スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
ユリ子が「少し仕事があるの」と言ったのは、事務室の空気がまた普段の明るさへ戻りきった頃だった。
書類を一つにまとめ、机の端へ寄せる手つきはいつも通りで、それだけ見ればジュネス側の雑務にしか見えない。
「すぐ戻ると思うけど」
そう言って、クマの方を見る。
「クマちゃん、少しだけ悠くんたちといてくれる?」
「もちろんクマ!」
クマはすぐ胸を張る。
「センセーとヨースケと一緒なら、クマはいつでも楽しいクマよ!」
その返事に、ユリ子はやわらかく笑った。
笑い方は自然だったが、視線がそこで一度だけ、こちらではなく事務室の奥へ滑る。
長い動きではない。
ただ、少し席を外すだけにしては、戻る時間や用件の重さを先に測っているように見えた。
「じゃ、行ってくるわね」
「うん」
陽介はそこを深く受け取らず、いつもの調子で返す。
「なんかあったら連絡して」
「ええ、ありがとう」
ユリ子はそう言って、もう一度机の上を整えた。
その動きの正確さが、かえってさっきの電話の違和感を消しきらずに残す。
踏み込む材料はまだない。
仕事と言われればそう見えるし、実際そういう側面もあるのだろうと思う。ただ、それだけで済ませていい感じが少し足りなかった。
ユリ子が事務室を出ていく。
扉が閉まると、クマがすぐこちらへ向き直り、何か遊びに行こうとでも言い出しそうな顔をした。
「で、センセーたちは何するクマ?」
「急だな」
陽介が笑う。
「でもまあ、せっかく外出たし、少しそのへん回るか」
「クマ、お散歩好きクマ!」
「知ってる」
そう返しながら、陽介は事務室の方を一瞬だけ見た。
ユリ子のことを完全に気にしていないわけではない。ただ、今はそこへ名前をつけるほどでもないらしかった。
ジュネスを出ると、昼前の熱気がまとわりついた。
空は明るく、雲の輪郭まで強い。夏の八十稲羽は、静かでも光が薄まらない。
最初は本当に、散歩の延長だった。
店の周りを少し歩き、クマが勝手に先へ進み、陽介がそれに雑に文句を言いながら追いかける。
「センセー、山の方ちょっと涼しそうクマ!」
クマが言って、遠くを指さす。
稲羽山の緑は、町から見ても濃い。風があるなら下よりはましだろうと思えた。
「涼しいかは知らんけど」
陽介が言う。
「歩くくらいならいいか」
「お前、暑いって言ってただろ」
「平地にいるのも暑いだろ」
その理屈は雑だったが、否定するほどでもなかった。
店内へ戻ってもよかったが、今は人の少ない方へ動く方が気が散らない気もした。
三人で稲羽山の方へ向かう。
舗装の切れたあたりから、町の音が少しずつ遠くなり、代わりに蝉の声と草の擦れる音が近くなった。
山へ入る道は、昔と大きくは変わらない。
手入れが行き届いている場所と、少し踏み入ると急に人の気配が薄くなる場所の境目も、歩いていれば自然に分かる。
クマは相変わらず先へ行ったり戻ってきたりを繰り返していた。
陽介もそれを止めはしないが、足元の悪いところでは「転ぶなよ」とだけ声をかける。その雑さも地元の空気に馴染んでいた。
山の中腹に差しかかる頃、風が少しだけ通った。
それだけで肌の熱は和らぐが、代わりに土の匂いと湿った葉の匂いが濃くなる。
そのあたりで、クマがふと立ち止まった。
さっきまでの大きな動きが急に切れて、耳を澄ませるみたいに顔だけを少し傾ける。
「どうした」
声をかけると、クマはすぐには返さなかった。
その沈黙自体が珍しかったので、こちらも足を止める。
「……なんか」
ようやくクマが言う。
「へんな感じ、するクマ」
言葉は短かったが、冗談の調子が抜けていた。
陽介もそこで笑わない。代わりに周囲を見回し、道の先へ視線を伸ばす。
「何もなくね?」
そう言いながらも、足はもう少し慎重になる。
その先で、木々の隙間に妙な色が見えた。
黒に近い灰色だった。
自然の中で浮く色だと思った瞬間には、もう正体が分かる。家電の外装の色だった。
近づくにつれ、輪郭がはっきりする。
土に半ば沈み、傾いた状態で置かれた古いテレビだった。薄型ではなく、いくらか前の、厚みのある型だ。
山の中にあること自体がまず不自然だった。
ただ捨てられているだけなら、もっと雑に、もっと景色へ埋もれる形になるはずだった。目につくのに見つかりにくい場所へ、意図して押し込まれたような置き方に見える。
「うわ、何でテレビ」
陽介が言う。
声はまだ軽いが、最後の音だけ少し乾いた。
その横で、クマが一歩下がる。
ただのゴミを見た反応ではない。毛並みのない人型の姿でも、身構えた時の空気は分かる。
テレビは電源が入っているはずもない。
山の中にコンセントがあるわけがないし、背面から伸びるはずのコードも見えなかった。少なくとも、今見える範囲に、これを動かすための普通の理由は何一つない。
そう思った次の瞬間、画面の奥で白い筋が一つ走った。
最初は光の反射かと思った。
だが、山の中のどこにもあの筋を返す角度はなく、遅れて小さなざらつきだけが耳に触れた。
ノイズだった。
音は小さい。それなのに、ざらついた光の方が一瞬遅れて目へ刺さり、山の空気の中にそこだけ別の質感を混ぜる。
ただの不法投棄を見つけた時の嫌さとは、最初から種類が違っていた。
反射的に、陽介の前へ半歩出る。
完全に庇うほどではないが、距離を詰められた時に先に触れる位置へ体をずらす。その動きだけは考える前に終わっていた。
陽介は何も言わなかった。
ただ、横目でこちらを見てから、テレビとの間合いをもう少しだけ取る。
画面にまたざらついた光が走る。
かつて見たものに似ていた。似ている。だが、その判断に体がすぐには乗らない。
記憶の中にあるテレビは、もっと奥へ続いていたはずだった。
画面の向こうへ空間が開いているという感覚が、理屈より先にあった。近づけば吸われると分かる、あの嫌な奥行きが。
今目の前にあるそれには、それが薄い。
奥へ落ちる感じがない代わりに、表面だけが妙に湿っている。空気へ溶け込まず、ざらついた異物のままそこに貼りついている感じだった。
クマが、低い声で「センセー」と呼ぶ。
その音には、さっきまでの跳ねるような調子がほとんどなかった。
「見たことある感じ、するクマ」
クマはそう言ってから、少しだけ首を振る。
「でも、ちがうクマ。なんか、へんクマ」
その言い方で十分だった。
説明できていないのに、ただの見覚えで済ませるつもりもない反応が先に来ている。
画面に、今度は断片的な影が揺れた。
人の輪郭にも、木々の反射にも見える。焦点が合う前に崩れ、ノイズへ溶けて、また別の白い筋が横切る。
陽介の気配が、横で少しだけ固くなる。
息を止めたのではなく、次に何が起きるかを待つ時の浅い呼吸へ変わっただけだが、その違いは近いと分かる。
「これ」
陽介が口を開く。
「……なんか、前のに似てねえ?」
問いの形だった。
断定しないところが、こっちと同じだった。同じと言い切るには、質が違いすぎる。
「似てる」
短く返す。
「でも、同じじゃない」
そう言ったあとも、目は画面から外さない。
テレビの周囲の空気が、山の中の湿気とは別のざらつき方をしている。触れなくても分かる、嫌な手触りだけがあった。
クマはもうテレビに近づこうとしなかった。
いつもなら真っ先に覗き込みそうな場面でも、その場に足を止めて、こちらと同じ距離を保っている。
「中、ないクマ」
ぽつりとクマが言う。
それがどういう意味かは、まだはっきり分からない。ただ、覚えのある場所を見つけた時の懐かしさとは、明らかに違う調子だった。
「中、って」
陽介が聞き返す。
「いつもの感じが、ないクマ。あるのに、ないクマ」
言葉は曖昧だったが、その曖昧さごと異常だった。
クマが説明役になれていない時の方が、むしろ事態の質は悪いことが多い。
テレビの画面が、一度だけ大きく明滅する。
そこに映ったものが何だったのか、すぐには判断できなかった。暗い背景、白い線、輪郭の崩れた何か。それだけを見せて、またノイズへ戻る。
山の空気が、じわりと薄く変わる。
気温が下がったわけではないのに、汗の引き方だけが少しおかしくて、背中の熱が内側へ残る感じがした。
陽介が、今度は冗談を言わなかった。
クマも騒がない。三人とも、結論の手前で止まったまま、ただその違和感だけを共有している。
似ている。
だが、かつて知っていたものと同じだとは、どうしても言えない。
その違いはまだ名前にならない。
湿り気、奥行き、引き込み方、画面のざらつき。どれも少しずつずれていて、記憶の中の異常より、何か別のものが似せてきているようにも思えた。
もう一歩近づくべきか、ここで離れるべきか。
そう考えながらも、足はまだ動かない。動けないのではなく、先に見極めるべきものが多すぎた。
風が、木々の間を抜ける。
その音の中で、テレビの小さなノイズだけが不自然に残り、山の中へ置かれた異物として、ひどく静かにそこにあった。
このまま見ているだけでは足りない気がした。
だが、何を確かめればいいのかがまだ定まらない。クマの言葉も、目の前の違和感も、どれも輪郭の手前で止まったままだった。
鳴上は画面から目を離さず、浅く息を吸う。
似ているのなら、確かめる方法はある。だが、それを口にする前に、まずこの場の異常をもう少し見極める必要があった。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学二年生。ユリ子ママの様子に気付く)
花村陽介(M大在学中大学二年生。まあまあ気づかないよね)
クマ(熊田)(ジュネスのバイトリーダー。山にテレビがあるクマー
花村ユリ子(花村の母。なんとなく変な動きしている)
次回もよろしくお願いします