スターシステムを採用しているため分かりづらいですが、『ペルソナアフターパラレル』とは別世界線で交差することはありません。
オリジナルしかない世界線ですがよろしくお願いいたします。
なおBLタグがついていますがイチャイチャしません。
部屋へ戻ってからもしばらく、陽介の呼吸は少し浅かった。
ソファに背を預けたまま、目は閉じていない。
だが、焦点の合い方がまだ普段より遅い。
善國寺の前で戻った分だけ、逆に消耗が表へ出ているように見えた。
鳴上は味噌汁の椀を受け取り、ローテーブルの端へ下げた。
「もう少しいけるか」
「……いや、今日はこのへんで勘弁」
「分かった」
無理に食わせても意味がない。
椀の中身は半分近く残っていたが、二口でも入っただけで十分だった。
鳴上は台所へ立ち、火の始末をもう一度見た。
炊飯器は保温のままにして、鍋の蓋を少しずらす。
流しへ置いたコップに新しく水を汲み、ついでに濡らした布巾も持って戻った。
「顔、拭くか」
「ん……悪い」
「いい」
陽介は自分で受け取ろうとしたが、途中で手が少し鈍った。
鳴上はそのまま布巾を渡し、コップを手元へ置く。
手順を増やしすぎない方がいい。
今は、やることが少ない方が陽介の負担にならない。
部屋の中はいつも通り整っていた。
洗った皿は水切りかごへ伏せてあり、机の上にも余計な物はない。
窓際に置いた小さな時計の秒針だけが、一定の速さで夜を進めていた。
その整い方の上にだけ、今日の遅れが残っている。
「気持ち悪いの、まだあるか」
「さっきよりはマシ」
陽介は濡れた額を押さえながら言った。
「でも、なんつーか……頭の奥が、まだ気持ち悪い」
「痛いのとは違うか」
「違う。ずっと変なとこ押されてる感じ」
鳴上はそれ以上聞かなかった。
言葉にさせても整理が進む種類の不調ではないと分かっていた。
「風呂はやめとけ」
「だよなあ」
「汗だけ拭いて、今日は寝ろ」
「はいはい」
返事の形はいつも通りだったが、言い終わってから小さく息を吐いた。
軽口を挟むだけの余力はある。
だが、それで普段通りに戻ったわけではない。
鳴上は陽介の鞄を足元へ寄せ、内ポケットを開いた。
お守りはそこに入ったままだった。
帰り道で確認した時と同じ位置にある。
「出すぞ」
「……うん」
鳴上は自分の分も机の上へ置いた。
二つ並べると、どちらも無傷ではなかった。
紐の一部が毛羽立っている。
木札の表面には、薄く曇ったような白い擦れが入っていた。
陽介の方は、角の傷みが少し深い。
削れたというほどではないが、乾いた紙やすりで何度も撫でられたような荒れ方だった。
鳴上は指先で触れ、すぐに手を止めた。
さっきの熱はもうかなり引いている。
それでも、ただの古び方ではないように見えた。
「……派手に割れたりはしねえのな」
陽介が横から言った。
「その方が分かりやすいんだけど」
「分かりやすい方がいいとは限らない」
「いや、それはそうだけどさ」
陽介の声はまだ少し掠れていた。
鳴上はお守りから目を離さずに答えた。
「ユリ子おばさんは、傷んではいても、すぐどうこうという感じではないと言ってた」
「前に見てもらった時の話?」
「ああ」
鳴上は陽介の分へ視線を移した。
今こうして見て分かるのは、見た目の傷みだけだ。
守りの基準は知らない。
だが、知らないなりに、今日起きたこととこの痕が無関係には思えなかった。
守りは確かに反応していた。
部屋で待っている時、鳴上の分が先に熱を持ち始めた。
近づくにつれて熱は増した。
善國寺の前で陽介を見つけた時がいちばん強く、連れ帰る途中で少しずつ引いた。
それを理屈として説明はできない。
だが、何もなかったものではないと、手のひらの感覚が覚えている。
「これ、効いてはいたんだろうな」
鳴上が言うと、陽介がゆっくりこちらを見た。
「……だろうな」
「じゃなきゃ、もっとひどかった」
「それも、たぶん」
陽介はそこで目を伏せた。
肯定しながらも、想像したくないものを一度飲みこんだ顔だった。
鳴上はその表情を見て、言葉を足さなかった。
効いていたことと、安全だったことは同じではない。
しかし、今日の陽介は、戻ってきた。
鳴上は自分の分のお守りを持ち上げた。
木札の角を見ているうちに、母の仕事部屋が頭に浮かんだ。
母は細かい工程を、面倒がることなく必ず守る。
資材整理を手伝った時も、鳴上には違いの分からない手順を一つずつ崩さなかった。
あの厳密さは、ただの几帳面さだけではなかったのかもしれない。
今日、陽介がここまで戻れたことと、お守りが傷みながらも形を保っていることを並べると、あの手順も無関係ではない気がした。
ただ、それをここで断定するにはまだ足りない。
鳴上はお守りを置き直した。
「悠」
「ん」
「今日さ」
陽介は天井を見るような角度で言った。
「御茶ノ水にいた時も、三鷹にいた時も、なんかずっと変だったんだけど」
「うん」
「ここ来た時だけ、一瞬だけ戻ったんだよな」
善國寺の前での顔を思い出す。
抜け落ちた表情のまま階段に座っていたのに、鳴上が声をかけた瞬間だけ、確かに焦点が合った。
「覚えてるのは、そこまでか」
「細かくは無理。思い出そうとすると、まだちょっと気持ち悪い」
「もういい」
「悪い」
「悪くない」
鳴上は短く切った。
説明の精度は今は重要ではない。
足りない部分を無理に埋めさせても、陽介の負担になるだけだった。
「しばらく一人で動くな」
「……はい」
「帰りも合わせる」
「うん」
「連絡は今までより細かく入れろ」
「了解」
陽介は素直に返した。
反論する気力がないからではなく、今日のことで、自分でも線を越えたと分かっている声だった。
鳴上は立ち上がり、押し入れから薄い毛布を出した。
陽介の膝へかけ、空のコップを取り上げる。
「もう少し飲めるか」
「ぬるいのなら」
「待ってろ」
台所で新しく水を汲み、少しだけ常温へ寄せて戻る。
氷は入れない。
胃がひっくり返っている時に冷たすぎるものはよくない。
コップを受け取る陽介の手つきは、帰ってきた直後より安定していた。
それでも、完全に普段の速さではない。
「寝室行けそうか」
「……もうちょいしたら」
「分かった」
鳴上はそれ以上急かさず、机の上を片づけた。
お守りはすぐ手の届く場所へ残す。
何か起きた時、探す時間が無駄になる。
窓の外では、遅い時間の車の音がたまに通った。
部屋の照明はいつもと同じ明るさなのに、今日だけは白く感じる。
整った部屋が落ち着く場所であることに変わりはない。
だが、その内側へ戻ってきたことを、もう当然とは思えなかった。
陽介は水を飲み終えてから、毛布の端を指でつまんだ。
「……オレさ」
「うん」
「疲れてた、とかで済ませたくねえな、これ」
鳴上はそこで初めて陽介の方を正面から見た。
陽介の顔色はまだ悪い。
目の下にも薄く影が落ちている。
けれど、その言葉を口にできる程度には、今は自分で自分の状態を見られていた。
「済ませなくていい」
鳴上は言った。
「今日のは、そういう遅れ方じゃなかった」
「だよな」
「ああ」
それだけで十分だった。
疲労や寝不足ではないと、二人とももう分かっている。
その先の理屈はまだいらない。
生活の手順も同じだった。
帰宅時間を合わせ、食事を整え、移動を気にし、連絡を取る。
それを崩す気はない。
足りないからこそ、むしろ崩せなかった。
鳴上は時計を見て、寝る時間を逆算した。
まず陽介を寝かせる。
明日の予定を組み替える。
必要なら自分の方も削る。
生活の形は保ったまま、警戒だけをもう一段深くする。
机の上のお守りを手の届く位置へ寄せ直してから、鳴上は陽介のコップに残った水の量を見た。
今夜はまだ終わっていない。
それでも、ここに戻ってきている限り、次の手は打てる。
その事実だけを、鳴上は静かに受け取った。
登場人物をここでまとめておく
鳴上悠(T大在学中大学四年生)
花村陽介(M大在学中大学四年生)
次回もよろしくお願いします