スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
学会三日目の夜、鳴上家の実家は昼間よりもさらに静かだった。
父さんは食後すぐに客間へ戻り、翌日の資料に目を通している。ページをめくる音が、廊下に薄く漏れていた。母さんはダイニングの照明の下でノートを開き、何枚かの紙を整えていたが、それもさっき終わったらしい。今は台所で湯を沸かす小さな音だけが家の中に残っている。
鳴上は洗い上げた湯呑みを布巾で拭き、食器棚へ戻した。横では陽介が最後の皿をすすいでいる。二人とも声は低く、必要なことだけを短く交わして動いていた。帰国後の数日で、この家の夜の流れにももう身体が馴染み始めている。
「これで終わり」
陽介が皿を水切り籠に置きながら言う。
「拭く」
「いや、そこまでいい。オレやる」
「もう半分終わってる」
「それはそうだけど」
陽介が少し笑って、濡れた手をタオルで拭いた。そのとき、廊下の向こうから母さんの声がした。
「悠」
「ん」
「少しだけいいかしら」
呼ばれ方はいつもと同じだった。だが、声の落とし方が少し違う。客間へ聞かせないようにしているのではなく、先に周囲の音量を揃えた上で、必要な分だけ届かせるような呼び方だった。
鳴上は布巾を畳んで台所の端に置いた。
「すぐ行く」
答えて廊下へ出ると、母さんはダイニングの先、実家の奥へ続く短い廊下の手前に立っていた。普段はあまり使わない、納戸と小さな保管室へ続く側だ。家の中であることに変わりはないのに、そのあたりだけ空気が少し違う。人の出入りが少ない場所特有の静けさがある。
陽介も少し遅れて台所から顔を出した。呼ばれたのは鳴上だけだと思ったのか、すぐに引くつもりだったらしいが、母さんはそのまま視線を向けた。
「陽介くんも、少しいい?」
その言い方に、陽介は一瞬だけ目を瞬いたあと、すぐに頷いた。
「はい」
二人で廊下の方へ行くと、母さんは後ろのダイニングを一度だけ振り返った。父さんのいる客間までは距離がある。聞こえないことを確認したというより、ここで話してよいことを自分の中で区切ったように見えた。
「大した話ではないのだけれど」
そう前置きしてから、母さんは廊下脇の小さな収納の扉を開けた。中には布をかけた平箱が二つ、縦長の紙箱が一つ、その奥に鍵の付いた木箱が置いてある。どれもきちんと整っていて、生活用品の棚とは明らかに違う収まり方をしていた。
鳴上は何も言わずに見る。母さんがここを開けるのは珍しくはないが、誰かの前で説明するように見せるのは多くない。
「明後日、午前だけ会場へ早く出ることになりそうなの」
春奈が言った。
「私はそのまま別会場へ移るから、昼を過ぎるまで戻れないかもしれない」
実務連絡の口調だった。だが、そのあとに続く間が少し長い。
「そのあいだに、これを一つだけ客間へ移しておきたいの」
そう言って春奈が指先で示したのは、手前の平箱だった。幅は書類ケースより少し大きい程度で、厚みは薄い。生成りの布がかけられており、端はきっちり折り込まれている。
「箱ごと?」
鳴上が訊く。
「ええ。布は外さなくていいわ。外さないで」
「わかった」
母さんは頷いたが、そこで説明を終えなかった。
「置く場所は、客間の机の下ではなく、壁際の低い棚の上」
「机の上じゃないんだな」
「ええ。机の上には置かないでほしいの」
「理由は?」
訊いてから、鳴上は自分の声が思ったより平坦だったことに気づいた。責めるつもりはない。ただ、細部の指定が妙に厳密だった。
母さんはすぐには答えなかった。代わりに、布の角を指で軽く押さえてから言う。
「安定する場所の方がいいから。今はそれで覚えて」
理由を全部言う気はないのだと、その言い方でわかった。だが、曖昧にごまかしている感じでもない。必要な範囲だけ渡している。
「運ぶときは、傾けない方がいい?」
鳴上が続ける。
「できれば水平のまま。両手で持って」
「中身は聞かない方がいいか」
「聞かなくていいわ」
柔らかい声だったが、そこだけは線が引かれていた。聞くな、ではない。聞かなくていい。そう言いながら、実質的にはその先へ踏み込ませない言い方だった。
隣で陽介が、収納の奥にある木箱の方へ一瞬だけ視線をやった。それに気づいた母さんは、そちらへは触れずに続ける。
「もう一つ、お願いがあるの」
「はい」
「もし私が戻る前に荷物の受け取りが重なったら、この棚は開けなくていいわ。平箱もそのままでいい。先に届いたものだけ玄関脇へ寄せておいてくれれば十分」
鳴上は頷きながら、頭の中で順序を並べる。平箱を移すのは明後日の午前。戻るまでに荷物が来ても、この棚は開けない。新しく届いた物は別に置く。それ自体は単純だ。だが、言い方がやけに丁寧だった。
「鍵の箱は触らない方がいい?」
鳴上が言うと、母さんの目がわずかに細くなった。
「触らなくていいわ」
「……わかった」
そこで初めて、頼みごとの輪郭が少しはっきりした。平箱を運ぶこと自体より、触れてよい範囲と、触れなくてよい範囲を明確にしたいのだ。
陽介が小さく口を開く。
「運ぶの、オレがいてもいいですか」
遠慮はあるが、引きすぎてもいない聞き方だった。母さんは陽介の顔を見て、少しだけ間を置く。
「ええ。いてもらった方がいいかもしれない」
「了解です」
「ただ、箱は悠に持ってもらうわ」
「わかった」
その振り分け方も、理由は説明されない。だが、母さんの中ではすでに決まっているらしい。陽介はそれ以上訊かず、素直に引いた。その反応を母さんが見ていたのを、鳴上は横目で確かめた。
「陽介くんには、順番だけ覚えておいてほしいの」
母さんが言う。
「先に棚の上の布を払って、それから箱を置くこと。置いたら、部屋の窓は開けなくていい。机には近づけない。戻したいと思っても、私が帰るまでそのまま」
細かい。だが、細かさに無駄がない。曖昧な注意ではなく、破ってはいけない手順として渡されている。
「順番が大事なんだな」
鳴上が言う。
「そうね」
母さんは短く答えた。
「そこだけは崩さないで」
声は柔らかいままだった。だが、その一言だけが妙に残る。大声でも強い口調でもないのに、ここで冗談にしてはいけない線が自然に見えた。
収納の中の空気まで整っているような気がして、鳴上はもう一度平箱に目をやる。布の折り方、箱の向き、隣の箱との間隔。そのどれもが、偶然そこにある置き方ではなかった。
「母さん」
「なに」
「この家の中でやることなんだよな」
確認のように口にすると、春奈は少しだけ目を和らげた。
「そうよ。家の中の話」
「外へ持ち出すことはない」
「ないわ」
その返答で、安心したわけではない。むしろ逆に、家の中だからこそ守るべきものとして扱われているのだと感じた。
陽介が、その箱ではなく母さんの方を見て言う。
「わかりました。手順そのままでやります」
「ありがとう」
母さんはそう言ってから、ほんのわずかに声を落とした。
「あなたたちなら大丈夫だと思っているから、頼むのよ」
その言い方は、褒めるでもなく、試すでもなかった。すでに信頼している相手に、必要な範囲の責任だけ渡す響きだった。その言葉だけで、母さんが陽介を外側の人間として見ていないことは十分だった。
母さんは収納の扉を閉め、鍵はかけずに指先で位置だけ整えた。
「今夜はもう覚えておくだけでいいわ」
「明後日の朝だな」
「ええ。時間は朝食のあと。私が出たのを見てからでいい」
「父さんには」
「言わなくていいわ。気にしない人ではあるけれど、説明する手間の方が増えるから」
その返し方に、鳴上は少しだけ目を伏せた。父さんを軽く扱っているわけではない。ただ、この件は母さんの管理の範囲にあるのだろう。そういう仕分けがこの家には昔からあった。
「了解」
「はい」
二人の返事を聞いて、母さんはようやく少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「ありがとう。もういいわ。遅くまで付き合わせてしまったわね」
「大したことじゃない」
「そう?」
「覚えることは少ない」
「そういうところは、たしかに助かるわ」
その言葉のあとで、母さんは陽介にも目を向けた。
「陽介くんも」
「はい」
「順番を雑にしない人だから、いてもらえると安心」
陽介は一瞬だけ言葉を失ってから、「……はい」と少し低い声で答えた。照れたのか、緊張したのかはわからない。ただ、軽く流さずに受け取ったのは見て取れた。
ダイニングへ戻ると、さっきまでと同じ照明なのに、空気の輪郭だけが少し変わっていた。父さんのいる客間からは、相変わらず紙をめくる音が淡く届いている。湯の残り香もある。家そのものは何も変わっていないはずなのに、今しがた聞いた手順だけが、廊下の奥に薄い線を引いたように感じられた。
陽介が台所でコップに水を注ぎながら、小さな声で言う。
「おばさんの外さないでって、地味に効くな」
「効くな」
「箱そのものは普通なのに」
「普通だから余計に残る」
鳴上はそう返して、冷蔵庫の扉を閉めた。母さんの頼みごとは、表面だけ見ればただの保管と配置の話だ。箱を移し、場所を守り、順番を崩さない。それだけのことだった。
それでも、理由を全部言わないまま細部だけを厳密に渡されたせいで、その頼みごとは家事の延長だけでは済まなかった。破ってはいけない線だけが、説明より先に残る。
「忘れそう?」
鳴上が訊く。
「いや」
陽介はすぐに首を振った。
「たぶん、こういうのは逆に忘れない」
鳴上も同じだった。明後日の朝、朝食のあと。平箱。布は外さない。棚の上を払ってから置く。窓は開けない。机には近づけない。戻したくなっても、そのまま。
指示の数は多くない。だが、並び方が妙に鮮明で、もう頭の中に収まっている。
廊下の奥は静かなままだった。扉の向こうにある箱も、今はただそこに置かれているだけに見える。それでも鳴上は、さっきまでより少しだけ、その場所の意味を意識してしまう自分に気づいていた。
大事にするほどの出来事ではない。今夜のうちに誰かへ話すようなことでもない。ただ、後からふと思い出すには十分な頼まれ方だった。母さんの声の柔らかさごと、忘れにくく残る。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学三年生)
花村陽介(M大在学中大学三年生)
鳴上友樹(鳴上の父。日本における西洋考古学の権威の一人)
鳴上春奈(鳴上の母。文化財修復で世界有数と言われる。得意分野は本類)
次回もよろしくお願いします