スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
日曜の午後、鳴上悠はクローゼットの扉を開けたまま、ハンガーの間に指を差し入れていた。
冬物を少し奥へ寄せ、春先に使う薄手のジャケットを手前に出す。そのついでに、スーツのカバーを一枚ずらした。黒に近い濃紺の一着と、予備のシャツ二枚。大学に入ってからまったく使わなかったわけではないが、三年の春に入って、その出番はこれまでと少し違って見えた。
ベッドの上には、さっきまで陽介が広げていた紙袋が載っていた。量販店のロゴが入ったそれは、買い物から帰ったばかりの空気をそのまま部屋へ持ち込んでいる。中には新しいワイシャツ、ネクタイ一本、革靴の箱、それから証明写真の封筒が入っていた。
居間の方から、冷蔵庫を開け閉めする音がする。陽介が麦茶を出したのだろう。帰り道ではそれなりに喋っていたが、部屋に戻ると一度それぞれの手を動かす方へ流れるのが、最近の休日の過ごし方だった。
「悠、麦茶いる?」
台所から声が飛んできた。
「いる」
短く返すと、すぐにコップ二つが卓上に置かれる気配がした。陽介はそのまま部屋を覗き込み、ベッドの上の紙袋を見て苦笑する。
「なんか、急に就活生みたいな荷物だな」
「就活用だからな」
「言い方が正しすぎて逃げ場ねえ」
陽介は笑いながら入ってきて、自分の買った靴箱を持ち上げた。さっき店で試し履きしたばかりの黒い革靴は、まだ硬そうな光をしている。
「でもさ、三年の春に革靴買うって、ちょっと変な感じするわ」
「必要になる」
「なるのはわかってる。わかってるけど、まだ来年の話っぽいじゃん」
「その来年が近いから買った」
そう言うと、陽介は「はいはい」と返してベッドの縁に腰を下ろした。否定する気はないらしい。ただ、現実の方から先にドアを開けてきた感じに、まだ少し慣れていないのだろう。
鳴上はクローゼットから自分のシャツを一枚出し、並べて見た。白無地のレギュラーカラー。襟の形は問題ない。袖口のほつれもないが、着た回数はそこそこある。インターンの説明会や、業界研究のイベントのような場なら十分でも、今後を考えると、洗い替えをもう一枚増やしておく方がいい。
「おまえのシャツ、今日買ったの二枚で足りるか」
鳴上が言うと、陽介が靴箱を閉じる手を止めた。
「今日一式そろえたばっかで、もう足りない判定?」
「連続で着る予定が入ったら足りない」
「そこまで一気に入るかな」
「入らなくても、クリーニングのタイミングがずれる」
「出た、生活設計」
陽介は肩を揺らして笑ったが、そのあとで自分の紙袋を引き寄せ、買ったばかりのシャツのサイズ表記を見直した。軽口を言いながらも、確認はする。その反応を見て、鳴上は続ける。
「白はもう一枚あってもいい。青は要らない」
「青だめ?」
「今回は要らない」
「言い切るなあ」
「使う場が限られる」
店員にも似たようなことを言われていたはずだから、陽介は素直に頷いた。派手さより無難さが優先される場面が、これから少しずつ増える。そういう常識を、大げさに嫌がるほど子供でもない。ただ、自分から進んで馴染みにいくほどまだ切羽詰まっていないだけだ。
鳴上はベッド脇の引き出しからクリアファイルを取り出した。大学関係の案内や説明会の紙をまとめて入れているもので、その一番後ろに、最近増えた就活関連のメモを挟んである。エントリーシート、証明写真、履歴書用のサイズ、交通費、筆記具、予備の封筒。まだ本格的な応募の段階ではないのに、必要物の名詞だけが先に生活へ入り込んできていた。
「証明写真、何枚あった」
「八枚。データもくれるってさ」
「データは保存しとけ」
「した。ていうか、今のやつ便利だな。昔より盛れてる気がする」
「盛る必要はない」
「いや、少しは夢見させろよ」
陽介が封筒から写真を取り出し、自分の顔を見て微妙な顔をする。駅前の写真機で撮ったそれは、たしかに普段の表情より少し硬い。背筋を伸ばし、口元を引き締め、前髪も店で直した直後の形で収まっている。見慣れた相手なのに、こうして小さな四角に切り取られると、まだ少し借り物めいて見えた。
「変じゃない」
「そう?」
「陽介だなとは思う」
「感想が薄い」
言いながらも、陽介は少し安心した顔で写真を封筒に戻した。鳴上はその様子を見てから、自分の机の引き出しも開ける。中には去年使った証明写真が数枚残っていた。研究室見学の登録で必要になったときのものだが、就活用として使い回せる時期は限られる。撮り直しは自分も近いうちに必要だろう。
「おまえも撮るの?」
陽介が訊いた。
「たぶん今月中」
「まだ先じゃね?」
「インターンの案内、夏前に出る」
「あー……」
その「あー」に、来年ではなく今年の話なのだと気づいた響きが混ざった。三年の春に入ってから、説明会やエントリーの時期だけは、先にこちらへ近づいてくる。
陽介は封筒を卓上に置き、今度は紙袋の底からネクタイを取り出した。無地に近い紺。自分で選びきれず、最後は鳴上の方を見たので、結局それに落ち着いた一本だった。
「これ、地味すぎない?」
「そのくらいでいい」
「おまえ、ほんとに無難寄りしか許さねえな」
「変に印象に残るよりいい」
「政治経済なのに個性を殺されてる」
「面接で出す個性じゃない」
陽介が笑いながらネクタイを首に当て、鏡の方を向く。Tシャツの上からでは雰囲気しかわからないが、それでも派手ではない分、顔立ちはすっきり見えた。本人も悪くないと思ったらしく、少しだけ目を細める。
「まあ、たしかに変ではないか」
「変ではない」
「便利だな、おまえのその判断」
「便利でいい」
鳴上はそう返しながら、机の端に置いたメモ帳へ必要物を書き足す。シャツ一枚追加。靴下、黒を二足。靴クリーム。携帯用のほこり取り。証明写真の予備ケース。こういうものは、ないと困るのに、買う段階ではまだ実感が薄い。だが、薄いまま放置すると、当日にだけ急に重くなる。
「靴下も見た方がいい」
鳴上が言うと、陽介はまだ鏡を見たまま「え」と間の抜けた声を出した。
「靴下?」
「黒。柄なし」
「持ってるだろ」
「薄いやつが多い」
「……ああ」
心当たりはあるらしい。陽介の靴下は普段使いの比率が高く、足首丈や色物が多い。講義に行くだけなら問題ないが、スーツに合わせるとなると話が変わる。
「革靴に合わせるなら、少し長さがいる」
「そこまで見るのか」
「見えるからな」
「見られる前提で話すなよ、怖いな」
「怖くない。普通だ」
「その普通をオレは今学んでるんだけど」
陽介は降参するように両手を上げた。それから靴箱の中に入っていた説明書きを見て、「手入れも必要なんだよな」と呟く。
鳴上は自分の革靴を思い出した。大学に入ってから必要に応じて履いてきたが、普段のスニーカーと違って、放っておけばすぐに線が崩れる。磨く手間、雨の日の扱い、履いたあとの乾かし方。わずかなことだが、そのわずかな手間を増やすのが、大人になる準備というものかもしれなかった。
「シューツリーまではいらないけど、ブラシはあっていい」
「急に専門家みたいなこと言うじゃん」
「最低限だ」
「最低限の基準が高いんだよ」
けれど陽介は、メモ帳を引き寄せて自分でも書き足した。ブラシ。黒靴下。白シャツ。書いている字が雑なのはいつものことだが、項目を漏らさないようにしている様子は真面目だった。
少しして、陽介がベッドの下に置いていたスーツカバーを取り出した。今日受け取ったばかりの一着だ。ハンガーごと持ち上げ、部屋の明かりに透かすように見る。
「これさ、いざ部屋に持ち込むと急に圧あるな」
「あるな」
「なんだろ。制服でもないのに、着る場面がだいたい決まってるからかな」
その言い方に、鳴上は少しだけ頷いた。スーツそのものは珍しい服ではない。だが、大学生の生活の中に常駐している種類のものでもなかった。必要なときだけ外から持ち込まれる服だったはずのそれが、これからは部屋の中に居場所を持ち始める。
「クローゼット、右側空ける」
鳴上が言うと、陽介が振り返る。
「入る?」
「ジャケットを少し寄せれば」
「助かる」
礼を言いながら、陽介はスーツカバーを慎重に差し出した。鳴上は受け取って、クローゼットの右端へ掛ける。冬物のコートを奥へ押し、普段使いのシャツと重ならない位置を選ぶ。出し入れしやすく、皺になりにくい場所。ついでに、自分のスーツも並びを整えた。
クローゼットの中に、似た色の服が二着並ぶ。その光景は少し新鮮で、けれど不思議とすぐ見慣れそうでもあった。生活は大きく変わっていない。食卓も、洗面所も、洗濯物の量も、基本はこれまで通りだ。ただ、そこに新しい種類の服と道具が増えた。それだけで、来年という時間が、曖昧なまま一歩近づいた気がする。
「そういや、写真のデータってどこに入れた?」
鳴上が振り向くと、陽介はスマートフォンを振って見せた。
「一応クラウドにも上げた。ほら、こういうの失くしそうだから」
「正解」
「おまえに言われると、なんかテストで丸もらったみたいだな」
「減点がないだけだ」
「厳し」
また同じやり取りになって、陽介が笑う。その笑い方がいつもの調子に戻っていたので、鳴上はメモ帳を閉じた。
日が傾き始めた部屋の中で、買ってきたものをそれぞれの場所へしまっていく。シャツは洗濯表示を見てから畳み直し、革靴は箱から出して風を通す。証明写真の封筒はクリアファイルへ移し、店のレシートは家計用の封筒へ入れる。ひとつひとつは小さな作業なのに、それらを終える頃には、買ってきたものがもう部屋の風景に馴染み始めていた。
陽介が空になった紙袋をまとめながら、ふと呟く。
「来年って、まだ先のはずなんだけどな」
「先ではある」
「でも、靴とか写真とか買うと、妙に具体的になる」
鳴上はその言葉にすぐ返さず、革靴の箱を押し入れの上段へ入れた。まだ頻繁に使うわけではない。けれど、しまい込んで忘れていいものでもない。その中途半端な距離感が、いまの三年という時期に似ていると思った。
「必要なものから先に来る」
ようやくそう言うと、陽介は紙袋を畳む手を止めた。
「……それ、なんか妙にわかるな」
それ以上、大きな話にはならなかった。将来の不安も、来年の予定も、今この場で言葉にしすぎる必要はない。必要なのは、白いシャツを増やし、黒い靴を置く場所を作り、写真を折らずにしまっておくことだ。
そうして増えた具体物だけが、まだ輪郭の曖昧な未来を先回りして、静かに部屋の中へ居場所を作っていく。
鳴上は閉じたクローゼットの扉を一度だけ見た。中に掛かったスーツは、今日のところはまだ借り物のように見える。それでも次に必要になるときには、きっともう少しだけ、この生活の一部になっている。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学三年生。就活シーズンですわ)
花村陽介(M大在学中大学三年生。スーツとかネクタイとか……)
次回もよろしくお願いします