虚飾を捨て、辿り着いた真実   作:パワーポイント・レンジャー

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前編

 深夜、都心のマンションの一室には、静寂だけが濃度を増して居座っていた。

 美咲はキーボードから指を離し、画面に並んだ他人の人生をなぞる言葉たちを眺める。そこには、他人の名で綴られるエッセイが映し出されていた。

 彼女の仕事は、誰かの「見せたい自分」に相応しい言葉を添えることだ。虚構と現実の境界線に立つ彼女にとって、部屋を包むこの静寂こそが唯一の真実だった。

 

 その静寂を、スマートフォンの短い振動が切り裂く。

 画面に躍ったのは、達也からのひどく回りくどい、彼らしい悲鳴だった。

 

『今から会ってくれないか。論理の通じない怪物たちに囲まれて、脳が酸欠状態なんだ』

 

 

 

 三十分後、美咲は馴染みのバーを訪れた。

 カウンターの隅で、達也は高級なサージ織りのタイを無造作に緩めていた。修羅場をいくつも越えてきたはずのM&Aアドバイザーの横顔には、勝ち取ったはずの「成功」という名の疲労が澱のように溜まっている。

 彼はグラスの中の琥珀色を虚空にかざし、美咲が隣に座るのを待たずに口を開いた。

 

「……なあ、美咲。ニーチェは言った。『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている』と。だが、今の俺にはこう聞こえる。『マチアプの画面をスワイプする時、画面の向こうの女は俺の銀行口座の残高を覗いている』とな」

 

 自嘲的な笑いが、氷の音と共にこぼれる。

 

「笑ってくれよ。今日会った女は、俺がM&Aのアドバイザーだと知るやいなや、俺の『人間性』というポートフォリオを全無視して、『年収の持続可能性』と『節税対策』について質問攻めにしてきた」

 

 達也の言葉は、まるで高速で回転する精密機械のようだった。澱みない論理で相手を切り捨て、自らの優位性を誇示しながら、その実、その言葉の刃は自分自身の胸元を突いている。

 

「俺は愛を語りたかったわけじゃない。ただ、既存の価値観を破壊するような、スリリングな知の火花を散らしたかっただけなんだ。なのに、返ってきたのは港区のタワマンの管理費についての現実的な懸念だ」

 

 達也は一気にグラスを呷り、空になった底を見つめた。

 

「俺の人生、このまま数字の羅列を整理して、金に群がる亡者たちの相手をして終わるのかな? 美咲、お前ならこの絶望をどう定義する?」

 

 達也の視線が美咲を射抜く。それは、答えを求める少年のようでもあり、世界の不条理を呪う老人のようでもあった。

 美咲は彼の視線を真っ向から受け止めず、静かにグラスの縁を指でなぞった。

 

「絶望というより、単なるマッチングミスじゃない? あなたが戦場を選び間違えているだけ。知の火花を散らしたいなら、まずはその高い時計を外してから会えばいいのに」

 

「ふん……相変わらず辛辣だな」

 

 達也は苦笑し、左腕のパテック・フィリップを眺めた。職人の技巧が詰まったその文字盤は、残酷なまでに正確な時を刻んでいる。

 

「時計を外せ、か。論理的には正しい。記号を排除すれば、そこに残るのは『俺』という個体だけだ。だが、これは俺の皮膚の一部なんだよ。戦うための装甲であり、俺が積み上げてきた時間の証明だ。それを外して、丸裸の、四十代の何者でもない男として戦場に立てと?」

 

 達也は身を乗り出し、美咲の瞳を覗き込んだ。

 

「俺が求めているのは、俺のポートフォリオを愛でる観客じゃない。俺の思考の脆弱性を突いてくるような、知的なテロリストだ。なのに、アプリのアルゴリズムが連れてくるのは、俺の年収という安定したインフラに乗りたいだけの搭乗希望者ばかりだ……。なあ、もし俺がこの時計を外して、ユニクロのTシャツで現れたら、お前みたいな女がそこに座っているとでも思うか? それとも、俺自身のアイデンティティがその程度の記号に依存していることを証明するだけか?」

 

 美咲は小さく首を振った。その瞳には、達也が身に纏う鎧の向こう側にある空洞が、はっきりと見えていた。

 

「装甲がないと戦えないのなら、最初から知の火花なんて期待しちゃダメ。あなたが愛しているのは、装甲を纏った自分なんじゃない?」

 

 達也の言葉がぴたりと止まった。

 論理の盾で武装した彼が、反論の言葉を見つけられずに沈黙する。バーの店内に流れる古いジャズの音が、急に音量を増したように感じられた。

 

「痛いところを突くな……。装甲を愛している、か。確かに、この時計も、肩書きも、俺が必死にロジックを積み上げて勝ち取った城壁だ。だが、その城壁の中にいる俺自身が、実は空っぽの空洞なんじゃないか……。最近、そんな不吉な予感が消えないんだ」

 

 達也は自嘲気味に笑い、グラスを置いた。氷がカラン、と寂しげな音を立てて崩れる。

 

「お前はいいよな。ゴーストライターとして、他人の人生の断片を言葉で埋めていく。自分の名前は出さず、常に境界線の外側に立って、冷静に観察している……。なあ、教えてくれ。俺みたいな、記号と虚栄心で塗り固められた男の絶望は、お前の物語の中でどんな結末を迎えるんだ? もし、俺がこのまま金目当ての女たちに包囲され続けて、適当な妥協でトロフィーワイフでも娶ったとしたら……それはハッピーエンドか? それとも、救いようのないバッドエンドか?」

 

「もしそれがバッドエンドだと思うなら、今すぐその城壁を自分から壊すべきよ。物語が面白くなるのは、主人公が一番守りたかったものを失った時から始まるんだから」

 

 美咲はまっすぐに、達也の迷走する魂を見つめて言った。

 達也は目を見開き、そして深く、深く、肺の中の毒をすべて吐き出すような吐息をついた。

 

「守りたかったものを、自ら手放す……か。M&Aの現場じゃ、いかにバリュエーションを高く保って『城』を守るか、あるいは奪うかしか考えてこなかった俺には、あまりに非合理な戦略だな。だが……」

 

 達也はゆっくりと左腕を上げ、迷いを断ち切るようにパテック・フィリップのクラスプを外した。重厚な機械式時計が、重々しい音を立ててカウンターに置かれる。

 

「面白い。その非合理に乗ってみよう。明日、マチアプのプロフィールを全部書き換えてやる。年収は二百万、職業は……そうだな、売れない哲学書専門の古本屋とでもするか。時計も車も全部隠して、ただの面倒な理屈をこねる四十男として戦場に戻るよ」

 

 その顔には先ほどまでの疲弊はなかった。あるのは、新しい実験を前にした、子供のような不敵な輝きだ。

 

「それで、美咲。もし俺がその実験で文字通りすべてを失って、本当の、救いようのない空っぽな男になったとしたら……その時は、お前の物語の主人公として俺を再構成してくれるか? 誰の名前も借りない、俺自身の言葉を、お前が代筆してくれるのなら……この絶望も悪くない投資だと思えるんだ」

 

「そうね。物語の主人公になれるのは、何者でもなくなった人間だけよ」

 

 美咲はカウンターに置かれた時計に一瞬だけ視線を落とした。それは、達也が人生の半分を費やして積み上げてきた「正解」の象徴だった。

 

「あなたが、自分の名前すら重荷になったとき……その時は、あなたの沈黙を私が言葉にしてあげる。でもそのためには、今のあなたが抱えている賢い絶望を、もっと無様に、もっと徹底的に使い果たさないと」

 

 美咲は椅子から立ち上がり、コートを羽織る。去り際、達也の肩にそっと手を置き、彼の瞳を見つめた。

 

「期待しているわ。記号を脱ぎ捨てたあなたが、どんなに不格好な火花を散らすのかを」

 

 そう言い残して、美咲は夜の街へと消えていった。

 

 

 

 数日後、美咲のスマートフォンに一通の画像が届いた。

 そこには、年収の項目を最低ランクに下げ、「ニーチェを論破できる女性募集」と記された、無謀で偏屈なプロフィール画面があった。

 

『結果報告だ。マッチング数は激減。だが一人だけ、俺のニーチェの引用に「解釈が甘い」と喧嘩を売ってきた女がいる。今夜、新宿のうらぶれた居酒屋で会うことになった。……これ、もしかして物語が動き出したか?』

 

 美咲はふっと口元を綻ばせた。

 

「最高じゃない。スペックじゃなく、あなたの面倒くささに食いついた人がいたなんて。その居酒屋、私も変装して隣の席で観察していようかな?」

 

 即座に既読がつく。

 

『おいおい、悪趣味な観客だな。だが、お前が隣の席で聞き耳を立てていると思うと、俺の知的な即興劇もより一層キレが増しそうだ。よし、許可する。思い出横丁の隅にある、煙たい焼き鳥屋だ。アルマーニのスーツはお蔵入りにして、今日はよれよれのジャケットで行くよ』

 

 画面越しに、達也の弾んだ声が聞こえるようだった。

 

 

 

 新宿西口、思い出横丁。

 焼き鳥の煙が、まるで意志を持つ生き物のように街路にのたうっている。高級ホテルのラウンジを仕事場とする達也には、本来なら最も縁遠い場所だ。

 美咲は、カウンターの隅でカシスソーダのグラスを回していた。

 黒縁の眼鏡と、襟を立てたトレンチコート――それは観察者としての彼女の変装であり、達也たちの世界から一線を画すための結界でもあった。

 

 隣の席で、達也が安物のジャケットの袖を捲り上げ、ハイボールを呷っている。その剥き出しの左腕には、数日前まで彼を守っていた重厚な時間の証明はない。

 そこに現れたのは、三十代半ばほどの、化粧っ気のない女性だった。しかし、その眼光だけは異様に鋭い。

 彼女は席に着くなり、メニューも見ずに言い放った。

 

「プロフィールにあった『永劫回帰』の解釈、あれ、ただの現状肯定でしょ? 変化を恐れる四十男の自己弁護にしか聞こえなかったから、わざわざ論破しに来たのよ」

 

 一瞬、達也の眉が跳ねた。百戦錬磨のアドバイザーとして、数々の交渉のテーブルを支配してきた彼が、初対面の相手に急所を突かれたのだ。

 だが、驚きはすぐに歪な歓喜へと変わる。美咲にはわかった。彼の内側に宿る討論者の魂が、久方ぶりの強敵を前に、産声のような叫びを上げているのが。

 

「ははっ、いい指摘だ。だが、肯定することこそが最大の闘争だとは思わないか?」

 

 達也は口角を吊り上げ、いつもの論理の鎧を纏い直そうとしているようだ。しかし、その声には子供が遊びに誘われた時のような、隠しきれない高揚が混じっている。

 

「……ところで君、酒を頼む前に、まずは俺の『空っぽな財布』と『面倒な理屈』、どちらから査定するつもりだ?」

 

「財布なんて興味ないわ。年収二百万の古本屋の店主に、運命愛(アモール・ファティ)を語る資格があるのか確かめたいだけ」

 

 女性は身を乗り出し、言葉の礫を投げつける。

 

「あなたの言う回帰は、ニーチェのそれじゃない。ただの円環的な退屈に名前を付けて、安住しているだけよ。ルサンチマンを抱えたまま、この狭い居酒屋で煮込みを食う毎日を『これが人生だ、さらにもう一度!』と叫べるほど、あなたは超人なの?」

 

 達也は瞳をぎらりと輝かせ、空になったハイボールのグラスをカウンターに叩きつけた。

 

「面白い。だが君の言う超人は、既存の価値を破壊するだけのニヒリストに過ぎないんじゃないか? 俺が言いたいのは、この煮込みの脂も、隣にいる友人の溜息も、すべてを引き受ける受動的ではない肯定だ。たとえそれが、市場価値ゼロの古本屋の戯言だとしても、そこに意志があれば、それはハイデガー的な投企になり得る!」

 

「笑わせないで。あなたの投企は、ただの現状維持の別名よ。本物の意志なら、その薄汚れたジャケットを脱ぎ捨てて、新しい実存を探しに行けばいいじゃない」

 

 会話は熱を帯びていく。二人は焼き鳥の煙に巻かれながら、恐ろしいスピードで言葉の刃を交わし始めた。

 達也はM&Aアドバイザーとしての余裕も論理もかなぐり捨て、一人の「売れない哲学書専門の古本屋の店主」として必死に言葉を紡いでいる。

 隣でカシスソーダのストローを無意識に回しながら、美咲は二人の横顔を見つめていた。

 

(ついに見つけたのね、装甲を剥がした自分を見てくれる人を。……なんだか少しだけ、私の知らない達也を見ているみたいで、胸がざわつくのはなぜ?)

 

「――違うな、それは単なるペシミズムだ。君が言う絶望には、未来への意志が欠けている!」

 

 達也の声が一段高く響く。美咲の前では、どこか俯瞰して余裕たっぷりに、哲学という名の愚痴をこぼしていたのに。

 その時、女性がふっと短く笑い、達也の空になったグラスを指差した。

 

「口だけは達者ね。でも、その意志とやらを証明するなら、まずはこの店のまずい煮込みを全部平らげてからにしたら? 資本主義の贅沢に慣れた胃袋には――あ、ごめんなさい、売れない哲学書専門の古本屋さんの質素な胃袋には、少しハードルが高いかしら?」

 

「受けて立とう。俺の胃袋を甘く見るなよ」

 

 達也は迷わず、脂ぎった煮込みの皿を引き寄せた。その横顔は、金やステータスを追っていた時よりも、ずっと生きているように見えた。

 美咲は溶けかかった氷の音を聞きながら、達也が手に入れた新しい痛みを静かに見守るしかなかった。

 

 

 

 一時間後、店を出た達也と女性は、駅へ向かう激しい人流の中で背を向け合った。

 少し遅れて店を出て彼らを追っていた美咲は、人混みの中で漂流するように歩く達也の背中をそっと叩いた。

 

「お疲れ様、哲学者さん」

 

 達也が振り返る。その瞳は、煮込みの脂と安酒の酔い、そして知的な乱闘の余熱で、見たこともないほど潤んでいた。

 

「……見てたか、美咲。惨敗だよ。論理の組み立ても、胃袋のキャパシティも、あの女には敵わなかった。だが、不思議だな。マチアプで条件を査定されていた時よりずっと、自分が実存している実感がする」

 

 新宿の夜空は、無数のビルが放つ人工的な光に押し潰され、星一つ見えない。

 

「俺……あいつにまた会いたいと思ってる。でも、もし次に会う時に、俺が『本当は金も地位もあるM&Aアドバイザーだ』と明かしたら、この魔法は解けてしまうのかな? それとも……」

 

「明かした瞬間に、彼女の目からあの知的な輝きが消えて、ただの金目当ての視線に変わるかもね。その覚悟があるなら言ってみれば?」

 

 美咲の言葉は、夜風よりも鋭く、達也の高揚した皮膚を叩いた。

 達也は立ち止まり、自分が資本主義の勝者として君臨している記号の街を見上げた。

 

「……覚悟、か。確かにそうだな。俺が『M&Aアドバイザーの成功者』という記号を差し出した瞬間、彼女もまた俺を論破する哲学者から、俺の資産を査定する鑑定士に変貌するかもしれない。それは、今の俺にとって、どんな暴言を吐かれるよりも恐ろしい死だ」

 

 自嘲気味に笑い、達也はノータイの首元を無意識に撫でた。そこにあるはずの誇りは、今や彼を縛る鎖に過ぎない。

 

「美咲、お前は本当に残酷な鏡だな。俺が一番見たくない現実を、一番綺麗な言葉で突きつけてくる。だが、不思議と嫌な気はしない。むしろ、その絶望感さえも、今は心地いい。俺が求めていたのは、安っぽい肯定じゃなく、こういう本物の手応えだったのかもしれない」

 

 達也は新宿駅の喧騒を背に、美咲をまっすぐに見つめた。その瞳には、かつての冷笑的な光ではなく、明日をも知れぬ旅人のような危うい熱が宿っている。

 

「なあ、美咲。もし、彼女に真実を話して、案の定すべてがぶち壊しになったら……その時、俺はまたお前の前に現れてもいいか? その時は、俺の無様な物語の破綻を、最高に皮肉な筆致で書き留めてくれよ」

 

 人混みに消えていく達也の背中は、以前よりも小さく、けれど確かな輪郭を持って夜の闇に溶けていった。

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