スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
三月に入ると、部屋の中の光が少しだけ変わった。
朝の差し込み方が冬の深さではなくなり、カーテンを開けたときの白さに、春の手前の薄さが混じる。
寒さはまだ残っている。
だが、暖房を入れる手の速さは一月より遅くなっていた。
夜の洗濯物も、真冬ほど乾きの心配をしなくていい。
鳴上は朝、加湿器の水を替えてから、キッチンの隅へ立てかけてある書類の束を見た。
不動産屋の更新案内と、大学からの来年度関係の書類だった。
並べて置いてあるのは、偶然ではない。
今月に入ってから、必要な紙は生活の流れの中で見失わない位置へ集めるようにしていた。
更新の時期と、来年度の履修と、説明会の予定と、研究室の見通し。
それぞれ別の書類なのに、もう別々の話では済まなくなっている。
その日の夜、陽介の帰宅は鳴上とほとんど同時だった。
玄関の鍵が重なって、一瞬だけお互いに手を止める。
どちらが先に開けるか迷う程度には、同じ時間に戻る日が増えていた。
「ただいま」
「おかえり」
そう言ってから、鳴上は自分でも少しおかしいと思った。
同時に帰ってきたのに、いつもの順番で言葉が出る。
陽介も気づいたらしく、靴を脱ぎながら小さく笑った。
「今の、変だろ」
「分かる」
「でも、言うよな」
「言う」
その程度のことで笑えるのは、部屋の流れがすでに二人分のものとして固まっているからだろうと、鳴上はコートを掛けながら思った。
夕飯は簡単に鍋にした。
白菜と鶏団子と豆腐を入れた、冬の終わりには何度も作る種類の、手間の少ない鍋だった。
三月の夜はまだ冷える。
コンロの火と、鍋の湯気と、食卓の上に広げた紙の端が、生活と予定を同じ場所へ引き寄せる。
鳴上は取り皿を二つ置き、陽介は湯呑みを出しながら、テーブルの端の書類へ視線を落とした。
「更新、来てたんだ」
「昼に」
「早いなあ」
「もう三月だ」
鳴上がそう言うと、陽介は、だよな、と小さく返した。
驚いているわけではなく、日付だけが少し先に進んでいたことを認める声音だった。
鍋が煮えるまでの間、鳴上は更新書類の封を切り、内容をざっと確認した。
家賃の額も、契約期間も、去年までと大きくは変わらない。
変わらないことへ、少しだけ安堵する。
この部屋の条件は、今の二人の生活へだいぶ馴染んでしまっていた。
「来年度、どうする」
鳴上が紙を見たまま言うと、陽介は鍋の火加減を少し弱めてから椅子へ座った。
「どうするって、更新?」
「それも」
それも、という言い方で足りるくらいには、今の話には先が含まれていた。
陽介はそこで少しだけ黙り、鳴上のほうを見る。
「まず更新はするだろ」
「うん」
「しない理由がない」
その答え方は、前みたいな確認ではない。
続けるかどうかを測る声ではなく、もう前提として置いた上で先を考える声だった。
鳴上は頷いて、紙の端を指で揃えた。
更新そのものは、今となっては手続きに近い。
問題は、その先をどう設計していくかだ。
「卒業後は」
鍋の蓋の隙間から、湯気が白く上がる。
陽介はその湯気を少し見てから、視線を外さずに答えた。
「そこなんだよな」
言い方に、冗談の逃げ道はなかった。
考えていないわけではない。
むしろ、考えているからこそ軽く言えない声だった。
鳴上は蓋を少しずらし、煮えた白菜を箸で沈めながら、続きを急かさず待った。
「勤務地、まだ何も決まってないし」
「うん」
「おまえもそうだろ」
「そう」
「東京になるかどうかも、正直まだ読めない」
陽介はそこで一度言葉を切った。
去年までなら、こういう話はまだ先だと笑って流せたかもしれない。
だが今年は違う。
説明会も、エントリーも、インターンの話も、全部もう現実の時間で動いている。
「でも」
陽介が続ける。
「別々前提で考えるの、何か違うんだよな」
その一言で、鳴上の中の何かが少しだけ静かになった。
安心というほど単純ではないが、音の合わないものが収まる感じがある。
「うん」
返したのは、それだけだった。
それだけで足りると思ったし、足りるところまで来ているとも思った。
鍋の中身をよそってから、鳴上は自分の取り皿へ少し多めに豆腐を入れ、陽介のほうには先に鶏団子を寄せた。
そういう配分も、もう考えなくていい。
何を先に食べるか、疲れているとき何を後へ残すかまで、手が先に覚えている。
「勤務地が別になったら」
陽介が箸を持ったまま言う。
仮定の話なのに、今はそれを仮定としてだけ置いておけない重さがある。
「そのときは考えるしかないけど」
「うん」
「でも、最初からそれ前提で部屋決めるとか、就職先選ぶとかは、たぶんしない」
鳴上はその言葉を聞きながら、熱い汁を少し冷ましてから口へ運んだ。
味はいつも通りなのに、今夜は妙に長く残る。
「俺も」
鳴上が言うと、陽介は小さく頷いた。
同意の言葉を待っていたというより、確認の位置へ静かに収まった顔だった。
「だよな」
会話はそこで一度途切れた。
だが沈黙は重くない。
考えることが増えただけで、距離が遠くなったわけではなかった。
鳴上は食べながら、来年度の予定表を頭の中で少しずつ組み替えた。
卒業までの一年、研究室の比重、就職活動の時期、更新の期限。
その中に陽介がいることが、もはや意識的な希望というより、普通の設計図の前提みたいに入っている。
「卒業して、すぐ決まるとも限らないしな」
陽介が言う。
「配属とか、勤務地とか、実際働き始めないと読めねえこともあるだろうし」
「ある」
「だから、今ここで全部決めるのは無理」
「そうだな」
そこも、二人とも同じだった。
先を見ているが、今決めきれないことを無理に決める気はない。
鳴上は鍋へ豆腐を足しながら、その考え方が自分にも合っていると思った。
見通しは持つが、断定しすぎない。
「ただ」
陽介が汁椀を置いてから言う。
「家探しするなら、来年の今ごろは、もう今より条件ちゃんと見ねえとなって思う」
「条件」
「職場までの距離とか、広さとか、あと、おまえの研究とか仕事の荷物置けるかとか」
そこで鳴上は少しだけ顔を上げた。
陽介の視線は鍋の湯気の向こうにある。
だが、その言葉ははっきり今後の生活を見ていた。
広さ。職場までの距離。荷物。
それはどれも、一緒に住むかどうかの話ではなく、どう続けるかの話だった。
「洗濯機も」
鳴上が言うと、陽介が笑った。
「出たな、生活担当」
「容量は要る」
「そこ大事なの分かるけどさ」
「今のは小さい」
「それはそう」
軽いやり取りが入る。
だが、その軽さの下で、話している内容は確かに一段先へ進んでいた。
「あと、台所」
鳴上が続ける。
「狭すぎると困る」
「おまえ、それ今の部屋に不満あるみたいになるぞ」
「今は足りてる」
「今は、な」
陽介がそこで少し笑いながら、それでも否定はしなかった。
来年以降の住まいを、二人分の生活で考えている笑い方だった。
食事を終えるころには、鍋の湯気もだいぶ薄くなっていた。
食器を流しへ運ぶ手順も、片方が皿、片方が鍋、と自然に分かれる。
陽介が洗い、鳴上が拭く。
途中で入れ替わることもあるが、今夜はどちらからともなくその流れになった。
「来年度の予定、そろそろ出るよな」
皿を洗いながら陽介が言う。
「研究室の拘束時間、増えそうか」
「増える」
「即答」
「卒研が本格化する」
「そっか」
蛇口の音の向こうで、陽介が少しだけ考える気配がした。
それは相手の負担を自分の予定へ組み込む前の沈黙だった。
「じゃあ、来年は今より、夕飯ずれる日も増えるかもな」
「ある」
「俺も就活で動くし」
「うん」
「でも、まあ、そこは調整か」
「調整だな」
それが、今の二人には一番正確だった。
続けるかどうかではなく、続ける前提でどう調整するかを話している。
洗い物を終えると、鳴上は明日の分の米を研ぎ、陽介はカレンダーを壁から外して机へ置いた。
三月の予定は、二月までより書き込みが多いわけではない。
ただ、一つ一つの意味が少し重い。
説明会、面談、研究室、提出期限。
その隣に、更新書類の返送期限も書き足す。
鳴上はその並びを見て、少しだけ指先で日付をなぞった。
「更新、今週出すか」
「そうしよう」
「証明書、俺の分コピーしとく」
「助かる」
それもまた、大きな会話ではない。
だが、目の前の手続きを二人分として処理する手つきが、何より今の段階をよく表している気がした。
夜が深くなると、窓の外の風が少しだけ強くなった。
春はまだ遠いが、真冬の閉じ方ではない音がする。
陽介は先に風呂へ入り、戻ってくると、机の上のパンフレットを一冊だけ開いた。
勤務地欄のページを見ているらしい。
鳴上はその横で、来年度の講義要項を確認しながら、視界の端へその紙の色を入れていた。
将来の話が、もう紙の上の文字で部屋にある。
それでも、不安で部屋が満ちる感じはなかった。
曖昧さは残っているが、前提まで揺れてはいない。
「悠」
少しして、陽介が言う。
「ん」
「来年の今ごろ、今と同じ部屋かどうかは分かんねえけど」
そこで一度、言葉が止まる。
続きを選んでいる間が、前よりずっと短くなったことに鳴上は気づいた。
「生活の組み方は、たぶんそう変わんないよな」
鳴上は講義要項から目を上げた。
同じ部屋かどうか。勤務地。卒業後。
その全部を跨いだ上で、陽介は生活と言った。
「そうだな」
返した声は、思っていたより静かだった。
強く言い切らなくても、そこへ入る意味は十分にあると思えた。
「たぶん、台所の広さの話はする」
鳴上が続けると、陽介が吹き出すみたいに笑った。
「するだろうな」
「洗濯機も」
「まだ言う」
「大事だ」
「認める」
その笑いが収まったあと、部屋はまた静かになった。
だが、さっきまでとは少し違う静けさだった。
将来の話をした後の、薄く温まった余白に近い。
鳴上はその夜、更新書類をクリアファイルへ戻しながら思った。
ここで確かめているのは、続けるかどうかではない。
答えはまだ全部決まっていない。
勤務地も、仕事も、来年の春の住所さえ、今はまだ確定していない。
それでも、二人の先はもう別々の紙には書かれていなかった。
同じ図面の上へ、まだ引ききれていない線がいくつか残っているだけだった。
暖房の音が小さく続く部屋で、鳴上はファイルを棚へ戻し、明日の弁当箱を流しの端へそろえて置いた。
そういう手つきの先に、来年もその先も、もう自然に陽介が含まれている。
窓の外の三月の夜は、冬より少しだけやわらかい。
春の手前の不安定さを持ちながらも、部屋の中の流れだけは静かに形を保っていた。
大きな約束は、今夜は何も交わしていない。
それでも十分だった。
次の一年の先まで、二人の生活はすでに同じ図面の上へ置かれていた。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学三年生)
花村陽介(M大在学中大学三年生)
部屋の更新が話題に上がる季節。
次回から4期生です。
次回もよろしくお願いします