」の内側だった。
大理石が敷き詰められた、広大な円形のホール。
天井は見えないほど高く、巨大な魔石灯がいくつも吊るされ、太陽に代わる眩い光を放っている。
そして、その空間を埋め尽くすほどの、夥しい数の「人」の群れ。
金属の鎧を鳴らす者。
獣の耳や尾を持つ者。
杖を掲げる者。
彼らが入り乱れ、取引をし、笑い合い、あるいは言い争っている。
巨大な迷宮の縦穴に蓋をするように建造された、摩天楼バベルの下層階。
そこは、オラリオの富と欲望が最も濃く渦巻く、冒険者たちの玄関口だった。
狩人は、足を止めて周囲を見渡した。
(……ここは、なんだ)
ヤーナムの医療教会が建てた大聖堂にも似た、狂気的なまでの巨大建築。
だが、そこには祈りも、静寂もない。
すれ違う者たちが放つのは、香水や酒、あるいは香辛料の匂い。
そして何より、彼らが帯びている熱量は、狩人が知る「獣狩りの夜」の住人たちとは全く異なっていた。
悲壮感がない。
彼らは武器を持ちながら、死の恐怖に怯えることなく、どこか享楽的にこの巨大な空間を闊歩している。
(狂人の集いか……。あるいは、別の夢を見る者たちか)
狩人の姿は、この華やかなホールの中で、あまりにも異質だった。
黒く汚れた装束。むせ返るような生血の匂い。
周囲の冒険者たちが、徐々にその存在に気づき始める。
歓声が止み、取引の声が途絶え、波が引くように狩人の周囲から人が遠ざかった。
「なんだ、あいつ……」
「おい、血の匂いが……まさか、下層からの帰還者か?」
「いや、見たことねえ顔だ。それに、武器も持ってねえぞ」
無数の視線が、好奇と警戒を孕んで狩人に突き刺さる。
だが、狩人にとっては、何の意味もないノイズに過ぎなかった。
彼は、自らを遠巻きに囲む者たちを、無感情な瞳でなぞる。
立派な剣を下げる騎士も、魔力を秘めた杖を持つ魔術師も、狩人から見れば等しく「脆弱な肉の塊」だ。
もし仮に、彼らが牙を剥いて襲い掛かってきたなら。
狩人の脳裏に、カレル文字が微かに明滅する。
左腕の虚空に『ガラシャの鉄塊』を喚び出し、右腕から『獣骨断ち』を放てば、この密集したホールごと、数秒で「解体」できる。
だが、今はその時ではない。
狩人は帽子の鍔を引き下げ、群衆の隙間を縫うように歩き出した。
使者たちが、主の周囲を無邪気に這い回りながら、見知らぬ人々の足元をすり抜けていく。
この奇妙な建造物の外には、何があるのか。
まずは、それを確かめなければならない。
血まみれの放浪者が、大理石の床を汚しながら歩み去っていく。
その背中を、バベルの上層から見下ろす「視線」があることなど、狩人はまだ知る由もなかった。
神々が愛し、英雄たちが集うこの迷宮都市に。
いかなる理も通用しない、終わらない悪夢の化身が、ついに足を踏み入れた。