スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
八月の半ば、東京の朝は早い時間から熱を持っていた。
鳴上は部屋を出る前に、机の上を一度だけ見た。
昨夜まで使っていた路線図のメモと、配属候補の紙が端に寄せてある。
片づけるほどではないが、帰ってきたあとすぐ続きを見られるようにしてあった。
帰省の荷物は少ない。
何日分あれば足りるか、向こうで何が揃っているかは、もう考えなくても分かる。
陽介も大きい荷物は持っていなかった。
ボストンを一つ肩に掛けて、玄関で靴を履く。
「なんか毎回思うけどさ」
鍵を閉める鳴上の横で、陽介が言う。
「帰省っていうより、普通に移動だよな、もう」
「そうだな」
「昔みたいに、何持ってくかで悩まないし」
「足りないものがないからだ」
「悠が把握してるからな」
陽介は笑いながらそう言った。
その口ぶりには気負いがない。
八十稲羽へ戻ることが、もう東京の生活の外側にある特別行事ではなくなっている。
恋人の実家へ行く緊張より、生活圏を少し移す感覚の方が近かった。
電車に乗ってからも、会話は自然に続いた。
六月から七月にかけて進めていた来年の話は、まだ切れていない。
今の部屋を続けるか、少し動くか。
配属候補と通勤時間。
洗濯機の容量や朝の動線まで含めて、話題はかなり現実的なところに来ていた。
「もしオレの方、最初の研修があの辺ならさ」
陽介が窓の外を見ながら言う。
「今の部屋でも最初は行けなくはないんだよな」
「行けなくはない」
「その言い方好きだよなあ」
「事実だからな」
「でも悠の出る時間が早い日に合わせると、やっぱちょっと詰まるか」
「その可能性はある」
言葉を交わすたびに、来年の生活がもう仮定だけではないと分かる。
一緒に住むかどうかではなく、どう住めば回るかを話している。
その感覚を持ったまま、二人は八十稲羽へ向かっていた。
車窓の景色が少しずつ開けていく。
東京と同じ夏でも、見える距離の取り方が違う。
陽介は何度か外を眺めてから、深く座り直した。
「なんだかんだ、ちょっと楽しみなんだよな」
「何が」
「帰るの。向こうで母さんの飯食って、親父の顔見て、だらっとするやつ」
「だらっとできるかは分からない」
「言うと思った」
そう言って笑う陽介は、まだ東京での明るい感触をそのまま持っていた。
鳴上もそれを切るつもりはなかった。
今回の帰省も、最初はその延長で始まるはずだった。
八十稲羽に着くと、空気の重さが少し変わる。
暑いことには変わりないが、地面に熱が溜まる感じが東京とは違った。
改札を抜けたところで、陽介が軽く首を鳴らす。
「うわ、帰ってきたって感じする」
「景色が違うだけだ」
「いや、違うだろ。温度っていうか、匂いっていうか」
「そうかもな」
花村家までの道も、もう説明のいらない距離だった。
陽介が先に立ち、鳴上がその半歩後ろを歩く形も自然に決まっている。
途中で見える店や道端の様子も、懐かしいというより確認に近かった。
花村家の玄関に着くと、ユリ子おばさんがすぐに出てきた。
声は明るいし、表情も穏やかだった。
「おかえり、陽介。悠くんも、いらっしゃい」
「ただいま、母さん」
「おじゃまします」
迎え方そのものはいつも通りだった。
だが、ユリ子おばさんの視線が一度、陽介の顔から鞄へ落ち、それからまた戻る。
自然な範囲ではあるが、確かめるような長さがあった。
「暑かったでしょう。先に上がって」
「親父は?」
「あとで戻るわ。少し遅くなるかもしれないけど」
内容だけなら、特におかしくはない。
それでも声の置き方が少し硬い。
鳴上は靴を揃えながら、その硬さだけを拾った。
家の中はきちんと整っていた。
匂いも、室温も、ここ数年の帰省で慣れたまま変わらない。
だからこそ、会話の流れだけがわずかに違うことが目につく。
歓迎していないわけではない。
むしろ丁寧すぎるくらい丁寧だった。
居間に通されて水を出される。
陽介はそのまま東京での話を始めた。
就活がかなり前向きに固まってきていること。
来年の配属候補が少し見えてきたこと。
今の部屋をどうするか、まだ少し考えていること。
「じゃあ、本当にかなり順調なのね」
ユリ子おばさんが言う。
「よかったわ。安心した」
その言葉に嘘はないはずだった。
だが、声の底に別の緊張がまだ残っている。
嬉しさだけで終わっていない響きだった。
「今回、何日いられるんだっけ」
ユリ子おばさんが続けた。
「帰るの、何日?」
「三日目の午後には戻るよ」
陽介が答える。
「ゼミの方もあるし」
「そう。じゃあ、その間の予定、だいたい決まってる?」
「え、まだそこまでは」
ユリ子おばさんはそこで小さく頷いた。
ただ会話をつないでいるというより、先を押さえておきたい時の頷き方だった。
「もし出かけるなら、何時ごろ戻るか先に分かると助かるわ」
「分かった」
「連絡もつくようにしておいてね」
「するって」
陽介は軽く返したが、少しだけ間があった。
以前なら流していた確認が、一つ多い。
まだ笑って受けられる範囲だが、増え方が自然ではなかった。
少しして、ユリ子おばさんは陽介の持ってきた上着を受け取りながら言った。
「今日、どこか行くなら、あまり遅くならない方がいいかもしれないわ」
「なんだよ、急に」
陽介が笑う。
「オレ、そんな信用ない?」
「そういうことじゃないの」
「ちゃんと連絡するって」
「ええ、分かってるのよ」
返し方そのものは母親らしい。
だが、そこで途切れた声が少しだけ強く残る。
心配している、というだけでは済まない感じがあった。
陽介はまだ大きく気にしていないふりをした。
ただ、笑い返したあとで一瞬だけ視線が止まる。
違和感そのものは、もう拾っているらしかった。
鳴上はそれを見て、何も言わなかった。
夕方近くに陽一が戻った。
玄関の音がして、入ってきた顔には疲れが見えたが、二人を見た瞬間に表情を整える。
「おう、戻ってたか」
「おかえり、親父」
「お久しぶりです」
「悠くんも悪いな、わざわざ」
陽一おじさんはそう言って上着を脱ぎ、まず陽介を見た。
その次に鞄を見て、最後にスマートフォンの置かれた位置を見る。
癖のように自然な動作だったが、目が止まる場所が多い。
「今回は何日いるんだ?」
「三日くらい」
「その間、出る予定あるなら先に言っとけよ」
「え、また?」
陽介が少し笑う。
「なんか今日、確認多くない?」
陽一おじさんはすぐには笑わなかった。
それから、少しだけ肩の力を抜くように息を吐く。
「念のためだ」
「何の」
「今は、こっちも少し気にしておきたいことがある」
説明はそこまでだった。
陽介は父の顔を見たまま、少しだけ黙る。
軽口で流し切れない種類の硬さが、そこにはあった。
「……分かったよ」
「帰りが遅くなるなら連絡しろ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「するって」
会話の形だけ見れば、よくある親子のやり取りに近い。
だが、今日に限っては同じ確認が重なりすぎていた。
どこへ行くのか。
何時に戻るのか。
連絡はつくのか。
それが、少しずつ陽介へ集まっている。
夕食の支度が始まると、鳴上も自然に手伝いに入った。
皿の位置も、菜箸の置き場所ももう分かっている。
ユリ子おばさんはいつも通りに動いているようで、何かを考えながらでも手順を崩さない。
その静かな正確さが、今日は少しだけ張って見えた。
食卓につくと、会話は最初のうち普通だった。
東京での生活。
卒研の進み具合。
陽介の選考結果。
来年の配属候補がだいぶ見えてきたこと。
そのあたりの話には、陽一おじさんもユリ子おばさんもきちんと頷く。
「じゃあ、来年はかなり見えてきたんだな」
陽一おじさんが言う。
「まあ、まだ完全決定じゃないけど」
陽介が答える。
「でも、だいぶいい感じ」
「そうか」
返事そのものは穏やかだった。
だが、そこで話が広がりきらない。
本来ならもっと細かく聞いてくるはずの二人が、今日はそこで一度止まる。
明るい話を受け取りながら、意識の一部が別のところへ残っているようだった。
食事の途中、陽介が席を立って飲み物を取りに行った。
その短い間に、陽一おじさんとユリ子おばさんが一度だけ視線を交わす。
確認のための、ごく短いやり取りだった。
言葉はない。
だが、それだけで十分だった。
陽介が戻ってくると、空気はまた表面上いつも通りに戻る。
それでもユリ子は、そのあと自然な顔で聞いた。
「明日、もし出るなら、どのあたりまで?」
「まだ決めてないよ」
「決まったら教えてね」
「うん」
その言葉に対して、陽介はもうあまり冗談を挟まなかった。
家の中の硬さを、さすがに感じ始めたのだろう。
鳴上は食器を持ちながら、確認の増え方だけを静かに見ていた。
夜、自室に荷物を運び込んだあと、陽介はベッドの端に腰を下ろした。
鞄からスマートフォンを出してから、少しだけ眉を寄せる。
「なんかさ」
「うん」
「今日、やっぱ変じゃね?」
鳴上は自分の荷物を壁際に置き、窓の鍵を確かめた。
返事はすぐにした。
「変だ」
「だよな」
「確認が増えてる」
「母さんも親父も、妙に細かいし」
陽介はそこで一度言葉を切った。
軽口で済ませたいのに、そうもいかない顔をしている。
「なんかあるのかな」
小さく言う。
鳴上はすぐには答えなかった。
何かはある。
ただ、それが何かまではまだ見えない。
「守ろうとしてる」
鳴上は言った。
「何を?」
陽介が聞く。
鳴上は陽介の方を見る。
今日一日、家の中で向けられていた視線を思い返す。
行き先。帰る時間。連絡がつくかどうか。
その全部が向いていた先は一つだった。
「お前をだ」
陽介はしばらく何も言わなかった。
冗談で返すには、鳴上の声が平坦すぎたのだろう。
窓の外から、夏の虫の声が細く聞こえる。
「……なんだそれ」
ようやく陽介が言う。
「分かんねえけど、ちょっと怖いな」
「俺もまだ理由は分からない」
鳴上は言った。
それ以上は続けなかった。
窓の鍵にもう一度触れ、部屋の中の静けさを確かめる。
理由はまだ見えない。
ただ、前と同じ帰省ではないことだけが、八十稲羽の夜の中に残っていた。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学四年生)
花村陽介(M大在学中大学四年生)
花村陽一(陽介の父。ジュネスの偉い人になっている。陽介に合わせて単身赴任先から帰宅中)
花村ユリ子(陽介の母。ジュネス八十稲羽のスーパーパート)
二人して陽介のこと気にしすぎ……
次回もよろしくお願いします