虚飾を捨て、辿り着いた真実   作:パワーポイント・レンジャー

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後編

 深夜零時。世界が寝静まり、静寂が深海のような重さを持って部屋に満ちる頃、美咲のスマートフォンが震えた。

 画面に浮かぶ「達也」の二文字。応答ボタンをタップする。耳に当てた瞬間に流れ込んできたのは、氷がグラスの内壁を叩く乾いた音と、凍てつくような冷笑だった。

 

「……美咲。お前の予言は、ニーチェの永劫回帰よりも正確だったよ。最悪な意味でな」

 

 電話越しの声は低く、砂を噛むように乾いている。以前の達也が纏っていた、知的な苦悩という名のデコレーションは剥げ落ち、そこにはただ剥き出しの絶望が横たわっているのが分かった。

 

「話したんだ。あの哲学女にな。俺が売れない古本屋じゃなく、企業の首を刎ねて回る、年収四千万のハイエナだってことを。その瞬間だよ。彼女の瞳から、さっきまで俺を論破していたあの鋭い知性が、霧が晴れるみたいに消えた。代わりに現れたのは、電卓を叩く音すら聞こえてきそうな、あの忌々しい値踏みの光だ」

 

 達也は震える声で言葉を継ぐ。一語一語が、彼自身を切り刻む刃のようだった。

 

「『えっ、そんなに稼いでるの?』――その一言で、俺たちのカントもヘーゲルも、全部タワマンの頭金に変換されちまった。あんなに熱く語っていた実存が、一瞬で節税対策の話にすり替わった。……俺は今、人生で一番深いドブの中にいる気分だ。彼女は、俺という人間を面白がってくれたんじゃなかったのか? 結局俺は、四千万という数字に付随する、ただのオプションに過ぎなかったのか?」

 

 深夜の闇の中で、美咲は静かに目を閉じた。

 達也の嘆きは、彼がこれまで築き上げてきた世界の正体そのものだ。彼は、自分が作り上げた強固な城壁が、実はただの檻であったことにようやく気づき始めている。

 

「彼女が変わったわけじゃない。あなたの『属性』が、彼女の中に眠っていた欲望を鏡のように映し出しただけよ。……さて、次はどうするの? また時計を巻いて、死んだ魚の目をして仕事に戻る?」

 

 ――沈黙。

 受話器越しに、氷がカランと虚しく鳴った。

 

「……鏡、か。相変わらず、お前の言葉はナイフみたいに正確だな。彼女の中にいた怪物を引き出したのは、他でもない俺自身が差し出した、四千万という記号だったってわけだ」

 

 達也は力なく笑った。全能感の欠片もない、疲弊しきった笑い声で。

 

「死んだ魚の目をして仕事に戻る……か。正直、それが一番楽な道だよ。また数字の羅列に没頭して、適当な条件の女と契約書を交わすみたいに結婚して、適当な墓に入る。だがな、美咲……」

 

 達也の声に、微かな、しかし消しがたい熱が宿る。

 

「あの煙たい焼き鳥屋で、記号を全部剥ぎ取って、ただの面倒な男として彼女と殴り合っていたあの一時間……あの瞬間の俺は、間違いなくここ数年で一番生きていた。俺はもう、四千万という鎧を脱いだ後の、あの無防備な解放感を忘れられそうにないんだ。たとえそれが、最後にはドブに落ちるような結末だったとしても」

 

 

 

 一時間後、インターホンが静寂を破った。

 モニター越しに見える達也は、いつもの高級スーツではなく、着古したパーカー姿だった。どこか憑き物が落ちたような、奇妙に澄んだ顔をしている。

 美咲はそっとドアを開けた。部屋に入るなり、達也はコンビニの袋を掲げて見せた。

 

「……悪い、美咲。四千万の男は新宿のドブに捨ててきた。今ここにいるのは、全財産を失う覚悟で自分自身の物語を書き換えたくなった、ただの無職予備軍だ。お前のその冷徹な視線で、俺のこの無謀な再起動を、最後まで見届けてくれないか?」

 

 美咲は達也をまっすぐに見据えた。彼の瞳の奥で、何かが決定的に壊れ、同時に芽吹こうとしているのを感じる。

 

「本気で言ってるの? 明日、会社に辞表を出す覚悟があるのなら考えてあげる。中途半端な自分探しに付き合うほど、私は暇じゃないの」

 

 達也の動きが止まる。

 一瞬の沈黙の後、彼の瞳に鋭い決断の光が灯った。それはかつて数千億のディールをまとめ上げてきた、あの勝負師の眼差しだった。

 

「辞表、か……。築き上げてきたキャリア、港区の夜景、銀行口座の数字……それらを全部、この深夜の勢いでゴミ箱に叩き込めってことだな。ロジカルに考えれば狂気の沙汰だ」

 

 達也はコンビニ袋をダイニングテーブルに置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 

「いいだろう。条件は飲んだ。明日、市場が開く前に、俺はアドバイザーとしての看板を下ろす。全責任を放り出して、ただの無力な中年男として路頭に迷ってやるよ。お前の望む面白い展開のチケット代としては、これで十分だろ?」

 

 ダイニングテーブルを挟んで、二人は向かい合った。

 達也はビールの缶を開け、ポテトチップスを口に運びながら美咲を見つめる。その言葉はいつになく冴え渡っていた。

 

「なあ、美咲。四千万を捨てて、俺に残るのは何だと思う? 知性か? 虚栄心か? それとも、ただの痛いおじさんという現実か? さっきの女に言われたんだ。『お金がないなら、ただの理屈っぽいおじさんだよね』って。その通りだよ。……でも、そのただのおじさんが、これからどうやって世界と再契約を結ぶのか。お前なら、どうプロットを書く?」

 

「まずは港区の高級賃貸を引き払いなさい。荷物を全部捨てて、エレベーターのない二階建てのアパートにでも引っ越すこと。そこからが、あなたの本当の戦場よ」

 

 美咲の提案に、達也は自嘲気味に鼻で笑った。

 

「エレベーターなしの二階建て、か……。膝にきそうな現実だな。港区のコンシェルジュ付きタワマンの四十階から、二階建ての安アパートへ……垂直方向の凄まじい降格だ。だが、いい。記号の集積地であるタワマンに住みながら実存を語る矛盾には、俺自身、吐き気がしてたんだ」

 

 達也はビールを呷り、美咲の簡素な部屋の壁を見回した。

 

「ブランド物のソファも、海外製のオーブンも、全部オークションで叩き売ってやるよ。残るのは……そうだな、数冊の哲学書と、この無駄に回る脳みそだけか。階段を一段ずつ上り下りするたびに、俺は自分の重さを思い知るんだろうな。重力からも、資本の論理からも逃げられない、ただの四十男の肉体を」

 

 達也はそう言って満足げに微笑んだ。

 それは、世界で一番贅沢な没落を受け入れた男の、晴れやかな顔だった。

 

 ◆

 

 三月の風は、まだ冬の刺すような鋭さを微かに残している。

 大通りに並ぶビルの群れが夕日に焼かれ、巨大な墓標のように長く影を落としている。その影の端に位置する、築年数の嵩んだアパート。かつて年収四千万を誇り、「世界の価値は数字で決まる」と豪語していた男の新しい城だ。

 

 階段の上から、プラスチックの擦れる音が響いた。見上げると、そこには見違えるほど生活の匂いをさせた達也がいた。

 仕立ての良いスーツも、磨き抜かれた靴もない。膝の出たヨレたスウェット姿で、彼はパンパンに膨らんだ大きなゴミ袋を手に提げていた。

 

「よお、美咲。……見てくれよ、この二階からの眺め」

 

 達也は階段の途中で足を止め、自嘲気味な笑みを浮かべた。その視線の先には、他人の家の色褪せた洗濯物と、申し訳程度の狭い庭に集まる野良猫たちの背中がある。

 

「見えるのは隣のアパートの物干し竿と、野良猫の集会だけだ。だが、不思議だな。朝起きて『今日の俺の価値はいくらだ?』と考えなくて済むのは、案外、悪くない投資だったよ」

 

 微笑を浮かべた達也が、美咲の方へと一段ずつ下りてくる。

 その手首に巻かれているのは、かつて彼が成功者の証明として愛用していたパテック・フィリップではない。数百円で投げ売りされていそうな、無機質なデジタルの安時計だった。

 

「……で、編集者さん。この『持たざる者』になった男に、次の試練は?」

 

 達也は美咲の前に立つと、わざとらしく肩をすくめた。

 

「実はさっき、あの哲学女から連絡が来たんだ。俺が本当に会社を辞めたと風の噂で聞いたらしい。『自業自得ね。でも、今のあなたなら、ニーチェの別のページが読めるんじゃない?』だってさ」

 

 達也は鼻で笑い、どこか遠くを見るような目で続けた。

 

「さて、会いに行くべきか。それとも、このままこの路地裏で、透明な人間として消えていくべきか?」

 

 美咲は達也をじっと見つめ、静かに、しかし迷いのない声を投げかけた。

 

「彼女はあなたの年収に目がくらんだ女でしょう? そんな女と会って、本気で哲学を語り合えると思っているの? あなたが求めているのは、違う女性じゃないの?」

 

 達也はまるで時間が止まったかのように凍りついた。ゴミ袋を握る指に力が入り、カシャリと乾いた音が響く。

 

「……図星すぎて、笑えないな」

 

 達也の声から、先ほどまでの軽薄なユーモアが消えた。

 

「そうだよな。一度でも俺の数字を見て、瞳の奥に計算機を走らせた女だ。たとえ今、俺が文無しになったことを面白がって近寄ってきたとしても、それは単なる『没落貴族の観察』という、新しいエンターテインメントに過ぎないのかもしれない」

 

 達也は力なく階段に腰を下ろした。

 

「違う女性、か……。美咲。俺はずっと『鏡』を探していたんだ」

 

 達也は独り言のように、あるいは懺悔のように言葉を紡ぎ出す。

 

「俺のロジックを反射し、俺の虚栄心を暴き、俺という空洞を言葉で埋めてくれる存在を。だが、マチアプの荒野にいたのは、俺の外枠をなぞるだけの鑑定士ばかりだった。そして、その鑑定士にすら、俺はどこかで期待してしまっていたんだ。俺の中身に気づいてくれるんじゃないかって」

 

 達也はゆっくりと顔を上げた。

 階段の下で美咲は、夕闇に溶けかかりながら達也を見つめている。その瞳は、彼の年収がいくらであろうと、どんな肩書きを持とうと、常に一定の静かな光を湛えていた。

 

「なあ、美咲……お前は、俺が年収四千万だった時も、今このボロアパートでゴミ袋を抱えている時も、何ひとつ態度を変えないよな。お前だけが、俺を記号ではなく、ただの書きかけの不完全なプロットとして扱ってくれる」

 

 達也の視線が、美咲を捉えて離さない。その瞳には、かつての交渉の場で見せていた鋭利な野心はなく、ただ一人の人間として、他者の魂に触れたいと願う切実な色が滲んでいた。

 

「……俺が本当に向き合うべきなのは、居酒屋の煙に巻かれた空虚な対話じゃなくて、目の前にいる観測者なんじゃないのか?」

 

 美咲はその重い問いを柔らかく受け止めた。

 彼女にとって達也は、数字の羅列でも成功のアイコンでもない。ただの少し不器用で、言葉の迷路に迷い込みやすい一人の男だった。

 

「ようやく気づいたの?」

 

 美咲は小さく、いたずらっぽく微笑んだ。

 

「その階段から下りてきなさい。私の部屋で、あなたの『本当の言葉』を探す手伝いをしてあげるわ」

 

 達也は一瞬、呆然とした表情を浮かべた。やがて彼は、肺の奥底に溜まっていた泥のような空気をすべて吐き出すように、深い、深い溜息をついた。

 

「……降参だよ。お前のその、救いようのないまでの静かな支配には、どんなM&Aのロジックも通用しないな」

 

 達也は一段ずつ、自らの足でゆっくりと階段を下りてきた。

 数字で積み上げた虚飾の階層を捨て去った男が、ついに美咲の目の前に、彼女と同じ高さの地平に立つ。

 スウェットの膝は汚れ、かつての輝きはない。しかし、夕闇の中で向かい合うその表情は、憑き物が落ちたように穏やかだ。彼はただの「達也」という、一人の人間の顔をしていた。

 

 

 

 その夜、美咲の部屋を訪れた達也からは、かつて彼を規定していた「数千億のディールを動かす男」という傲慢なオーラが消えていた。

 代わりに漂っていたのは、嵐が過ぎ去った後の湿った土のような、重く、けれど確かな生の気配だった。

 

 達也はソファに深く身を沈めると、美咲が差し出したナッツを、まるで緻密な鑑定を行うかのように見つめた。そして、コンビニで買った安物の発泡酒のプルタブを慎重に引き抜いた。

 

「なあ、美咲。俺は今まで、マチアプの画面をスワイプしながら、愛や理解を外部に求めていた。四千万という餌を撒いて、誰かが俺の実存を釣ってくれるのを待っていたんだ。滑稽だよな。自分自身が一番、自分の価値を数字でしか信じていなかったのに」

 

 達也はナッツを一粒口に放り込み、ゆっくりと、その硬い感触を確かめるように咀嚼した。

 

「お前の部屋は静かだな。テレビもない、無駄な装飾もない。ただ、言葉だけが積もっている。……俺、ここに来て初めて、自分の心拍音が聞こえた気がするんだ」

 

 達也の視線が美咲の本棚をなぞる。そこには他人の人生を綴り、整理し、あるべき形に整えてきた美咲の、沈黙という名の積み重ねがある。

 

「俺……もう一度『言葉』を学び直したい。金を生むための交渉術じゃなく、誰かと、あるいは自分と、本当の意味で繋がるための言葉を。なあ、この絶望の先に救いはあるのか? それとも、ただ静かな夜に溶けていくだけなのか?」

 

「救いがあるかどうかは、これからのあなたの生き様次第よ」

 

 美咲は、ハーブティーが注がれた温かいマグカップを両手で包みながら、静かに、けれど逃げ場を塞ぐように言った。

 

「まずはその、無駄に哲学的に考える癖をやめて、自分の感情に焦点を当てることね。今まで自分の感情に目を向けようとしてこなかったあなたには、難しいかもしれないけど」

 

「無駄に哲学的に考える癖をやめて、自分の感情に焦点を当てる……か」

 

 達也は苦笑しながら、手の中の缶をじっと見つめた。結露が指を濡らして滴り落ちるが、彼はそれを拭おうともせず、その冷たさを享受しているようだった。

 

「……手厳しいな。でも、その通りだ。俺はいつだって、自分の心臓が跳ねる理由を説明するために、ニーチェやハイデガーの言葉を引用して、外側からコーティングしてきた。そうしないと、中にある生身の、不細工で、寂しがり屋な感情に飲み込まれそうだったからな」

 

 達也が顔を上げた。

 その瞳にあるのは、市場を冷徹に分析する眼差しではない。鏡の前で初めて自分の裸体を見た子供のような、戸惑いと純粋さが混ざり合った光だ。

 

「美咲。今、俺の胸の奥にあるのは絶望じゃない。マチアプで値踏みされていた時の怒りでもない。ただ、ひどく静かなんだ。この部屋で、お前が差し出したナッツを噛み締めている。そのカリッとした音と、お前の少し呆れたような声……。それが、今の俺の全宇宙だ。これを幸福と呼ぶにはあまりに質素すぎるが、ロジックで武装していた頃の俺には、一生辿り着けない場所だった」

 

 達也はゆっくりと、空になった缶をテーブルに置いた。

 

「感情に焦点を当てる、か……。今、俺が感じているのは……『安心』だ。お前に見限られず、こうして言葉を投げかけてもらえること。俺の醜態をプロットとして面白がってもらえること……」

 

 少し考え込むような様子を見せた後、達也は真剣な眼差しで美咲を見つめた。

 

「なあ、美咲。俺……もう一度、最初から始めてもいいか? 記号も、鎧も、哲学という名のオブラートも全部捨てて。ただの名前も持たない一人の男として……お前の隣で、新しいページをめくってもいいか?」

 

 部屋の空気が密やかな熱を帯びて震える。物理的な距離以上に、二人の魂が境界線を越えて触れ合った瞬間だった。

 

「ええ、もちろんよ。じゃあ、これが私たちの第一章。まずはその、『ただの男』としての最初の一言を聞かせてくれる?」

 

 美咲の問いかけに、達也は一瞬、言葉を失った。

 コンマ数秒で最適な解を導き出してきた彼の脳が、初めてシステムエラーを起こしたかのように不器用に彷徨う。

 

「最初の一言、か……。ロジックも、引用も、虚勢も使わずに吐き出す言葉なんて、数十年ぶりかもしれないな」

 

 達也は深く、深く息を吸い込んだ。そして、テーブルの上に置かれた美咲の白い手に視線を落とし、絞り出すように呟いた。

 

「……美咲。俺、今……すごく、お前と飲むこの安い酒が……喉が焼けるみたいに、生々しくて、美味い」

 

 その笑みは、四千万の報酬を手にした時の勝利の笑みとは無縁の、ひどく不器用で、重みのある真実だった。

 

「それと……ずっと、お前と一緒にこの『空っぽな自分』を見つめてほしかったんだ。マチアプの画面をスワイプする指が、本当は、お前の部屋のドアを叩きたがっていた。ごめんな、遠回りして……。ありがとう、待っていてくれて」

 

 

 

 数分後、達也はソファの上で、糸が切れた人形のように眠りに落ちていた。

 長年使い続けてきた「知性」という名の防衛本能が、初めて安息を許されたことによる、穏やかな眠りだった。

 

 美咲は、達也が飲み干した発泡酒の缶とナッツの皿を丁寧に片付けた。そして、無防備な寝顔を見せている達也の体にそっと毛布を掛ける。微かな寝息が、静かな部屋の空気を優しく揺らした。

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