「私が、痴女……?」
ほとんど無表情ながら若干気に入らなそうにする魔女。そんな魔女の困惑を流すように、勇者はふふっと笑う。
「まあいいけどさ、別に。っていうか忍者、魔女だったんだ」
「忍者は忍者だよ。魔女は魔女」
そう言って魔女は自分を指差す。勇者は疑う目つきで魔女を見つめ、何言ってんだこいつ、みたいな顔でへっと笑った。
「そんな……面白かったかな」
ツッコむような調子で魔女が笑う。勇者は睨むが、その視線の先にいたのはゆめかわ帽子を被った目から舌が出た女の子だった。
「それもかぁ」
ため息をついた勇者を心配してか、女の子は帽子を脱ぐと、勇者の方に歩いてきて帽子を差し出し言う、
「ごりらのお姉ちゃん、帽子無くしちゃったんだね。これ、私のをあげる」
勇者は苛立ちを隠しはしなかったが軽く屈んで答えた。
「ううん、これはあなたのでしょ。あなたが大切にしてなくちゃ」
「うんわかった。でもお姉ちゃん、もう泣かないでね。約束だよ」
「はいはい。約束するよ」
女の子がはにかみ、その姿がまた変わる。今度は髪を後ろでまとめた大人っぽいバーテンダーの女だった。
「魔女なら」
その女は顔を傾け、目にかかる前髪を揺らして言う。
「ヒョールドともう一度会わせてくれるだろうね」
勇者はくすっと笑って答える。
「それ、踊る死骸ってやつでしょ? ヒョールドさん裏切るよ。ぜーったい裏切る。特に魔女みたいのは神殺しの毒で殺されちゃうんだから」
「ふぅん。確かに?」
納得してなさそうに頷くバーテンダー。その姿が変わり、いつかブルードゥクの政治家に紛れていた若い魔術師風の男に代わる。
「まったく、好き放題やってくれたじゃないか。私の国はもう滅茶苦茶だ」
「あなたの国~? 野望があったんだ」
「あったさ。でももう駄目だ……変化が目まぐるしすぎる。親の七光りは通用しない。何もしなければあっという間に引きずり落とされちゃうだろうね」
「でも、何とかしそうな雰囲気出てるけど」
男は笑った。
「駄目だろうね、もっと情勢に合わせて自分を変えていかないと」
「なら問題ないでしょ」
「おやおや、勇者様は優しいじゃないか……まあ、頑張れるだけ頑張るさ。見ててくれ」
「うん」
魔術師風の男は苦笑し、再びその姿が変わりゆく……。
「はぁ、わかった。もういいから」
勇者は嫌々ながらも納得した顔で魔女の変化を手で制した。魔女は再び忍者衣装の無表情の女の姿に戻った。勇者は意気消沈した顔だったが、魔女の顔を見て思い出したように言った。
「あ、っていうかそうなるとさ、あのお風呂は忍者なりの反撃だったわけ?」
魔女は淡々と口だけで答えた。
「さあ。忍者の考えることは私にもわからないから」
「はは、魔女でも」
勇者は嬉しそうに笑う。笑ってるように見えた、けど、その目だけは笑っていない。勇者は魔女が笑いに付き合ってくれないと見るとその笑みを挑発的なものに変えていく。
「科学っていうんだっけ? すごいじゃん、この街」
「私に言われてもね、私が頑張ってるわけでもないから。だいたい……」
と、魔女は頭上の街を見上げながら、冷たい声音で言った。
「科学なんて、魔法を準備するための前座でしかない」
「あ、へえ。面白いこと言うじゃん」
「そう?」
「うん、そう」
こんな会話に意味がないことがお互い確認できたと勇者は思う。勇者は本題に切り込んだ。
「で、さっきの何?」
「さっきの?」
「電車で私がやられてたやつ。すごく気持ち悪かったんだけど」
それで伝わったらしい。魔女はほほ笑みにも満たないささやかな笑みを浮かべた。
「ちょっとだけつついてみた」
「ちょっとだけ?」
「うん。あれがもう少し進めば勇者をあの女の子の夢の中に閉じ込められた。女の子がうたたねから覚めて夢を忘れたら、勇者もそのまま消えてた。それで私の勝ちだったんだけどね」
「……あの女の子は、あなたの何なわけ?」
「私とは関係ないよ。たまたまあなたみたいなのを求めてる人がいたから、ちょっと繋げた。足跡は残っちゃったみたいだけど、それはもう私の問題じゃない」
「へぇ。へぇー」
勇者はわかったというように頷き、笑みを浮かべた。にたりとして、どこか薄暗い笑みだった。勇者は目を見開き、怒気を含ませた声で言った。
「めちゃくちゃ笑えるんですけど」
勇者は剣を抜き放ち、鋭い踏み込みと共に魔女を頭から真っ二つにしにかかる。
べしゃっと勇者の両側に分たれた魔女の体が落ちる。勇者は剣を見た。血がついていなかった。
「笑える?」
二つに分たれたままで魔女は言う。勇者は振り返り、足元の二つの体を交互に見る。
「勇者は、笑ってくれるの?」
忍者の黒装束の帯がふわりと風に漂った。同じ風に掠れそうな声が乗ってくる。魔女の二つの体が逆再生されたかのように浮き上がり、二つにくっついていく。
笑いに不機嫌を滲ませ勇者は尋ねる。
「何が言いたいわけ?」
魔女は答えなかった。言っていいのかと聞いているように勇者の方を見つめるだけだ。
勇者は魔女をとがめるように睨みつけた。
「わけわかんない。ツクシちゃんがあなたみたいなのに挑むわけない」
「うん、私もそう思ってた。でも来て……怒って襲い掛かってきたから」
ギリ、と勇者は歯を噛みしめ、魔女から目を逸らしてうつむく。魔女はそんな勇者のためにか、もう一言付け足した。
「本人もずっと迷ってたみたいだし、あなたと触れ合って心変わりしたみたい」
固く噛みした歯の合間で、勇者が舌打ちする。剣を強く握りながら、最後に踏みとどまって尋ねた。
「あなたは何がしたいわけ?」
「うん。私は探してたの」
「何を?」
「私を殺してくれる人。あるいは……」
言いかけた魔女が見たのは目の前に迫った勇者の振り上げる剣だった。迫る剣を眠そうな目で見つめていた魔女だったが、やはり動かず、剣は振り下ろされる。
剣は魔女を真っ二つにし、勢い余って月の地表に深く食い込み、そのまま振り抜かれた。
鈍く籠った音が地表を揺らす。白い土くれが舞い、勇者の足場が滑らかにずれて滑っていく。
月は真っ二つになっていった。魔女は真っ二つになったそばから逆再生して元に戻り、その体は浮遊して、二つの月の境に立つ。
勇者が足場にしている月の片割れが魔女から離れていく。魔女は呼び掛ける。
「どうするの? 勇者」
その声は星の内側、閉じ込められた宇宙全体に響いて勇者を通り過ぎていく。勇者はさらに笑いと怒りを募らせて言った。
「消し飛ばす」
勇者が剣を振るう。そこから生じた斬撃は暗闇を切り裂いて進んでいく。魔女はひょいとかわしてしまうが、斬撃はそのまま宇宙を切り開き、宇宙を取り巻いていた星の内側の層までもを切り開いた。
暗い宇宙に夕陽が差し込んでくる。魔女はかすかにほほ笑むと宇宙の割れ目へと逃れていく。勇者もまた、割れた月の地表を蹴って追いかけた。
遠くの空は暗い青、反対側の空はオレンジに紫、水色が混ざり合い、漂う大きな雲は一際明るい色に照らされていて……。
夕暮れの空に飛びあがった勇者は魔女の姿を探して街を見下ろした。そんな勇者に高速道路が鞭にようにしなり、叩きつけられる。勇者は鼻で笑って道路を剣で弾き飛ばす。
さらに、地上で根元から千切れた高層ビルが幾本も浮き上がると、そのまま勇者へと叩き込まれ、たがいにぶつかり合いながらすりつぶされていく。
圧縮された残骸は勇者を中心にして高速で渦を巻いて回転、さらにその上からミサイルみたく飛んできた車が無数に突き刺さって爆発、炎上する。
「うるさいよ」
けたたましい爆発音、金属音の中でその声を拾ったのは魔女だけだったろう。勇者は剣の横面で瓦礫を薙ぎ払う。
瓦礫はほとんど隕石のようになって地上へ降り注いだ。地面が割れ、あちこちで爆発が起こる。勇者が怒りの目で見下ろした先、逃げ惑う人たちの中心で、魔女が勇者を見上げていた。
「ほんと硬い」
魔女が勇者を指差す。夕暮れの空がぎゅんと歪む。炎の吹き上がる地上がぐわんと波打った。
魔女は突然後ろ向きに倒れる、その体が地面に当たった瞬間、地面が柔らかく撓んでいった。地面は魔女の落下を止めることなくどんどん歪み、魔女の体は深く、深くへと沈んでいく。魔女の沈んだ地面の両側から、真っ赤な三角形の「止まれ」の標識がきれいに整列して飛び出てくる。
勇者は近くを漂っていた瓦礫を蹴り、止まれの標識を連続でぶち抜いて魔女の方へと飛ぶ。が、勇者の視界に異常が起こっていた。魔女との距離がどんどん遠ざかっていく。
魔女と勇者の間に広がっていた空と地上、風景という風景が勇者を包み込み、押し寄せてくる。
夕暮れに飛ぶ鴉たち……先頭を飛ぶ鴉が太陽へと変わり、その後に続く鴉達が水星や金星、地球や火星、木星へと次々に変わってお互いに潰し合いながら勇者に押し寄せてくる。
勇者はそうした星の並びをも一振りで両断し、割れた地球の中へ。割れた地球の内部で神社の石段はマグマの中に浮かび、赤い鳥居が続いていく、その手前には再び止まれの標識が現れるが、勇者は標識を蹴飛ばして鳥居を走る。
魔女は微笑みを浮かべ、まだ落ち続けていた。
魔女が沈んでいった本殿をくぐると、そこには鏡が置かれていた。
鏡の中でしゃらしゃらと潮騒が鳴く。星々の流れる天の川が鏡から溢れ、本殿は歪み、地球もばらばらに分解され始めていた。数多の目を感じながら、勇者は鏡の中へと飛び込んだ。
馬に乗り、電車に乗り、ベビーカーに乗せられながら……ベビーカーは勇者のツッコミと共に切り捨てられたが……勇者は次々と世界を切り裂き、宇宙を切り裂きながら魔女を追いかけ続けた。
勇者を取り巻く世界は次々と変転を繰り返すが、突進する勇者の勢いは止まらない。鏡も銀河も。雨に濡れる庭も美術館のタイルに反射する夕暮れも、そして畳の上を転がるペットボトルの水のきらきらさえ、全てが引き延ばされて勇者へ殺到する。
そしてついに、勇者の体は数多の星、宇宙、世界線のあわいに圧し潰され、耐えきれずにぷちっと潰れた……。
魔女は逃げるのをやめて止まった。周囲には何も残っていない。もう誰の声も聞こえな
「潰れてないって」
暗闇を一閃して剣が振り抜かれる。魔女の体は再び二つに分たれた。
二つに分かれて離れて行こうとする魔女の体を両手で支え、ニヤニヤと笑みを浮かべる勇者の姿があった。勇者はわざとらしく魔女の耳元でささやく。
「私の声、聞こえてる?」
魔女はジトッとした目で勇者を見て言う。
「聞こえてる」
魔女の体は勇者の手をすり抜けて逃れ、部屋の隅まで移動する。
「で、ここどこ?」
勇者が辺りを見回す。窓から差し込む昼の日差しがカーテンを掠めて床で揺れ、壁際には白塗りのクローゼット、クローゼットの前を避けたところに人形や縫いぐるみの入ったおもちゃ箱、そして子供用のベッドがあった。
勇者は足元を見下ろした。そこには勇者の膝より少し低いくらいのテーブルがあり、床に座った男の子が勇者に背を向け、クレヨンでお絵描きをしていた。
何気なく勇者は身を乗り出し、男の子の後ろから絵を覗き込む。
青い三角の帽子、丸い頭、青い三角の胴体をした人物らしき絵が描いてある。三角をよく見てみると、魔女の帽子に魔女のローブのようだった。勇者は知らず笑みを浮かべ、魔女の方を見る。
「なるほどね。あなたはここにいたってこと」
「そういうこと」
浮遊していた魔女が部屋に降り立ち、勇者の方へと進み出た。
「さっきの話だけど、勇者に頼みたいんだ」
「そ、言ってみてよ。もう一回」
促す勇者の口調は軽いが、魔女はしっかりと勇者の目を見て言う。
「殺してあげてほしい。私か、あるいはこの子を」
魔女が手で示したのはお絵描きをする男の子だった。勇者の視線を男の子の方に滑っていき、そのまま天井の隅へとスライドする。
「この子を殺すのさ、あなたじゃ駄目なの?」
勇者の質問に魔女は答える。
「殺せない。私じゃ手が届かないの。ねえ勇者、たぶんなんだけどね、勇者はきっとこのために」
「あーうるさいかも」
落ち着いた声音ではあったが、勇者は明確に魔女の言葉を遮って言う。
「いらないなぁ、それ」
繰り返される言葉を魔女が受け入れたのを見届け、勇者は次の質問に移る。
「この子はさ、例にもれず死にたい子なわけ?」
魔女は首を横に振った。
「この子自身はそんなこと思いもしない。でも、もう少し大きくなったら、この子は死にたいと思う。生まれたことを残念に思って死ぬことを夢見続ける。そのために子どもの頃の自分が生み出した最強の……言ってみれば作者より強いキャラクターである私を使って、一生懸命に自分を殺そうとしてる。でも、彼は辛い生活の中でも楽しい瞬間を見つけてしまうから……抵抗されて殺しきれない。私は彼に呪いをかけ続けてしまっている。私は彼から離れられないし、彼は私という呪いから離れられない。どっちも望んでてどっちも望んでない、この人生の歴史を、あなたの手で終わらせてあげてほしい」
「はぁ、なにそれ」
勇者は茶化して笑おうとしたが、魔女の瞳がそれを許さなかった、
「あなたの物語は、最初勇者と忍者がどこまでもふざけながら旅をするコメディでしかなかった。毒の四天王だって、最初は雪山の砦で暮らす料理人だった。戦いなんて野蛮なことはしない、この毒の料理を勇者が生きて完食して見せたら引退するって宣言して料理を振舞ったんだけど、勇者がまずいって言っちゃって。それでキレて食卓を毒の海にしずめちゃう。勇者は忍者と雪山でサーフィンして、怪物化したヒョールドを斬るの。でも雪山だから被害はほとんどなし。ほんと、面白おかしいだけのキャラクターだったんだ。私が居着いてしまったから……ねえ、わかるでしょ。踊る死骸は笑えない。私が出てくる物語は笑えない」
自嘲するように魔女が笑う。一度男の子が書いている魔女の絵を覗き込むと、顔を上げて勇者を見る。
「ねえ勇者、この子の描く私か、あるいは私を描くこの子を……殺してくれたら嬉しい」
魔女は柔らかい眼差しで勇者の方を見るが、勇者はそれに乗れず、妙に白けた表情を取っていた。
「一応前提として、この子が育った死にたがってる奴のとこには行けないわけね」
「うん。嫌われてるから近寄れない。もう少し経ったら一回私のことを忘れる時期が来るから、これだけ近くまで来れるのはこの時期だけ」
「ふーん、あなたはあなたで大変そうだけど、でもねぇ」
勇者は部屋の奥の窓を見る。部屋は二階にあるようで、遮る物のない青空に薄く白い月が浮かんでいた。
「いや、わかんないわ。なーにが問題なのかさっぱり」
「わからない……」
「うん、わかんない。分かる必要ある? 私はそのブチギレヒョールドさん(笑)とは話すこともできなかったんでしょ? 今のが絶対いいけどな」
「人も、魔族も、大勢死ぬのに?」
「うん」
何の迷いもなく頷き、言葉を足す必要もないと勇者は口も開かなかった。
実際、勇者は楽しんでいた。外側にいるつもりのこいつより、内側の私の方が内側の住人たちに厳しくて、それがこいつを困惑させている。正直、小気味いいかもしれない。今まで四天王や魔王が私を困らせてきた。最後くらい、私がその役に着いたっていいだろう。私は唇に笑みを浮かべ、さらに魔女を困惑させるであろうセリフを述べる。
「いや、言わないよ。言わない」
言ってくれないんだ。
「うん。私はその子を殺さないよ。あなたを殺してあげたいけど、今はちょっと癪なんだよね。あっ、ていうか私にも手が届かないかも」
そう言って勇者は紙の上に描かれた魔女に触れようとするが、その手は透明な壁に当たって届かない……いや、嘘だ。へたくそなパントマイムだ。
「嘘じゃなーい」
「この絵に描かれてる私を斬れば私は死ぬ。殺して」
「逆に? 殺させてみなよ」
胸を張って挑発する勇者の剣が勇者の手を離れ、ひとりでに動き出す。剣は空中で子どもの方を向いて固定される。剣は射出され、子どもの首と絵の中の魔女の首を同時に刈り取った。
「いや、よく見なって。男の子気づいてもないよ」
勇者は転がった剣を拾い、次はどうするの? と試すような笑みを浮かべて魔女へと指し向ける。
何がおかしいの?
「おかしいよ。ぜーんぶおかしい」
魔女はふわりと子どもの傍らに移動し、子どもに寄りそうようにしゃがみ込む。勇者は魔女と子どものへ手を伸ばすが、今度は本当に透明な壁に阻まれて触れられなかった。
「これも、笑えるものなら笑ってみせてよ」
魔女はそう言って口許で呟く。踊る死骸……。
透明な壁の向こうから人物が二人現れた。すらりとした体の青年、シン。そしてシルエットを覆うロングコートを纏い、神官帽を頭に被る……ヒョールドだった。
「ちょちょ……⁉」
飛び退いて距離を取ろうとする勇者だったが、体が浮き上がった瞬間にシンに手首を掴まれ、振り回されるようにして床に叩きつけられる。シンはそのまま制圧するべく腕を捩じって勇者の体に体重をかける。
「シン、なんか雑じゃない?」
笑い混じりに問いかける勇者。シンもまた笑って答える。
「こんなことしたって君は僕を敵としては見ないだろ」
「そりゃ見れないよ。友だちじゃん」
勇者が腕に力を籠めるとシンはすぐさまポジション変更、寝転がった勇者の頭の上に陣取り、勇者の頭に両手をかける。
「ははっ、マッサージでもしてくれるっていうの?」
からかうように勇者が言う。頭を抱え込まれているにもかかわらず余裕たっぷりの無抵抗だった。
「そう思ってくれて構わないよ」
そう言ってシンは抱え込んだ勇者の頭から、首の方に向かって優しく撫でていく……その動きのままでなめらかに、しかし速度は加速度的に早く、勇者の首をへし折りにいった。
「うわぁ!」
勇者の首が90度を超えたあたりで突っ張ったように止まる。勇者は口許を震わせながらも驚きと称賛の笑みを浮かべて横目でシンを見た。
「受け入れなよ。友だちなんだろ?」
シンはそういうと、ぐぎぎぎと首を正面に戻した勇者に柔らかな眼差しで視線を合わせる。
「ねえ、シン。裏切ってよ。一緒に魔女をボコそう」
あんまりな呼びかけではあったが、シンは嬉しそうにして体を前傾させ、倒れている勇者の耳元でささやいた。
「勇者、声をかける相手が間違ってる」
シンが離れる。シンの言葉を熟考してたらしい、遅れて勇者が起き上がろうとした瞬間、毒液がその顔に叩き込まれた。
「うぇっ、ぷぇっ! 口入った!」
勇者がぺっぺしつつも顔を上げると、そこには勇者に手を伸ばすヒョールドがいた。
「ヒョールド、さん?」
ヒョールドの細められた目蓋の内側で濁った瞳を蛇が回転する。星の流れる黒髪を垂らして姿勢を前傾させ、悶えるように片手で胸を抑えていた。勇者へと伸ばされた手は震え、助けを求めているようにも見える……。
「やっぱヒョールドさんだ」
勇者は笑ってヒョールドの方へ歩き出す。ヒョールドが歯を食いしばって毒液の鞭を振るう。
「いった笑」
勇者は打たれた頬を抑えながらも歩みは止めない、ヒョールドは鞭を振り上げようとするが、その手は止まった。止まった手を、勇者の手が包み込む。
「ヒョールドさん、起きてよ」
ヒョールドは喋らなかったが、息を上げたまま瞳を勇者の方へ向けた。
「魔女のおもちゃになるなんて、そんなのヒョールドさんに相応しくない」
勇者は垂れていたヒョールドのもう片方の手も取ると、両手を揃えて胸の前できゅっと握り、言う。
「ヒョールドさんに相応しいのは、魔女を裏切って私を助ける役わはぁっ⁉」
勇者が思わず仰け反った。ヒョードルに頭突きされたからだった。
「大人しく聞いていれば……調子に乗りましたね、勇者」
笑っている。声も穏やか……なのだが、ヒョールドの足元から広がる毒液が部屋を満たし始めていた。
毒液の範囲から後退しながらタイミングを見計らうシンだったが、ヒョールドがそちらに顔を向けた瞬間にシンが飛び退いて背後の壁を蹴る。そのままヒョールドの頭上にまで跳んで天井に着地、ヒョールドの頭へ急降下して蹴り足を伸ばす。
ヒョールドが顔を上げる。それだけで部屋中に広がっていた毒液がさざめきだって吹き上がり、巨大な毒の水柱となってシンもろとも、家の屋根ごと消滅させた。
「ふむ、そっちのクソガキを始末できればよかったのですが、私では厳しいようです」
消滅したシンには見向きもせず、ヒョールドは絵を書くの止めてヒョールドを見上げる子どもの方へと歩み寄った。
「月でも書いてあげたらどうですか? 魔女に似合ってますよ」
ヒョールドが妙なアドバイスをすると、子どもはクレヨンで画用紙に月を書き足し始める。
「勇者も必要じゃない?」
勇者がヒョールドの横からひょこッと顔を出す。子どもは確かに、という顔をしてゴリマッチョなプロレスラー勇者を描き始める。
「いや……あのね? 勇者ってもっとかわいい生き物だから。ねえ、聞いてる? 魔女は聞いてくれたよ?」
「いえ、そっくりだと思いますけれど?」
「ヒョールドさん……?」
勇者の視線に耐え切れず、ヒョールドが軽く笑ってしまう。それで冗談だとわかり、勇者も応答して笑った。そんな二人を見て、魔女が言う。
「なんで、笑えるの?」
そういえばいたかと二人は体の向きを変えて魔女を見下ろした。防壁を溶かされ、子どもの傍らで毒に浸って倒れている魔女を。
「面白いからじゃないですか?」
とヒョールド。
「私たちが仲いいからだよ」
と勇者。
「いえ、それはありませんけど」
「そうそう……え、ちょっとヒョールドさん?」
本気でショックを受けてるらしい勇者を無視し、ヒョールドは魔女に言う。
「というわけですから、魔女。もう私を解放してください。私ではあなたの期待する役割を果たせそうにありません」
「わかりました」
魔女は掠れた息を呑み込むと、ヒョールドを見つめる眼差しを遮るように目蓋を閉ざし、目を瞑る。再び目を開けたとき、そこにヒョールドはいなかった。
「あーあ、もったいない」
冗談紛いに魔女を責めるような口調で勇者が言う。その笑みを見て再び魔女が問う。
「何がおかしいの?」
「いやね、私がおかしいのかも」
魔女は冗談めかして笑う勇者をじっと見つめ、開きかけた口をつぐむ。
「そういえば、私がおかしい責任って私だけのものなんだっけ?」
次いで勇者が見ている子どものお絵描きを見て、魔女は瞳を震わせた。
白い画用紙の中央付近に描かれた薄い線の丸……月。その月を挟んで魔女と勇者がニコニコ笑っていた。
「いえ……あなたがあなたであることは別に、悪いことじゃない」
「そう? 冗談で言っただけなんだけどな。そうまで言ってくれるんだ」
「ええ。あなたは元々世界を楽しむ人だった。忍者と一緒に魔王を倒す冒険に出て、色んなものを全身で味わって世界を楽しむ……私が勝手に、全部を変えたつもりになってただけ」
魔女は毒液に浸りきった髪に目をやると、床に手を着いてゆっくりと体を起こす。そして、魔女へと手を差し出す勇者を見上げた。
「……なんでやさしくするの?」
「嫌がらせかな。私、あなただけはどうしても受け入れられないから」
「わかった」
魔女が納得したようにほほ笑むと、その体がふわりと浮き上がって起き上がる。
依然として体が振れそうな距離でいる勇者から二歩離れ、魔女は言った。
「私はもう、あなたの世界から手を引くわ」
「え、なに急に? いればいいじゃん」
軽々しく言う勇者に魔女が言い聞かせるように言う。
「勇者。私がいるだけで世界が変質する」
「いいじゃん別に。世界が勝手に変わってるだけでしょ? 誰かに殺されるか死ぬまで勝手に生きてればいいんだよ。だからたまにこうやってじゃれ合うのも……あの、真面目に言ってるんですけど。何がおかしいの?」
魔女は笑っていた。その目は優しく、それでいて勇者を遠くに見つめていた。
「いえ、勇者は強いなって」
「そりゃあ、四天王もあなた以外倒したし、魔王も倒しましたから」
「ううん、そういう話じゃなくてね。でも勇者はそれでいいのかも」
「なにそれ。魔女はそれでいいの? 何も解決してないじゃん」
「いえ、ふふっ、おかしいことを言う」
魔女は口許を隠して笑い、穏やかに細めた目で勇者を見た。
「そういうあなたは何か人生の問題を解決してみせたの?」
「いや……今したよ?」
魔女は勇者の口癖をまねていった。
「嘘、乙」
「う、嘘じゃないし……⁉ え、私たちこれで終わりなの? 何かできることは? 私、けっこう魔女のこともわかってきて……」
言葉を続けようとした勇者に魔女の言葉が差し挟まれる。
「何もわかってないよ」
「え」
「けっこうわかってきた。それはそう。でもそれでも、まだ何もわかってない。おおむね、あなたは私のことを何も知らない」
「はは、そうなんだ……厳しいなぁ」
「うん、厳しいよ」
魔女は露骨に落ち込んだ勇者の、その肩に触れて言った。
「そう落ち込んで見せないで。私はあなたとの別れを大事にする」
勇者が顔を上げる。
「ねえ勇者。一つだけ、続けたい茶番があるんだ。たまにでもいいから、それに付き合ってくれると嬉しいな」
魔女は勇者に背を向けた。その歩みは、部屋の奥の窓へと向かう。
「いいよそれくらい。だって魔女は私にたくさんのものをくれてたんでしょう? 友だちを殺したことは許せないけど、あなたが居なかったらその友だちもいなかったかも」
勇者の声の最後は遠くにいる友への呼びかけに変わっていた。魔女の後ろ姿が遠ざかる。宇宙や機械都市、神社仏閣に水族館、夜の無人駅、様々な風景が次々と勇者と魔女の間に差し挟まれて二人の距離が開いていく。
「たまに……」
私が世界を切り裂いてそっちに行ってもいい……その言葉は勇者の胸にだけ残る。
そんな、長い夢を見て、電車の中の私は目覚めた。
電車は地下を出て、夕暮れの街並みの中を走っていた。差し込んでくる夕陽にスマホを見下ろす人の影が揺れる。そのうち一人が顔を上げて、それで、私と目が合った。気まずくなって視線を逸らす。私は視線を上げて窓の外を見ていた。
いい夢を見た気がした。車内にはまだ夢の残り香が漂っていた。
こんなものでいいかもしれない、私の人生は。
ふと、風を感じた。細く吹き込んでくる風じゃない。圧迫感のある、物の移動の風が、私のすぐ隣に……。
「って、なんでここに……」
寝ぼけた声でツッコミみたいなことを言ってしまう。会社でもツッコみたいことばっかなのに。何にもツッコまず生きてきたのに。しかしそんな私の小さな冒険は勇者にも忍者にも無視されることになる。
「くそっ、いい感じにしめれたと思ったのに。クソしつこいじゃん、あの女!」
「遊び心があるのだ。許してやれ」
「え、なんか忍者、魔女に甘くない? 好きなの?」
「勇者よりはな」
「は? 私たちたくさん旅してきたじゃん。あの時間は何だったわけ?」
「無論、暗殺道中。拙者はプロゆえ私情は抱かぬ。勇者とは戦王と魔王から金銭を受け取って嫌々付き合っていたに過ぎぬ……」
おぉっと、効きすぎてしまったか。すまんすまんww 拙者の顔を見つめる勇者は口を開きっぱなしにして瞬きも忘れている模様。
「まあ、それになりに楽しくもあったがな」
拙者のフォローによって再生ボタンを押されたが如き勇者はぎこちなくも笑って見せた。
「そそそ、そうよねぇ!? 楽しかったよね、色々」
「うむ。それで勇者よ、旅はもう終わりか?」
「いやぁ、魔女もいなくなって世界はめちゃくちゃだろうし、私のやれることもたくさんあると思うんだよね」
「罪を償って牢に入るとかか?」
「あ、それ以外で……」
「都合がよいな」
「まーねー。あと、暗殺者ガチャで最後倒したやつ、よくよく考えるとけっこうな大物だったんじゃないかって引っ掛かってるんだよね。えーっと、名前はねー……」
「覚えてないのか?」
「まーね。っていうかちょうどいいや、あいつについて知りたいなーって。あいつの進めてたプロジェクト、なんかここで終わるの勿体ない気がするし」
「うむ」
「あと、ハクルナムにもたまに遊びに行きたいかな。ネギちゃんとまた会いたい」
「そうか」
「で、ツクシちゃんのことも調べたい。ツクシちゃんが戦う理由、忍者は知ってるの?」
「シィッ⁉ 知らないでガンスよ? 当然でござんす」
「知ってて草……ってあれ?」
勇者は辺りを見渡す。階段を上がり、地下の駅から出て見ると、そこは高層ビルに囲まれた街ではなかった。見るからに魔術師たちが行き交う歴史ある街の通路だった。
「忍者、なんかした?」
「したぞ? 勇者に救われた社会人女性を勇者から救ってやったのだ。ちょびっとばかし、かわいそうであったのでな」
「なーに言ってんの」
勇者は頭の後ろで腕を組んで歩き出す。拙者も遅れてついていく。
「ねえ忍者ぁ」
「なんでござるか?」
「飽きるまではさ、一緒にいてよ」
「嫌でござるが」
「そんでさ、飽きたらしばらくどっか行っててよ」
「勝手でござるなぁ」
「で、忘れた頃にまた遊びに来て」
「はぁ」
勇者が立ち止まり、振り返る。勇者は少し斜に構えて笑った。
「どう? これからも楽しそうじゃない?」
勇者の心情など知らんが、拙者のエモーショナルセンサーが何か大事な場面だとヴィンヴィン告げている……拙者は熟考の末、拙者の中の真実を告げた。
「知らん」
「知らんかぁー……」
勇者は苦笑してまた歩き出した。巨大な大剣も、月の浮かぶ国旗も、こだわって手入れしていたらしい金色の髪も、弾むような足取りさえも、全ての輪郭が夕陽に柔らかに包まれて光り出す。
「っていうかおい、待たれよ。拙者、お主の敵なんだが? だがだがだが⁉」
勇者は立ち止らず、後ろ手に手を振って軽く言う。
「じゃ、もうちょい敵でいてあげよっかな」
拙者は遠ざかっていく背を少しの間見ていたが、見失わないうちに追いかける。
向こうの暗い空では水晶のような白い月が薄い雲に光を滲ませている。いや、あれは拙者のものではないので見ないでおこうか。
夕陽を行き交う影の中に、歩き出した二つの影が混じっていった。
この物語はこれで完結です。ここまで読んでくれた方が幸せになれますように。
ありがとうございました。