BanG_Dream! 前へ‼︎My Way!!!!   作:&Makoto

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The scent lingers after the petals fall.

 

 

✕✕✕✕年✕月✕日。天候は曇天、微風。

 

高松燈 中学生、三年の春

 

CRYCHICが結成されてからというもの、私にはひとつの恒例行事ができた。放課後のカラオケ特訓だ。

 

スタジオで歌うのは、いまだに少しだけ怖い。鏡越しに自分の表情と声が露わになるあの感じに、どうしても慣れない。でもカラオケなら大丈夫だった。少しくぐもった音響と、誰かの笑い声に紛れ、好きに歌って良いんだって感じで、私は呼吸ができる。

 

何より、みんなで歌うのは、楽しい。

 

部屋に入ると同時に、ピッ、と無機質な操作音が鳴った。前に使っていた人が設定したのだろう、やけに強い冷房が肌に刺さる。リモコンを手に取り、温度を少し上げる。そんな些細な動作さえ、この場所ではどこか儀式めいて感じられた。

 

薄暗い室内。画面の光がゆらゆらと揺れて、私たちの顔を照らす。暗いはずなのに、不思議と表情まではっきり見えるのは、たぶん距離が近いからだ。

 

この小さな箱の中に、五人。

 

少しだけ窮屈で、少しだけ空気がこもっていて、ほんのりと誰かの柔軟剤の匂いが混ざっている。それでも私は、この空間が嫌いじゃなかった。

 

むしろ、ここにいると、何も変わらない景色がフィルムの一ページに収められたかのように感じられ、ずっとこのままの時間が続くのだと思える。

 

暗がりの中で、一方通行の道をひとり歩いていた私が、はじめて星空を知った。

 

 

 

 

 

 

 

「四人とも、なんていうか…音を拾うのが上手だよね」

 

ぽつりと呟くと、マイクを持ったまま、みんながこちらを見る。

 

豊川祥子ちゃん。椎名立希ちゃん。長崎そよちゃん。若葉睦ちゃん。

 

私以外の四人は、誰が見てもわかるくらい、音楽の基礎を身体に染み込ませている。音を外さないとか、リズムが正確とか、そういう表面的な話じゃない。もっと深いところで、音と自然に呼吸をしているような、そんな感じだ。

 

「燈も、歌うの上手だと思いますけど?」

 

祥ちゃんがキョトンとした表情でやわらかく言う。

 

「私は…なんていうか感覚だから」

 

少しだけ笑ってごまかす。

 

音楽は理論でできている。音楽は感覚でできている。

言葉にすれば、それだけの違い。

 

四人は音楽を理論として捉え、楽譜を読み、音を拾い、その高さやリズム、強弱を分解して理解している。そして、それをもう一度組み立てて、正確に演奏へと昇華させている。

 

一方で私はただ、流れてきた音に触れて、感じた想いのまま、声を乗せているだけだ。

 

それが正しいのかどうかも、正直よくわからない。

 

 

「んー、そうだねぇ。私も含めて、三人ともソルフェージュはやったことがあると思うよ」

 

そよちゃんが、祥ちゃんと睦ちゃん、それから立希ちゃんへと順に視線を送る。確認するような、でもどこか柔らかい言い方だった。

 

「そる……ふぇーじゅ?」

 

聞き慣れない言葉に、思わず口の中で転がしてしまう。

 

「音楽の理解力を高めるための基礎訓練ですわ」

 

祥ちゃんが、少しだけ背筋を伸ばして説明してくれる。その声音はいつも通り落ち着いていて、どこか舞台の上で語っているみたいだった。

 

ソルフェージュ。

 

音楽の基礎を身体に刻み込むための訓練。音を聴き分け、楽譜を正確に読み取り、リズムや音程、強弱、それらをひとつひとつ分解して理解する力を養うもの。

それを積み重ねることで、ただ弾ける歌えるだけじゃない、“どう表現するか”まで見えるようになる。

つまり、理論から積み上げていく音楽。

 

私には、少し遠い世界の話に思えた。

 

「…ですが」

 

祥ちゃんが、ほんの少しだけ言葉を区切る。

 

「それはあくまで、理論と技術に過ぎませんわ。…わたくしが歌う春日影と、燈が歌う春日影は違いますもの、その人が持つ感性は、その人だけのもの。燈は、燈の音楽を伝えればよろしいんですのよ」

 

その一言で、空気が静かに整えられる。

 

まっすぐに、こちらを見てくる。

 

逃げ場なんてないくらい、真剣で優しい目。

 

「確かにねぇ。理論は正解を導くけど、その正解が“心地いい”とは限らないもん」

 

そよちゃんが、くすっと笑う。

軽い口調なのに何処か儚げで寂しそう。

 

「…難しい話は置いといて、次なに入れる?」

 

立希ちゃんが、わざとらしく間を切るように言った。端末をいじる手つきは、どこか照れ隠しみたいにも見える。

 

「私、入れる」

 

すっと伸びてきた手に、端末が奪われる。

 

「え、睦が?」

 

「うん」

 

睦ちゃんは短く答えて、そのまま画面に視線を落とした。

 

無駄のない指の動きで曲を探していく。その横顔は相変わらず無表情に近いのに、不思議と楽しんでいるのがわかる。

 

「なんか意外かも」

 

立希ちゃんが小さく言う。

 

「…そう?」

 

「だって、あんまり自分から入れるイメージなかったし」

 

「歌いたい歌がある」

 

それだけ言って、睦ちゃんは決定ボタンを押した。

 

ピッ、と軽い電子音。

 

次の瞬間、前奏が流れ出す。

 

低く唸るようなギターが、床を這うみたいに鳴り響く。次の瞬間、爆発するようなドラムと、鋭く切り裂くギターリフが容赦なく叩きつけられた。

 

音の塊が、殴りかかってくる。

 

「え?」

「睦ちゃん?」

「これは…」

 

「いいじゃない睦!」

 

言葉を探す私たちをよそに、祥ちゃんだけがなぜか楽しそうに笑っていた。

 

画面の中では、革ジャンに身を包んだ人たちが、これでもかというほど頭を振り下ろし、全身でリズムを叩きつけている。髪が振り乱され、汗が飛び、叫びがそのまま音になっている。

 

俗にいうヘヴィメタル。

 

無機質で、どこか淡々とした声質。睦ちゃんの随分と可愛いシャフトが部屋の中に響き、只々、叫んでいた。

 

旋律なんて関係ないみたいに、ただ音の波に乗って、Aメロを叫ぶ。

叫んでいるのに、どこか静かで、静かなのに、確かに熱を帯びている。

 

「ロックンロールは、自由への叫びですわ‼」

 

突然、祥ちゃんが高らかに宣言する。そのまま、曲に合わせて叫び始めるから、もうめちゃくちゃだ。

 

でも、気がつけば、みんな笑いながら叫んでいた。

 

音程も何もあったものじゃない。ただ、声をぶつけるだけ。でも、それがどうしようもなく楽しい。

 

途中で、睦ちゃんが

私にふっとマイクを差し出してきた。

 

「燈…疲れた。変わって」

 

「え、ここで!?」

 

有無を言わせない無表情、断れる空気なんて、最初からなかった。

 

マイクを受け取る。少しだけ重いはずなのに、なぜか、ひどく軽い。

 

理論も、正解も、きっと大事だ。

 

でも、今は。

 

そんなこと、どうでもよかった。

 

この音楽を、叫びたい。

 

息を吸って、吐く。

 

流れていく轟音に、自分の声をぶつける。

 

うまくなんて、できていない。

 

むしろ滅茶苦茶で、ぐちゃぐちゃで。

 

なのに。

 

なんだか、おかしくて。

 

笑いながら、叫んでいた。

 

喉が少し痛くて、息も上がっているのに、それすら心地いい。

 

それでも、構わない。

 

この声が、私の音楽だから。

 

 

 

 

 

歌いきったあと、すぐには誰も口を開かなかった。さっきまで暴れていた音の余韻だけが、まだ身体の奥に残っているみたいで、呼吸が少しだけ熱い。

 

やがて曲が終わり、切り替わったBGMが静かに流れはじめる、その音が、火照った身体をゆっくりと冷ましていく。さっきまでの喧騒が嘘みたいに、部屋の中は穏やかな静けさに包まれた。

 

「…はぁ」

 

誰かが小さく息を吐く。それだけで、みんな同じくらい消耗しているのがわかって、少しだけおかしくなる。

 

「睦…喉、やられるから」

 

立希ちゃんが、少し呆れたように言った。

でもその声は、何処か楽しそうで。

 

「…ん」

 

睦ちゃんは短く返事をするだけで、特に気にしている様子もない。

さっきまであんなに叫んでいたのに、もういつもの静かな顔に戻っているのが、なんだか不思議だった。

 

「でもさ」

 

そよちゃんがグラスを傾け、一口、ゆっくりと飲み込む。

氷が軽く音を立てた。

 

「なんか、スッキリするかも。…こういうのもいいよねぇ」

 

それから、ふっと息を抜くみたいに笑う。

 

その言葉に、誰もすぐには答えなかったけど、否定する空気も、どこにもなかった。

 

むしろ。

 

同じ気持ちが、部屋の中に静かに広がっている気がした。

 

私もグラスを手に取って、少しだけ冷えた飲み物を口に含む。喉を通る冷たさが、じんわりと広がっていき、その感覚がなぜか少しだけ名残惜しくて。誰にも聞こえないくらいの声で、小さく笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「睦、今の曲って、この前の動画のやつでして?」

 

祥ちゃんが、わずかに首を傾げながら問いかける。その声音は柔らかいが、どこか確信めいた響きを帯びていた。

 

「そう。楽しそうだったから、気になってた」

 

淡々とした口調で答える睦ちゃん、その表情は相変わらず薄いがほんの僅かに、興味の色が滲んでいるようにも見える。

 

「動画って?」

 

そのやり取りに反応したのはそよちゃんだった、興味津々といった感じで間髪入れずに問い返している。

 

睦ちゃんは一瞬だけ視線を向けると、何も言わずにポケットからスマートフォンを取り出した。

 

慣れた手つきで画面を操作し、無駄のない動きでそれを差し出す。

 

「これ」

 

短く、それだけ告げる。

 

差し出された画面を覗き込むと、そこに映っていたのは、小学生ほどの年頃に見える、数人のグループだった。

 

持っているというより、抱えている。

 

そう表現したほうがしっくりくるほど、その身体に対してギターは大きい。

 

けれど、その小さな体から紡がれる音は、あまりにも確かだった。

 

指板の上を迷いなく走る指先、リズムに乗る身体の揺れ。ひとつひとつが、子どもの遊びの域を明らかに超えている。

 

「…すご」

 

思わず、立希ちゃんが小さく息を漏らす。

 

だが、本当に目を奪われたのは、そこではなかった。

 

そう、四人とも、とにかく笑っていた。

 

誰に見せるでもなく、ただ音の中で、心の底から楽しんでいると、そう断言できるほど無防備な笑顔で。

 

音楽に向き合っているのではなく、ひたすらに音楽を楽しんでいる。

 

そんな風に感じられる。

 

「…楽しそう」

 

ぽつりと、睦ちゃんが呟く。それは誰に向けた言葉でもなく、ただ零れ落ちた本音だった。

 

画面の中では、まだ演奏が続いている。小さな手で、大きなギターを抱えながら。

 

全身で音を鳴らし、笑いながら。まるで、音楽そのものみたいに。

 

その光景は、確かにここではないどこかのもののはずなのに。

 

なぜか、やけに近く感じられた。

 

 

 

 

 

 

ふと、何気なく表示されたままの画面の片隅、そこにある投稿日時に、視線が引き寄せられた。

 

 

 

「…あっ、これって…五年くらい前のやつなんだね。」

 

小さく息を呑む。

 

画面の中で笑っているあの子たちは、今この瞬間の存在ではない。あれから、もう五年。

 

無邪気にギターを抱えていたあの小さな背中も、きっとどこかへ進んでいる。

 

何かを始めるには十分で、何かを諦めるにも、十分すぎるほどの長さだ。

 

画面から目を離さずに呟く。

 

「……今も、やってるのかな」

 

五年後の君達は何処で、何をしているのだろう。

 

どんな場所で、どんな音を鳴らしているのだろう。

 

まだ、音楽を続けているのだろうか。もし続けているのなら、それはきっと、自分たちと同じだ。

 

胸の奥で、小さな願いにも似た感情が、静かに巡る。

 

どうか、あの笑顔が消えていませんように。どうか、音の中に、まだ居てくれますように。

 

そう思ってしまうほど、深く残るものだった。

 

「……ふぅ」

 

立希が軽く息を吐く。

 

「ちょっと、飲み物取ってくる」

 

どうやら熱が再発したみたい。

また歌いたくなったのは、一人だけじゃない。

 

 

「わたくしも行きますわ」

 

間を置かずに祥ちゃんが続く。

その声音はいつもの通り整っているが、柔らかかい。

 

「私も」

 

睦ちゃんがスマートフォンの画面を落としながら立ち上がる。

 

「はーい、私も行きまーす。燈ちゃんも行こう」

 

そよちゃんが明るく声を上げ、私に声をかける。

 

「うん」

 

立希ちゃんの後に続くように、五人は部屋を出る。

 

狭かったはずのカラオケボックスが、少しだけ広くなった。

 

廊下の明かりは白く、現実的で。

五人の足音が重なりながら、ドリンクコーナーへと歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドリンクコーナー、そこにはすでに先客がいた。

 

 

 

 

 

私たちは五人、向こうもグループらしく、自然と少し距離を取って、順番を待つ形になる。

 

壁にもたれながら、ぼんやりと視線を泳がせる。

 

そのとき

 

ふいに、向こうの会話が耳に入った。

 

「え、コーヒーに炭酸入れるの?」

 

「スッキリして飲みやすくなるよ。やってみな」

 

「…見た目は普通のコーヒーだね」

 

思わず、そちらに目を向ける。楽しそうに笑い合う四人組。


男の子が三人に、女の子が一人。言葉の距離が近い、間の取り方も自然で、無理がない。

 

ああ、この人たちは。

 

きっと、ずっと一緒に過ごしてきたんだ。そう思わせる空気が、そこにはあった。

 

 

少し羨ましい、そう思った矢先。

 

 

胸の奥で、かすかな棘が引っかかるような感覚が広がる。

その正体を確かめる前に、視線は自然と一人の横顔へと吸い寄せられていた。

 

柔らかなウェーブがかった癖毛がやけに心に残る。その瞬間だった。

 

重なる。

 

ほんの一瞬、みえた横顔が、さっき見た動画の中の人物と、ぴたりと重なった気がした。

 

息が詰まる。そんなはずはない、とすぐに思考が否定する。あまりにも出来すぎているし、都合が良すぎる。偶然にしては出来すぎた符合。現実がそんなに劇的に交差するなんて、物語の中だけの話だ。

 

それでも。心のどこかで、否定しきれない何かが、静かに波紋のように広がっていく。

気づけば、思考は同じ場所をぐるぐると巡っていた。似ているだけかもしれない。見間違いかもしれない。そもそも、ちゃんと顔を見たわけでもないのに。

 

なのに、どうして。

 

そこまで考えたところで、声が割り込んできた。

 

「炭酸水で紅茶を淹れても、意外と合うんだよ」

 

あまりにも突拍子もないその一言に、思考がぶつりと途切れる。視線を向けると、近くにいた月ノ森の三人が、まるで同時に時を止められたかのように固まっていた。

 

ぴたり──。と、その表情は実に見事だった。

 

目はわずかに見開かれ、口元は微妙に引きつり、しかし決して完全には崩れない。上品さという名の仮面を辛うじて保ちながら、その内側で激しい葛藤が渦巻いているのが、手に取るようにわかる。

 

例えるならそう、フレーメン反応を起こした猫のような顔。

 

いや、それをあの優雅な制服でやっているからこそ、余計に破壊力があるのかもしれない。

 

好奇心か、それとも自制心か。試してみたいという衝動と、それは本当に大丈夫なのかという理性が、せめぎ合っているのだろう。

 

誰か一人でも動けば、きっと連鎖的に崩れる。そんな絶妙な均衡。

 

 

四人組がジュースを入れ終え、来た道をそのまま引き返していく。

 

すれ違う、その一瞬。

 

「…ギターの人」

 

「ちょっと、睦」

 

弾けたのは炭酸の泡ではなく、抑えきれなかった言葉だった。空気の中で軽やかに跳ねたそれは、思いのほか遠くまで届いてしまったらしい。

 

「…ギターの人?」

 

足を止めた一人が、その言葉を拾い上げる。さきほどの、癖毛の男の子だ。

 

一番背の高かった人ほどではないけれど、それでも私たちより頭ひとつ分は優に高い。見上げる形になるその距離が、ほんの少しだけ現実感を遠ざける。

 

祥ちゃんが一歩前に出た。

 

「あの、友人が失礼しました。私たち、こちらの動画を拝見して…その、あなたに少し面影を感じまして」

 

差し出されたスマートフォン。その画面を覗き込んだ男の子は、ほんのわずかに目を細め、やがて、静かに笑った。

 

「……懐かしいな。まだ知っている人がいたんだ」

 

その一言に、私たち五人の間に小さなざわめきが走る。 視線が交差する。

 

やっぱり。

 

確信にも似た感覚が、胸の奥で形を持ち始める。

 

それを見透かしたかのように、彼はふわりと笑みを浮かべた。その表情は、動画の中でギターを抱えていた少年と、寸分違わない。同じ目の細め方、同じ口元の緩み方。

 

時間だけが流れて、そこにある何かはそのまま残っているような、そんな笑顔だった。

 

「ありがとう。おかげで、ちょっと懐かしい気分になれたよ」

 

柔らかく続いた声は、思っていたよりも落ち着いていた。

 

「…見た感じ、年代も近そうだけど。君たちもバンドとかやってるの?」

 

「ええ、やっておりますわ。CRYCHICと申しますの」

 

誇らしげに名乗る祥ちゃんの横顔は、どこか嬉しそうだった。同じ音の中にいる人と出会えたことが、純粋に喜びなのだろう。

 

その空気を、不意に揺らしたのは

 

「…ギター、弾いて」

 

「え、いま?」

 

睦ちゃんだった。

 

珍しく、自分から会話の中に踏み込んだその一言に、男の子はわずかに戸惑いを見せる。その反応が妙に新鮮で、思わず口元が緩みそうになる。

 

祥ちゃんや睦ちゃんは、社交場などできっとこういう場にも慣れているのだろう。異性と話すことにも、距離を詰めることにも、何の躊躇いもない。

 

でも、私たち残りの三人は違う。正直、少しだけ怖じ気づいていた。

距離感も、空気も、全部が少しだけいつも通りとはいかなくて…。

 

「ごめん、今日はギター持ってきてなくてさ…」

 

頭を軽くかきながら、彼は苦笑する。その仕草も私たちは知らない。

 

「…あ、そうだ。君たちがバンドやってるなら、ちょうどいい話があるよ」

 

そう言って取り出したスマートフォンを、こちらに向ける。指先で操作された画面に映し出されたのは、ライブの開催概要。

 

日付、場所、出演者、整然と並ぶ情報の中で、ひとつだけ空白がある。

 

「今月末に、知り合いの合同ライブがあるんだけどさ。…まだ一枠、空いてるらしくて」

 

さらりと言われたその言葉が、やけに重く響く。

 

ライブ。

 

人前で演奏するということ、それは、私たちにとっても目標としていた場所だ。

 

「…興味ある?」

 

軽い調子の問いかけ。だけどその奥には、試すような、誘うような、微かな熱が混じっている気がした。

 

「ソーイチ、ナンパしてないで戻ってこーい」

 

奥の方から、からかうような声が飛んできた。その声音には悪意はなく、ただ面白がっているだけの軽さがある。けれど、その一言で、この場の空気がふっと現実へ引き戻された気がした。

 

彼、癖毛の男の子は、やれやれといった風に肩をすくめる。

 

「違うっての…」

 

小さく苦笑しながらも、どこか慣れている様子だった。きっと、ああいうやり取りが日常なのだろう。

 

それから、こちらに視線を戻す。

 

「興味があるなら、ここに連絡してみてよ」

 

そう言って、先ほどのライブ概要の画面をもう一度軽く示し、名残を断ち切るように身体を反転させる。

 

偶然にしては出来過ぎた展開だ。

 

行ってしまう。そう思ったところで

 

「あ、そうだ」

 

彼が、くるりと振り返った。その動きは、まるで思い出したというより、わざとらしいくらい、タイミングを見計らったようで。

 

「自己紹介、してなかったね」

 

一歩だけ、こちらに近づく。ほんのわずかな距離なのに、それだけで空気が変わる。

 

「…乙成操一です。よろしくね、CRYCHICの皆さん」

 

軽やかに名乗るその声。そして、ケラケラと、無邪気に笑う。

 

動画で見たままの、太陽みたいな笑顔。屈託がなくて、明るくて、見ているだけで周囲まで照らしてしまうような笑み。

 

でも。

 

どうしてだろう。

 

実際に目の前で見たそれは、ほんの少しだけ違って見えた。光の奥に、薄く影が差しているような。

触れたら崩れてしまいそうな、儚さが滲んでいるような。

その違和感の正体に触れる前に、彼は続けた。

 

「俺たちも、そのライブ出るからさ」

 

さらりとした言葉。けれど、その一言が持つ意味は、決して軽くない。

 

同じ音を、同じ空間で響かせるかもしれないということ。

 

鼓動が、わずかに速くなる。

彼は、ほんの一瞬だけ視線を細めて。

 

まるでこちらを試すように、けれどどこか期待するように、言った。

 

「一緒に、やってみる?」

 

その言葉は、驚くほど自然に落ちてきた。特別な誘い文句でも、重々しい宣言でもない。

ただ、当たり前みたいに。呼吸をするのと同じくらいの軽さで、響かせる。

 

 

 

 

中学三年生の春、私達は

 

乙成操一という男の子に出会った。

 

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