死に損ないの幸福論。ー博麗神社居候記ー   作:もんさん

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Collateral Beauty ①

 いつからだろうか。「消えてしまいたい」と思うようになったのは。

 

 日々の生活に疲れ切って、憔悴していた。誰にだって起こりうる一種の拒絶反応のようなもの。

 

 目の前のあれこれから逃げ出して、どこか遠くに行きたかった。

 

 周りからのプレッシャーとか、努力できない自分への罪悪感とか、やってもうまくいかない無力さとか...そういう面倒なもの、全部から解放されたくなって。

 

 気づけば僕は、樹海をさまよっていた。

 

 何かから逃げていた気がする。何かを終わらせようとしていた気もする。でもそのどちらも、気づけば輪郭が曖昧になっていた。

 

 足元の土が嫌に柔らかい。踏みしめているはずなのに、どこか頼りない。靴底がじわりと沈み込むたび、わずかな抵抗だけを返してすぐに形を失っていく。自分の体重すらまともに受け止める気がないみたいだった。

 

 どこを歩いているのか、もう分からなくなっていた。最初ははっきりと聞こえていた喧騒も、今となっては冷たい静寂の中。

 

 視界に映るのは同じような木々ばかりだ。幹の太さも、枝の広がりも、葉の濃さも、どれも似通っていて、境界が淡く滲んでいく。

 

 振り返っても、来たはずの道はそこにない。いや、あるのかもしれない。それがどれなのか判別できないだけで。

 

 しばらく立ち尽くして考えようとする。けれど、すぐにやめてしまった。

 

(――もう、いいかな)

 

 戻る理由なんて、思いつかなかった。帰る場所がないわけじゃない。ただ、帰ったところで何かが変わる気もしなかったし、また自分で自分に失望することを思うと、それだけで息が詰まりそうになった。

 

 だから、考えたくなかった。ただ歩いていたい。それで十分だったから。

 

 一歩を踏み出すごとに、大事なものが抜け落ちていく感覚がする。頭が、心が、色を失って凪いでいく。

 

 零れ落ちたものを拾おうとしても、体が強張って動けない。ぼんやりとした何かを思い出そうとしても、胸の奥に重たいものが引っかかる。

 

 それを掘り起こすのが面倒で、結局、喪うことへの抵抗を止めた。手放してしまった。

 

 面倒だった。考えることも、思い出すことも、全部。

 

 ただ、どこかへ行けたらいいと思った。今いる場所から、すべて切り離されたどこかへ。

 

 

 ――チリン。

 

 

 鈴の音が、小さく反響した気がした。

 

 ふと足を止めると、目の前に延々と続いていたはずの木々が、嘘のように途切れていた。

 

 春らしい、麗らかな風が通り抜ける。場違いな空気と、突如として頭上で鳴り始める葉擦れの音に、わずかにたじろぐ。

 

(――きれいだなぁ)

 

 青い、空だった。妙に澄んでいて、すべてを包み込んでくれるようだった。現実よりも、現実じみた色をしていた。

 

(――このまま、連れて行ってほしい)

 

 誰にも見つからない場所へ。

 

 誰にも名を呼ばれぬ場所へ。

 

 そう思った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 

 一歩、踏み出したはずだった。地面がふっと消えていた。

 

 支えが無くなる。落ちているのか、沈んでいるのか、それすら明確ではない。

 

 自分のシルエットが、くっついては離れて、やがて一つの形を失っていく。

 

 音が遠ざかる。風も、匂いも、温度も、全部が薄れてかき消えていく。最初から何もなかったかのように、僕は自然とその感覚を受け入れていた。

 

(――どうでもいい...そう、もうどうでもいいんだ)

 

 何度も迂回を繰り返し、現状から逃げ続け、己を騙してここまでやって来た。その結果が、「死」なのだろうか。

 

(――僕は、何をしたかったんだろうな)

 

 

 ――何が、欲しかったんだろうな。

 

 

 今になってやってくる、自嘲と諦観。それとひとつまみの叱責で以て、僕は意識を手放した。

 

 


 

 

 目を開けたとき、最初に心に浮かんだのは、自分が生きているのか死んでいるのかという疑念。次に飛び込んできたのは、どこまでも続いているかのような広大な空。

 

(青い、なぁ...)

 

 さっき見たものと同じはずなのに、どこか違う。色の奥行きが深くて、気を抜いたら吸い込まれてしまいそうだった。

 

 その景色があまりに美しいものだから、僕はこの場所が死後の世界か何かなのではないかと、本気で錯覚し始めていた。

 

 しかしそれにしては、不自然なほどに意識がはっきりとしている。五感もある。

 

 草の匂い、土の湿った感覚、全身をやんわりと撫でていく暖かい風。

 

 ぼんやりと、ただじっとしていた。体にまとわりついた不快感が、長い時間をかけて解きほぐされ、剥がれ落ちていくような...そんな心地よさがあった。

 

 起きるのが面倒だったわけじゃない。もう少しだけ、この憩える虚無感に身を委ねていたかっただけ。

 

 ここはどこか、とか、自分は生きているのか、とか。もっと知るべきことはあるのだろうけれど、不思議と焦りはなかった。

 

 

 ――ザッ、ザッ、ザッ。

 

 

 遠くの方から、気怠そうな足音が聞こえてきた。人のものであろうことは分かる。万が一のためにもここを離れるべきだと感じたが、それすらもうどうでもよくなってしまった。

 

 殺されるなら、ここが潮時だ。どうせならスッキリとした気持ちで生涯を終えてしまいたい。

 

 煮るなり焼くなり好きにしてくれと、僕はあえて体を大の字に広げなおし、来たるべきその人を待っていた。

 

「...何してんの、あんた」

 

 頭上よりもうちょっと先の方で声が聞こえた。姿はまだ見えない。僕の視界は未だ青一色だ。

 

「ちょっと、体起こしなさいよ。目が覚めてるのは分かってるのよ」

 

 一瞬迷って、僕は観念して起き上がる。手をつけた地面は、樹海のそれとは違って確かな感触を返してきた。生きているようだった。

 

「ここよ、ここ。じれったいわね」

 

 急かすような物言いに仕方なく顔を向けると、少し離れた場所に、赤と白を基調とした衣服に身を包む少女が立っていた。

 

「巫女...?」

 

「そうよ、博麗の巫女。そう言えば分かるでしょ」

 

 少女は、まるで世の常識であるかのように名を名乗る。正確には二つ名か、あるいはそれに類するものであろうが。

 

 だが生憎、僕には聞き慣れないものであった。言葉を発するのも憚られたから、首を力なく横に振って否定を示した。

 

 少女は眉を顰め、わざとらしく腕を組みながら、訝し気に僕を眺める。こちらに聞こえるのも厭わないかのようにため息を零し、重い足取りで近づいてきた。

 

 やがて目の前までやってくると、少女と視線がかち合う。でも居心地は悪くなかった。値踏みされているようではあるが、それ以上踏み込んでくる気配もない。

 

 少しの間を置いて、少女はある一つの結論に辿り着いたらしく、心底面倒そうに問うてきた。

 

「あんた、外の人間よね」

 

 責め立てるような雰囲気は感じないし、ぶっきらぼうな言い方ではあるが、今は逆にそれがありがたく感じた。

 

 しかし改めて言われてみれば、果たして自分はこの世界における「外の人間」なのだろうか。確信をもって答えるには些か情報が足りない。

 

「...たぶん」

 

 ゆえに、うまく言葉にできなかった。曖昧な返答は、少女が思考の匙を投げるには十分であったらしく、小さくため息をついた。

 

「はぁ...面倒なの拾ったわね...」

 

 頭上の空を仰ぎ見て、仕方ないと割り切ったのか、少女は再び僕を見据えた。

 

「とりあえず着いてきなさい。こんなとこで寝てるとか、危ないわよ」

 

 そういって踵を返す。相も変わらず雑な物言いだった。けれど、拒絶されている感じもしなかった。

 

 少し戸惑ったが、遠ざかっていく背中を見ていると、どうも心が急かされるような気がして、気づけばさっきまでの惰性が嘘のように、スッと立ち上がっていた。

 

 少女の髪を結う大きなリボンが、歩みとともにゆらゆらと揺れる。飄々とした彼女の様子とマッチしていて、僕はなぜか羨ましく思った。

 

 あぁやってあっけらかんとしていられたら、どれほど楽だったのだろうか。

 

 この期に及んでたらればを並べる僕は、おそらく世にいうところの「死に損ない」って奴なのだろう。

 

 不貞腐れたくなって、あえてここに残ってしまおうかとも思った。ついていく理由なんてあるわけでもない。

 

「ふぅ...」

 

 でも逆に、ついていかない理由もないのだ。変なところで意地を張るより、大人しく従う方がまだ潔い。

 

「...まぁ、いいか」

 

 世間体なんて気にするほどの柄じゃないことは知っている。面倒な思考を振るい落とすように小さく呟いて、既に小さくなってしまった背中を追った。

 

 


 

 

 あれから一定の距離を保ちながら少女の後ろを歩いていると、やがて森を抜けて、巨大な石段が現れた。

 

 両側には立派な桜がいくつか。てっぺんには年季の入った鳥居が聳えていた。

 

 あまりの壮観さに、たまらず僕はたじろぐ。しかし少女にとってそれは日常の一部であるらしく、そんな僕を気にも留めないで、石段を登っていく。

 

「...」

 

 彼女が手前よく会話を好むような性格じゃなくてよかったと思う。僕もコミュニケーションは苦手だ。自分をひけらかすのも、相手を知るのも、何気ない一言で他者との間に関係が生まれるのも、気乗りしないことだったからだ。

 

 何も考えないで、石段に足をかけた。思いのほか長く、一段一段がやけに重く感じる。体が疲れているわけではないのだろうが、足取りだけが変に鈍い。

 

 呼吸を整えたくて、何度か立ち止まる。それでも、少女は振り返らなかった。

 

 置いていくわけでも、待つわけでもなく、ただ自分のペースで歩いている。

 

 その距離感が、とても楽だった。

 

「はぁ、はぁ...」

 

 最後の一段を昇り終えたとき、少女は鳥居の下に居た。下から見上げるのとはまた違う、いかにも清らかな壮麗さに、やはり僕は圧倒された。

 

 小さな社を一瞥し、僕は額に滲んだ汗をぬぐう。

 

「着いたわよ。博麗神社...て言っても、あんたにはわかんないわよね...」

 

 振り返って、そして呆れ顔をする少女に、ゆっくりと頷くしかなかった。

 

 リアクションの薄い僕にしびれを切らしたのか、少女はそれ以上何も言うことはなく、境内へと入っていく。

 

 後を追いながら、僕はここから見えるノスタルジックな原風景に、息を呑んだ。

 

 この境内に人の気配はない。けれどもここから一望できる景色からは、確かに人の生活が築き上げられていることが感じられた。

 

 前方から吹き付ける風は、優しく、僕の心の奥に染み込んでいく。遠くの小鳥のさえずりは、切なく、僕が積み上げた今までに花を手向けている。

 

「適当に座ってて」

 

 既に社に入った少女が、縁側から僕を呼びつける。ここにいろ、ということを暗に示していた。

 

 腰を下ろすと、木材の温かい感触が僕を包む。数十分ぶりに、また一人になった。静かで、居心地がよかった。

 

 ぼーっとして、ただ時間の流れに身を預ける。もう何かに追われる必要はないのだと思うと、幾分か気が楽だった。

 

 しばらくぼんやりしていると、少女が戻ってきた。

 

 その手には、盆と湯呑が二つ。

 

「ほら」

 

 不意に片方を差し出され、僕は困惑した。

 

(――なんで)

 

 口には出さないが、心は混乱で満たされていた。

 

 理由が分からなかった。どうして、僕のためにこんなことをするのか。

 

 このままされるがままに受け取ってしまうのは、駄目な気がした。そうすれば最後、僕の中で何かが変わってしまう予感がした。

 

「...いい」

 

 だから、拒絶した。少女が分かりやすく気を悪くしたのが、目で見てわかる。

 

「は?」

 

「...別に、いらない」

 

 自分でも驚くくらい、淡々とした声だった。

 

 思い返すは、かつての自分。人との関係を遠ざけ続け、自ら望んで孤独を選んでしまった、自分。

 

 少女は、僕に期待しているわけでもない。見返りを求めているわけでもない。

 

 それでも――いや、だからこそ。

 

 何もしていない自分が、当たり前みたいに何かを与えられることが、ひどく居心地が悪かった。

 

「なんで...」

 

 振るえる体を押さえつけて、無理やり言葉を絞り出す。

 

「なんで、そんなことするんだよ」

 

 少女は一瞬だけきょとんとして、それから小さく息を吐いた。

 

「別に。お茶くらい出すでしょ」

 

 実に、あっさりとした返答だった。まるで自分の違和感を、ばかばかしいと一蹴するかのようだった。

 

「...理由になってない」

 

 対抗するようにそう言うと、少女は少しだけ考えるように目を逸らして。

 

「じゃあ、暇だったから」

 

 と付け加えた。

 

 僕は呆気にとられて、してやったりとでも言いたげな表情の少女を見て、俯くことしかできなかった。

 

 納得はできていない。でも、これ以上拒む必要もなかった。

 

 しばらく迷ってから手を伸ばし、湯呑を受け取る。

 

 陶器を介して伝わる熱が、指先から僕を解していくような感覚に、心もとなさを感じる。

 

 横を向くと、少女は僕とそれなりのスペースを空けて座り、もう湯呑に口を付けていた。

 

 はぁ、なんて息を零す少女に後押しされて、僕も同じように口を付ける。湯気から香る茶葉の匂いと、舌先から流れ込む優しい緑茶の味。

 

 それだけ。ただそれだけだというのに、なぜか胸の奥がざわついて仕方なかった。

 

「...変なやつ」

 

 ぼそりと呟かれた一言に、僕は肯定も否定もできず、ただ逃げるように湯呑を持つ手を変えて、じっとしていた。

 

 それから、ふと思い出したかのように、少女が口にする。

 

「名前は?」

 

 少しの間。考えど、しかし何も出てこない。

 

 空白。そこだけが抜け落ちてしまったかのように、探しても言葉が見当たらない。

 

 その代わり、引っかかるものが一つだけあった。

 

 

「...凪」

 

 

 これを、僕の名前にしよう。

 

 僕にしては珍しく、己を変えることを厭わなかった瞬間だった。

 

 しかしそれさえも見透かしているかのように、少女は問いかける。

 

「それも曖昧なの?」

 

「...たぶん」

 

 同じような会話。同じような空気。同じようなテンポ。

 

 そのフラットさが、逆に今の僕に意義を与えてくれているようだった。

 

 少女は少しだけ、本当に少しだけ、ふっと軽やかに笑いながら声に出す。

 

「じゃあ、凪ね」

 

 今までと変わらぬ、なんともナチュラルな言い方。

 

 でも、それでいい気がした。

 

 名前を、呼ばれた気がした。

 

 

 初めて、そんな気がした。

 

 

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